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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その5

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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アテレーについて(再)

プロタゴラスが主張するアテレーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。
人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念をアテレーだといいます。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、それぞれの位置や形状によって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。

この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアテレーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といった徳を構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った声質を持っているのかといった議論の続きが行われます。

プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているが、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度もなく不敬虔で不正にもかかわらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるからです。

勇気だけが全く別の性質を備えているということなので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。
ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画『覚悟のススメ』では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事と定義されているので、多くの方がこの様な考え方をされているのでしょう。

この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』、相手の脅威を知らない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかと質問をする。
つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知恵が無い大胆な者の行動を勇気とは呼ばないと否定する。

しかし、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知恵に依存したものという事になってしまいます。
先程の主張では、知恵や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知恵に依存するものだというのは、少し違和感を覚えてしまいます。
また、勇気には知恵が必須だという事は、知恵があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけのリスクがあるという事が分かり、安全だと確信を持って突入していく場合は、どの様になるのでしょうか。

例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。
しかし私自身に、その出来事をノーリスクで解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。

また、知恵があるからこそ、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行為を行うという動機は知恵に先導されていることになる為、結果として、勇気の有る無しは知恵の有る無しに左右される事になる。
勇気というものが、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在とした場合、この両者には主従関係が存在し、『知恵』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。

勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、知恵と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは最初、徳を構成するものの中で知恵・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知恵と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。

しかしプロタゴラスは、この主張を認めません。
というのも、これと同じ様な考え方をしてしまえば、例えば、『強さ』や『力』といった、一見すると知恵とは正反対になるようなことも、実は知恵の一種だったということになるからです。

例えば、柔道の知識を持たない人間よりも、その知識を十分すぎるほど持っている人間の方が、戦った際には有利でしょう。
柔道に限らず、ボクシングや剣道など、格闘技や武術の知識を持った状態で訓練をした人間のほうが、それをしない人間よりも『強い』といえるでしょう。
仮に『知恵』や『知識』がなければ、正しい技術が身に着けられないとしてしまえば、全ての技術を伴うものの優劣は、知恵の有無によって決まってしまうということです。

つまり、家を建てるのも、車の運転をするのも、料理をつくるのも、全ては『知恵』や『知識』の有無によって決定する為、あらゆる事柄を知恵に集約させてしまうことが出来てしまうというわけです。

しかし、プロタゴラスはそうとは考えず、この様に主張します。
例えば、有能で優れた人間は強さや強靭さを持っているかと聞かれれば、私は持っていると答えるだそう。しかし、強さや強靭さを持つもの全てが有能で優れた人間かと聞かれれば、私は同意しないだろう。
これと同じで、先程は、勇気のある人間は、物事を怖がらない大胆さを備えているかと聞かれたから、私は同意したに過ぎず、仮に、質問が逆だったとしたら、私は同意しなかっただろう。

つまり、物事を怖がらない大胆さを備えている人間は、全て、勇気のある人間かと問われていたなら、私は否定しただろう。
何故なら、知識や経験や深く考える能力などが欠如していて、自分がどれほどの窮地に立たされているかを知らない人間は、その者の能力が低いが故に、怖がるということをしないからだ。
この様な人間が勇気のある人間かと問われれば、そうではないと答えていただろうと。

プロタゴラスは、勇気が成立する為には、当人の精神的な素質と育成が不可欠だと考えていますが、単純な知識や知恵にはそれが無いから、同じものではないと主張しています。
もし仮に、知恵や知識と勇気が同じものであるとするならば、勇気は勉強すれば身に着けることが出来ることになります。
しかし、本当に勉強によって勇気は生まれるのでしょうか。 自分の身が危険に晒されたとしても、何かを守らなければならない場面に直面した時、体が動くのは、よく勉強をした人間なのかと聞かれれば、疑問が湧いてきますよね。

快楽とは良いものなのだろうか

話題を変えて、ソクラテスは、苦痛に満ちた人生を送る事は悪い事で、心地よい人生を歩む事は良い事かどうかをプロタゴラスに訪ね、同意を得る。
その後、快く生きて人生をまっとうする場合は、良い人生かという質問をするが、プロタゴラスはこれに対して同意はするが、『自分が行った立派な事に対して、気持ちよさを感じる人間であれば、良いと言える。』という但し書きを入れる。
ここまで散々、ソクラテスに揚げ足を取られた感じになっているプロタゴラスは、警戒し、注意深く言葉を選んでいることがよく伝わってくる返答です。

この返答に対してソクラテスは、気持ち良いことの中に、善悪があるとか、大衆みたいなこと言わないで、快い、苦しいと感じた後に、どのようなことが訪れるかは置いておいて、そう感じる事柄一点だけに絞って考えてみて欲しいと頼みます。
しかしプロタゴラスは、この質問に対して『そんな単純な事柄ではない。』と主張し、ソクラテスの口車には乗りません。

このやり取りを具体例を交えて考えてみると、例えば、手っ取り早く快楽を得たいと思うのであれば、今の時代なら違法ドラッグを手に入れるという方法があります。
お金さえ払えば、楽に快楽を手に入れることができるわけですが、では、ドラッグを継続的に摂取し続ける人生は良い人生といえるのでしょうか。
ドラッグを定期的に打ち続ける事によって、体はボロボロになるでしょうし、警察に見つかれば、犯罪者として扱われるでしょう。

ここまでハードなケースで考えなくても、例えば、食べ物を食べることに快楽を覚える人は、その欲望に任せて食べ物を食べ続けるという行為は良いことだからと、肯定されるべきなのでしょうか。
逆のケースで考えるなら、何らかの怪我や病気になった際に、治療と称して苦痛を受け入れなければならない事もあります。
苦い薬を定期的に飲まなければならなかったり、手術の為に体の一部を切除しなければならないといったケースですが、この様なケースは、苦痛を伴うという一点に置いて、悪いことといえるのでしょうか。

知識とは何なのか

『快楽とは善なのか』というものを考える為に、ソクラテスは知識について、プロタゴラスがどの様に考えているのかを知ろうとします。
そもそも、知識とは何なのか。 知識には、人を支配する能力があるのだろうかと。
大衆は、知識には人を支配するといった大層な能力は無く、人を支配するのは、その他の何か。例えば、『恐怖』『怒り』『快楽』といった、本能的なものを利用して支配が行われると思っている。
それらの、抗うことが出来ない本能的なものを利用する事で、人は他人を奴隷のように支配できると漠然と思っているが、賢者であるプロタゴラスも、同じ様に考えるのかと質問をします。

何故、この様な質問をしたのかというと、それは、プロタゴラスが他人にアテレーを教える教師という職業だからでしょう。
アテレーとは、それを身に着ける事で他の人間よりも卓越した者になれる存在ですが、それを教えられると主張しているプロタゴラスは、アテレーを知識のように他人に伝授できるものだと主張しているのと同じです。
仮に、アテレーと呼ばれるものが、持って生まれた才能のようなものであるのなら、それを誰かに教える事はできません。 持って生まれた運動神経やら筋肉の作りや骨格を他人に伝えられないのと同じです。

しかし、プロタゴラスの主張では、アテレーは教えることが出来ると主張し、他人からお金を得て授業をするというのを生業としているわけですから、才能の様なものではなく、他人に伝えられる知識のようなものだと主張しているわけです。
アテレーとは、それを身に着ける事で他人よりも卓越した能力を持てる存在で、他の者よりも卓越した優れた者は、カリスマ性などを有して、他人を支配する能力も持つでしょうから、アテレーを持つものは他人を支配する能力が有るといえます。
アテレーを持つものが他人を支配することが出来、そのアテレーの正体が知識のようなものであるなら、知識は、人を支配できるようなものであるといえます。

また、アテレーによって他人を支配した指導者は、ものの分別をわきまえて、何者にも屈しない知識による命令が遂行でき、それによって人々を救うことも可能になるでしょう。
プロタゴラスのスタンスは、大衆が主張するように、知識には大層な力が無いという事はなく、知識は素晴らしい力を持っていると主張しているといえます。

プロタゴラスは当然のように、知識には素晴らしい力があると主張します。
もし、それを否定してしまうというのは、人類として恥ずべき行為で、それをしてしまえば、本能的に動いている動物たちと人間との間に差はなくなってしまうと。

この意見にはソクラテスも同意するが、では何故、民衆は善悪の知識が有るにも関わらず、悪いと分かっている事を行ってしまうのかと疑問をぶつけます。
悪の道に進んでしまう民衆に、『何故、そんな事をしてしまうのか。』と質問をしたら、大抵の場合は、『欲望や恐怖や怒りという感情に押しつぶされて。』と答えます。
民衆は、自分が悪の道に進んでいると理解している状態なのに、一時的な感情に支配されて、その歩みを止める事が出来ないでいます。 彼らを説得するためには、どの様な知識が必要なのでしょうか?

それに対してプロタゴラスは、『何故、民衆を説得しないと駄目なのだ?』と一蹴します。
相対主義のプロタゴラスに言わせれば、彼らは彼らの人生を歩んでいるのであって、何故、物事の本質を考えようともしない、口から出まかせをいうような民衆を救わねばならないのかと疑問を思ったのでしょう。
仮に彼らが、自分の行く末を心配し、その事に真剣に悩んでいるのであれば、彼らなりに考えたり勉強をしたりするだろうし、それでも答えが出ないのであれば、プロタゴラスのようなソフィストに習いに行くだろうという事なのでしょう。

しかしソクラテスは、先程、議論が宙ぶらりんになっていた『勇気とは何か』を解明する為にも、その事が重要だとして、プロタゴラスに意見を求めます。
(つづく)
参考文献