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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第49回 移り変わる宇宙の捉え方(5) 科学は宗教なのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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科学は宗教なのか
原因と結果は連続的なものでは無いとするなら、最小単位まで分解された原因と結果には、繋がりがないことになります。
つまり『何故かはわからないけれども、この原因の次には、この結果が来るらしい。』という曖昧なところで終わってしまうということです。
科学が、その、『何故か、理由は全くわからないけれども、そうなる』という事を信じる事であるのならば、それは、信仰対象を崇める宗教と何が違うんだという話になってきます。

別の例でいうと、Aさんが、『神さまの声を聴いたんです』と科学者のBさんに言ったとします。これは、幽霊でも悪魔でも天使でも、何でも良いのですが、とにかく、超常的なものの存在を感じたと告白したとします。
それに対してBさんは、『そんなのは科学的じゃない』として、突っぱねたとします。
しかし、科学を信じるBさんは、相対性理論が正しいとするのなら、この世に存在しているはずのダークエネルギーの存在を信じています。

ダークエネルギーというのは、中二病っぽいネーミングなので、ゲームかなんかのエネルギーだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、科学の説として実際に存在するエネルギーの名前らしいんですね。
私自身も詳しくは知らないので、細かい説明は出来ませんが、宇宙の質量とエネルギーの総量の7割は、このダークエネルギーだと言われています。
ですが、実際に観測した人間はこの世にはいません。 観測されていないのに、何故、7割がこの未知のエネルギーで満たされているという話になっているのかというと、ダークエネルギーという存在がないと、計算が狂ってしまうからです。

ダークエネルギーは、科学の説の中で計算上は存在しますが、人類の中で、まだ誰も、見た事がない、観測されていない存在です。
この、観測された事が無い存在を信じるBさんと、他の人の目には見えていないけれども、Aさんは存在を身近に感じ、声を聞いたから信じているという『神さま』の存在。
乱暴な言い方にはなりますが、どちらの存在も、似たようなものという事になってしまいます。

科学は観測結果と見出された法則に過ぎない
この、科学と神様といった超常的なものが同じだという主張には、違和感を感じる人も多いと思いますし、主張自体に拒絶反応を示してしまう人も、多いと思います。
というのも、科学というのは、論理建てて説明している為に、説得力が有ります。科学的な説明は、その物事を分かった気にさせてくれるので、盲目的に信じてしまうという人も多いと思います。
ただ、科学の基本は起こった事実の中からパターンを見つけ出して、法則化するというものです。

つまり、今まで起こってきた事が全て偶然の産物だったとしたら。 そして、明日から、無秩序に動き出したとしたら、今まで積み上げてきた法則というのは、全て無意味になってしまうという事なんです。

例えば、私達は、地面に足をつけて歩いていますし、木に実ったリンゴは、いずれ、地面に落ちます。
これらの事を観測すれば、地面の方向に物質を引きつける何らかの力が働いている事がわかりますし、様々な物質の『落ちる』パターンを観測して積み上げていけば、その力の詳細が分かってくる事でしょう。
そのうちに、地面の方向に引き付ける力は『重力』と名付けられ、重力は、空間や時間といった、一見関係のなさそうなものにまで影響を及ぼしている事が、観測によって分かってきたとします。

パターンを見つけ出し、そのパターンを導く為の法則を見つけ出し、法則を利用することによって、様々な理論に発展し、世の中が分かった気になったとしても…
ある日、リンゴの木になった果実が空に向かって落ち始めたとしたら、どうでしょう。
今まで、物質が大きな質量の中心に向かって引き寄せられてきたのは、偶然の産物だったとしたら、それを元に作り出した法則は、無意味となってしまいます。

別の例でいうと、ルーレットで赤と黒が交互に出るというのが1億回連続で続いたので、赤と黒は交互に出るという法則があると思い込み、その法則に従って、赤と黒を交互に賭けて、ボロ儲けをした人がいたとしましょう。
その人はその後、長年の研究の末に、赤と黒が交互に出るという法則を元に、更に計算を発展させて、特定の数字が、どのタイミングで出るかまでの法則を導き出して、ルーレットの出目の全てを理解できたと思ったとしましょう。
でも、その幻想は、赤が2回連続して出た時点で、消え失せてしまいます。

それと同じで、科学の基本としている前提のものが、間違っていたとわかった段階で、今までの物は無かった事になってしまうという事なんです。
その状態になったとしても、まだ、『これまでに積み上げて来たもの』を盲信するのであれば、それはもう、宗教と何ら変わりがありませんよね。

現に、科学というのは新たな説が生まれる度に、それまでの説を残骸に変えていったわけですが、それまでの説を信じていた人達は、新しい説を受け入れずに否定してきたりしてきたんですね。
他にも、偉い学者が主張した説だからと、ろくに調べもせずに、その主張がそのまま信じ続けられてきたなんて事もありました。
こうなってくると、宗教との違いというのが、本当にわからなくなってきます。

私達は本当の世界を感じているのだろうか
また、根本的な話に戻ると、私達が感じている世界というのは、本当に、そのままの世界として存在しているのかという問題もあります。
先程から何度もいっていますが、科学というのは、起こった事実を観測して、その事実の中にパターンを見つけ出して、法則化したものです。
ですが、私達が事実と受け取っている物は、私達の五感を通して受け取った認識でしかありません。

人間の目は、可視光線と呼ばれる範囲の電磁波しか捉えることが出来ません。 これは、音やモノに触れるといった事も同じで、人間に備わっている器官そのものに限界があります。
機械を使えば良いという意見も有るでしょうが、機械そのものにも限界は有ります。
また、人間に備わっている五感から得た情報は、一度電気信号に変換されてから、脳でイメージとして再変換され、再変換されたものを、私達は事実として受け取っているわけです。

これは、テレビカメラを通して撮られた映像を、テレビ画面越しに見ているような状態で、本当の現実の世界を感じれているわけではありません。
こういった状況で、自分の外側の世界を観察したところで、真理は得られるのでしょうか。

『真理』は自分の内に有る
科学系の話で、過去数回に渡って脱線してきたので、この話の大元の部分を忘れられている方もいらっしゃるかと思いますので、もう一度振り返ると、ソクラテスは、若い時にイオニア自然学を勉強したのですが、それを途中でやめています。
その理由は、人間の外側にある、『世界』の観察をしたところで、真理は得られないと思ったからです。

自然学は、宇宙の成り立ちを神々という存在抜きで説明しようとして生まれた学問で、その延長線上に、今の物理学などが有ると思っても良いのですが、自然学の行き着く先も、結局は確認できない想像のものでしかありません。
原子論という説を生み出したとしても、物質の最小単位を観察することは不可能ですし、宇宙の起源を考えて、ビッグバン理論を考えたとしても、それを確認する術はありません。

後に、ソクラテスと対話するプロタゴラスという人物は、神々についてこの様な事を言っています。
『神々については、それが存在するのかしないのか、また、どの様な容姿をしているのか、確実に知ることは出来ない。事柄自体の曖昧さに加えて、人生の短さといった多くの事情が、それを許さないのである。』
このセリフの『神々』の部分を、物質や宇宙に変えたとしても、このプロタゴラスの主張はそのまま当てはまってしまいます。

しかし、自然学者は、物質や宇宙の成り立ちを、まるで観てきたかのように論理建てて話します。
そしてそれが否定されると、今まで自分が信じていた科学理論が、如何に正しいのかを、熱心に語って説き伏せようとしてきます。
これは、神を信仰するのか、それとも、科学を信仰しているのかという差しか無く、その行為によって、真理を得られることは無い。 もっというのなら、真理を得るのに役には立たないと考えたんです。

重要なのは認識すること
では、真理を得るために必要な物はなんなのかというと、『認識』です。
何をもって『良い』と考えるのか。 何をもって『美しい』と考えるのか。
国家運営を正しく行うには、何が『正しい』のかを知らなければならないですし、システムが上手く機能するためには、システムの穴を突いて利用しよう等とは思わない、『美徳』が必要となる。

では、『徳』とはなんなのか。 という事に重点を置いて考えたのが、ソクラテスです。
宇宙の成り立ちを考えるというのは、結局の所、目線を過去へと向ける行為になります。 しかし、過去そのものは、変更する事が出来ません。
変更不可能な過去へ考えを働かせるのではなく、『人は、何故、生きるのか。』『人生における究極の目標は何なのか』という、未来への思考こそが、重要だと考えたようなんですね。

という事で、次回以降は、徳について、考えていこうと思います。
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前回の振り返り

前回の話では、この世にある物質は、観測されていない時は確率の波として存在していて、観測された途端に確率が収束して、物体になるという話をしていきました。
今までの常識を引きずった状態では、にわかには信じられないような、こんな説が有力な説として影響力を持っているのかというと、そういう実験結果が観測されてしまったからです。

原子を60個、サッカーボール状につなぎ合わせた物体を、2つの隙間が空いている壁に向かって投げ込むと、1個の物体が2つの隙間を通ったとしか思えないような実験結果が出てしまったからです。
詳しくは、前回を聴いてもらうか、二重スリット実験で検索してもらうと良いと思いますが、1個の物体が2つの隙間を両方通り抜けて、尚且、互いに干渉する事で、波でしか起こらない干渉縞を描いてしまうという、事実が観測されたからです。

では、2つの隙間を同時に通り抜ける様子を観測できたのかというと、それは、観測できていないんです。
何故、観測できないのかというと、二重スリットに向けて放たれた物質を、スリットをくぐり抜ける前に観測してしまうと、その観測によって物質の状態が変わってしまって、実験結果も変わってしまうからです。
不確定性原理というもので、簡単にいうと、観測する為に何らかのアクションを起こした時点で、結果に影響を与えてしまう為、途中で観測をしてしまうと、実験結果が変わってしまうという事です。。

この、不確定性原理と、二重スリット実験によって、物質は、観ていない時は状態が確定してない確率的な波で、観測された時点で、確率が収縮して固定されるという、よくわからないものだという事が分かりました。

この結果を受けて、アインシュタインは、『もしそれが正しいのであれば、地球の衛星である月は、誰も観ていない時は存在していないことになる。 でも、観ていなかったとしても、存在はしているでしょう。』と訴えました。
量子論の発展に大きな影響を与えたシュレディンガーも、この解釈には納得が出来ず、シュレディンガーの猫という思考実験を考え出して、この解釈を皮肉りました。

量子論多世界解釈

そして量子論は、更に、よくわからない方向へと発展していきます。それが、多世界解釈です。
多世界解釈とは、ざっくりと簡単にいってしまうと、可能性の数だけ世界が分岐するという事です。
漫画やアニメ、映画などで登場するパラレルワールドといえば、理解しやすいかもしれません。

例えば、シュレディンガーの猫多世界解釈で考えるのであれば、50%の確率で死ぬ状態にして、箱をかぶせて見えないようにした猫は、観測する前に、どちらかの状態に確定します。
ただ、世界の方が、猫が死んだ世界と、猫が死ななかった世界に分岐するという事です。
箱を開けた際に、猫が生きていたとするなら、それは、観測した人間が猫が死んでいなかった世界にいたという事が確定するだけで、猫の状態は、箱を開ける前から決まっているという事です。

ちなみにですが、この、多世界解釈が仮に本当だったとして、それを証明する術はありません。
何故なら、分岐した別の宇宙を覗き見ることは不可能だからです。
つまり、まとめると、今現在、科学で分かっている事は、限りなく少ない。 いや、何も分かっていないといっても良いかもしれないという事です。

新理論によって変わる世界の捉え方

私達は、世界と五感を通してつながっています。 世界を観測する為には、五感を通して、何らかの情報を受け取らなければなりません。
ですが、目に入ってくる光の正体も、皮膚に物質が触れる物質の正体も、本当のところでは分かっていないという事です。

ニュートンの時代に考えられてきた宇宙や現実というのは、もっと、単純で理解しやすいものでした。
絶対的な時間が有って、絶対的な空間が存在する。 その、絶対的な時間や空間の中で、様々な法則によって、物体は決まった動きをすると考えられてきました。

しかし、その考えは、アインシュタイン相対性理論によって崩されます。
相対性理論によると、絶対的な時間や空間は存在せずに、時間と空間、つまり時空は、相対的なもので、観測する人間次第で変化するという事になってしまいました。
つまり、人それぞれで感じている時間や空間の広さは、厳密には違うということです。

この世界は決定論では無い?

そしてさらに、量子論の存在によって、物理学の前提となっていた、決定論も、怪しくなってきました。
決定論というのは、物理法則によって決まった結果が出るという考え方です。
例えば、明日の天気を予測できるかもしれないと思えるのは、物理法則によって物体の動きが決まっている為、正しい情報を全て入手できて、全ての法則が発見できていれば、そのデータを法則に当てはめるだけで、未来が予測できると考えられるからです。
今現在、天気予報が外れているのは、入手できていないデータや、分かっていない法則があるからで、それらが発見できれば、完璧な予測ができると考えるのが、科学的な考え方というわけです。

また、この考え方を過去に当てはめると、今現在、ここにある結果と法則とを当てはめれば、その結果が起こる前の事が予測できるという事になります。
逆算していけば良いだけですから、当然ですよね。 その為、時間は過去から未来に一方方向にしか動かないのに、今現在からは観測不可能な過去の現象も、予測できると考えます。
これが決定論で、科学的な考え方の前提のあるのは、この、『法則に当てはめれば、毎回、同じ結果が得られる』という『決定論』という考え方です。

しかし、量子論によって、そこに有るはずの物質というのは、観測する前の状態は確率の波として存在していて、観測して初めて分かるという、意味不明な状態になってしまいました。
物質が本当に、確率の波という不安定な状態なのであれば、観測する度に、物質の位置は変わることになってしまいます。
これは、物質の位置は、観測する前から、既に決まった位置に有るけれども、観測していないから、確率的にしか表すことが出来ないという事ではありません。
確率の波という状態で存在していて、観測する事で確率の波が収縮して、位置が確率的に決まるということです。

観測する度に、確率的に結果が変わるのであれば、環境さえ整えれば、物事は毎回同じ結果になるという決定論も通じなくなる為、これは、科学の前提が根本から揺らぐという状態を意味します。
つまり、ソクラテスの時代から2500年の時が過ぎて、その間、イオニア自然学は物理学という名前に変わって発展してきましたが、結局の所、根本的な部分は『わからない』という事が分かったんです。

物事が起こった原因は無限に遡れる

事実を一つ一つ積み重ねていったのに、何故、こんな事になるのかというと、前にも説明したと思いますが、アキレスと亀というパラドクスと同じです。
アキレスと亀』は、ハンデを与えた亀を俊足のアキレスが追い抜くという例え話で、時間の無限分割ができるのかどうかというのを考える思考実験でしたね。

アキレスが亀を追い抜かす為には、まず、アキレスは亀に追いつく事が必要になり、追いつく為には、亀が元いた場所に到達する必要が出てきます。
しかし、亀はどれだけ歩みが遅くても、止まっているわけではないので、アキレスが亀のスタート地点に到達したときには、亀は僅かに先に進んでいます。
その僅かな距離を詰める為に、アキレスは、僅かですが、時間が必要となるんですけれども、その僅かな時間で、亀は僅かに進むことが可能です。

時間が連続したアナログ的なものであるならば、その時間に最小単位なんてものはないので、無限に分割することが可能となり、アキレスは永遠に亀に追いつく事が出来ず…
アキレスが亀を追い抜くという有限の時間の中に、無限に分割された時間が存在することになります。
時間に最小単位が有るとするならば、最小単位の中では時間は動かずに止まっていることになります。 動画の原理と同じで、静止画を一秒間に何十枚という速さで送っていくことで、動いているように見えるだけで、1フレーム内の時間は静止している事になります。

どちらしても、おかしな感じになるわけですが、これは、科学の考え方でも同じです。
科学の基本的な考えは、先程もいった通り、決定論的な考え方です。 全く同じ環境を再現出来れば、法則に従って、毎回同じ結果が得られるというのが、科学の基本的な考え方です。
つまり、結果には、それを引き起こした原因があり、その原因にも、原因が存在します。 原因は、法則によって決まった結果を起こすので、法則さえ見つかれば、過去のことも未来のことも分かると言う考え方です。

科学的な目線で真理を追求する為には、現状という結果から原因を探り出し、その原因の原因を探り出し…という事を繰り返さないと駄目なのですが…
原因と結果が連続的なものであるならば、遡るべき原因は無限に出てくる事になります。
(つづく)
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googleがStadiaを発表 据え置き機はオワコンになってしまうのか?

先日googleによって、新たなサービスである『Stadia』が発表されました。
この発表を受けて、ソニー任天堂の株価が一時的に下落してしまいました。

私が聞いている株式実況ラジオや、ラジオ日経のとある番組では『googleがゲーム参入っていっても、お金持ってる事と面白いゲームが作れることは別ですから…』みたいな見当違いの解説をされてたりもしましたが、これって、かなりのニュースですよね。
もしかしたら、SwitchやPlayStationといった据え置き機がオワコン化してしまう可能性すら有るニュースだと思います。

という事で今回は、googleのゲーム参入を切り口に、これからのゲームについて考えていこうと思います。
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プラットフォーム

現状の日本では、手軽に本格的なゲームをしようと思うとした場合、据え置き機を買うのが一番ハードルが低いと思われます。
アメリカなどでは、本格的にゲームを行う為にゲーミングPCを購入するなんて事も珍しい事ではありませんが、本格的なゲーミングPCは平気で10万円を超えてくるので、ゲーム用途で買うにはハードルが高い。
そうなると、4万も出せば取り敢えずゲームが出来る据え置き機というのが、日本では一番選ばれることが多い選択肢だと思います。

しかし、その『ゲームを手軽にする』というハードルが更に引き下げられたのが、今回のgoogleの発表した『Stadia』だったりします。
この『Stadia』というのは何なのかというと、ゲームのプラットフォームです。

据え置き機でいうなら、PlayStationやSwitchがそれにあたりますし、PCでいうなら、steamやOriginなんかがこれにあたります。
探せばもっとたくさんのプラットフォームが有るわけですが、では何故、数多くのプラットフォームが提供されるのかというと、プラットフォームを運営すること自体が儲かるからでしょう。

これらのプラットフォームは、その上で走らせるソフトを販売する事で、利益を得ることが出来ます。
例えば、PlayStationは、そのユーザーに向けたStoreを開いていて、ソフト販売を行っていますが、1本売れるとそこから何割かはピンはねします。
当然といえば当然ですよね。 ネット小売でいえばAmazonがありますが、Amazonで物を売れば、販売手数料として一定割合を抜かれますよね。
ZOZOも同じで、ここで服を販売すれば、ZOZOに手数料を抜かれます。

つまり、プラットフォームを運営する側としては、多くの顧客を囲い込んで、ソフト販売数を伸ばせば伸ばすだけ儲けが出る仕組みになっています。
運営側は、プラットフォームに顧客を囲い込む為に、人気のゲームタイトルの開発費を出して、自分たちのプラットフォームの独占タイトルにしたりといった争いなども起こっていて、その為に、ゲーム好きは複数の据え置き機を買わなければならないというのが、現在だったりします。

また、据え置き機に限定すれば、ソニー任天堂は月額課金制なども導入していたりもします。
ここ最近では、Epic Gamesの『フォートナイト』やEAの『Apex Legends』など、ネット接続さえすれば、無料で遊べるゲームが人気を集めていたりします。
www.ea.com

ゲームそのものは無料でプレイできるうえ、課金したとしてもゲームプレイそのものは有利にならない為、ユーザーはお金をつかうこと無く、オンライン接続するだけでゲームをプレイすることが出来るのですが…
それでは、プラットフォームの運営側としては儲けが出ません。 その為、据え置き機のPSやSwitchでは、ネット接続料を徴収していたりもします。
月額か年額で料金に差はありますが、年間で数千円程度はネットに接続するだけで運営に徴収されます。
(PCのプラットフォームでは、ネット接続料は請求されない)

この様に、人気のプラットフォーマーになる事は、企業にとっては旨味があるわけですけれども、そのプラットフォーム事業にgoogleが殴り込みを欠けたのが、『Stadia』の発表です。

クラウドゲーミングサービス

googleが提供するのは、クラウドゲーミングサービスというもので、従来のプラットフォームと決定的に違うのは、ゲームをプレイするのに必要なのは、コントローラーとネット回線だけだということです。
つまり、従来のように据え置き機や、ソフトが動く条件を満たしたゲーミングPCといった高額な初期投資が必要なく、コントローラーとネット回線と、ゲームを映し出すモニターさえあれば、それだけでOKというサービスを打ち出したのです。

ソフトや、それを動かすハードが無くて、どうやってゲームを動かすのかというと、ネット回線の向う側にあるgoogleのサーバーで動かすんです。
ユーザーがやることは、googleにアカウントをるだけ。 料金形態が明らかになっていない為、定額料金でゲームがやり放題になるのか、ソフト単位で購入するのかは不明ですが、ユーザーが選んだソフトをgoogleが持つ巨大コンピューターで動かし、その映像だけをネット経由でユーザーのモニターに送る為、ゲーム記そのものが必要ないというのが強みです。
ゲームのハードに相当するものがgoogle側にある為、従来のダウンロード販売のように、購入してから膨大なゲームデータを時間をかけてダウンロードしてインストールする手間もなくなり、ブラウザでネット閲覧するかのようにゲームプレイが出来るというのが、このサービスです。

物凄く画期的なサービスですが、このクラウドゲーミングサービスというのは、実は、今現在でも既に行われていたりするサービスだったりします。
PlayStationには、PlayStation nowというサービスが有り、何年か前に発売された古いゲームを月に2000円程度払えばやり放題というサービスを提供しています。
https://www.jp.playstation.com/search-results/software/search.x?psnow=1&sort=1www.jp.playstation.com

任天堂のSwitchも、Switchの性能では到底動かすことが出来ないソフトである『アサシンクリード オデッセイ』を、クラウドサービスを利用して2年間プレイできる権利を8400円で販売するというサービスも行っています。
www.famitsu.com

では、これらのサービスが成功しているのかというと… 微妙な感じ。
PS nowの方は、最新タイトルや人気作品はソフト単体で販売したい為か対象外になっているので、ラインナップがしょぼい感じ。
月に2,000円も払うぐらいなら、中古で捨て値で売られてるソフトを個別で買った方が安いですし、任天堂の方は、ソフトを正規料金で販売しておいて2年で権利が消えるという仕様。
ユーザーがクラウドゲーミングサービスを選ぶ動機が全く見当たらない状態なので、あまりスポットライトが当たってこなかった感じとも言えます。

ただ、googleの場合は話が変わってきます。『Stadia』は、据え置き機では無いため、そもそもゲームのパッケージ販売というのがありません。
パッケージ販売が無いのであれば、月定額で全てのゲームソフトが遊べてしまう可能性もあるわけです。
というか、googleの未来の展望などを観ていると、ソフト単品売りではなく、定額サービスになりそうな確率のほうが高い気もします。

『Stadia』は定額サービス?

いま現在、テック系の会社間で行われていることは、可処分時間の奪い合いです。
サブスクリプションサービス大手のNetflixは、ライバルは同業他社のHuluやアマゾンプライムではなく、『フォートナイト』だと発言しています。
japanese.engadget.com

人間の1日という時間は、貧乏人であっても金持ちであったとしても変わらず、24時間しかありません。
その24時間の中で、働いたり勉強したりご飯を食べたり風呂に入ったり寝たりと、生活する上で絶対に必要な時間が有るわけですが、これを24時間から差し引いたものが、可処分時間です。
この可処分時間を奪い合うのが、サービス業の中のエンタメ業界ということです。

可処分時間は限られているので、例え月に数百円の出費だったとしても、使っていない不要なサービスは切られて終わりです。
つまり、サブスクリプションサービスは定期的に使われてなんぼの商売で、ユーザーに無くてはならないインフラだと思われなければならない。
そう思われる為には、可処分時間の大半を自社サービスに費やして貰う必要があるわけですが、サービス利用時間を比べた場合、Netflixは『フォートナイト』に負けているのが現状のようです。

つまり、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、数多くのコンテンツを買い漁り、多額の費用をかけて独自番組を作ってきたNetflixは、『フォートナイト』に勝てないという現実が有るわけです。
ここに参入しようとしているのが、googleだったりします。
映像の場合、2時間の作品で数十億や数百億かけるなんて事も普通にありえますが、ゲームの場合は、同じ開発費用で数百時間から数千時間の可処分時間を消費者から奪うことが可能です。

単純に時間あたりで計算すれば、実はゲームはコスパが良いのです。
時間あたりの資金効率が悪い映像分野のサブスクリプションサービスで、Netflixがあそこまで費用をかけることが出来るという事は、可処分時間を奪うという点でコスパが良いゲーム事業の場合は、それ以上の金を投資しても利幅が大きい可能性があります。
こうして考えると、ソフトを単品売りして、それを変える人間だけを相手にするような感じで市場を閉じるよりも、定額プレイし放題サービスにしてしまって、多くの人をゲームに引き込む戦略の方が、結果としても受けが出そうな気がします。

googleによる詳細発表はまだのようですが、それほど高くない値段で、定額サービスが提供される可能性は大きいと思います。

激化する可処分時間の奪い合い

今までは、googleの『Stadia』を中心に憶測を書いてきましたが、このゲームのサブスクリプションサービスに参入するのは、googleだけではありません。
Appleも、先日の発表で『Apple-Arcade』というサービスを発表し、追加料金無しの月定額制でゲームが遊び放題サービスを展開するそうです。
www.gizmodo.jp

この他にも、windowsを展開するMicrosoftは、月1000円程度で100タイトルが遊び放題になる『Xbox Game Pass』をPC向けに展開をしていくようです。
www.gamespark.jp

世界的な動きとしては、ゲームは単品売りから定額サービスに移行しつつ有ると考えても良いでしょう。
複数の会社が同じ様なサービスに参入する事で、価格も抑えられるでしょうし、消費者としては嬉しい感じです。

ただ、この中でも、やはりgoogleは飛び抜けているようにお思えます。
Appleのサービスは、アップル製品を持っている人向けで、Microsoftは、windows PCを持っている人向け。
どちらも、消費者を選んでしまうわけですけれども、googleの場合は、ブラウザが動いてネット環境があれば、誰でも参加できるというのが強みでしょう。

最近のテレビにはwifi機能やOSが入っている場合も多いので、テレビがあれば『Stadia』を導入できる可能性があります。
また、最近のゲームでは、ネット配信などが盛んで、動画として流しやすいかどうかというのも、重要な要素だったりします。
youtubeSNSを通して話題になれば、それだけユーザーを獲得できる可能性が増すわけですが、『Stadia』はそのあたりにも力を入れているようです。

というのも、youtubeの運営をしているのはgoogleですし、ゲームそのものをgoogleのサーバーで行うのであれば、ゲームの録画データをわざわざアップロードする手間が省けるわけですから、配信は非常にしやすくなるでしょう。
また、ゲームデータがサーバー側にある事を利用して、ゲーム内で自分が窮地を脱出したといったミラクルプレイを行った場合は、その窮地の部分のセーブデータをSNSなどを通してリンクすることが出来て、そのリンクをクリックするだけで、誰でも同じ条件でゲームが出来る様になるらしいのです。
今までは、動画やスクショをシェアすることしか出来なかったのが、難しい場面そのものを再現して、多くの人に再プレイしてもらうことが出来る為、ゲームがコミュニケーションの一分になる可能性まで出てきました。

こうした現実を見せつけられると… 据え置き機がオワコンになる未来も、結構近いのかもしれないですね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第48回 移り変わる宇宙の捉え方(4)『神はサイコロを振らない?』後編

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電子による二重スリット実験

ただ、科学というのは、単に否定するだけではなく、推論を重ねて実験を行って検証しなければ、先には進みません。
そこで、光が波の性質を持つ事を発見した二重スリット実験を、電子を使って行ってみようという実験が行われます。

実験方法としては、まず、箱を用意して、一番奥の壁に、電子がぶつかると、その跡が残るような仕掛けをしておきます。そしてその箱を真中で仕切り、仕切った壁に2つのスリットを開けておきます。
次に、電子を1つずつ打ち出すことが出来る電子銃を用意して、一番奥の壁に向かって電子を撃つという実験です。
これにより、電子は仕切られた壁に開けてある2つのスリットのどちらかを通って、一番奥の壁に衝突し、後を残すという状態を作れます。

この状態で、まず最初に、電子銃のトリガーを引きっぱなしにして、電子を乱射し続けます。
仮に電子が、野球のボールのような粒子であるならば、乱射されたボールが2つのスリットをすり抜けた場合、スリットの跡を残すような感じで、2つの線を描いて終わりのはずです。
しかし、結果はどうなるのかというと、光の干渉縞と同じ様に、電子の衝突した後が縞模様のようになり、干渉縞を描いたんです。
この干渉縞は、波の性質を持つものしか描くことが出来ない模様なので、この実験結果により、電子は波の性質を持つということが確認できました。

次に、電子を1発だけ撃つとどうなるのかというと、一番奥の壁に、粒子1つ分の衝突跡だけが残ります。この観測により、電子は粒子である事が分かりました。
ただ、これだけでは、電子が波と粒子の両方の性質を併せ持つという事は確認できません。
というのも、1つ目の実験では、電子銃のトリガーを引きっぱなしにして、電子を乱射状態にしたので、粒子の性質を持つ電子同士が集まることで、波のような振る舞いをした可能性もあります。

例えば、波を起こす水も、細かく見れば水の粒子の集まりで、その粒子が集まることで、全体として波を引き起こしますよね。
水だけでなく、細かい粒子というのは、大量に集めれば、全体として液体のような振る舞いをしますし、液体であれば、粒子全体の動きとして、波は起こります。

単独で干渉する電子

ただ、この実験の面白いところは、3つ目の実験です。。
3つ目の実験では、2つ目の実験と同じ様に、電子銃を使って電子を1発撃ち、衝突痕が確認できた後で、再度、電子を1発撃つというのを、何回も繰り返し続けます。
電子は1発づつ発射されているので、他の電子と干渉は起こりませんし、それぞれの電子はつながりを持っているわけではないので、普通に考えれば、実験結果は、ランダムに衝突痕が残ると考えられるのですが…

電子を1発ずつ撃った結果、何が起こったのかというと、1度目の実験結果と同じ様に、干渉縞が出来たんです。
用意された電子は、全体としてつながっているわけでもありませんし、先に撃ち出した電子が衝突した後に打ち出されているので、連続性もありません。
にも関わらず、1つの波が描くような干渉縞を描いたんです。

ここで疑問が生まれます。 アインシュタインの反論のように、電子という粒子は、『観測が出来ていないだけで、常に何処かには存在している』という代物であるなら、1個の粒子は、何と干渉して干渉縞を残したのかという事です。
物質である粒子は、2つのスリットのどちらか一方しかクグる事が出来ませんし、1個の粒子が片方のスリットをくぐったところで、干渉は起こりません。 

この状態は、観測する前の電子は確率の波の状態で、1つの電子が2つのスリット両方をくぐる事で、2つの波になって、そして互いに干渉し、確率の高いところと低いところが生まれて…
その確率に則って、電子の粒子が観測されると考える方が、説明が付きやすいんです。

不確定性原理

ここで、『電子銃から発射された電子の動向を、ずっと観察しておけば、電子がどのようにスリットを通って、奥の壁に到着したのかが分かるのでわ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが… それは、無理なんです。
というのも、観察というのは、何かをぶつける事で可能になるのですが、観測対象が小さすぎると、ぶつけるという動作によって、対象に影響を与えてしまって、元の状態を観測できなくなるからです。

例えば、目が見える人間にとっては、観察は目を使って行いますが、目で見るという行為は、物質に光があたって、それが反射して目に入る事で、物体の観察が可能となります。
ボーリングの玉を物体として、光をピンポン玉と仮定すると、ボーリングの玉にピンポン玉という小さなモノを投げつけて反射させ、それを観察者が受け取る事で、観察が可能となるということです。
この場合、ボーリングの玉という重くて大きいものに、ピンポン玉という軽くて小さいものを当てているので、ボーリングの玉はピンポン玉を当てられても状態が変わること無く、維持することが出来るので、観察者は、変わらないボーリングの玉を観察できるのですが…

この観察対象が小さすぎる場合、例えば、ピンポン玉にピンポン玉をぶつけて、その反射で観察をしようと思った場合は、ピンポン玉をぶつけた時点で、元のピンポン玉の状態が変わってしまうので、上手く観察ができないんです。
電子は、ほぼ最小単位のような物質のため、これに、光などをブツケて反射させようと思っても、ブツケた事によって状態が変わってしまうので、観察はできないということです。
つまり、確率の波という観察できていないものを観察しようとしてアクションを起こすと、そのアクションによって状態が変わって、確率は収束して粒子になってしまうという理解で良いんでしょうかね。

計算式などの詳しい説明は、私自身も理解できていないので、物凄く雑に言いますが… このように、観測によって元の状態が変わってしまって分からなくなる事を、不確定性原理と呼ぶようです。
不確定性原理を他の例でいうと、コップに入っている水の温度を測る時に、温度計を水の中に入れると、温度計が持っていた温度と水との温度が混ざり合い、水の温度は計測前と若干変わっていまします。
温度計を入れたことによって、温度計を一定時間入れたコップの中の水の温度は測れますが、温度計を入れる前の水の温度はわからないという事ですね。

不思議な現象はミクロ世界に限ったことではない

この、二重スリット実験ですが、電子1個という最小単位という条件でのみ発現するような特殊な状態なのかというと、そうでもないようなんです。
電子よりも大きな炭素原子を、サッカーボールの模様のように60個つなぎ合わせた状態のものでも、同じ様な実験結果が出てしまい、最小単位でのみ起こる例外ではなくて、原子が組み合わさって物質となっている物も、実は確率の波だという結果になってしまいました。

このような結果を受けても、アインシュタインは、確率解釈を最後まで受け入れず…
『仮に、その解釈が正しいとするのなら、月は誰も観ていない時は確率の波になり、存在していないことになる。でも、月は見ていない時にでも存在しているはずじゃなか。』といったそうです。
また、波動関数を生み出したシュレディンガーも、シュレディンガーの猫という思考実験を生み出しました。

この実験は、猫を箱の中に入れて見えない状態にして、その後、箱の中に確率で毒が充満するとか、毒入りの餌を置いておくなどして、50%の確率で死ぬような仕掛けをした場合、箱を開けて観測しなければ、猫の状態は確定しないという思考実験です。
状態が確定しないとは、猫が死んでいる状態と生きている状態が重なり合っている状態になるという事ですが… 死んでいる猫と生きている猫が、重なり合っている状態で両方存在しているなんて、おかしい じゃないかという、皮肉として生み出された思考実験です。

ただ、どんなに皮肉をいっても、感情に訴えたとしても、そういう事実が観測されてしまうと、それに対する反論を言えない場合は、有力な仮説の一つとして認めなければならないのが科学なので、現時点では、物質は確率の波で、観測されると、確率が収縮して粒になるとするしか無いんでしょう。
この後、量子論の解釈は更に発展していき、多世界解釈なんてものにまで発展しますが、その話はまた、次回にしていこうと思います。

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

ZOZOからメーカーが離れていってる理由を考えてみた

私は昔、株をやっていた事もあって(今でも活発に取引はしてないが株保有はしてる)、経済ニュースを毎日の様に見聞きしていたりします。
その中で最近よく聞く話題が、消費者とメーカーのzozo離れについて。

という事で今回は、何故、zozo離れが起こっているのかについて考えていこうと思います。
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zozo離れの発端?

詳しく追っているわけではないので、時系列は多少の違いは有ると思いますが、名前が頻繁に出始めたのは、代表の前澤さんがネットを中心に全面に出てきた頃だと思います。
750億かけて月旅行に行くとか、前澤さんのTweetリツイートすれば、それだけで100万円貰える可能性があるというお年玉キャンペーンをやったりした事で、ネット界隈で有名になり始めた去年の年末頃だと思います。

これらのパフォーマンスによって、多くのフォロワーを得たわけですが…
それと同時に、多くのアンチも抱えてしまったようです。
匿名のネットでは、何をやっても噛み付いてくる人はいるもので、多くの注目を集めたお陰で、多くのアンチまで集まってしまった。

そんな人達が騒ぎ出して盛り上がりだしたのが、消費者のzozo離れが囁かれ始めた発端のように思います。
ただ実際には、このアンチ達は元々ユーザーではなかった可能性のほうが高いので、Tweetが原因でユーザーが劇的に減ったという事はないのでしょう。
アンチが騒いで企業の業績が傾くなら、もっと他にも傾いている企業は沢山あるでしょう。

匿名のネットでは、心無いユーザーが悪口を書く行為は目立ちますが、何の文句もなくサービスを利用しているユーザーは、わざわざネットに書き込むことなんてしません。
この様な行為はネットが存在する前からあるようで、ノイジーマイノリティ(声高な少数派)やサイレントマジョリティー(静かな多数派)なんて言葉があるほどです。
これは、アプリストアのレビューを見ても分かりますよね。 星1では、参考になるレビューを探すほうが難し買ったりする程です。

なので、消費者離れは、まだ起こってないと思われます。
売上も順調に増えているので、これで消費者離れが起こっていると考えるのは難しいでしょう。
netshop.impress.co.jp

メーカーのzozo離れ

正直にいうと、こちらの方が問題が深刻だと思います。
そこそこ有名なブランドの場合はブランドそのものに顧客がついているわけですが、そのブランドの取り扱いがなくなってしまうと、そのファンの消費額にダイレクトに関わってきます。
zozoは商品を右から左に流しているだけの存在なので、zozoそのものにファンが付いているわけではないでしょう。

消費者が求めているのは商品なので、消費者的には、出来るだけ買いやすい環境であれば、そこで買うでしょう。
では、買いやすい環境とは何かというと、『商品が多いか』『検索がしやすいか』といった基本的な事に加えて、配送や返品などの対応でしょう。
その中でも『商品が多い』というのは、かなり重要な要素だと思いますが、それがメーカーの撤退によって取扱商品が減ってしまうというのは、結構なダメージだと思います。

では何故、そんな事が起こってしまったのでしょうか。

ZOZOARIGATOメンバーシップ

経済系のニュースでよく語られているのが、『ZOZOARIGATOメンバーシップ』というサービスで、このサービスに年会費または月額料金を支払って入る事で、服の価格が10%引き(初月は30%引き)になるというサービスです。
割引は、メーカー側に無理やり負担を押し付けるわけではなく、zozo側が負担するようなのですが、これが原因でメーカー側が離れていっているようです。
www.asahi.com

何故、割引サービスがメーカー離れにつながるのかというと、他の販売形態に迷惑がかかるからです。
服飾メーカーは、zozoだけで販売しているわけではなく、百貨店や路面店セレクトショップなどで販売されているわけですが、zozoでだけ勝手に割引をされてしまうと、同じメーカーの品であれば、みんなzozoで購入してしまう事になります。
メーカー側からしてみれば、最近できたzozoよりも既存の販売の方が付き合いも古いし、服を見て触って試着してから買いたい層も一定数は存在する為に、ないがしろにする訳にもいかない。

zozoでの販売が頼りという様なzozoに依存したメーカーでもない限り、価格競争から既存の販売店を守る為にも、撤退は良い判断なのかもしれません。

また、メーカーの服に対する値付けというのは、結構、重要な問題です。何故なら、価格そのものもブランド戦略に組み込まれているからです。
服というのは、単純に材料の料金に職人への手間賃を足しただけで価格は決まっていません。

例えば、服のデザインを責めたものにした場合は、万人受けしない為にそれほど売れるわけではない。
しかし、それほど売れないと分かっていても、ブランドとして挑戦したいデザインであれば出すのがブランドです。 ある程度の売上予想を立てて、機会損失が出ないように製造依頼をします。そして、作るとなれば、サイズを揃える必要が出てきます。
ある程度の計算をしていても予想が外れて売れ残る場合がありますが、服の場合は翌年まで持ち越して売るという事がしにくい商品なので、売れないものは50%引きなどでセールとして販売をする事になります。

消費者の中には、このセールまで消費行動を抑える人もいるわけですが、このセール売上も含めて黒字を出さなければ、メーカーとしては儲けが出ませんし、儲けが出なければ翌年以降の商品が発表できません。
それなりのブランドであれば有るほど、単純に消費者に迎合するだけの商品を出さずに、独自の世界観を演出するために努力するわけですが、それには常に挑戦する姿勢が求められますし、挑戦する場合は数が売れなかったとしても儲ける価格設定が必要です。

その価格を勝手に引き下げられるというのは、メーカーにとっては許すことが出来ない事だたのでしょう。
ただ、個人的な考えでは、メーカーの撤退理由はこれだけでは無いように思えます。

プラットフォーマーによる参入

私は、情報収集の一環としてPodcastを聞いているのですが、その中にテクノロジー系の者がいくつかあります。
その中のrebuild.fmという番組の最近の2回(233回、234回)で、プラットフォーマーによる事業参入の弊害というのがテーマになっていました。
zozoからのメーカーの撤退という理由の1つには、この件が大きく関わっているように思えます。
rebuild.fm

もう少し具体的に書くと、例えば、検索大手のgoogleは、検索サービスを提供しているわけですが、インターネットが普及すればする程、検索結果が重要になってきます。
この状況下で、検索結果を操ることが出来るgoogleが何らかの事業に参入したらどうでしょう。
例えば、服を販売するサイトをgoogleが作ったとした場合、googleは検索結果を操作して、『服』を検索したら、常にgoogle直営のサイトが検索トップに出てくる様に操作した場合、googleは簡単に服のEC事業でトップを取ることが可能になります。

他の例でいえば、Amazonは、他のメーカーの商品を陳列して販売することで、販売手数料を抜いています。
当然のことながら、Amazonには『今現在売れている商品のデータ』が蓄積されていくわけですが、このデータを利用すれば、『売れている商品』を『売れている価格帯』のちょっと下の値付けで提示することが出来ます。
そして、Amazonサイト内で商品を検索した際の検索順位は、自分の商品を一番上に持ってくることが可能となるわけです。

この様に、プラットフォームを提供する側が、自分たちでも商品を提供しだした場合、その分野で覇権を握れる可能性が出てくるわけで、現在、結構な問題になっていたりします。

ビッグデータに焦点を当てて、ビッグデータを使って商売をしている企業として有名なのが、日本の場合だとCCCなどですよね。
Tポイントカードを発行して、買い物の度にカードを通すことによって、買い物データがCCCに貯まっていき、それをTポイント加入点に販売する事で、収益を得ていたりしますよね。
CCCは加入点に消費者の情報を収集させて、その個人情報を使用させる権利を加入点に販売して儲けている企業です。

これをzozoに当てはめると、どうなるのでしょうか。
zozoは、zozoスーツを提供したぐらいから、自分たちでプライベートブランド(PB)を作って服を製造する方向にシフトしようとしはじめました。
netshop.impress.co.jp

zozoには、Amazonと同じ様に、自社で販売した他社メーカーの服の販売履歴が全て残っています。
性別や年齢、地域によって、どの様な服が好まれているのか、買われる価格帯はどれ位が多いのかや、どの様な組み合わせで買われる事が多いといったデータが全てある為、この情報を握るものは、売れそなものだけをピンポイントで作ることが可能です。
売れている商品の劣化コピーや、売れている要素を詰め合わせた商品をピンポイントで作ることで、服飾関係で覇権を握れる可能性が出てきます。

ただ、それを指を加えて黙ってみているメーカーではありません。
メーカーは、『顧客の好み』という情報を抜かれた上に、販売手数料として30%も抜かれているわけで、いってみれば、メーカー側が情報とお金を与えてライバル企業を育てている状態になています。
www.finance-seisekihyo.com

それなら、メーカー側は自社でECサイトを作るか、各アパレルメーカーが協力する形で、情報の共有ができるようなECサイトを新規で作る方が、1社に情報が集中しないだけマシといえるでしょう。
今現在でも、zozoはビッグデータを加入点に販売するという事業を行っている可能性もありますが、自身が製造に着手した時点で、そのデータが信用できるのかという問題も出てきます。
techblog.zozo.com

このような事は、適当にしかニュースを集めていない私のような人間にでも想像がつくので、服飾メーカーの本業の方は、とっくに考えていることでしょう。
他の細かい要因も結構あるかもしれませんが、個人的には、これが原因の可能性が高いような気がします。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第48回 移り変わる宇宙の捉え方(4)『神はサイコロを振らない?』前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

科学で真理は得られない?

このコンテンツは、主に哲学について勉強していくコンテンツなんですけれども、ここ数回は、科学的な話が中心になってしまって、これを継続して聞いてくださってる方の中には、混乱されている方もいらっしゃるかもしれませんね。
何故、科学的な話に脱線していったのかを、簡単に整理しておきますと…

キッカケは、ソクラテスでしたよね。
ソクラテスは、周りからは、賢い人、賢人だと言われていたのですが、自らは自分は無知だと主張して、仮に、自分に他の人よりも優れている点があるとするならば、それは、自分が無知だと自覚している事だと言いました。
いわゆる『無知の知』と呼ばれる主張ですが、この主張を聞いて、『無知だと自覚しているのであれば、勉強すれば良いでしょう』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、ソクラテスの主張する無知の知は、そういう次元の話ではないんです。
ソクラテスは、自らを無知だと主張しているわけですが、無知である状態を放置していたわけではありません。
他の人よりも人一倍、好奇心が強く、賢人だと呼ばれている人には会いに行き、真理を得る為に積極的に討論をしていきました。

偏見を持たず、相手の話をよく聞く姿勢をもち、今の科学の基本となる考え方になっている、イオニア地方の自然学も学びました。
その上で導き出された結論が、『科学では真理は得られない』という一つの答えだったんです。
過去の放送になりますが、44回では、ゼノンのパラドクスなどを使って、理論と現実には乖離がある事を勉強していきました。

ゼノンのパラドクスについては、観点を変えたり固定する事で、現実との差を埋めることも出来るのですが、その様な柔軟な考え方をしたとしても、現実というのは、簡単には分からない。
というか、研究が進めば進む程に、現実というのは難解で、このアプローチでは真理から遠のいていしまっているのではないかという説明を、過去放送の45回と46回の途中までで、相対性理論をつかって。
そして、46回の後半部分から前回にかけては、量子論を使って説明してきました。 今回は、その量子論の続きとなります。

量子論の振り返り

量子論の簡単な振り返りとしては、量子論相対性理論と同じく、光の性質を研究するところから出発しました。
相対性理論が、光のスピードに注目したのに対し、量子論は、光の正体は、波なのか粒子なのかという研究から始まりました。
当初、ビックネームのニュートンが『光は粒子』と主張していたので、皆が漠然と、光は粒子なんだろうと思っていたのですが… その後、二重スリット実験によって、波にしか表れない干渉という現象が観測できた為に、光は波という説が有力になります。

その一方で、アインシュタイン光電効果の研究によって、『光が粒子でなければ説明がつかない』ような現象が観測されてしまいます。
光電効果というのは、金属板に光を当てた際に、金属の電子が飛び出す様を観察する実験なんですが、光が波だと説明がつかない事実が出てきて、その一方で、光が粒子だと考えると辻褄が合う現象が観測されたんです。
結果として、光は粒子でありながら波で有るという不思議なものとなってしまいました。

これだけであれば、光というのは、どんな状態で観測したとしても常に一定速度で進む上に、粒子であって波という、不思議物体なんだなというので片付いたのかもしれないのですが…
光を当てた事によって、金属板から電子が飛び出たのであれば、飛び出た電子も光と同じ様な性質を持ってるんじゃないかということで、粒子であり物質である電子にも、波の特性があるんじゃないかという話になってきます。
そして、音などの波の運動の計算式を、複雑に加工したシュレディンガー方程式を、電子に当てはめて計算してみると… 電子の動きが説明できてしまうんです。

波の計算をする方程式を当てはめて計算したことで、電子の動きが計算できてしまったことで、電子も、波の性質を持っているんじゃないかという事になってしまいます。
つまり、物質を構成しているものが波である可能性が出てきたわけです。

この世には存在しない数字で構築されている世界

波動関数とも呼べれているシュレディンガー方程式ですが、更にわからないのが、この波動関数には、虚数が使われているという点です。
虚数というのは、2乗すると-1になるという、この世に存在しない、仮定として存在する数字なのですが、その虚数を計算に組み込んだ結果、現実に存在している電子の振る舞いが説明できてしまうという事実が分かってしまったんです。
科学というのは、人間が頭だけで考えた推論よりも、自然を観測した事によって分かった事実を優先するわけで…

この世に存在しない虚数を使って作られた方程式を当てはめた事によって、電子の振る舞いとしての正しい答えが出るのであれば、その方程式は、『何か』を表していると言わざるをえません。
まぁ、具体的に何を表しているのかは、私には分かりませんが、もしかしたら、この世の真理は、虚数という意味不明な数字を含んだ法則なのかもしれません。

この世に存在しない数で構築される世界

ここまでが、前回までで話した内容だったのですが… このままでも十分に、この世界が訳がわからないという事が分かっていただけたと思うのですが、この後、波動関数の確率解釈とかコペンハーゲン解釈などが出てきて、更に分けがわからなくなっていきます。
波動関数の確率解釈というのは、簡単にいうと、電子の波は確率の波だという考え方です。 波には波長や振動数と、振幅が有ると前に言いましたが、特定の場所の振幅の絶対値が、その場所に電子が存在している確率になるというものです。
音声メディアなので伝えにくいですが、波は、山や谷の繰り返しによって形作られていますが、その山の頂上や谷底の部分になればなる程、電子が存在する確率が上がるというものです。

コペンハーゲン解釈というのは、電子は粒子であるという事実と、一定の範囲に広がる波であるという事実と、計算上、辻褄が合っている確率解釈という3つの事実を全て認めて、合わせた解釈のことのようです。
つまり、観測が行われる前は、一定の範囲に確率の波として広がっているが、観測が行われると、波の状態になっている確率が収束して、ある一点に集まり、粒子として観測されるという事なんです。
これは、何度も言いますが、粒子というものが何処かには存在しているけれども、何処に存在しているのかがわからないから、確率という概念を使っているわけではなく、観測するまでは粒子は存在せずに、確率の波としてだけ存在しているという事のようです。

この確率解釈やコペンハーゲン解釈というものに、アインシュタインは『神はサイコロを振らない』と猛烈に反対したようです。 
ここでいう神というのは、宗教的な意味合いでの神というわけではなく、今までに発見された法則や、未発見の法則などを全て含む、物理法則の根底に流れているものを総称して、神と呼んでいるだけなので…
アインシュタイン、神秘的なものを持ち出してきて批判しているというわけではないので、注意してくださいね。

神はサイコロを振らない

神はサイコロを振らない』というのは、言い換えると、この世の全ては物理学的に説明できるという意味で、いわゆる決定論的な考えを主張しているという事です。
決定論は、例えば、サイコロを振るという場面を想像した際に、サイコロが自分の手から離れた瞬間に、サイコロの出目は、物理学的に決定されているという事です。
手から離れたサイコロは、サイコロに加わっている回転や、地面までの高さによって、地面に落ちる角度が既に決定されていますし、地面に落ちた角度によって、その後、どの方向にどのように転がるかは物理学的に決まっています。

サイコロの出目を人間が予測できないのは、それらの計算を瞬間的に出来ないから、予測が出来ず、予測が出来ないから、出目を確率でしか予測できないだけで…
物理法則的には、サイコロが手から離れた瞬間に決定している。 簡単に言えば、このような考え方が決定論です。物理学は、同じ条件では常に同じ動きをすると主張しているので、手から離れたサイコロは、その法則に従って機械的な運動を行います。
物理のメカニズムに則って物体が動く為、最初の条件を与えた状態で結果は決定している。ちなみに、この決定論を人の行動に当てはめると、運命というものになります。

しかし、ここでいう確率解釈というのは、観測していない状態では、電子の位置は確定しておらず、確率の波として存在しているだけだという考え方で、観測するまでは電子の位置が確定していないので、この考え方が正しいとすると…
今まで物理学の常識とされていた、決定論が崩れてしまう事になりかねないんです。
決定論が崩れてしまうのであれば、物理学の考え方が根本的に変わってしまう可能性もある為、この結果に対して慎重な態度をとってしまうという人間が出てくるのも、当然といえば当然なのかもしれません。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

日本人観光客の京都離れについて京都人が考えてみた

外国人観光客数の増加が凄いはずなのに不景気

私は生まれてからずっと京都に住んでいるわけですが、ここ最近感じる事は、景気が悪いということです。
私の仕事は、主に日本人観光客に向けた製造業なのですが、売上は年々減少傾向。

ウチはB to Bの取引がメインなので、取引先の受注が増えなければウチの受注にも結びつかないわけですが、得意先の売上が年々落ちている状態。
得意先は、八ツ橋であったり饅頭といった和菓子を作る会社が多いわけですが、アジア中心の外国人観光客が饅頭を買って帰るわけもなく、必然的に客は日本人観光客になるわけですが、まぁ売れない。

テレビなどでは、『インバウンド需要が旺盛で凄い!』なんて話を聞きますが、そんな実感は全く無い。
私の携わってる事業や、関係がある取引先だけが業績が悪く、他の人達が良いというのであれば、自己責任といわれても仕方の無い事なのかもしれませんが、そういうわけでもなく、観光業界が全体的に悪い。
ウチが原材料の仕入れを行っているところは、もっと広い視野で見れる為、同業他社の動きにも詳しいわけですが、好業績の会社が見当たらないと言っていたり。
京都 鴨川

日本人観光客の京都離れ

京都の観光客は右肩上がりで、使うお金も増えているという話も聴くが、全くと行ってよいほどに実感がない。
というか、どの分野が業績を上げているのか教えて欲しいというぐらいに、周りで好景気だと主張する人が見当たらない。
そんな状態の中で、この様な記事が発表されました。
www.kyoto-np.co.jp

京都で、日本人宿泊客の減少に歯止めがかからないらしいです。
増え続ける外国人観光客のお陰で、各観光地が非常に混在つし、観光どころではない。そもそも、泊まれない。
結果として、日本人観光客が減ってしまい、ウチの様な業種がモロに影響を受けたということでしょう。

この記事は、京都市の統計を見ても分かりますよね。
http://www.pref.kyoto.jp/kanko/news/2017/7/documents/kankoirikomikyaku.htmlwww.pref.kyoto.jp

京都市の外国人宿泊数が10%増えているのに対し、全体の観光入込客数は3%減っている。

このニュースを受けて、主にTwitterでは、『自業自得』といった感じで、京都を避難するようなコメントが相次いだわけですが…
京都に住んでいる人間としては、何処らへんが自業自得なのかが分からなかったりします。 ネットでは、京都の人間は底意地が悪いとされているから、文句を言っても良いと思われているフシがあるので、その延長線上で悪口を言ってるんでしょうけれども…
匿名のネットで、京都が相手だから非難する行為は、底意地が悪い行為ではないのかって感じですよね。

例えば、京都市民が一丸となって、日本人観光客をないがしろにして外国人観光客を増やす為に努力したとかであれば、『自業自得』といわれても仕方のないことかもしれません。
でも別に、京都の人は外国人観光客数を伸ばす為に頑張ったりはしてないわけです。市とか公的な機関が、どんな働きをしたのかは知りませんが、少なくとも市民レベルでは大々的に外国人観光客誘致はしていません。

というか、京都は電車が発達していないので、車や自転車で移動できない場所に行く場合はバスを利用しなければならないわけですが、外国人観光客はバスに大きなスーツケースを持って入る為、日頃バスに乗る人は迷惑をしていたりします。
また、外国人観光客に限らないのですが、観光客はその辺りで買った食べ物のゴミを、そのまま道に捨てて帰ったりするので、観光地近くの人は掃除の手間が増えるなどの被害を受けていたりします。

お金を使わない外国人観光客

ただ、こういう問題も、地域全体で見てお金が落ちているのならば、我慢もできるんだと思いますが…
外国人が増えた事で、京都に住む人達が潤っているわけでもない。
bookstand.webdoku.jp

最初に書いた私の仕事にしてもそうですが、元々は日本人観光客に向けた仕事なので、外国人観光客が増えたとしても、売上にはつながらない。
外国人観光客が増えて日本人観光客が減少すれば、それだけ売り上げは減ってしまいます。
『外国人観光客にも売れるものを作れ!』と上から目線で言う人もいるでしょうが、彼らが土産物屋で買うものってキットカットやポッキーですからね。 ポッキーを買いに来てる人に、どうやって八つ橋を売るのかって問題もあります

外国人観光客の急増は、飲食店の方にも影響が出ていたりします。
日本人観光客が中心だった昔は、東京の富裕層の人達が、年に1~2回ぐらい京都に訪れて、祇園やら木屋町でお金を使って帰るというのが結構あったそうです。
それが結構、バカにならない売上の様で、春秋のシーズンには、かなり当てにしていたそうです。

しかし、外国人観光客が急増してからというもの、ホテルが取れないという理由から、そういった国内富裕層が京都に訪れなくなりました。
代わりに増えたのが外国人ですが、彼らが同じ様にお金をつかうのかといえば、そんな事はありません。
5人できてコーヒー1杯注文して3時間粘るなんて人が結構な頻度で現れた為に、木屋町界隈では一時期、『店内に入店された際には、最低1人1品は注文してください。』という張り紙があちこちで貼られた程です。

外国人観光客の増加は、もともと、京都の人も手放しで歓迎しているわけではないんですよ。
Twitterなどで京都の非難をしていた人達は、外国人観光客を大切にして日本人をないがしろにしたから、自業自得だという主張なんでしょうが、京都の人からすれば、勝手の来て、お金を使わずに雰囲気だけを消費されてる状態なんです。

高さ制限でホテルの客室数を稼げない京都

では何故、他府県の人が京都の自業自得だと決めつけるのかというと、ホテルが取れないからだと思います。 仮に取れても高いから。
ただこれは、仕方のない部分の方が大きい。 理由としては2つです。
1つは、外国人の方が正規の方法で予約を入れてきた場合、外国人だからという理由だけで予約を受け付けないなんて事は出来ませんよね?仮にそんな事をすれば、レイシストと呼ばれることでしょう。
どんな人であれ、ルールに則って予約を入れてきた場合は、受け入れるのが商売です。

もう1つは、京都はホテルがそもそも少ないからです。
京都には、五山の送り火を誰にでも見れるようにするためか、建物の高さ制限があります。 この規制があるからこそ、何処に居ても山が見える状態を保てるわけです。

この高さ制限ですが、当然のように、ホテルなどの宿泊施設を作る場合には、マイナスに働きます。
立地が良くて便利な土地を購入した場合、他の都道府県であれば、上方向に伸ばせば客室数は確保できますが、京都の場合は高さ制限があるために、10階前後しか建てることが出来ません。
当然のように客室数も減る為、土地の購入費用をpayしようとすれば、部屋の価格は高くなります。

京都以外の人が起こした土地バブル

この土地の件でいえば、高さ制限の他に足を引っ張っているのが、京都の土地バブルです。
日銀が異次元緩和と呼ばれる量的金融緩和を行った辺りから、御所南や御池といった地域の土地のマンションを、東京の富裕層や中国マネーが買い漁り、局地的なバブルを起こしています。
このバブルに乗る形で不動産開発が行われ、土地価格は高値で売買され、余計に宿泊施設が立ちにくい状態を生んでいます。

https://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20150329/ecn1503290830002-n1.htmwww.zakzak.co.jp
ddnavi.com

というのも、京都の観光は春と秋のシーズンに客が集中する一方、夏と冬は客が激減します。
高さ制限によって、土地あたりで作れる客室数の上限が低いうえ、稼げる時期が限られている為、土地の取得に多額の資金を投入してしまうと、その後の運営が厳しくなるという事情もあります。

ちなみにですが、東京の富裕層や中国の人は、投資目的で購入している為に、京都に移住してくるわけではありません。
その為、先程の地域に建つマンションでは、完売しているけれども電気がついていない部屋が多いマンションが乱立しているという、良くわからない状態になっていたりします。
この局地的な土地バブルも、正直言って京都の人が起こしたものではないし、これによる恩恵が受けれたわけでもありません。

京都以外の地域の富裕層同士の空中戦が行われているだけで、現地に住んでいる人間からすれば関係がない事。
投資目的で買って無人の空き室で放置されてるぐらいなら、宿泊施設や遊べる施設を作ってくれた方が、なんぼかマシだったりします。

この様な感じで、京都という土地の経済は、京都以外の人達の動きによって翻弄されている状態だったりします。
そして、観光客が増えたからといって、京都がそれに比例して潤っているのかといえば、とてもそうとは言えなかったりします。

私が携わっている日本人観光客相手の仕事でいえば、外国人観光客数の増加に比例するような形で、売上が減少していってるのが現状です。
個人的な意見でいえば、10年ほど前の状態に戻ってほしいというのが、本音だったりします。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第47回 移り変わる宇宙の捉え方(3)『光は粒子であり波』 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

光が波の場合 媒質は何なのか

また、光が粒子であるという事にしてしまえば、光についての他の謎も解決します。
それは、光の媒質は何なのかという事です。 媒質というのは、海の波の場合は海水がそれに当たりますし、音の波の場合は、空気がそれに当たります。
波というのは、それ単体で存在しているわけではなく、何かを揺れ動かすエネルギーです。

池に石を投げ入れると、水が揺れ動いて波が出来ますし、石が水に着水すると、その衝撃が空気に伝わって揺れ動かして、音となります。
光を波と考えた場合、真空状態を飛んでくる太陽光は、何を揺れ動かしているんだろうという疑問が残ってしまうわけですが、光が粒子だと考えると、太陽から小さな粒が飛んでくることになるので、その疑問も解消します。
アインシュタインは、この光量子仮説による光電効果の説明によってノーベル賞を取り、これで、全て上手く行ったように思えるのですが… この理論は、新たな疑問を生み出します。

光は波であり粒子?

というのも、『光量子仮説』は、光電効果の説明を見事に行って、光は粒子だという証拠を見つけたわけですが、光が粒子であれば、二重スリット実験で観測された、光の干渉が説明できません。
これによって、光は粒子であり、尚且、波であるという、更に意味不明な状態に突入します。

何故意味不明なのかというのは、以前にも説明したと思いますが、もう一度簡単にいうと、ライヴハウスでバンドマンが、観客に向かって自分の着ていたTシャツを投げた場合、それを受け取れるのは1人ですよね。
何故なら、Tシャツは物体だからです。しかし、そのバンドマンが演奏して、スピーカーを通して曲を流せば、観客全員に聞こえますよね。
池に石を投げ込んだ場合、小石は粒という物体なので、池の1箇所に着水しますが、それによって出来た波は、全方向に向かって広がっていきます。

物体である粒子と波は、全く違ったものなのですが、光は、その両方の性質を併せ持った存在だということになってしまったんです。
ここで注意が必要なのは、これは、野球漫画に出てくるようなピッチャーが投げる、必殺技のように、粒子が波のような軌道を描いて飛んでいくというわけではありません。
また、沢山の粒子が、全体としてみてみると、波のようにうねって動くというわけでもありません。 1つの光量子が、波と粒子の性質を両方併せ持っているということです。

これは、理解できなくても当然だと思いますし、仮に、量子論のこの説明を今回、初めて聞いて、『分かった!』と思っている方は、おそらくは本当の意味で、分かってないと思います。
何故なら、これを説明している私自身が、波と粒子の状態を両方併せ持つという状態をイメージできていないからです。 量子論を専門的に勉強している方でも、具体的にイメージできて理解できるという方は少ないと思いますので…
今回は、この説明を聞いて、『光って、よく分からないものなんだな』という事だけ理解してもらえば大丈夫です。

光と電子の関係

この、粒子でありながら波である光なんですが、先程もいった通り、元々は粒子なんじゃないかと思われていた物が、二重スリット実験によって波だと分かってきた。
そして、波という前提で研究を進めていくと解明できなかった事が、粒子だと仮定すると解明できるという経緯を辿ってきたわけですが…
この考え方は、逆の現象も考えられるのではないかという話になってきます。 つまり、元々、物質だと思ってきた他のもの、具体的には電子を、波だと考えてみようという動きです。

というのも、波と思われていた光に最小単位があって、それが粒子の様な振る舞いをして、電子を弾き飛ばしたのであれば、その光の粒子である光子とエネルギーをやり取りできる電子も、同じ様な存在なんじゃないかと思われたんです。
その方向で研究が進んでいき…結果として、物質だと思われてきた電子にも、波の性質があると考えると納得がいくような実験結果が出てしまうんです。

電子にも波の性質がある?

電子が物質の場合に、どの様な不具合が出るのかというと、原子と電子の関係性に問題が出るようなんです。
私は高卒なのですが、そこまでで教えられてきた原子のモデルは、原子というのが中心にあって、その周りを電子が回っているというモデルで教えられました。
原子を地球だとすると、その周りを周回している月が電子というイメージですね。

原子を、この様なモデルだと思われている方は多いと思います。私も、学校でこの様に教えられてきたので、量子論関連の話を聞くまでは、こう思っていたわけですが…実際にはこのモデルでは、不具合が出てしまうんです。
というのも、電子には、スピンすると光を出してエネルギーを放出してしまうという性質があるそうなんですよ。そして、電子のエネルギーが不足すると、周回軌道の中心にある原子に電子が引き寄せられて、衝突してしまうらしいんですね。
しかし、実際に電子が原子に衝突するという現象は、現実世界の通常の状態では観測されていないようなんです。

科学というのは、計算した上で出てきた推測と現実とを比べた時に、違いがある場合、現実に起こっている事実の方を優先します。
計算上、電子がスピンするとエネルギーが光として放出されてしまうという結果が出たとしても、現実世界を観測して、その様な事実がない場合は、現実を優先して、理論の方を修正していきます。

その結果、電子に波の性質があれば、辻褄が合うんじゃないのかという動きが起こって、その方面での研究が始まります。。
そして、物理学者のシュレディンガーという方が、従来の波、これは、海で起こっている波や音の波の事ですが、この振る舞いを計算するための方程式を改良して、シュレディンガー方程式というものを生み出します。
このシュレディンガー方程式を、本当の意味で理解するためには、高度な数学的知識と物理の知識が必要になるらしく、私自身も理解していないので、細かい説明は省きます、興味のある方は、独自で調べてみてくださいね。

現実にあり得ない方程式で計算できる現実

話を戻すと、この方程式に当てはめる事で、電子の振る舞いを説明することができたんです。これによって、電子に波の性質があるらしい事が解りました。
では、これで電子の正体も解り、めでたし めでたし なのかというと、そうは問屋が卸さないんです。

このシュレディンガー方程式には、複素数という数値が使われているんです。複素数というのは、物凄く雑にいうと、虚数と実数が組み合わさったものです。
実数とは、普段、私達が計算などに使っている数字の事で、その数字と虚数という数を組み合わせたもの。 では、虚数とな何かというと、2乗してゼロ未満になる数字の事です。
この、複素数が使われている事で、何が問題になるのかというと、計算に使われている虚数というのは、数学というルールの中で作り出した、この世にはない数字だからです。

先程も言いましたが、虚数というのは、2乗してゼロ未満になる数字の事です。では、2乗するとはどういうことなのかというと、同じ数字を2回掛け合わせるという事だと、学校などで習ったはずです。
それと同時に、私達は、マイナスとマイナスをかけ合わせるとプラスになるとも習いました。 その上で、同じ数字を2回掛け合わせて、マイナス1の数値になる数字があるかどうかを考えてみてください。
そんな数字はありませんよね。 虚数とは、その名の通り、この世には無い数字の事で、その為、数字でありながら、大きい小さいという概念すら存在しない

正に、この世に存在しない虚無の数字が虚数なのですが、現実に存在する電子の振る舞いを計算するシュレディンガー方程式は、その式の中に、その虚数を組み込んでいるんです。
ありえない数字を含んだ方程式から出てくる答えは、当然のようにありえないものに成りそうなんですが…
実際に、この方程式によって、水素原子の振る舞いを説明できてしまう為、この虚数を含んだ方程式は、現実の何かを証明する方程式なんだろうということが分かってきます。

そしてこの後、私達が住む現実というところが、更にわけの分からないモノだという事が分かってくるのですが…
それはまた、次回にしようと思います
(つづく)
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2019年 今は景気が良いのかもしれない可能性について

ここ最近、景気の見方が割れているような感じがしますね。
今までも、地方の現場で働く私達の多くは好景気を実感する機会がなかったので、市民レベルでは『世間では景気が良いと言ってるけれども… 何処が景気が良いの?』なんて言ってたわけですが、経済統計の算出で不正をしていたということが明らかになってからは、『実際には景気が良くないんじゃないか?』という疑惑が広がり、より明確に意見が別れた印象があります。

しかし、アベノミクスという言葉を言い出して、『自分が日本の景気を浮上させたんだ!』としたい安倍首相や自民党員達は、『今は景気が良い』と主張。
統計調査に不正があったとしても景気回復は本物だし、実際問題として、雇用者数は増えてる!と頑なに態度を変えません。

一方で、景気は良くない派の人達からいわせれば、実際に雇用者数は増えてるかもしれないが、その要因の大半は定年を迎えた人達が給料を引き下げられた上で再雇用されているだけなので、これを持って景気が良いとは言えないと主張。
何故、定年を迎えた人達が働かなければならないのかというと、年金だけでは暮らせないから働いてるわけで…
多くの人間がリタイヤ後に働かないと生活できない状態に追い込まれている状態をもって、好景気とはいえないんじゃないかという率直な感想が、この様な意見に繋がっていると思われます。

現役時代と比べて技術が衰えたわけでもないのに、給料が半額とかで雇われる為、給料の中央値も下がる一方。
では企業は、安い賃金で老人を雇うことで得た利益を、未来ある若者に分配してるのかというと、そうでもなさそう。

また、高い技術を持つリタイヤ組を安く雇えるという状態だと、技術を持たない若いだけが取り柄の人に高い給料を支払う空気にもならない。
仮に若者が、『もっと給料を上げてください!』と直訴しても、『お前の先輩で、仕事の効率が15倍ほどある◯◯さんは、月に10万で働いてるんだぞ。』といわれたら、若者は反論できない。
また若者自身も、仕事ができない状態で大ベテランが安月給で働いている現状を見ると、給料の交渉なんて出来る雰囲気ではなくなるでしょう。
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では、こういった企業では人件費が安く抑えられて、多額の利益が出るのかといえば、そうでもない。
人件費という固定費が安くなれば、大手の取引先からダンピングをされる。結果として、現場に近いところで働く中小零細には利益が上がらない構造になっている。
ただ、技術を持つ高齢者を雇うと言っても限界があります。 体は動かなくなりますし、寿命を向かえることにもなるでしょう。

主な仕事を老人達にまかせていた企業は、ここに来て人手不足となるわけですが、そもそも構造的に利益が出る仕組みになっていないので、高い給料は提示できない。
結果、有効求人倍率は高止まりするが、求人内容はショボいものばかりになってくる。

では、そういう中小零細から搾取をしている大企業はというと、内部留保を貯めることに必死になって、ステークホルダーへの分配なんて頭にない。
ただ、こういう企業が利益を分配せずに独り占めしている為に、上場企業などの大手に限っていえば、バブル後で最高益なんて企業が増えているのも事実。

この部分だけを抜き出してみてしまったり、こういう大企業としか付き合いがない人たちは、今が好景気なんじゃないかと錯覚してしまうという現象も起きている様な状態と考えられます。
首相を中心とした人達が『今が好景気だ!』と主張するのは、そう思いたいからでは無く、実際に自分の身の回りには羽振りの良い人しかいないからかもしれません。

ただ、いくら普段付き合ってるのが大企業のトップばかりと入っても、政治家というのは、国民の票をもらわないと仕事を続けられない職業。
少数の人達ばかりを向いていては、未来はないのではないかと思います。 そういった意味では、大多数の人達が感じている実感を、政治家として知ってないと駄目なんじゃないかと思うのですが…
ここで一番心配なのが、首相やその取り巻きは、今が不景気だというのを知った上で、『好景気だ!』と主張しているんじゃないかって事です

何故、そんな事をしなければならないのかというと、これから、もっとやばい不景気がやってくるから。
古代ギリシャの哲学者であるソクラテスも言ってますが、転んでいる人間がそれ以上に転べないように、悪い人間が悪くなる事はできません。
景気が悪い状態に『なる』為には、今が景気が良い状態でなければならないんです。

つまり、こんな状態でも『良かった』と思えるような状態が、これから来る可能性があり、首相やその周辺は、暗にその事を警告しているという可能性です。

傾く中国

つい先日ですが、ルネサス エレクトロニクス が半導体需要の下方修正をして、国内の半導体工場に対して一時的に生産を停止するという発表をし、ストップ安になりました。
主に中国向けの需要が減少する見通しの為に、供給過多にならない為に、生産を絞るというようなニュースです。
news.mynavi.jp

テレビのニュースでは、NVIDIAなどの不振も同時に伝えられていたので、1年ちょっと前(2017年)に起こった仮想通貨バブルの崩壊の余波が来た可能性もあります。
この中国の不振ですが、一時的なものであれば問題はないのですが、どうやらそうでもないようなんです。

仮想通貨バブルによって、高性能のCPUやグラフィックカードがバカ売れしたけど、バブル崩壊で需要が一気に低迷しただけなのであれば、数年で均せば問題はないでしょうし、影響も少ないと思います。
しかし中国経済の低迷は、どうやら本格的に始まっているようなんです。

こんなことを書くと、中国や韓国が嫌いな右寄りのネット民は喜ぶかもしれませんが…
今や中国の影響は大きくなりすぎて、中国が咳をすると世界が風邪をひき、日本は危篤状態になってしまう様な状態になってしまってます。

例えば先日、ヨーロッパの中央原稿であるECBが利上げを先延ばしにしたというニュースが流れ、それを嫌気して金融市場が反応するという事が起こりました。
jp.reuters.com

中国の消費は世界に影響を与えていて、中国人が買い物を控えるだけで、特定の地域でかなりの悪影響が出たりします。
ヨーロッパもその一つで、中国人による消費が落ち込んだことで景気に悪影響が出てしまい、金融政策で慎重にならざるをえない状態に追い込まれている状態。

これは、ヨーロッパよりも中国に近く隣接している日本なら、尚更です。
例えばですが一昔前は、家電といえば日本製って感じの認識でしたが、今現在はどうでしょう。
スマートフォン市場を見ても、上位はアメリカ・中国・韓国となっていますし、テレビ市場でも、コスパを観れば韓国製が選択肢に入ってきます。

最終製品としての日本製というのはドンドン減っていってる状態で、そのかわりに、中国製や韓国製が台頭してきているのが現状です。
では日本の製造業はというと、電気製品の分野でいうならば、彼らに部品を提供する事で生き残っているといった感じ。
日本で最終製品を作っている会社は落ちぶれていき、シャープや東芝は彼らに買われていますし、もっと小さな企業に目を移すと、親会社が中国の会社なんてこともかなり増えてきているのが現状です。
ビザを緩和しまくったことで増えた観光客も、大多数は中国・韓国ですし、日本は彼らに相当な依存をしている状態と言えます。

その中国の経済が減速するということは…
もう、いわなくても分かりますよね。
www.jftc.or.jp

このサイトを読むと、日本に対する中国の影響力が日に日に増大していっているのがよく分かります。

2017年でいうなら、2位が中国、4位が台湾で5位が香港… 全部をまとめたら、1位のアメリカを余裕で抜くレベルでの取引があります。
何度も書きますが、ここが転けたら、日本は相当ヤバイです。

そのヤバイ状態を『不景気』と呼ぶのであれば、確かに、現状は政府が主張するとおり、『今は好景気』なのかもしれません。。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第47回 移り変わる宇宙の捉え方(3)『光は粒子であり波』 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

光は粒子なのか波なのか

前回は、前半に相対性理論の話をし、その後、後半からは、量子論の話をしていきました。
量子論の部分を簡単に振り返ると、量子論相対性理論と同様、光の性質を調べていくところから始まります。
相対性理論が、光速度不変の原理という、光の速度はどの状態から見ても同じだという、速度という切り口から始まったのに対し、量子論は、光はそもそも何なのかというところから始まっています。

光の正体は、『波』なのか『粒子』なのか? 当初は、ビッグネームであるニュートンが粒子派だった事もあって、粒子説が優勢でしたが…
その後、二重スリット実験によって、光も、干渉という波独特の現象を起こし、干渉縞を作るという事が分かってからは、形成が逆転し、光は波派が優勢に立つ事になります。
しかし、その後、光は波だという前提に立って、黒体放射の観測を行って、物体を熱した際に放つ光と温度との関係を調べていくと、光には最小単位が有るということが分かってきました。

光には最小単位が存在する

つまり、波という、今までは連続的なものだと考えられてきた現象が、実は、不連続な現象だったという事が分かってきたんです。これは、結構な衝撃だったようです
科学者ではない私達には、これがどれ程の衝撃かというのはイマイチ理解できないと思うので、別の例で例えてみましょう。

これは、例えとしてあっているのかどうかは分かりませんが…私達は、時間というのは連続的なものだと捉えていますよね?
もし、この連続的だと思っていた時間に最小単位があって、不連続なものだったとしたら、結構、衝撃的じゃないですか?
ゼノンのパラドックスというのを、前に紹介したと思いますが、その1つに『飛んでいる矢は止まっている』というものがありましたよね。

これは、時間に最小単位が有るのであれば、最小単位内では時間は停止しているわけだから、弓から放たれて飛んでいるように見える矢も、最小単位まで分解すれば止まっている事になってしまう。
実際には動いているように見える『飛んでいる矢』も、静止状態の連続なので、止まっているのと同じというパラドクスでしたが、現実が本当に静止状態の連続なのであれば、衝撃的ですよね。

例えば、格闘ゲームストリートファイターVというものがあります。 このゲームは、キャラクターがなめらかに動いているように見えますが…
実際には、60FPS。つまり60分の1秒の静止画の連続によって、キャラクターが動いているように見えます。
これがゲームの世界の話ではなく、仮に現実が、200FPSで動いていますよ。 つまり、時間の最小単位は200分の1秒でその静止した時間の連続が現実なんですよと言われたら、結構、衝撃的じゃないですか?

波だという光には、実は最小単位が有ったというのは、それぐらいの衝撃だったのかもしれませんよね。

アインシュタインの光量子仮説

この、光には最小単位が存在する、不連続なものだという現象は、アインシュタインに影響を与えて、その後、『光量子仮説』という説が生み出されます。
この仮設は簡単にいうと、光を粒子と考えると、今まで解明できなかったものの説明が付きますよという説です。

光を波だと考えると説明がつかなかったもの一つとして挙げられるのが、『光電効果』と呼ばれるものです。
これは、金属に対して光を当てる際に、色によって電子が飛び出たり飛び出なかったりするという現象が起こっていたのですが、これは、光が波の性質だと説明がつかないようなんです。
というのも、波には、振動数と波長、それに振幅といった物があるのですが、この中でモノに影響を与えるのは振幅だけと考えられていて、振動数はそれほど影響は与えないと考えられていたからです。

波が物質に与える影響

分かりやすく、海に船が浮かんでいるというシチュエーションで考えてみましょう。
海に船が浮かんでいたとして、細かい波が小刻みで大量に船に向かってきたとしても、それほど、影響はありませんよね。これは、この波の多さは振動数で表され、どのような間隔でくるのかは波長で表されます。
波長が短くなって、波の振動数が増えたとしても、浮かんでいる船にはそれ程、影響は与えません。

しかし、振幅はどうなんでしょうか。 振幅とは、波の山の部分と谷の部分の差の事です。
例えば、波の山と谷が50センチであれば、船に与える影響は小さいかもしれませんが、波の山と谷との差が10メートルを超えるような大波であれば、ボートは転覆してしまう可能性も出てきます。
つまり、振幅というのは他の物体に与える影響が大きい一方で、波長や振動数はそれ程、影響を与えないというのが、波の特徴と考えられてきました。

光が物質に与える影響

しかし、実際の光はどうなんでしょう。
石油ストーブから出る光を浴びても、日焼けすることはありませんが、太陽光を浴びると皮膚に影響が出て、下手をすると水ぶくれが出来る程に肌に影響が出ます。
この両者の違いは、石油ストーブから出ているのは主に波長が長い赤い光なのに対し、太陽光には紫外線という、波長の短い光が含まれているからです。

この現象を、実験によって確かめたのが、『光電効果』と呼ばれるモノのようです。
光電効果は、光を金属に当てた際に、金属から飛び出る電子の量や勢いを確かめるという実験なのですが、金属に当てる光の色によって、電子の飛び出し方が違うというものです。

wikiに具体的なことが乗っているので引用すると…
電子の放出は、ある一定以上大きな振動数の光でなければ起こらず、それ以下の振動数の光をいくら当てても電子は飛び出してこない。
振動数の大きい光を当てると光電子の運動エネルギーは変わるが飛び出す電子の数に変化はない
強い光を当てるとたくさんの電子が飛び出すが、電子1個あたりの運動エネルギーに変化はない

ちなみにですが、波長と振動数は反比例の関係にあって、波長が短くなる程、振動数は増えます。 そして、振動数が増えるほど、光は紫色に変化していって、可視光線の範囲を超えると、紫の外の光線、紫外線になります。
光電効果の実験によって、この様な現象が観測されたのですが、ここで疑問が出てくるのは、何故、光の色を変えただけで、つまり、光の波の振動数の増加が、他の物体の電子に影響を与えたのかという事です。

光の振動数によって物質への影響度が変わる

先程の、海に浮かんだ船の話を思い出して欲しいのですが、波と他の物体が衝突した際に、物体に影響が出るのは、波長や振動数ではなく、振幅だけでした。
光の色というのは、波長と振動数によって決まり、振幅は関係がありません。 にも関わらず、振動数の違う光を当てる事で電子の飛び出し方に差が出るというのは、現象としては『おかしい』らしいのです。
また、強い光つまり、振幅の大きい光を当てても、電子一個あたりの運動エネルギーが変化しないのも変です。 何故なら、波が他の物体に大きな影響を与えるのは振幅のはずだからです。

そこでアインシュタインは、先ほど紹介した、光には最小単位が存在するという話をヒントに、光は粒子なのではないのかという仮説、『光量子仮説』を立てます。
この仮説の詳しい説明については、私のように本格的に勉強していない人間が、音声のみで伝えることは無理なので、興味を持たれた方は、ご自身で調べてみてください。

私が理解している範囲で、簡単に説明すると、光の粒である光量子が持つエネルギー量は振動数によって決まって、振動数が増えるほどにエネルギーが多くなるという仮説です。
光をこのように仮定すると、先程の光電効果の実験結果に矛盾がなくなるんです。

光の粒が持つエネルギーは振動数によって決まるので、振動数が少ない光量子はエネルギーが少なく、金属にぶつかったとしてもエネルギー不足から電子をはじき出すことは出来ませんが…
振動数が高くなればなるほど、光量子のエネルギーは大きくなるので、同じように金属にぶつかった場合、金属のエネルギーに応じて電子が飛び出す具合も変わります。

振幅が強い強い光は、単純に、光量子の量が増えるという様に置き換えてしまえば、沢山の光量子がぶつかるために電子の飛び出す量は変わるけれども、電子が飛び出す際の勢いは光量子のエネルギー…
つまり、光量子のもつ振動数によって決まるために、強い光を金属に当てた場合は、飛び出す電子の量は増えるが、飛び出す勢いは変わらないという事になります。
(つづく)
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映画アリータを観て、改めて銃夢を読み返して考察してみた

少し前に映画館に『アリータ』を鑑賞に行き、先日、その感想をアップロードしました。
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それを機に、原作の銃夢(無印)をもう一度読み直したので、今回は、それを読んで思った事について書いていきます。
最初に書いておきますが、ネタバレを含んだ形で考察などを書いていきますので、原作を読まれていない方で興味のある方は、先に原作を読まれる事をお勧めします。

サイボーグ作品に共通する哲学的なテーマ

この作品を読んで改めて思った事は、基本的なテーマとしては、哲学的なものが中心なんだなという事です。
個人的な思いになりますが、銃夢と同じ様に高評価されている攻殻機動隊もそうですし、ブレードランナーの原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』もですが、アンドロイドやサイボーグが登場する物語の場合、その存在自体が哲学的なものに成ってしまいがちです。

何故かというと、人の持つ心というのは、何処に宿るのかという話にならざるを得ないからでしょう。
今では、思考の殆どが脳で行われている事になっているので、心は脳にあると思われる方も多いでしょうが、脳の研究が行われる前は、心臓に有ったと思われていたりもしました。
これはおそらく、人間の感情が高ぶった際に、胸が痛くなったり熱くなったりするからでしょう。

心が胸にあるから、ショックを受けた時には、その場所痛くなるし、憧れの存在を目の前にした時には、胸が熱くなる。
腕を怪我した際に腕が痛くなるように、心が傷ついたから心が痛くなる。 結果として胸が締め付けられるように痛くなるなら、心は胸にあるんじゃないか。
脈打つ心臓が心なんじゃないかという結果に落ち着くのは、自然な結果ともいえます。

しかし技術が進化し、脳の方が重要かもしれないという事が分かってくる。
また、心臓移植など、心臓を入れ替えても意識が途切れなかったり人格が入れ替わらないとするなら、心は心臓には無いかもしれないという事になってきます。
ですが、心というのは主観的なものに過ぎないので、心臓移植をした人間の心は、実際には入れ替わっている可能性もあります。 人格が入れ替わっていないように思えるのは、脳に蓄えられている記憶のせいで、主観としての心は心臓が変われば変わるのかもしれませんが…
先程も書きましたが、心は主観的なものに過ぎないので、これは本人にしか分からない事ともいえます。

しかし、これから更に技術が進化し、心臓が人工の機械のもので置き換え可能という事になれば、これは決定的な事となります。
人が部品を組み合わせて作り上げた人工心臓という商品には、おそらく心は宿っていはいないでしょう。 それで代用可能ということになれば、心臓には心が無い可能性がかなり高まります。

では、心は何処に宿るのか。
私の親戚には、交通事故で大量に血を失った叔母がいます。 幸いにも、迅速に病院に運ばれた為に輸血を受けた事で一命をとりとめて、今でも普通に後遺症もなく生きているわけですが、私の父の話によると、叔母は事故後に性格が変わったそうです。
この性格の変化は、心が血に宿っていて、それを入れ替えたから起こったのか。 それとも、事故という強烈なショックを受けたことで、性格そのものに影響が出てしまったのか。
これも主観的なことなので、他人が判断できることではないのですが、同じ様に更に技術が進み、人工血液が出来ればどうなるのか。

この延長線上で考えていくと、全身機械の人間の心は何処に宿っているのかという話になります
サイボークやアンドロイドが登場するような作品では、脳を残して全身機械なんてキャラクターが登場します。 今回取り扱っている銃夢もそうです。
脳しか生身じゃないのにも関わらず、それでも人間らしさを維持しているとするのならば、人間の心や意識といった重要な部分は脳に宿っていると考えても良いでしょう。

ですが、物事はそれほど単純でもないように思えます。
普段おとなしい人間が、自動車に乗ると高圧的な人間になるという事は珍しくありません。同じ様に、銃などの武器を手にする事で自分が強くなったような気になる人もいます。
自分が乗り込んでいるものや所有しているものといった、自分の体の延長線上にあるものも、自分の体の一部と考えてしまい、意識が支配されてしまうという事は日常的に存在します。

こうして考えると、生身の脳で全身サイボーグの人間は、機械で作られた強靭な肉体を自分の体としているわけですから、機械の体の能力に意識が引っ張られるという事もありそうです。
つまり、人間の意識とは『脳』という特定の部分に宿っているわけではなく、自分が置かれている総合的な環境によって発生しているようなものとも考えられます。

脳を機械化した人間は人間なのか

先程少し名前を出した攻殻機動隊という作品の主人公である草薙素子もそうですが、脳を電脳という機械に改造した人間は、果たして人間なのでしょうか。
意識は他人からは観測不可能なので、本人が『意識がある』と言い張れば、それを完全に否定することは不可能です。
脳を徐々に改造していき、完全に機械化を終えたとして、その期間を通して意識が途切れずに存在し続ければ、その本人にとっては『この私は、今も変わらず私であり続けている』という事になるのでしょう

では、もっと過激な考え方をしてみましょう。
銃夢の世界に出てくるザレム人は、聖人を向かえると頭に刻印を刻むという儀式を行います。 その刻印を持って正式なザレム人といえるので、ザレム市民は自ら進んで、このイニシエーションを受けることになります。
しかしその儀式の実態は、人間の脳を取り出して、脳と同じ役割をするチップに置き換えることです。

そのチップには、脳に蓄えられていた情報を全てコピペされている為、当の本人は、自分の脳が取り出されたという事に気が付かずに、儀式を終えることになります。
その後も、今までと同じ様に暮らしていくわけですが…  彼らは果たして人間なのでしょうか?

脳を徐々に改造していき、自分の意識を保った状態で電脳に変える場合とは違い、脳から情報を吸い上げてチップにコピペし、チップの方だけを脳に戻した場合、脳は相変わらず存在し続けるわけです。
その脳を、クズ鉄街に持って行ってボディを与えれば、その脳は人間として普通に生きるわけです。
仮に、脳の代わりを務めるチップが完全に脳の役割をこなすことが出来たとしても、この状態を持ってコピーされた者は人間と呼べるのでしょうか。

クズ鉄街の人間は、体は機械で脳だけ生身ですが、ザレム人は、体が生身で脳だけ機械。 果たして、どちらが人間なのか、それとも、どちらも人間なのか、そうではないのか。
体の何%を機械に置き換えれば人間ではなくロボットなのか。 それとも、置き換えるパーツが重要なのか。
これを考えるのって、人間にとって最も重要なものは、何処に宿っているのかを考えることになる為、かなり哲学的だと思います。

狂気のディスティ・ノヴァ

映画版では分かりやすい悪役として描かれていたノヴァ教授ですが、ノヴァが狂った実験を繰り返す理由が、このザレム人に対して行われる儀式です。
ノヴァは、自分の脳が人口のチップだという事を知ってしまったが故に、カルマの研究に没頭します。

カルマとは、自分が行ってきた事であり、自分が歩んできた人生が、下す決断に影響を与えるという理論です。
決定論的な世界は、キッカケが有って結果が生まれ、結果がキッカケとなって更なる結果を生むという、縁起の法則や因果律と呼ばれる法則によって動いています。

脳を人口チップに置き換えることが可能ということは、それを発明した者は、人の意識が下す決定プロセスを解明したということであり、それは、人の心や意識も、物理法則と同じ様に決まった法則で動いている事を突き止めたということでもあります。
人の意識が下す決断が、特定の環境下では決まっていて固定されているものであるのならば、人の意識には自由意志はなく、固定された因果の中を歩いているだけという事になります。

『人間の意識は、決まった法則のもとで固定された決断をしているだけなのか。』『自由意志は存在しないのか。』
ノヴァは、人間に自由意志が存在することを証明するために、精神的質量が高い人間に理想の体を与え、自由に行動させることによって、カルマを克服させようとします。
自分自身が起こした行動に縛られずに、本当の意味で自由に歩くことが出来て初めて、人類はカルマの鎖から解き放たれて、本当の意味で自由になれる。

人間が作る機械には、様々な限界が設定されているわけですが、それでも脳の代用品である脳チップが完成したという事は、人間の意思決定プロセスには限界があって、決まった行動しか取れないという前提のものであって、もし、生身の脳を所有する何者かが、カルマの鎖を断ち切ることが出来れば、限界はないことになる。
自然から生まれた人間という神秘性は保たれる事にもなる。

これは同時に、脳チップ人間であるノヴァ自身の否定にも繋がりますが、それでも、人間の中に可能性を見出したいというのが、ノヴァの研究動機だったんでしょう。
この問は、突き詰めれば『人間とは何か。』という問いに繋がり、SFの王道ともいえるテーマになっているわけですが、これを物語の中に自然に盛り込んでいる辺りが、何度読み返しても関心してしまいますね。

改めて読み返すと、銃夢(無印)の最終巻が発売されたのが1995年。。 windows95が発売した年に書かれた作品なのに、ハッキング戦とかやってて、やっぱり凄いなと思う作品でした。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その6

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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善悪の区別がつかない民衆

民衆が、感情に支配されて悪いと思っていてもやってしまうような行為は、例えば『美味しい』という感情に支配されて暴飲暴食をしてみたり、性欲に負けて風俗に通ったりといったケースが考えられます。
彼らは、暴飲暴食や風俗通いが悪い事だと理解していないわけではありませんが、感情に支配されてしまっている状態では、これらの行為を止める事はできません。
では彼らに、それらの悪い行動をやめてもらう為には、どうすれば良いのでしょうか。

民衆に対してこの様な質問をした場合は、快楽によって起こした行動の先にある悪い事の具体的な事例を正しく知る事だと答えるでしょう。
例えば、暴飲暴食を繰り返したら糖尿病になって、後々、食べ物の制限をされてしまうだろうし、ひどい場合には、まともに歩けなくなるし、目も見えなくなるでしょう。過度のアルコール摂取の場合は、肝臓を悪くして、先程と同じように制限された生活をおくることになるでしょう。
風俗通いも、それによって愛情が得られることはなく、性欲という一時的な欲望は満たされたとしても、その後、何とも言えない虚しさがこみ上げてくるだろうといった事が分かれば、間違った行動はしないと思っています。

民衆が考えている事は、その事柄に関するトータルのメリットとデメリットだけで、トータルのメリットが大きければ行うし、デメリットが大きければ実行しない。
ただそれだけのシンプルな思考で、多くの民衆がその様に考えているだけで、他の方法は想像すらしていません。これは、当時の民衆だけでなく、私も含めた現在の民衆の多くも、この様な考えを持っていると思われます。
しかしソクラテスは、プロタゴラスに寄り添う形で理論を展開し、物事はそれほど単純ではないのではないかと推測します。

この、一見すると分かりやすい意見の何処に否定する要素があるのかというと、民衆にはメリットと、その後襲ってくるデメリットを正しく捉えることが出来ず、度々計算間違いをしてしまうからです。
何故、その様な計算間違いが起こるのかというと、タイムラグです。

例えば、暴飲暴食をして体調を崩すとか、太った事で膝を悪くしてしまうというのは、結構分かりやすいことです。
2つの現象が直結して起こっているという事が直感で分かりやすく、相関関係と因果関係が誰にでも理解できるから、暴飲暴食は悪い事だと捉えやすいという事です。
しかし、この相関関係や因果関係が、全ての事柄に置いて分かりやすくなっているのかというと、そうとはいえません。

何十年という長い年月をかけて悪い状態になったり、相関関係や因果関係が複数のものと複雑に絡み合って、何がどの様に悪い行動なのかが一目で分かりにくいという事もあるでしょう。
この様なケースでは、人は錯覚に陥ってしまうために、メリットとデメリットを正しく比べることが出来ず、計算間違いをしてしまいます。

例えば、自分が今、広い空間に立っていて、自分の現在いる場所から距離が離れれば離れる程、時間的に遠くに行くと想像してみてください。
その空間には自分を中心とし、放射状に様々な道が存在していて、その道の先には、メリットやデメリットが転がっているものとします。
良い人生を選ぶとは、自分の周りに沢山存在する道の中から、メリットが多い道を選ぶ事です。

しかし、数ある道にそれぞれ転がっているメリットやデメリットは、それぞれが同じ大きさをしていません。小さいなメリットをいくら足し合わせても釣り合わないような大きなデメリットも存在しますし、その逆も存在します。
その為、単純に数を数えるといった手段では、正しくメリットとデメリットを計算することは出来ません。 それをする為には、それぞれの大きさも正しく知る必要が出てきますが、ここで問題が出てきます。
というのも、物体というのは、自分の位置から離れれば離れる程に小さく見えてしまい、近づけば近づく程に大きく見えてしまうからです。

この例え話に置いて、距離は時間に置き換えて考えますので、遠くに有るものというのは遠くの未来を意味し、近くにあるものは時間を経ずに直ぐにでも手に入れられるモノと考えます。
そうすると、プロタゴラスの主張している事が理解しやすいと思います。

遠くに有るデメリットは遠くに有るが故に、その大きさが分からずに小さなものだと錯覚してしまい、近すぎる位置にあるものは、近すぎるが故に、全体像を把握しにくい。
結果として、メリットとデメリットの大きさを正しく測ることが出来ずに、遠くに有る大きなデメリットを小さなものだと錯覚して計算してしまい、自分の進んでいる悪い道を良い道だと錯覚してしまう。
これは逆も同じで、目の前にゴロゴロとデメリットが転がっていているけれども、その先にはとてつもなく大きなメリットが有ったとしても、遠すぎるが故に、そのメリットに気が付かなかったりしてしまう。

これは、メリットとデメリットを物体ではなく、音や声のようなものと考えても同じです。 近い場所で発生した音は大きく、遠い場所で発生した音は小さく聞こえる為、その音そのものの大きさを比べるのは至難の業です。
民衆はこの様にして、メリットとデメリットの大きさを測り間違えてしまい、正しい道を選ぶことが出来ないということです。

しかし、正しい知識を得る事で。この場合、どれぐらい距離が離れれば、物体はどれぐらい小さく見えるのかと行った知識や、それを測る技術を身に着けることで、それぞれのメリットとデメリットの大きさを正しく把握することが出来ます。
正しく見極める知識を持ってさえいれば、近くに転がっているメリットに目が眩んで、欲望に支配されるなんて事は起こらない。
仮に、欲望に目がくらんだとしたら、それはその者に知識が足りないという証拠であり、正しい知識を身に着けたものにそのようなことは起こらないといえます。

ソフィストとは、それを見極める技術を持ち、他人に教える教師のことですが、民衆はこの事を理解せずに、進むべき『善い道』とは、教えられないような知識とは別のものだと思い込み、結果として、自身がソフィストに学ぼうともせず、子供に習わせようなどとも思わない。
民衆には、正しい見極めを持つ知識を持たないのに、その事を重要視することもなく、目先の損得にとらわれて感情的になってしまうような人間ということになります。
自分自身の無知を認め、お金さえ払えば自分の知らない知識を与えれくれるソフィストを頼ることもせず、胡散臭い技術を教えていると誤解して、自身の金の心配をしてソフィストから距離を取ろうとする民衆は、仮に自滅したとしても自業自得だという事なのでしょう。

理性的な人間とは善い道だけを選ぶ

先程のソクラテスが推測をしたプロタゴラスの主張(プロタゴラスからの反論はない)を踏まえた上で、もう一度、『快い事』であるとか『悪い事』を考えていきます。
ソクラテスの推測によると、プロタゴラスが教える知識とは、先の未来まで見通した上でメリットやデメリットを把握し、それらを比べる事で最良の道を進むことが出来るというものでした。
もし仮に、このようなことが実現した場合、人は数多くの選択肢を突きつけられた際に常に正解を選択できるでしょうし、もし、何らかの事情で悪い道を歩くことになったとしても、直ぐにその道を別の道に変えようと行動するでしょう。

正しい知識を得たものは、自分自身から湧き出た一時的な感情に支配される事はなく、既に持っている知識によって理性的に動くことが出来て、結果として最良の道を選ぶことになります。 つまり、本能を抑え込んで理性のみで動けるということです。
今、自分が歩んでいる道よりも更に良い道が見つかれば、自身の実力や環境を踏まえた上で道を乗り換えるでしょうし、悪い道を選ばざるを得ない場合は、もっとマシな道を見つけるように行動し、自分自身をマシな状態にしようとするでしょう。
正しく知識を収めるものは、自らの意思でデメリットに飛び込んでいくような真似はしないという事になります。

つまり、この道を進むと恐怖が待ち受けているという道があった場合、知識がある人間はそれを正しく認識し、その恐怖を避ける道を選ぶために、そもそも恐怖といったものに遭遇しない。
これは、恐怖以外の不安など、マイナスの感情を含む事柄も同じで、知識があり、マイナスの事柄を見分けられる人間は、自ら、その選択肢に飛び込むなんてことはしないという事です。

自分が行く先に、プラスとマイナスがある場合、知識ある人はプラスを選ぶでしょうし、小さなマイナスと大きなマイナスがある場合は、知識ある人は小さなマイナスを選ぶでしょうし、今よりもより大きなプラスがある場合には、知識ある人は当然のように、そちらの道に乗り換えます。
例え、自分が今まで進んできた道に愛着があったとしても、知識を持つ人間は、その感情に打ち勝って理性的な判断を行って、より良い道に行くことが出来るはずです。
理性的な人間は、どんな時であっても、善い道を歩むことを優先し、目の前に善悪があった場合には、悪を選ぶようなことはしない。

このマイナスの感情という部分に恐怖を当てはめても、これはそのまま通用し、目の前に小さな恐怖と大きな恐怖がある場合、正しい知識を持つものは敢えて大きな恐怖に向かって行くという行動は行わないことになります。

勇気について(再)

プロタゴラスは、徳を構成するとされている5つの要素の中で、勇気だけが、他の4つ(知恵・節度・正義・敬虔)とは別の声質を持っているからだと主張し、その理由として、知恵も節度も経験もなく、正義もないのに勇気だけ持ち合わせている輩がいるからと説明しました。
ですが、これまでの議論を振り返ってみると、知恵や知識を持たないのに、ただ大胆な性格であるがゆえに危険の中に身を投じる様な人間は『勇気ある者』とは言わない事が分かりました。
では、対象に対する知識を深めればどうなるのかというと、知識を深める程にリスクは少なくなっていきます。(リスクとは不確実性)

先程の同意に従えば、知識ある理性的な人間というのは、物事を正しく見定めて判断できるわけですから、危険な状態に飛び込むという事はありません。
仮に飛び込むという判断をした場合は、その対象が危険である可能性が低いと分かっているから飛び込む為、大胆さは必要がない事になります。
物事を正しく認識して、危険だという判断をした人間は、その対象には近づかずに距離を取るという方法を選びます。 

この距離を取るというのを、別の言い方をすれば『逃げる』という事になるわけですが、では、知識を持つものが逃げた場合は勇気がある事になり、知識がない人間が臆病であるがゆえに逃げた場合は臆病ということになるのでしょうか。
これに対してプロタゴラスは、臆病なものが勇気のあるものと同じ『逃げる』という行動を取った場合でも、その動機が違う為に、臆病なものの事を勇気あるものとは言わないと否定します。

例えば、当時では戦場に向かう事は立派な事だとされていますが、確実な負け戦で、出陣すれば死ぬ事が分かっている戦場に赴くのは、先程の同意からすれば、悪い事という事になります。
その為、戦争に参加しない、もしくは逃げるという選択が理性的な考え方という事になるわけですが、臆病な人間が同じ決断をしたとしても、それは動機が違う為に、立派な行動とは言えないというわけです。
勇気あるものの決断は、例えその判断の中に恐怖から逃げるという理由をはらんでいたとしても、立派な決断として褒め称えられるべきだが、臆病なものが出した決断は、みっともないものだというわけです。

しかし、この理屈に沿って考えていくと、勇気とは、恐怖の対象への知識の差ということになります。
戦場に行くという行為に対して、無知のまま怖がれば、それはみっともない事になり、臆病者になってしまいますが、正しい知識を持った上で撤退すれば、それは立派な行為ということになります。
知識のない人間が偶然によって選択した結果、正解を引き当てても『みっともない行為』となり、知識がある人間が確信を持って選択すれば、選択した結果が無知なものと同じであっても勇気ある立派な行為と呼ぶ。

臆病なものは、臆病であるが故に、常に安全な道を選ぼうとしますが、勇気ある者は、その者が備えている知識によって向かうべき道が安全な事を分かっているから、その道を進んでいく。
どちらも、安全な道を選択して進んでいるわけですが、これは同じ様に評価はされないということです。

これらの事をまとめると、勇気という概念は、恐怖の対象に対する知識をどれだけ持っているのかという事になります。
ソクラテスは、同意の得られた事をまとめる事によって、勇気とは知識や知恵のようなものだという結果にたどり着いたのですが、プロタゴラスは、どうも納得がいきません。
しかし、プロタゴラス自身も同意した内容によって出た答えなので、プロタゴラスソクラテスの主張に渋しぶ同意します。

プロタゴラスの主張では、勇気は知識とは性質が違うという主張でしたが、一つづつ分解して考えていくと、勇気と知識は同じもので、恐怖や不安などの特定のマイナスの勘定に対する知識の有無が勇気の有無ということになってしまいました。

徳とは教えられるものなのか

議論が終わり、プロタゴラスは自身の主張を否定されたような形で、そして、ソクラテスは自分の主張を押し通したようにもみえて、討論はソクラテスの価値のように思える内容ですが、面白いのはここからなのです。
それは、ソクラテスの口から指摘されることになります。

ソクラテスプロタゴラスが討論を始めたキッカケまで遡ると、もともとは、徳とは教えられるものなのか、教えられないような才能のようなものなのかというのが発端でした。
ソフィストであるプロタゴラスは、自身が得を教える教師だと名乗ってお金を稼いでいますから、当然、徳とは知識のようなもので教えられると主張し、ソクラテスがその主張に対して疑問を投げかけたのが、この議論の始まりです。

しかし、議論を終えてみると、最期に巻き返して攻め込んでいるソクラテスは、『徳を構成している勇気は、才能のようなものではなく、知識である』と主張し、それに対するプロタゴラスは、ソクラテスの意見に反対したいが為に、『勇気は知識のような教えられるようなものではない』と頑なになっている様子がわかります。
つまり、対話をして意見交換をする前と後とでは、両者の意見が完全に入れ替わっているわけです。

ソクラテスは、対話の中で勇気は知識だと確信を得たから論破しにかかったわけではなく、プロタゴラスと確かめた同意内容をまとめた事によって、自分自身が最初に抱いていた思いとは逆の結果に辿り着いてしまったというわけです。
結果としては、この対話を持って勇気と知識は同じものだと結論付けるものではなく、勇気を理解していると思いこんでいたプロタゴラスは勇気の本質を誤解していたという事を知り、ソクラテスは、徳が教えられるような性質のものかもしれないという可能性を得ただけとなっています。

今回の対話で、徳の正体についての結論が出るわけではありませんが、哲学そのものが、『卓越性とは何か』を考え、どのようにすれば『幸せ』に到達できるのかという、未だに答えが出ていない問題に対して自分自身で考えることなので、この対話編そのものが、読者に考えることを促すような作りになっています。
6回に渡って書いてきた私の解釈ですが、プラトンが書いたものの日本語訳とは違ったニュアンスで書いている為、これだけを読んだとしても誤解をする可能性もあると思いますので、興味を持たれた方は、参考文献として紹介しているものを読まれることをおすすめします。

参考文献

【映画ネタバレ感想】『アリータ・バトルエンジェル』原作から哲学要素を抜き取ってアクション映画に仕上げた感じ?

先週末のことですが、『アリータ バトルエンジェル』を見てきました。


この作品は、木城ゆきと氏が描いている漫画『銃夢』を原作とする映像作品です。
私は、中学時代にこの作品を知り、そこから今現在も読み続けている大好きな作品の一つです。
この作品を知った事で哲学に興味を持ち、趣味で哲学系のコンテンツまで作る事になってしまったキッカケとなる作品だったりします。

簡単な感想

一言で感想を書くと、アクション映画としては大変楽しめた作品でした。
モーターボールやグリュシカ戦(原作マカク)など、原作の前半部分でアクション的に面白そうな部分を寄せ集めてきた事で、スピード感溢れる作品になっていて、飽きさせない作りになっている。

バトルによるアクションだけにならず、ヒューゴとの恋愛要素も上手く物語に組み込まれていて、誰にでも楽しめるような作りに仕上がっていたのは、流石だなと。
原作ファンを喜ばすようにか、細かい設定部分も忠実に再現していたりね。

例えば、クズ鉄街を出た時に、街を囲む兵がゼリー状のものが吹き上がってるものになってたり。
あの設定って、原作でも1シーンしか出てない上に、それほど注目された部分でもなかったのに、その部分をCG使ってまで再現してるってのは、こだわりを感じますよね。
こういうこだわりを持って作っているからか、メインの舞台となるクズ鉄街も結構いい雰囲気が出ていたりします。(少しきれいすぎる気もしましたが)

ストーリー的には、設定だけを残してストーリーを1から構成した作りになっている為、原作ファンの中には不満を持つ人もいるのかもしれないけれども、2時間の枠で話を決着させなければならないため、この様に変えられたのも仕方のないことかもしれないと思いました。
個人的には、イドの奥さんという新キャラが必要なのかとも思いましたが、後に調べてみると、今回の映画は銃夢の漫画版の映像化ではなく、OVAの実写化のようで、OVAの方にはチレンも登場しているようなので、これはこれで良いのかなと。

簡単なストーリー (ネタバレあり)

サイバネ医師のイドが、空中都市ザレムから投棄されているゴミ山から一人の少女の頭部を見つけ出す。
頭部を残して体の大部分はない状態だったが、幸い、脳が無事だった為に自分が経営する病院に連れていき、自分の娘の為に作った体とアリータという名を与え、自分の娘のように育て始める。
この時に、イドの知り合いとしてヒューゴとも出会い、互いに少し意識し出す。

何の不自由も無く、イドの娘として自由に暮らすアリータだが、イドが夜な夜な変わった格好で出ていくのを目撃し、何をしているのかが気になって後をつけていく。
すると、大きなハンマーを持ち、女性を待ち伏せしているイドを発見。 この時は、女性を狙った連続殺人が話題に鳴っており、状況から見てイドが犯人だと思ったアリータは、イドを止めるが、実際にはイドは犯人ではなく、連続殺人犯を追っていた賞金稼ぎだった。
3人の犯罪者がイドとアリータを囲み、絶体絶命の状態になるが、アリータが突然、武術で応戦し、それと同時に過去の記憶が少しだけ蘇る。

戦いに身を投じると記憶が蘇るかもしれないと思ったアリータは、賞金稼ぎになりたいと言い出すが、イドはそれに反対し、アリータが反抗期に突入する。

イドと仲違いし、精神的に行き場を失ったアリータは、ヒューゴと共に過ごす時間が増え、二人の距離が急速に縮まっていき、ヒューゴはザレムに行くことが夢だと打ち明ける。
ザレムに行く方法は、ザレムと地上の橋渡しをしているベクターという人物が握っているらく、ヒューゴは彼とつながっている。
ザレムに行くには100万チップ必要だが、普通の稼ぎでは長い年月がかかるので、ヒューゴはベクターの裏稼業を手伝って犯罪を犯すことで稼ぎを得る。

このベクターという男は、アリータが武術に目覚めたきっかけとなった犯罪集団ともつながりがある人物で、犯罪履歴を消せるほどの影響力を持つ人物。
そして、イドの元妻のチレンとも、ザレムにいるノヴァとも繋がっていたりする。

ノヴァは、300年前の失われた技術で作られたアリータの動力源である心臓を求め、ベクターやチレンを使って奪おうとする。
当然、ベクター経由で部下のヒューゴも利用し、アリータをモーターボールの試合に出るように仕向ける。

ラストバトル突入という感じ。
実際には、これらに加えてザパンとの確執なども入ってくるのですが、そこまでの細かい紹介はしないので、興味のある方は映画を見ることをおすすめします。

少し気になった点 (ネタバレあり)

映画に対する全体的な感想としては、最初に書いたように、アクション映画としては楽しめましたが、少し気になる部分もありました。
それは、銃夢という作品のコアと表現しても良いような、哲学的なテーマが抜け落ちている事です。
銃夢という作品は、確かに格闘アクション要素が強い作品ではありますが、そこはメインではなかったりします。

『人間とは何なのか。』
『人が作り出した社会とは何なのか。』といった、哲学的なものが物語の中心にあって、格闘要素はスパイスに過ぎないというのが私の認識なのですが、今回の作品では、それらの哲学的テーマが完全に抜け落ちていて、格闘アクションよりの作品になってしまっている印象がありました。

その最たるものが、ノヴァという存在だと思います。
今回の映画作品では、絶対悪としてのノヴァが登場し、いわゆる悪者に属する人達は全て、ノヴァの手下ということにされています。
ザレムという、クズ鉄街の人々を上から見下す様な存在の都市が存在し、その代表的な人物であるノヴァが、地上の強欲な人々を操るといった感じの表現がされていて、その絶対悪のような存在を、正義の味方のアリータちゃんが武力で反抗するといった感じの展開に改変されていたのですが、その部分に関しては、かなり残念でした。

というのも、実際のノヴァ教授はどの様な人物なのかというと、『ザレム人の秘密』に気がついてしまい、『人とは何なのか。』という人類にとっての最大の原因を追求しようとした科学者です。
カルマ理論というのを打ち立て、人間の意志は何らかの法則に従って動くような機械的なものではないことを証明しようとし、意志の力が強いものとコンタクトを取り、相手が望む物を与えた上で、その行動を観察するといったことを研究として行っている人物です。
人間が、特定の条件下では同じ行動しか取れないという因果の法則を打ち破ることが出来れば、その時、人は初めて、因果の鎖から解き放たれて自由に歩めるという、かなり哲学的な研究内容である為、褒美をチラつかせたり恐怖によって他人を支配して、自分の思い通りに動かすという事は絶対にしない人物だったりします。

その様な人物である為、原作の方ではノヴァと手を組むことも何度か有ったりと、単純な悪者といった感じでは無いわけですが、今回の映画では、ノヴァという悪者がザレムにいて、そいつを倒す為にザレムに行く。 その為に、モーターボールでチャンピョンを目指すという感じのラストに鳴っていた為、なんだかな…と思ってしまったり。
(映画内では、下界の人間が唯一ザレムに行く方法は、モーターボールのチャンピョンになる事。)
(ザレム出身で、イドの元妻のチレンという人がパーツにバラされた時に、脳が普通に存在していた為、映画版では、『ザレム人の秘密』そのものが、なかったコトにされているのかもしれませんが…)

また、映画ではノヴァの使いっ走りとして登場したベクターさんも、原作の方ではもっと人間味溢れる人物だったりします。
確かに、グレーや法に抵触するような事にも手を染めるような人物ではありますが、心の底では治安が崩壊しているクズ鉄街を良くしたいとも思っている人物で、自分が影響力を付けることで、それを実現しようとも思っている人物だったりします。

その為、妙にカリスマ性があり、物語の重要な箇所で出てくる人物でもあるのですが、映画の方ではノヴァの使いっ走りとして出てきた上に、アリータに殺されてしまうという、何とも悲しい最後でした。

他に気になった点としては、ダマスカスブレードの入手のくだり。
元々はザパンのものだったものを、アリータが奪うという形で手に入れるのはどうなのかなと。 しかも所有者のザパンは『失われた技術で作られた古代の兵器』的な事を言って見せびらかしていたわけですが…
原作のダマスカスブレードは、モーターボール編で世話になるチームの人が用意してくれる代物で、クズ鉄街の刀匠が作った逸品です。

ダマスカス鋼は、あらゆる金属を混ぜ合わせた合金で、ゴミ溜めといわれているクズ鉄街でしか作ることが出来ない代物。
純粋過ぎる気持ちを持つガリィ(アリータ)に対して、『純粋な鋼は、その純粋さ故に、案外、脆んだそうだ。 だが、そこに不純物が入ることで、鋼は強度と粘りを得る。 つまり、不純物が鋼に命を吹き込むんだ。』と、どんな経験でも糧になるというメッセージを込めて渡される代物で、クズ鉄街の代名詞的な存在なんですが…
それが、『失われた技術』で作られてて、しかも人から奪ったら、意味ないような気がしてしまいました。

(画像は全てアマゾンリンクです)

映画のラストシーンでは、ダマスカスブレードをザレムに向けて、ノヴァに対して『首を洗って待っとけ』的な感じで睨みつける終わり方でしたが…
このシーンも、クズ鉄街の代名詞的な存在のブレードを掲げていれば、メッセージにより意味をもたせる事が出来たのにと思ってしまいました。

原作が好きすぎるので、色々と細かいツッコミや愚痴を書いてしまいましたが、最初にも書きましたが、アクション映画としては楽しめる作品に鳴っている為、SFやサイバーパンクに興味がある人は見てみれば良いと思います。

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その5

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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アレテーについて(再)

プロタゴラスが主張するアレテーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。
人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念をアレテーだといいます。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、それぞれの位置や形状によって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。

この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアレテーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といった徳を構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った声質を持っているのかといった議論の続きが行われます。

プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているが、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度もなく不敬虔で不正にもかかわらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるからです。

勇気だけが全く別の性質を備えているということなので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。
ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画『覚悟のススメ』では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事と定義されているので、多くの方がこの様な考え方をされているのでしょう。

この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』、相手の脅威を知らない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかと質問をする。
つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知恵が無い大胆な者の行動を勇気とは呼ばないと否定する。

しかし、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知恵に依存したものという事になってしまいます。
先程の主張では、知恵や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知恵に依存するものだというのは、少し違和感を覚えてしまいます。
また、勇気には知恵が必須だという事は、知恵があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけのリスクがあるという事が分かり、安全だと確信を持って突入していく場合は、どの様になるのでしょうか。

例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。
しかし私自身に、その出来事をノーリスクで解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。

また、知恵があるからこそ、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行為を行うという動機は知恵に先導されていることになる為、結果として、勇気の有る無しは知恵の有る無しに左右される事になる。
勇気というものが、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在とした場合、この両者には主従関係が存在し、『知恵』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。

勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、知恵と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは最初、徳を構成するものの中で知恵・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知恵と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。

しかしプロタゴラスは、この主張を認めません。
というのも、これと同じ様な考え方をしてしまえば、例えば、『強さ』や『力』といった、一見すると知恵とは正反対になるようなことも、実は知恵の一種だったということになるからです。

例えば、柔道の知識を持たない人間よりも、その知識を十分すぎるほど持っている人間の方が、戦った際には有利でしょう。
柔道に限らず、ボクシングや剣道など、格闘技や武術の知識を持った状態で訓練をした人間のほうが、それをしない人間よりも『強い』といえるでしょう。
仮に『知恵』や『知識』がなければ、正しい技術が身に着けられないとしてしまえば、全ての技術を伴うものの優劣は、知恵の有無によって決まってしまうということです。

つまり、家を建てるのも、車の運転をするのも、料理をつくるのも、全ては『知恵』や『知識』の有無によって決定する為、あらゆる事柄を知恵に集約させてしまうことが出来てしまうというわけです。

しかし、プロタゴラスはそうとは考えず、この様に主張します。
例えば、有能で優れた人間は強さや強靭さを持っているかと聞かれれば、私は持っていると答えるだそう。しかし、強さや強靭さを持つもの全てが有能で優れた人間かと聞かれれば、私は同意しないだろう。
これと同じで、先程は、勇気のある人間は、物事を怖がらない大胆さを備えているかと聞かれたから、私は同意したに過ぎず、仮に、質問が逆だったとしたら、私は同意しなかっただろう。

つまり、物事を怖がらない大胆さを備えている人間は、全て、勇気のある人間かと問われていたなら、私は否定しただろう。
何故なら、知識や経験や深く考える能力などが欠如していて、自分がどれほどの窮地に立たされているかを知らない人間は、その者の能力が低いが故に、怖がるということをしないからだ。
この様な人間が勇気のある人間かと問われれば、そうではないと答えていただろうと。

プロタゴラスは、勇気が成立する為には、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと考えていますが、単純な知識や知恵にはそれが無いから、同じものではないと主張しています。
もし仮に、知恵や知識と勇気が同じものであるとするならば、勇気は勉強すれば身に着けることが出来ることになります。
しかし、本当に勉強によって勇気は生まれるのでしょうか。 自分の身が危険に晒されたとしても、何かを守らなければならない場面に直面した時、体が動くのは、よく勉強をした人間なのかと聞かれれば、疑問が湧いてきますよね。

快楽とは良いものなのだろうか

話題を変えて、ソクラテスは、苦痛に満ちた人生を送る事は悪い事で、心地よい人生を歩む事は良い事かどうかをプロタゴラスに訪ね、同意を得る。
その後、快く生きて人生をまっとうする場合は、良い人生かという質問をするが、プロタゴラスはこれに対して同意はするが、『自分が行った立派な事に対して、気持ちよさを感じる人間であれば、良いと言える。』という但し書きを入れる。
ここまで散々、ソクラテスに揚げ足を取られた感じになっているプロタゴラスは、警戒し、注意深く言葉を選んでいることがよく伝わってくる返答です。

この返答に対してソクラテスは、気持ち良いことの中に、善悪があるとか、大衆みたいなこと言わないで、快い、苦しいと感じた後に、どのようなことが訪れるかは置いておいて、そう感じる事柄一点だけに絞って考えてみて欲しいと頼みます。
しかしプロタゴラスは、この質問に対して『そんな単純な事柄ではない。』と主張し、ソクラテスの口車には乗りません。

このやり取りを具体例を交えて考えてみると、例えば、手っ取り早く快楽を得たいと思うのであれば、今の時代なら違法ドラッグを手に入れるという方法があります。
お金さえ払えば、楽に快楽を手に入れることができるわけですが、では、ドラッグを継続的に摂取し続ける人生は良い人生といえるのでしょうか。
ドラッグを定期的に打ち続ける事によって、体はボロボロになるでしょうし、警察に見つかれば、犯罪者として扱われるでしょう。

ここまでハードなケースで考えなくても、例えば、食べ物を食べることに快楽を覚える人は、その欲望に任せて食べ物を食べ続けるという行為は良いことだからと、肯定されるべきなのでしょうか。
逆のケースで考えるなら、何らかの怪我や病気になった際に、治療と称して苦痛を受け入れなければならない事もあります。
苦い薬を定期的に飲まなければならなかったり、手術の為に体の一部を切除しなければならないといったケースですが、この様なケースは、苦痛を伴うという一点に置いて、悪いことといえるのでしょうか。

知識とは何なのか

『快楽とは善なのか』というものを考える為に、ソクラテスは知識について、プロタゴラスがどの様に考えているのかを知ろうとします。
そもそも、知識とは何なのか。 知識には、人を支配する能力があるのだろうかと。
大衆は、知識には人を支配するといった大層な能力は無く、人を支配するのは、その他の何か。例えば、『恐怖』『怒り』『快楽』といった、本能的なものを利用して支配が行われると思っている。
それらの、抗うことが出来ない本能的なものを利用する事で、人は他人を奴隷のように支配できると漠然と思っているが、賢者であるプロタゴラスも、同じ様に考えるのかと質問をします。

何故、この様な質問をしたのかというと、それは、プロタゴラスが他人にアレテーを教える教師という職業だからでしょう。
アレテーとは、それを身に着ける事で他の人間よりも卓越した者になれる存在ですが、それを教えられると主張しているプロタゴラスは、アレテーを知識のように他人に伝授できるものだと主張しているのと同じです。
仮に、アレテーと呼ばれるものが、持って生まれた才能のようなものであるのなら、それを誰かに教える事はできません。 持って生まれた運動神経やら筋肉の作りや骨格を他人に伝えられないのと同じです。

しかし、プロタゴラスの主張では、アレテーは教えることが出来ると主張し、他人からお金を得て授業をするというのを生業としているわけですから、才能の様なものではなく、他人に伝えられる知識のようなものだと主張しているわけです。
アレテーとは、それを身に着ける事で他人よりも卓越した能力を持てる存在で、他の者よりも卓越した優れた者は、カリスマ性などを有して、他人を支配する能力も持つでしょうから、アレテーを持つものは他人を支配する能力が有るといえます。
アレテーを持つものが他人を支配することが出来、そのアレテーの正体が知識のようなものであるなら、知識は、人を支配できるようなものであるといえます。

また、アレテーによって他人を支配した指導者は、ものの分別をわきまえて、何者にも屈しない知識による命令が遂行でき、それによって人々を救うことも可能になるでしょう。
プロタゴラスのスタンスは、大衆が主張するように、知識には大層な力が無いという事はなく、知識は素晴らしい力を持っていると主張しているといえます。

プロタゴラスは当然のように、知識には素晴らしい力があると主張します。
もし、それを否定してしまうというのは、人類として恥ずべき行為で、それをしてしまえば、本能的に動いている動物たちと人間との間に差はなくなってしまうと。

この意見にはソクラテスも同意するが、では何故、民衆は善悪の知識が有るにも関わらず、悪いと分かっている事を行ってしまうのかと疑問をぶつけます。
悪の道に進んでしまう民衆に、『何故、そんな事をしてしまうのか。』と質問をしたら、大抵の場合は、『欲望や恐怖や怒りという感情に押しつぶされて。』と答えます。
民衆は、自分が悪の道に進んでいると理解している状態なのに、一時的な感情に支配されて、その歩みを止める事が出来ないでいます。 彼らを説得するためには、どの様な知識が必要なのでしょうか?

それに対してプロタゴラスは、『何故、民衆を説得しないと駄目なのだ?』と一蹴します。
相対主義プロタゴラスに言わせれば、彼らは彼らの人生を歩んでいるのであって、何故、物事の本質を考えようともしない、口から出まかせをいうような民衆を救わねばならないのかと疑問を思ったのでしょう。
仮に彼らが、自分の行く末を心配し、その事に真剣に悩んでいるのであれば、彼らなりに考えたり勉強をしたりするだろうし、それでも答えが出ないのであれば、プロタゴラスのようなソフィストに習いに行くだろうという事なのでしょう。

しかしソクラテスは、先程、議論が宙ぶらりんになっていた『勇気とは何か』を解明する為にも、その事が重要だとして、プロタゴラスに意見を求めます。
(つづく)
参考文献

PCで使うためにxboxコントローラーを購入してみた

PCでのゲーム体験

去年の年末の事ですが、PCを新たに購入しました。
その時のエントリーはこちら
kimniy8.hatenablog.com

今までのパソコンが、第3世代のi5のメモリが4Gと、立ち上がるのに5分かかってブラウザを動かすだけでメモリ使用量が7割に到達してしまうようなものだったので、我慢しきれずに購入。
普通にネット閲覧するだけなのに、それをする為の待ち時間が7分ぐらいかかると、非常にストレスがかかっていたわけですが、その生活ともお別れ。
起動15秒のストレスが無い生活になったわけですが、この環境を、単に待ち時間を減らすというだけで終わらせたくはありません。

という事で、噂に聞くsteam やら、Microsoft Store で、ゲームを購入したり体験版をダウンロードしてみたりしました。

実際に行ってみたPCでのゲーム体験ですが…
いや、素晴らしいですね!

私は以前はPS4proでゲームをプレイしていたのですが、据え置き機ではかなりのハイスペックのはずの製品ですら、最新のAAA作品の場合だと、能力不足でカクつく場合もありました。
また、普通に動いてはいるけれども、全ての能力をフルに使っているからか、冷却ファンが掃除機のような音を立てて回り続けるという事もありました。

その一方でPCの方は、本当にストレス無くゲームが起動します。
forza horizon 4 というゲームのデモをプレイしてみましたが、4k60fpsでも問題なく動きますし、待ち時間もほぼ感じさせません。
ps4 pro のグラボが、GTX1050 Ti以上、GTX970未満っぽいので、私の購入したPCが搭載しているRTX2080と比べると、2世代前の1ランクしたという事で、当然といえば当然なんでしょうけれどもね。
https://malamente.org/gaming-pc-ps4-comparison/#PS4_ProPCmalamente.org

PCで使用するコントローラー問題

この様な感じで、それなりに重いとされているゲームであってもストレス無く動かせるPCなのですが、一つ困ったことが生じてしまいました。
それが、コントローラー問題です。

家庭用の据え置き機であれば、ハードを購入した際には純正コントローラーがついてくるという事で、全く問題はないのですが、PCはゲームも出来るけれども、基本的にはパソコンです。
私が購入したパソコンはゲーミングPCというカテゴリーですが、それでも、主な用途はパソコンです。
ちょっとした事務作業や、趣味で行っているPodcastyoutubeの録音・収録なども行える上に、ゲームも出来るという機器です。

その為、キーボードやマウスはデフォルトでついてくるのですが、コントローラーは付いてはきません。

ということで、コントローラーを用意する必要があるわけですが、これが予想以上に手間取りました。
私の最初の予想としては、PS4のDS4をパソコンに繋げるだけで認識し、普通にゲームが出来ると思いこんでいたのですが、そうは問屋が卸しません。
確かに、USB接続するだけでドライバーはインストールされ、ワイヤレスコントローラーという形で認識されるのですが、これがゲームに使えない…

厳密にいうと、設定次第で使えるクライアントは有るんです。 Steam や Origin といったクライアントでは、設定を行うことでDS4を認識して利用できるようになるのですが、当然といえば当然なのかもしれませんが、Microsoft Storeで購入できるゲームに関しては、使えないっぽいんですよね。
まぁ、Microsoft Storeで購入できるゲームの多くはXboxのゲームなので、当然といえば当然なのかもしれませんが、Xboxのコントローラーしか受け付けません。

この為、PCでストレス無くゲームをプレイする為には、xbox one のコントローラーを買う必要が出てきます。
しかし、貧乏性な私は、Microsoft Storeで購入するゲームの為だけにコントローラーは書いたくない。 何故って、高いから。
最近のコントローラーは、振動やらワイヤレス機能やらマイク・スピーカーの接続端子やらが付いていて複雑化している為か、やたらと高いんです。

7000円ぐらいという二の足を踏むには十分な価格設定だったりします。
xbox oneコントローラーも同じで、充電キットやPC用のワイヤレス受信機を付けると、1万近い価格になったりもします。


(画像はAmazonリンクです)

これが結構辛い。

MicrosoftのOSだから、xboxコントローラー推奨?

という事で、何とか、手持ちのDS4で済ませる方法はないのかと頑張ったのですが… 見つからず。
厳密にいうと、DS4をxbox oneコントローラーと誤認させるようなフリーソフトは結構出回っているのですが、私のPCでは使えなかったんですよね。
ビデオカードや、NVIDIAが自社のビデオカードを購入した人用に提供している GeForce Experience という、スクショやキャプチャーが出来るソフトを入れていると、偽装が見破られるっぽいんですよね。

GeForce Experienceをアンインストールすれば大丈夫という記事も有りましたが、クライアントに左右されずにゲームのキャプチャーやスクショを撮る機能を無くすというのは、それはそれでキツイものが有ったので、アンインストールは断念。
いろいろ試行錯誤しましたが、結局の所、対処法が分からずに、xbox one のコントローラーを購入することにしました。


購入して、まず驚いたのが、今までの苦労が何だったのかというぐらいにスムーズに導入できた事です。
有線接続の場合は、USBに差し込むだけでセッティングが終了。 これだけで、PCでプレイするほぼ全てのゲームがコントローラーでプレイ可能になります。
これは、Steam をはじめとした多くのクライアントが、コントローラーのデフォルト設定を xbox のコントローラーにしているのが大きいでしょう。

OSがMicrosoftだからコントローラーもMicrosoftで!ってのは分かりやすいですが、PCなんだから、『コントローラーぐらいは、もっと自由に選ばせろよ』と思ってしまったり…
ただ、実際にPCでゲームをプレイしてみて分かったのですが、xbox のコントローラーを基準に作っているのは、windowsというOSだけでなく、ゲームメーカーもそうだと思い知らされました。

つい先日ですが、ダークソウルシリーズのセールが行われていたので、Steam で購入してプレイしてみたのですが、画面に表示されるコントローラーの操作方法は、基本的に xbox が基準となっています。
つまり、『話す際にはA』『キャンセルはB』といった具合に、 xbox のコントローラーを使っている前提で指示されるわけです。
仮に、何らかの方法でDS4でプレイする方法を見つけていたとしても、この様な指示のされ方をした場合は混乱してしまい、ゲームにならなかったかもしれません。
(DS4は、◯□△×)

日本では、『xboxって誰が買ってんの?』とか『家庭用据え置き機で性能求めるなら、PS4一択ww』なんて言われていたりしますが、それは日本だけの事で、世界基準では 事情が違ったりするんでしょうね。
PS4は販売数で xbox にダブルスコアをつけて勝っているようですが、よくよく考えると、windows10 には xbox のゲームが出来る機能が備わっている為、windows機を持っている人間は、実質 xbox を持っているのと同じです。

また、アメリカの場合(ヨーロッパも?)は、主流は据え置き機ではなくPC。 今では、ほとんどのサードパーティ製のソフトがマルチタイトルなので、10万円前後のPCを持っている人間には、据え置き機は要らない。
ゲーマーで、各ハートメーカーが出す独占タイトルがやりたいという場合のみ据え置き機を買うという感じでしょう。
Steam なんかでも、windows の方が対応タイトルが多い為、ゲーマーは windows を買っていると思われる為、Microsoftのシェアというのは、据え置き機の販売数だけでは測れないのでしょう。

xboxコントローラーを使用してみた感想

このような事もあって、PCでゲームをするなら xboxコントローラーがデフォのような状態になっているので、他社メーカーのコントローラーを使おうとすると難儀ですが、 xboxコントローラーを買ってしまうと、誰でも設定できるという状態になっています。
という事で、 xobx one コントローラーを使用してみた感想ですが、これが結構、使い心地が良いです。

PS4のDS4と比べると、十字キーと左のアナログスティックが逆の位置になっていますが、逆になっている事で、十字キーが右手でも左手でも押せる仕様になっていて非常に便利。DS4だと、十字キーは左手でしか押せませんしね。
各ボタンの名称を覚えてないので、ゲームや攻略サイトでボタン名が出てきた時は戸惑いますが、これも慣れなんでしょうね。

一つ不満点を挙げるとすれば、ワイヤレス機能がついたコントローラーを購入し、Bluetoothレシーバーも購入したのに、ワイヤレス接続が頻繁に切れるてんですかね。
解決するために自分なりに調べてみましたが、接続が頻繁に切れるのは皆同じ様で、諦めて有線で使用している人が多かった為、私も有線で使用することにしました。

2000円程度する充電バッテリーを購入したのに、全くの無駄になってしまいました。(有線接続はバッテリーや電池が要らない。USBによる電力供給)
もし、コントローラーの購入を検討されている方は、バッテリーの購入は慎重に考えたほうが良いです。
xbox のコントローラーはバッテリーを買わなくても、ワイヤレス接続は電池で出来る為、電池で試して問題がなければ、バッテリーの購入を考えるほうが良いかもしれません。

(ちなみにですが、バッテリーの購入が全くの無駄だったかというと、実はそんな事もなかったりします。
私が購入したバッテリーには、3m程のUSBケーブルが付いてきた為、ベッドから少し離れた位置にあるPCに接続して遊ぶことが可能になりました。
コントローラー側についてきたケーブルも同程度の長さがありますが、充電器の方についていたケーブルは、細いビニールの糸をワイヤー状に編み込むタイプのコードの為、耐久的に丈夫な感じで結構良かったです。(と自分を慰めてる)

追記

xboxコントローラーを使用して、steamでダークソウルシリーズをプレイしていたのですが、使用して2週間ぐらいでLBボタンの利きが悪くなりました。
他のゲームではあまり使わないボタンですが、ダークソウルシリーズではメイン攻撃のボタンなので、これを酷使することになります。
ネットで調べたところ、LBとRBボタンは構造的に耐久力に問題があるようで、壊れやすいようです。

ただ、メーカーもこの事を熟知しているのか、ボタンのききが悪くなったことをサポートに伝えると、簡単に交換手続きを提案してくれました。(知ってるなら、そのボタンの強度を上げてほしいですが…)
DS4では、同じ操作のブラッドボーンを2回クリアーするぐらい、同じ位置にあるR1ボタンを連打しても壊れなかったので、コントローラーの耐久力としては、DS4の方が上かもしれません。
steamでプレイする分には、DS4でも問題ないので、Microsoftのゲームに興味が無い方は、DS4を使用するのも良いかもしれません。


(画像はAmazonリンクです)