だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第49回 移り変わる宇宙の捉え方(5) 科学は宗教なのか 前編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

前回の振り返り

前回の話では、この世にある物質は、観測されていない時は確率の波として存在していて、観測された途端に確率が収束して、物体になるという話をしていきました。
今までの常識を引きずった状態では、にわかには信じられないような、こんな説が有力な説として影響力を持っているのかというと、そういう実験結果が観測されてしまったからです。

原子を60個、サッカーボール状につなぎ合わせた物体を、2つの隙間が空いている壁に向かって投げ込むと、1個の物体が2つの隙間を通ったとしか思えないような実験結果が出てしまったからです。
詳しくは、前回を聴いてもらうか、二重スリット実験で検索してもらうと良いと思いますが、1個の物体が2つの隙間を両方通り抜けて、尚且、互いに干渉する事で、波でしか起こらない干渉縞を描いてしまうという、事実が観測されたからです。

では、2つの隙間を同時に通り抜ける様子を観測できたのかというと、それは、観測できていないんです。
何故、観測できないのかというと、二重スリットに向けて放たれた物質を、スリットをくぐり抜ける前に観測してしまうと、その観測によって物質の状態が変わってしまって、実験結果も変わってしまうからです。
不確定性原理というもので、簡単にいうと、観測する為に何らかのアクションを起こした時点で、結果に影響を与えてしまう為、途中で観測をしてしまうと、実験結果が変わってしまうという事です。。

この、不確定性原理と、二重スリット実験によって、物質は、観ていない時は状態が確定してない確率的な波で、観測された時点で、確率が収縮して固定されるという、よくわからないものだという事が分かりました。

この結果を受けて、アインシュタインは、『もしそれが正しいのであれば、地球の衛星である月は、誰も観ていない時は存在していないことになる。 でも、観ていなかったとしても、存在はしているでしょう。』と訴えました。
量子論の発展に大きな影響を与えたシュレディンガーも、この解釈には納得が出来ず、シュレディンガーの猫という思考実験を考え出して、この解釈を皮肉りました。

量子論多世界解釈

そして量子論は、更に、よくわからない方向へと発展していきます。それが、多世界解釈です。
多世界解釈とは、ざっくりと簡単にいってしまうと、可能性の数だけ世界が分岐するという事です。
漫画やアニメ、映画などで登場するパラレルワールドといえば、理解しやすいかもしれません。

例えば、シュレディンガーの猫多世界解釈で考えるのであれば、50%の確率で死ぬ状態にして、箱をかぶせて見えないようにした猫は、観測する前に、どちらかの状態に確定します。
ただ、世界の方が、猫が死んだ世界と、猫が死ななかった世界に分岐するという事です。
箱を開けた際に、猫が生きていたとするなら、それは、観測した人間が猫が死んでいなかった世界にいたという事が確定するだけで、猫の状態は、箱を開ける前から決まっているという事です。

ちなみにですが、この、多世界解釈が仮に本当だったとして、それを証明する術はありません。
何故なら、分岐した別の宇宙を覗き見ることは不可能だからです。
つまり、まとめると、今現在、科学で分かっている事は、限りなく少ない。 いや、何も分かっていないといっても良いかもしれないという事です。

新理論によって変わる世界の捉え方

私達は、世界と五感を通してつながっています。 世界を観測する為には、五感を通して、何らかの情報を受け取らなければなりません。
ですが、目に入ってくる光の正体も、皮膚に物質が触れる物質の正体も、本当のところでは分かっていないという事です。

ニュートンの時代に考えられてきた宇宙や現実というのは、もっと、単純で理解しやすいものでした。
絶対的な時間が有って、絶対的な空間が存在する。 その、絶対的な時間や空間の中で、様々な法則によって、物体は決まった動きをすると考えられてきました。

しかし、その考えは、アインシュタイン相対性理論によって崩されます。
相対性理論によると、絶対的な時間や空間は存在せずに、時間と空間、つまり時空は、相対的なもので、観測する人間次第で変化するという事になってしまいました。
つまり、人それぞれで感じている時間や空間の広さは、厳密には違うということです。

この世界は決定論では無い?

そしてさらに、量子論の存在によって、物理学の前提となっていた、決定論も、怪しくなってきました。
決定論というのは、物理法則によって決まった結果が出るという考え方です。
例えば、明日の天気を予測できるかもしれないと思えるのは、物理法則によって物体の動きが決まっている為、正しい情報を全て入手できて、全ての法則が発見できていれば、そのデータを法則に当てはめるだけで、未来が予測できると考えられるからです。
今現在、天気予報が外れているのは、入手できていないデータや、分かっていない法則があるからで、それらが発見できれば、完璧な予測ができると考えるのが、科学的な考え方というわけです。

また、この考え方を過去に当てはめると、今現在、ここにある結果と法則とを当てはめれば、その結果が起こる前の事が予測できるという事になります。
逆算していけば良いだけですから、当然ですよね。 その為、時間は過去から未来に一方方向にしか動かないのに、今現在からは観測不可能な過去の現象も、予測できると考えます。
これが決定論で、科学的な考え方の前提のあるのは、この、『法則に当てはめれば、毎回、同じ結果が得られる』という『決定論』という考え方です。

しかし、量子論によって、そこに有るはずの物質というのは、観測する前の状態は確率の波として存在していて、観測して初めて分かるという、意味不明な状態になってしまいました。
物質が本当に、確率の波という不安定な状態なのであれば、観測する度に、物質の位置は変わることになってしまいます。
これは、物質の位置は、観測する前から、既に決まった位置に有るけれども、観測していないから、確率的にしか表すことが出来ないという事ではありません。
確率の波という状態で存在していて、観測する事で確率の波が収縮して、位置が確率的に決まるということです。

観測する度に、確率的に結果が変わるのであれば、環境さえ整えれば、物事は毎回同じ結果になるという決定論も通じなくなる為、これは、科学の前提が根本から揺らぐという状態を意味します。
つまり、ソクラテスの時代から2500年の時が過ぎて、その間、イオニア自然学は物理学という名前に変わって発展してきましたが、結局の所、根本的な部分は『わからない』という事が分かったんです。

物事が起こった原因は無限に遡れる

事実を一つ一つ積み重ねていったのに、何故、こんな事になるのかというと、前にも説明したと思いますが、アキレスと亀というパラドクスと同じです。
アキレスと亀』は、ハンデを与えた亀を俊足のアキレスが追い抜くという例え話で、時間の無限分割ができるのかどうかというのを考える思考実験でしたね。

アキレスが亀を追い抜かす為には、まず、アキレスは亀に追いつく事が必要になり、追いつく為には、亀が元いた場所に到達する必要が出てきます。
しかし、亀はどれだけ歩みが遅くても、止まっているわけではないので、アキレスが亀のスタート地点に到達したときには、亀は僅かに先に進んでいます。
その僅かな距離を詰める為に、アキレスは、僅かですが、時間が必要となるんですけれども、その僅かな時間で、亀は僅かに進むことが可能です。

時間が連続したアナログ的なものであるならば、その時間に最小単位なんてものはないので、無限に分割することが可能となり、アキレスは永遠に亀に追いつく事が出来ず…
アキレスが亀を追い抜くという有限の時間の中に、無限に分割された時間が存在することになります。
時間に最小単位が有るとするならば、最小単位の中では時間は動かずに止まっていることになります。 動画の原理と同じで、静止画を一秒間に何十枚という速さで送っていくことで、動いているように見えるだけで、1フレーム内の時間は静止している事になります。

どちらしても、おかしな感じになるわけですが、これは、科学の考え方でも同じです。
科学の基本的な考えは、先程もいった通り、決定論的な考え方です。 全く同じ環境を再現出来れば、法則に従って、毎回同じ結果が得られるというのが、科学の基本的な考え方です。
つまり、結果には、それを引き起こした原因があり、その原因にも、原因が存在します。 原因は、法則によって決まった結果を起こすので、法則さえ見つかれば、過去のことも未来のことも分かると言う考え方です。

科学的な目線で真理を追求する為には、現状という結果から原因を探り出し、その原因の原因を探り出し…という事を繰り返さないと駄目なのですが…
原因と結果が連続的なものであるならば、遡るべき原因は無限に出てくる事になります。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com