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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その4

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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良い人になる事と良い人である事

対話をするためのルールを定め、プロタゴラスソクラテスはシモニデスの詩の解釈についての対話を行います。
プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と聞き返します。
これは、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、プロタゴラスは定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。

ここで、市の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、立派な人になれる人は極少数ということになります。
しかし、後半部分では立派な人である事はこんなんだというのは、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事はこんなんだとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

そして、先程の同意に基づけば、自己矛盾を抱えた作品は優れた作品ではない事になり、優れていない作品を褒め称えたソクラテスは間違っているという事です。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。 優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが、プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけですが…
先程からも書いている通り、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。 ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスが徳を知っている事を証明する事にはならないのですが、弟子の前で恥をかかされたと思ったのか、なんとかしてソクラテスを任したい様子が伝わってきます。

ソクラテスの詭弁

指摘を受けたソクラテスは、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪いことだ』という事になる。 では、良い人になることが何故、悪い事につながるのかというと、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。

その後、スパルタという国の捉え方について話し出します。
ソクラテス達が暮らすアテナイが、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されたのに対し、スパルタは、市民として生まれた子供は健全かどうかを詳しく調べられた後に、市民は全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。
つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。

スパルタは市民を全員職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うようなことをしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。 皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を圧倒するのが容易ではなくなってしまう為、新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その一方で知識を身に着けていることを隠したんです。

この事は、スパルタ人と対話する事でよく理解できるようです。 スパルタ人の中でも、特に優れたところのない平凡な人間を連れてきて議論をした場合、通常時のスパルタ人の返答は平凡なものが返ってくるだけだが、議論が重要な部分に差し掛かると、短く鋭い言葉でもって核心をついてくるそうです。
議論を長々と引き伸ばして、今現在、何の議論をしているのかもわからないようにして煙に巻く事もなく、短く、力強く、誰にでも分かるような言葉で核心をついてくる。
この様な返答ができるのは、本当の意味で立派な教育を受けた人間だけで、このスパルタ式の教育を受けた人間の中には、ミレトスのタレスやピッタコスがいて、そのピッタコスが生み出した言葉の中に『立派な人である事は困難だ』という言葉が有り、シモニデスは、この言葉を引用したと主張します。

ただ、この引用も、尊敬を込めての引用ではなく、この言葉を生み出したピッタコスへの挑戦の意味を込めて引用したと主張します。
詩の解釈とは直接関係のない話が続き、やっと、シモニデスの名前が出てきたわけですが、ソクラテスは、一番最初に主張した『困難』という言葉の解釈を『悪い』というものから通常で使う困難へと戻します。

では、今までの長い話は何だったのかというと、プロタゴラスに対して、ソクラテスなりの反撃だったのかもしれません。
というのも、他人の書いた詩の解釈によって、徳や、その事柄が教えられるのかといった説明はできないからです。
先程も書いた通り、プロタゴラスの目的はソクラテスに勝利することで、その為に、矛盾を孕んだ詩をテーマに選んで弁論術を使った攻撃を行ってきた訳ですが、それに対してソクラテスは、プロタゴラスの主張する相対主義を使って反撃します。

言葉というのは、人間同士がコミュニケーションをとる為に生み出された道具ですが、当然のことながら、地域が変われば意味も変わってきます。
言葉には絶対的な意味がなく、その地域で意味が通じるなら、同じ単語であっても意味が変わる場合はあります。 これを利用してソクラテスは、現在議論している詩の意味そのものを変えてしまうます。

脳あるたかは爪がミサイル

その後、話はスパルタの教育方針へと変わります。
一見すると関係のない話のように聞こえますが、話の内容を聞いていくと、プロタゴラスなどを始めとしたソフィスト達の行動への強烈な批判が含まれています。

内容としては、『スパルタ人の中で最も凡庸な人間と議論をしたとしても、アテナイ人のソフィスト達よりも優れている。 何故なら彼らは、長い言葉を使って議論を長引かせたり、相手の集中力を削いだり、議論を煙に巻くといった事をしないからです。
誰にでも分かるような言葉を使い、短く鋭い言葉で核心を突くという行為は、本当に賢い者にしか出来ないといっているわけで、暗に、小難しい長い言葉を並べて自分の優位な状況を作り出そうと小細工するソフィストたちを、彼らの手法を用いながら責めているのでしょう。

立派な状態を維持する事は難しい

この後、ソクラテスは、『本当に立派な人間になる事こそ難しい。』という言葉の中の、『こそ』という言葉を取り上げ、重要なものだと言います。
というのも、先ほど名前を出したピッタコスが作った言葉の中には、この『こそ』という言葉は入っていなかったからです。
シモニデスが詩を通して伝えたい事は、『立派な人間になる事が難しい。』と単に主張しているわけではなく、『何の欠点もない完璧超人の様な立派な人間になる事、こそは、難しい。』と主張しているという解釈をします。

この2つの表現の仕方にどの様な違いがあるのかというと、立派な人間になる事、それ自体は、それほど難しくはないという事です。
前に、概念は単独で存在できるものではなく、対になるものと同時に生まれるという話を書いたと思いますが、立派という概念は、それ単体では存在することが出来ず、必ず、その反対の概念が存在します。
仮に、立派という概念と対になる概念が悪いという概念であるなら、常に立派ではない人間というのは、常に悪い人間ともいえますが… 常に悪い状態で有り続ける事は可能なのでしょうか。

また、立派になるという表現があるという事は、悪くなるという表現も存在するということです。
元から悪い状態ものが、何らかの原因で悪くなるというのは、既に転んでいる人間が、何かにつまずいて更に転ぶ事が出来ないぐらい、不可能なことです。
転ぶというのは、立っている人間に可能な事と同じ様に、悪い状態になるというのは、良い状態の人間でなければ無理なことです。

つまり人間は、悪い状態になり続ける事は出来ない為に、悪い状態と良い状態の間を揺れ動くような存在といえます。
善悪の間を揺れ動くということは、人は、例え短い間であれ、良い状態になることが出来るということで、単に良い状態に成るという現象自体は、珍しい事でもなんでもないという事なんです。

どんな凶悪な犯罪者であっても、生きている間中、誰かに迷惑をかけ続けて悪を体現し続けることは出来ません。何らかの拍子に、良い事をする事もあるでしょう。
全体として悪い人間でも、良いとされている行動をとっているその瞬間は良い人である為、どんな人間であれ、良い人間に成る瞬間はあるという事です。

ただ、悪い状態をキープし続けるのが無理なように、良い状態を生涯に渡って良い状態をキープし続けることは出来ません。
多くの人から善人と言われている人であっても、ある瞬間を切り取れば、悪人にも成るでしょう。
もし仮に、存在し続けている間、ずっと良いという状態をキープできるような存在があるとするなら、それは神と呼ばれるような概念的な存在だろうと主張しているわけです。

他人の作品の考察は議論にふさわしくない

一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。
というのも、ソクラテスプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケて対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。

しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
仮に、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがない為です。

ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この気持が大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスが対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。

その様な意味を込めて、ソクラテスは詩の解釈を巡る議論を終了し、その場にいるソクラテスプロタゴラス自身が考え出した言葉によって対話を行おうと提案します。
そして、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力し、真理に到達しようと主張します。
(つづく)
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参考文献