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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その6

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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善悪の区別がつかない民衆

民衆が、感情に支配されて悪いと思っていてもやってしまうような行為は、例えば『美味しい』という感情に支配されて暴飲暴食をしてみたり、性欲に負けて風俗に通ったりといったケースが考えられます。
彼らは、暴飲暴食や風俗通いが悪い事だと理解していないわけではありませんが、感情に支配されてしまっている状態では、これらの行為を止める事はできません。
では彼らに、それらの悪い行動をやめてもらう為には、どうすれば良いのでしょうか。

民衆に対してこの様な質問をした場合は、快楽によって起こした行動の先にある悪い事の具体的な事例を正しく知る事だと答えるでしょう。
例えば、暴飲暴食を繰り返したら糖尿病になって、後々、食べ物の制限をされてしまうだろうし、ひどい場合には、まともに歩けなくなるし、目も見えなくなるでしょう。過度のアルコール摂取の場合は、肝臓を悪くして、先程と同じように制限された生活をおくることになるでしょう。
風俗通いも、それによって愛情が得られることはなく、性欲という一時的な欲望は満たされたとしても、その後、何とも言えない虚しさがこみ上げてくるだろうといった事が分かれば、間違った行動はしないと思っています。

民衆が考えている事は、その事柄に関するトータルのメリットとデメリットだけで、トータルのメリットが大きければ行うし、デメリットが大きければ実行しない。
ただそれだけのシンプルな思考で、多くの民衆がその様に考えているだけで、他の方法は想像すらしていません。これは、当時の民衆だけでなく、私も含めた現在の民衆の多くも、この様な考えを持っていると思われます。
しかしソクラテスは、プロタゴラスに寄り添う形で理論を展開し、物事はそれほど単純ではないのではないかと推測します。

この、一見すると分かりやすい意見の何処に否定する要素があるのかというと、民衆にはメリットと、その後襲ってくるデメリットを正しく捉えることが出来ず、度々計算間違いをしてしまうからです。
何故、その様な計算間違いが起こるのかというと、タイムラグです。

例えば、暴飲暴食をして体調を崩すとか、太った事で膝を悪くしてしまうというのは、結構分かりやすいことです。
2つの現象が直結して起こっているという事が直感で分かりやすく、相関関係と因果関係が誰にでも理解できるから、暴飲暴食は悪い事だと捉えやすいという事です。
しかし、この相関関係や因果関係が、全ての事柄に置いて分かりやすくなっているのかというと、そうとはいえません。

何十年という長い年月をかけて悪い状態になったり、相関関係や因果関係が複数のものと複雑に絡み合って、何がどの様に悪い行動なのかが一目で分かりにくいという事もあるでしょう。
この様なケースでは、人は錯覚に陥ってしまうために、メリットとデメリットを正しく比べることが出来ず、計算間違いをしてしまいます。

例えば、自分が今、広い空間に立っていて、自分の現在いる場所から距離が離れれば離れる程、時間的に遠くに行くと想像してみてください。
その空間には自分を中心とし、放射状に様々な道が存在していて、その道の先には、メリットやデメリットが転がっているものとします。
良い人生を選ぶとは、自分の周りに沢山存在する道の中から、メリットが多い道を選ぶ事です。

しかし、数ある道にそれぞれ転がっているメリットやデメリットは、それぞれが同じ大きさをしていません。小さいなメリットをいくら足し合わせても釣り合わないような大きなデメリットも存在しますし、その逆も存在します。
その為、単純に数を数えるといった手段では、正しくメリットとデメリットを計算することは出来ません。 それをする為には、それぞれの大きさも正しく知る必要が出てきますが、ここで問題が出てきます。
というのも、物体というのは、自分の位置から離れれば離れる程に小さく見えてしまい、近づけば近づく程に大きく見えてしまうからです。

この例え話に置いて、距離は時間に置き換えて考えますので、遠くに有るものというのは遠くの未来を意味し、近くにあるものは時間を経ずに直ぐにでも手に入れられるモノと考えます。
そうすると、プロタゴラスの主張している事が理解しやすいと思います。

遠くに有るデメリットは遠くに有るが故に、その大きさが分からずに小さなものだと錯覚してしまい、近すぎる位置にあるものは、近すぎるが故に、全体像を把握しにくい。
結果として、メリットとデメリットの大きさを正しく測ることが出来ずに、遠くに有る大きなデメリットを小さなものだと錯覚して計算してしまい、自分の進んでいる悪い道を良い道だと錯覚してしまう。
これは逆も同じで、目の前にゴロゴロとデメリットが転がっていているけれども、その先にはとてつもなく大きなメリットが有ったとしても、遠すぎるが故に、そのメリットに気が付かなかったりしてしまう。

これは、メリットとデメリットを物体ではなく、音や声のようなものと考えても同じです。 近い場所で発生した音は大きく、遠い場所で発生した音は小さく聞こえる為、その音そのものの大きさを比べるのは至難の業です。
民衆はこの様にして、メリットとデメリットの大きさを測り間違えてしまい、正しい道を選ぶことが出来ないということです。

しかし、正しい知識を得る事で。この場合、どれぐらい距離が離れれば、物体はどれぐらい小さく見えるのかと行った知識や、それを測る技術を身に着けることで、それぞれのメリットとデメリットの大きさを正しく把握することが出来ます。
正しく見極める知識を持ってさえいれば、近くに転がっているメリットに目が眩んで、欲望に支配されるなんて事は起こらない。
仮に、欲望に目がくらんだとしたら、それはその者に知識が足りないという証拠であり、正しい知識を身に着けたものにそのようなことは起こらないといえます。

ソフィストとは、それを見極める技術を持ち、他人に教える教師のことですが、民衆はこの事を理解せずに、進むべき『善い道』とは、教えられないような知識とは別のものだと思い込み、結果として、自身がソフィストに学ぼうともせず、子供に習わせようなどとも思わない。
民衆には、正しい見極めを持つ知識を持たないのに、その事を重要視することもなく、目先の損得にとらわれて感情的になってしまうような人間ということになります。
自分自身の無知を認め、お金さえ払えば自分の知らない知識を与えれくれるソフィストを頼ることもせず、胡散臭い技術を教えていると誤解して、自身の金の心配をしてソフィストから距離を取ろうとする民衆は、仮に自滅したとしても自業自得だという事なのでしょう。

理性的な人間とは善い道だけを選ぶ

先程のソクラテスが推測をしたプロタゴラスの主張(プロタゴラスからの反論はない)を踏まえた上で、もう一度、『快い事』であるとか『悪い事』を考えていきます。
ソクラテスの推測によると、プロタゴラスが教える知識とは、先の未来まで見通した上でメリットやデメリットを把握し、それらを比べる事で最良の道を進むことが出来るというものでした。
もし仮に、このようなことが実現した場合、人は数多くの選択肢を突きつけられた際に常に正解を選択できるでしょうし、もし、何らかの事情で悪い道を歩くことになったとしても、直ぐにその道を別の道に変えようと行動するでしょう。

正しい知識を得たものは、自分自身から湧き出た一時的な感情に支配される事はなく、既に持っている知識によって理性的に動くことが出来て、結果として最良の道を選ぶことになります。 つまり、本能を抑え込んで理性のみで動けるということです。
今、自分が歩んでいる道よりも更に良い道が見つかれば、自身の実力や環境を踏まえた上で道を乗り換えるでしょうし、悪い道を選ばざるを得ない場合は、もっとマシな道を見つけるように行動し、自分自身をマシな状態にしようとするでしょう。
正しく知識を収めるものは、自らの意思でデメリットに飛び込んでいくような真似はしないという事になります。

つまり、この道を進むと恐怖が待ち受けているという道があった場合、知識がある人間はそれを正しく認識し、その恐怖を避ける道を選ぶために、そもそも恐怖といったものに遭遇しない。
これは、恐怖以外の不安など、マイナスの感情を含む事柄も同じで、知識があり、マイナスの事柄を見分けられる人間は、自ら、その選択肢に飛び込むなんてことはしないという事です。

自分が行く先に、プラスとマイナスがある場合、知識ある人はプラスを選ぶでしょうし、小さなマイナスと大きなマイナスがある場合は、知識ある人は小さなマイナスを選ぶでしょうし、今よりもより大きなプラスがある場合には、知識ある人は当然のように、そちらの道に乗り換えます。
例え、自分が今まで進んできた道に愛着があったとしても、知識を持つ人間は、その感情に打ち勝って理性的な判断を行って、より良い道に行くことが出来るはずです。
理性的な人間は、どんな時であっても、善い道を歩むことを優先し、目の前に善悪があった場合には、悪を選ぶようなことはしない。

このマイナスの感情という部分に恐怖を当てはめても、これはそのまま通用し、目の前に小さな恐怖と大きな恐怖がある場合、正しい知識を持つものは敢えて大きな恐怖に向かって行くという行動は行わないことになります。

勇気について(再)

プロタゴラスは、徳を構成するとされている5つの要素の中で、勇気だけが、他の4つ(知恵・節度・正義・敬虔)とは別の声質を持っているからだと主張し、その理由として、知恵も節度も経験もなく、正義もないのに勇気だけ持ち合わせている輩がいるからと説明しました。
ですが、これまでの議論を振り返ってみると、知恵や知識を持たないのに、ただ大胆な性格であるがゆえに危険の中に身を投じる様な人間は『勇気ある者』とは言わない事が分かりました。
では、対象に対する知識を深めればどうなるのかというと、知識を深める程にリスクは少なくなっていきます。(リスクとは不確実性)

先程の同意に従えば、知識ある理性的な人間というのは、物事を正しく見定めて判断できるわけですから、危険な状態に飛び込むという事はありません。
仮に飛び込むという判断をした場合は、その対象が危険である可能性が低いと分かっているから飛び込む為、大胆さは必要がない事になります。
物事を正しく認識して、危険だという判断をした人間は、その対象には近づかずに距離を取るという方法を選びます。 

この距離を取るというのを、別の言い方をすれば『逃げる』という事になるわけですが、では、知識を持つものが逃げた場合は勇気がある事になり、知識がない人間が臆病であるがゆえに逃げた場合は臆病ということになるのでしょうか。
これに対してプロタゴラスは、臆病なものが勇気のあるものと同じ『逃げる』という行動を取った場合でも、その動機が違う為に、臆病なものの事を勇気あるものとは言わないと否定します。

例えば、当時では戦場に向かう事は立派な事だとされていますが、確実な負け戦で、出陣すれば死ぬ事が分かっている戦場に赴くのは、先程の同意からすれば、悪い事という事になります。
その為、戦争に参加しない、もしくは逃げるという選択が理性的な考え方という事になるわけですが、臆病な人間が同じ決断をしたとしても、それは動機が違う為に、立派な行動とは言えないというわけです。
勇気あるものの決断は、例えその判断の中に恐怖から逃げるという理由をはらんでいたとしても、立派な決断として褒め称えられるべきだが、臆病なものが出した決断は、みっともないものだというわけです。

しかし、この理屈に沿って考えていくと、勇気とは、恐怖の対象への知識の差ということになります。
戦場に行くという行為に対して、無知のまま怖がれば、それはみっともない事になり、臆病者になってしまいますが、正しい知識を持った上で撤退すれば、それは立派な行為ということになります。
知識のない人間が偶然によって選択した結果、正解を引き当てても『みっともない行為』となり、知識がある人間が確信を持って選択すれば、選択した結果が無知なものと同じであっても勇気ある立派な行為と呼ぶ。

臆病なものは、臆病であるが故に、常に安全な道を選ぼうとしますが、勇気ある者は、その者が備えている知識によって向かうべき道が安全な事を分かっているから、その道を進んでいく。
どちらも、安全な道を選択して進んでいるわけですが、これは同じ様に評価はされないということです。

これらの事をまとめると、勇気という概念は、恐怖の対象に対する知識をどれだけ持っているのかという事になります。
ソクラテスは、同意の得られた事をまとめる事によって、勇気とは知識や知恵のようなものだという結果にたどり着いたのですが、プロタゴラスは、どうも納得がいきません。
しかし、プロタゴラス自身も同意した内容によって出た答えなので、プロタゴラスはソクラテスの主張に渋しぶ同意します。

プロタゴラスの主張では、勇気は知識とは性質が違うという主張でしたが、一つづつ分解して考えていくと、勇気と知識は同じもので、恐怖や不安などの特定のマイナスの勘定に対する知識の有無が勇気の有無ということになってしまいました。

徳とは教えられるものなのか

議論が終わり、プロタゴラスは自身の主張を否定されたような形で、そして、ソクラテスは自分の主張を押し通したようにもみえて、討論はソクラテスの価値のように思える内容ですが、面白いのはここからなのです。
それは、ソクラテスの口から指摘されることになります。

ソクラテスとプロタゴラスが討論を始めたキッカケまで遡ると、もともとは、徳とは教えられるものなのか、教えられないような才能のようなものなのかというのが発端でした。
ソフィストであるプロタゴラスは、自身が得を教える教師だと名乗ってお金を稼いでいますから、当然、徳とは知識のようなもので教えられると主張し、ソクラテスがその主張に対して疑問を投げかけたのが、この議論の始まりです。

しかし、議論を終えてみると、最期に巻き返して攻め込んでいるソクラテスは、『徳を構成している勇気は、才能のようなものではなく、知識である』と主張し、それに対するプロタゴラスは、ソクラテスの意見に反対したいが為に、『勇気は知識のような教えられるようなものではない』と頑なになっている様子がわかります。
つまり、対話をして意見交換をする前と後とでは、両者の意見が完全に入れ替わっているわけです。

ソクラテスは、対話の中で勇気は知識だと確信を得たから論破しにかかったわけではなく、プロタゴラスと確かめた同意内容をまとめた事によって、自分自身が最初に抱いていた思いとは逆の結果に辿り着いてしまったというわけです。
結果としては、この対話を持って勇気と知識は同じものだと結論付けるものではなく、勇気を理解していると思いこんでいたプロタゴラスは勇気の本質を誤解していたという事を知り、ソクラテスは、徳が教えられるような性質のものかもしれないという可能性を得ただけとなっています。

今回の対話で、徳の正体についての結論が出るわけではありませんが、哲学そのものが、『卓越性とは何か』を考え、どのようにすれば『幸せ』に到達できるのかという、未だに答えが出ていない問題に対して自分自身で考えることなので、この対話編そのものが、読者に考えることを促すような作りになっています。
6回に渡って書いてきた私の解釈ですが、プラトンが書いたものの日本語訳とは違ったニュアンスで書いている為、これだけを読んだとしても誤解をする可能性もあると思いますので、興味を持たれた方は、参考文献として紹介しているものを読まれることをおすすめします。

参考文献