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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第149回【アルキビアデス】まとめ3 後編

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アルキビアデスの最終目標


というのも、アルキビアデスの目指しているところは普通の人が抱くような一般的な生活ではなく、覇者となって大帝国を築ことだからです。
それを実現させるためには、まずギリシャを統一し、隣国のペルシャを攻め滅ぼして制圧し、王として認められなければなりません。

それほどの野望を成し遂げるためには、それ相応の知識が必要だというのが、ソクラテスの言い分です。というのも、もし知識無しで他の王族と張り合おうと思うのであれば、彼らの土俵で勝負しなければならないからです。
彼らの土俵とは、支配している領土や人脈や、財産とそれらを誇示するような豪華な服飾、つまりは見た目の美しさのことですが、アルキビアデスの『それ』は世界の王様どころかギリシャ内の他のポリスの王たちの足元にも及びません。
いくらアルキビアデスの親が資産家だからといって、例えばスパルタの王様よりもお金持ちで人脈が有るのかと言われれば、そんなことはありません。

それほどの財産や人脈が有るのであれば、既にどこかのポリスの王様になっていても不思議ではありませんが、彼の家族はどこかを支配しているわけではありません。
何なら、アルキビアデスは政治家になるために、身分に関係なく政治家に成れる可能性のある民主主義国家のアテナイにやってきた人物ですし、この時点では市民権すらありません。
つまりアルキビアデスがこれまでに所有しているといって自慢してきたものは、庶民の中ではそれなりに凄いものでは有るけれども、王族のそれとは比べ物にはならない程度のものだということです。

この当時大帝国だったペルシャと比べれば、アルキビアデスは何も持っていないに等しい為、それなら誰もが身に着けていないような知識ぐらい身につけていないと、彼らと同じ土俵に立つことは出来ないというのが、ソクラテスの言い分です。
これは今現在の社会に当てはめても同じことなので、理解しやすいと思います。 人脈も金も持たない人間が成り上がろうと思うのであれば、他の人が持ってないような知識や技術を身に着けなければ、スタートラインに立つことすら出来ません。
逆に言えば、それらを持ってさえいれば、金だけ持っている資産家や人脈しか取り柄のない人よりも有利に立ち回ることが出来るということです。

どのような人間が優れているのだろうか


つまり、ギリシャの他の王族たちやペルシャの王様と比べると圧倒的に恵まれていないアルキビアデスであったとしても、彼らが持たない知識を持ってさえいれば、彼らに勝てる可能性があるということです。
例えば、仮にアルキビアデスがアテナイの代表になったとして、周辺の国々を傘下に収めるために必要なのは交渉力です。 この交渉力というのは、武力や経済力、そして知識といった様々な要因から成り立っていますが…
この中でも知識というのはかなり重要な役割を果たします。 知識というのは多くの人の尊敬を集め、それを持つものの言葉に力を与えます。

また、知識を手に入れるためには莫大な金もいりません。 必要なのは、探求に捧げる時間のみです。
これはつまり、知識をみにつけるという行動が、他の王たちと比べてあらゆる面で劣っているアルキビアデスに取っては、唯一、彼らに勝てる方法になるというわけです。
これに納得したアルキビアデスは、ソクラテスと共に善悪を見極めるための知識を探求し始めます。

知識について考えるために、多方面から『知識』について探っていきます。まず、ある物事を解明しようとしているが解明できていない人間と、そもそも何も勉強をしていない人間ですが、どちらが優れていると言えるでしょうか。
両者共に善悪を見極める方法を解明できていないという結果は変わらないですが、何も探求をしていない人間と比べると、探求している人間のほうが優れていそうです。
これはレースなど人例えるとわかりやすいですが、ゴールに向かって走っている人間と、スタート地点で座り込んで休憩している人間。どちらの方がゴールに近いかと問われれば、走っている人間の方がゴールに近いでしょう。

『支配する』とは


次に、知識というのは1つの事柄について身につければ良いのかについて考えていきます。 例えば、家を建てる技術や知識を持つ大工さんは、建築の知識を持っているからすべての面で優れているかというと、そうとは言えません。
大工さんは家を建てる為の知識はありますが、では人の体を治せるのかというと、それは直せません。つまり、特定の1分野の知識を持っていたところで、凄いのはその分野に限定されるということです。
では、建築についての知識を持つけれども、医学については無知なモノは、優れた者と同時に劣った者となってしまうのですが、このような事があり得るのでしょうか。 これに対してアルキビアデスは、『そんなことはないだろう』と主張します。

では彼にとって優れたものとは、どのような人間を指すのでしょうか。 これに対してアルキビアデスは『支配者こそが素晴らしい者だ』と主張します。
この発言によって、優れていることと支配できることは同じだということになったので、本当にそうなのかを考えていきます。

まず支配について考えていきますが、人を支配するとは人を自分の思い通りに動かすことと考えることが出来ます。 権力者である王様は、国民に一方的に命令できるから支配者であるわけです。
では命令できるのは王様だけかと言われれば、そうではありません。医学の知識を持つ医者は、それを持たない患者に対して言うことを聞かせることが出来ます。
建築の設計の知識を持つ人間は、それを持たない現場の人間に支持を出して言うとおりに動かすことが出来ます。つまり専門知識を持つ人間は、それらを持たない人間に対してその専門分野に限り、人を支配することが可能となります。

何の能力で支配するか


ということは人は、自分の専門分野に限定すれば、その専門知識を持たない人間を支配することができるけれども、自分が知らない分野においては支配されてしまうものだと言うことです。
つまり人は支配しながらも支配される存在だということです。 また、先程の『優れていると同時に劣っている存在』と同じような結果になってしまいました。
これに対してアルキビアデスは、互いに支配したりされたりするような者たちのことではなく、一方的に支配できる存在が優れたものだと主張します。 これは簡単に言えば独裁者のことなのでしょう。

ではこの独裁者は、何の知識を根拠にして一方的な支配を行えるというのでしょうか。 先程から言っているとおり、人が一方的に支配できる状態というのは、自分の専門分野のことに関してのみです。
仮に王族として生まれたところで、その者が無知であれば簡単に側近に支配されてしまうでしょうし、もしかしたら国民からクーデターを起こされてしまうかもしれません。自分の意志で支配するためには、何らかの知識が必要となるはずです。
これに対してアルキビアデスは、【上手く作戦を立てる能力】だと答えます。

これは他のことに例えてみればわかりやすいですが、例えばサッカーの監督は、細かいサッカーの知識は沢山あるのでしょうが、大雑把に言えば上手く作戦を立てる能力が求められます。
おそらく戦争の際の司令官でも同じでしょうし、その上の将軍でもそうでしょう。  そしてこれは、法律や他国との外交に関する仕事をする政治家にも当てはまるということです。
確かに言われてみればその様にも思えますが、では、政治家の場合のゴールは何になるのでしょうか。

この続きは、次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第149回【アルキビアデス】まとめ3 前編

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政治家に必要な知識


前回の話は、ソクラテスが『政治にとって一番必要な能力は善悪を正しく見極める能力』だと主張。
それに対してアルキビアデスが、政治に本当に求められている能力は『善悪を正しく見極める能力』ではなく、損得勘定ではないのかと反論しました。
人は建前としては綺麗事を言いますが、実際には自分が得をするのか損をするのかしか興味はありません。 そんな人をまとめ上げるのが政治家の仕事であれば、損得勘定に詳しい方が良いというわけです。

これに対してソクラテスは、『醜い行動だけれども正義にかなった行動を見たことが有るか?』と質問し、アルキビアデスからNOという返事をもらいます。
次は逆に『立派な行動は全て良いものか?』と尋ねると、アルキビアデスはこれにもNOと答えます。
最初の質問はNOの理由がわかりやすいですが、彼が2つ目の質問に対してもNOとといったのは何故なのでしょうか。

正義にかなった行動


アルキビアデスは、戦場で仲間が大勢の敵に殺されそうになっている時に、正しい行動としては助けに行くことだが、助けに行ったことで自分が確実に死ぬのであれば、行くだけ損なのでみっともなく逃げるほうが良いと例え話で返します。
自分の命を第一に考える者にとっては正論のように思える答えですが、ソクラテスはこの例え話は様々な要因を含んでいるとして、要素を一つ一つ分解して考えていくことにします。

物事を小さい単位に分解して考える


この例え話では行動と結果が固く結びついて固定されているので、まずはそこを解きほぐします。 つまり、行動と結果を分けます。

すると、行動は『仲間を勇敢に助けに行く』と『みっともなく逃げる』の2つとなり、結果の方も『死ぬ』と『生き残る』の2つに別れます。
死ぬことが悪いとした場合、生き残るのは良いことになるため、結果の方は善悪をすぐに分けることが出来ます。次に行動の方ですが、これも単純に考えれば、『仲間を助ける』方が良くて『逃げる』方が悪いと分類することが出来ます。
先程は助けに行くという行動をとった場合は、結果は死ぬと固定されていましたが、行動と結果を自由に組み替えても良いとして考えてみると、組み合わせは4種類になり先程よりもパターンは増えます。

せっかく事柄を細かく分けたので、次はそれぞれの事柄についての善悪を考えていきます。
まず、仲間を助太刀したほうが良いのか、それとも見捨てる方が良いのかを考えた場合、これは客観的にも主観的にも助ける方が良い行動だと考えられるでしょう。
次に、その結果として生き残る場合と死ぬ場合について考えますが、これは主観的にはどちらが良いとも言えませんが、客観的には生き残ったほうが良くて死ぬのは悪いといえるでしょう。

善人と悪人


大体の善悪が分類できたところで、次はもっと根本的な問題として善悪について考えていきます。 人は何故、良さを求めるのでしょうか。
これは客観的な観点で考えるとわかりやすいです。 良い人間と悪い人間、どちらかと一緒に暮らしていかなければならないとした場合、どちらと一緒に暮らしていきたいでしょうか。
善悪では抽象的すぎるので具体的にいうと、臆病者や卑怯者、詐欺師や自分の欲望のために暴力を振るう人間か、勇気があって立派で、いざという時に助けてくれる人間か、どちらと一緒にいたいと思うでしょうか。

多くの人が詐欺師や暴力人間と一緒にいたいなんて思わないはずです。 多くの人がそう感じるということは、善人には需要があり悪人には需要がない事を意味します。
つまり人から必要とされる人間になろうと思うのであれば、善人にならなければならないということです。 逆に、何らかの理由で悪人呼ばわりされるようなことがあれば、多くの人は『それは誤解だ!』と反論するはずです。
アルキビアデスに至っては、卑怯者呼ばわりされるぐらいなら死んだほうがマシだと言い放ちます。 アルキビアデスにとって死ぬとは最大の不幸らしいので、彼の主張では、悪人呼ばわりされるのは最大の不幸だということになります。

では逆に良い事というのはどうなんでしょうか。 先程も言いましたが、良い人というのは需要があるので、皆から必要とされます。誰からも必要とされない人生は寂しいものですが、皆から頼られる人生というのは充実している人生とも言えます。
充実した人生を歩むことは空虚な人生を歩むことに比べると格段に良いように思えるので、善人になることは良いことですし、先程の損得勘定で言えば悪人になるよりかは得な人生を歩めそうです。

行動と生き方


これまでの考えによって善悪の考え方がより鮮明になったので、、もう一度先程の例に立ち返ってみましょう。 
まず結果を生み出す行動の方である『仲間を助けるのか』それとも『見捨てて逃げるのか』について考えると、助ける方が勇気ある立派な行動で、このような選択をする人間と一緒にいたいと思う人が大半なので、こちらの方が善ということになります。
一方で見捨てて逃げるような人間と一緒にいたいと思うような人はおらず、見捨てて逃げることで生き残ったとしても、誰からも必要とされない卑怯者として残りの人生を生きることとなります。

行動と生き方2


アルキビアデスに言わせるのなら、この状態で生きているなら死んだほうがマシなようです。ということは、仮に自分の命おしさに逃げた場合、結果がどう転ぼうが死ぬのと同じ結末となります。
消去法として、先程の例では『助ける』一択となり、アルキビアデスが主張する損得勘定で考えたとしても、仲間を見捨てずに助けた方が自分の得ということになってしまいます。

無知の知

以上のやり取りによって、アルキビアデスは善悪の区別がつかない、優れているわけでもない人というのが確定してしまいました。
しかしソクラテスに言わせれば、この気付きは大きな前進となります。 何故なら、自分のことを無知だと築いていない人間は、学習そのものを行おうとしないからです。
ですがアルキビアデスは今回のことで自分の無知に気づけたため、ここから勉強をしたり探求をしたりすることで、自身を成長させることが出来ます。 つまり0が1になったわけです。

0に何を掛け合わせても0のままですが、1歩進んで1になれば、自身のやる気や環境によっては大きく成長することが可能となります。
アルキビアデスは自身の無知を知ることで、その1歩を歩みだすことが出来たため、これは大きな一歩となります。

勉強する必要性


ただ、アルキビアデスは自身の無知を認めたのですが、ソクラテスがいうような知識が本当に必要なのかどうかは疑っています。

というのも、ソクラテスが必要だと言っている善悪を見極める知識というのは、そもそも持っている人がいない知識です。 必要だと主張して人生を賭けて探求しているソクラテスですら、まだその法則を見つけてはいません。
もし見つけているのだとすれば、その法則をアルキビアデスに教えてあげるだけでよいのですが、ソクラテス自身が身につけていないため、それすら出来ない状態でいます。
アルキビアデスは、そんな知識が、果たして本当に必要なのかと疑問を持っているわけです。 誰も身に着けていない知識なんてなかったとしても、世の中は普通に回っていますし、人生の成功者も普通にいるからです。

身につけることで幸福に成れる知識を探求したところで、そんな知識は生きている間に身につけることが出来ないかもしれない。それならそんな勉強はせず、もっとレベルの低いところで幸福を求めた方が効率的だということでしょう。
これに対してソクラテスは『比べる相手が違うのでは?』と反論します。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第72回【財務・経済】インタレスト・カバレッジ・レシオ

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純資産とは


今回も、長期の財務分析について考えていきます。今回紹介するのは、インタレスト・カバレッジ・レシオで、これは利益と支払い金利の関係性を表す指標です。
これを紹介する前にまず前回の復習からしていくと、前回に紹介したのは、負債比率と自己資本比率でした。 これらの指標を簡単に説明すると、負債の中で返済不要の自己資本がどれぐらいの割合を占めているのかというのを見ていく指標でした。
負債というのは大きく分けると2つに分かれます。1つが返済が必要な銀行借入や社債などです。 そしてもう一つが、返済が不要な純資産です。

この純資産は、株主の持ち分とされる部分で、会社が利益を出せばこの純資産が増え、赤字が出れば純資産が減っていくという性質のものです。
株式というのは、この部分の所有権を分割して売り出したものだと考えればよいです。 ある会社の株式を100%所有するということは、その会社の所有者になるということを意味します。
その会社の所有者になるということは、資産も負債もひっくるめて、株を所有している人のものということです。

純資産というのは、資産から借り入金を差し引いた差額なので、会社全てが株主のものということは、純資産が株主の持ち分と言い変えることが出来ます。
例えば、会社が持つ資産を全て売却して現金にして、その金で全ての借入金を返済したとした場合、理論的には純資産と同じ金額の現金が残ることになります。
実際には、会社が持つ固定資産が簿価で売れるかどうかは分かりませんので、固定資産の簿価と実売価格との間に大きな差がある場合は、この純資産の額は変わることになってしまいますが、理論的には純資産額に近い数字となるはずです。

簿価


ここで簿価という言葉が出てきましたが、簿価とは帳面上に記載されている資産の価値と考えてもらえれば良いです。
例えばトラックを200万円で購入して10年で定額法で償却する場合、10年後には下取りされないとすると、1年あたりの減価償却額は20万となります。
この車を2年保有している場合、40万円の償却が終わっていることになるため、固定資産として帳面に記載されているトラックの価格は160万円となります。 これが簿価です。

このトラックを2年使用した後に160万円で実際に売れるのであれば、簿価と実売価格に差額がない事になりますが、もし、これよりも低い価格でしか販売できないのであれば、帳面上の純資産額と実際の純資産額は変わってくることになります。
トラックのようなどんな業種でも使いこなせるもので、尚且つ、そこまで単価が高くないものであれば、差額は大して出ません。
しかし、製造業でその会社でしか使っていないような高額な機械であったり、土地や建物といった唯一のものである場合、差額が大きく出がちです。

他の業種で使えないような機械は、いくら高額であったとしても欲しがる人はいないでしょう。
同じ様に土地や建物も、『その立地』に立っているのは1つしか無いため、立地によっては簿価よりも高く売れるかもしれませんし、そもそも買い手がつかない場合もあります。
その為、帳面に書かれている純資産額と、実際に現金化した際の金額というのは違う場合があります。

話が少し脱線してしまいましたが、会社は株主のものと言うことは、その会社の資産を自由にすることが出来るという一方で、負債の返済義務を負うことになります。
ということは、会社の資産を全て現金化し、それで返済義務のある負債を全て完済すれば、残ったお金は全て株主のものということになります。
これはつまり、会社の資産から借入金を差し引いて計算される純資産は、株主のものと言いかえることが出来ます。

自己資本比率


純資産は株主の持ち分なので、借入金ではないため返済は不要となります。 この返済不要のお金がどれぐらいの割合を締めているのかというのを測る指標が、前回紹介した自己資本比率と負債比率でした。
これは当然ですが、長期的な安全性という面から見れば純資産の割合が高ければ高いほど安全性は高いことになります。
では、借入金ゼロで完全な形での無借金経営をすれば良いのかというと、安全性という面から見ればそれは確かにそうなのですが、経営の効率性という面から見れば良くない事になります。

というのも、借金をして、新規事業に投資をすることでそれを上回るリターンを得れるのであれば、借金はすればするほど利益が上がっていくからです。
借金を増やせば増やすほど儲かるというのは理解が難しいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、銀行が行っている事業をみてみれば分かりやすいと思います。

銀行というのは、私達一般人からお金を借りて、それを他人に又貸しすることで成り立っている事業です。 つまり、私達が銀行口座にためているお金というのは、銀行に対する貸付だということです。
銀行に貸し付けているからこそ、私たちは僅かではありますが金利が貰えるわけです。 そしてそのお金を、銀行側は企業や個人に貸し出すことで利益を得ています。
私達個人のケースで言うのであれば、住宅ローンなどがこれにあたります。 住宅ローンの返済金利は、私達が銀行にお金を預けることでもらえる預金金利よりも高いですよね? この差額が、銀行の利益になるわけです。

この様な利益構造の場合、銀行側は『借りたい!』と言っている人がいる限り、口座開設キャンペーンを行うなり何なりして銀行預金を集めれば利益を伸ばすことが出来ます。
これと同じことが、銀行以外の事業全般にも言えることになります。
銀行からお金を借り入れて事業を起こした際に、銀行借入金利を超える利益率を出すことが出来るのであれば、企業は銀行からお金を借りれば借りるほど利益を伸ばすことが出来ることになります。

例えば、商品を仕入れて販売するという小売店を開業して、その小売店で10%の利益をコンスタントに出すことが出来るとします。
この状況下で銀行からの借入金利が3%である場合、3%でお金を調達して10%稼げる小売店事業に投資しまくれば、銀行に金利を支払っても差額の7%が利益として出ることになります。
もしこの状況を作り出せるのであれば、借金はすればするほど会社の利益を出すことが出来るようになります。

借金による効率化の具体例


具体的に見ていきましょう。
仮に自己資金1000万円で借入金無しで、先程の小売店を始めたとしましょう。 利益率は10%だったので、毎年100万円の利益が出ることになります。
その一方で、銀行から更に2000万円を借り入れて全額投資をしたとしましょう。 投資額は総額で3000万なので利益は300万となり、それに対して支払い金利が3%の場合は60万円になるのでそれを差し引くと利益は240万円となります。

仮に借金を5000万円に増やせば、事業への総投資額は6000万円となるため、利益は600万となり、それに対する支払い金利は150万円なので、金利を差し引いた利益は450万円となります。
これに加え、事業を大きくすればするほど、事業を効率化することが出来るようにもなりますし、大量仕入れによって仕入れコストを減らすことも可能になったりします。
このようなことも踏まえて考えると、借金の金利を上回る投資先がある場合は、お金は借りれば借りるほど儲かることになります。

ただ先程からも言っていますが、この様な環境を作り出せるのは、借入金利よりも利益を生み出せる状態にある場合のみです。
事業には寿命があるなんて言われていますし、経済環境も刻々と変化しています。 1つの業態が永遠に同じ利益率を稼ぎ出せるわけがありません。
上手く行っていた事業が、経済環境の変化やライバルの出現などで上手くいかなくなるケースというのも当然出てきます。

もし仮に、借入金利よりも事業で得られる利益の方が下回ってしまったとしたら、それは長期的にみて危険な状態といえます。
この事を知らせてくれる指標が、今回紹介するインタレスト・カバレッジ・レシオです。

インタレスト・カバレッジ・レシオ


このインタレスト・カバレッジ・レシオの計算式ですが、事業利益を支払利息で割ったものとなります。
事業利益というのは、営業利益に受け取り金利や配当金、社債国債のクーポンを加えたものとなります。簡単にいえば、事業で稼ぎ出した利益に、資産運用でえた金利などを加えた数字です。
これを支払利息で割るということは、事業利益が支払利息の何倍あるのかを示すということになります。

この数字は、事業利益が増えれば増えるほど大きくなりますし、支払利息が減ることでも増加するため、高ければ高いほど安全性が高いということになります。
当然ですが、事業を普通に行っていく上では1を超えていることが絶対条件となります。
何故1を上回ってないとだめなのか。 これは、1を下回っている状態を考えてみれば分かりやすいです。

インタレスト・カバレッジ・レシオが1を下回るということは、事業利益よりも支払い金利の方が多いことを意味します。
具体的に言えば、会社の営業利益と銀行金利、株式の配当や国債のクーポンなどを全てひっくるめて300万円しかない会社の支払い利息が400万円あるようなものです。
普通に考えればわかりますが、この様な状況が続けば会社の赤字は増えていくため、一刻も早く解消する必要が出てきます。

インタレスト・カバレッジ・レシオの改善方法


解消方法としては、経営改善をして事業利益を増やしていくか、借金を返済して支払利息を減らすか、事業を撤退するしかありません。
撤退とは、不採算事業から撤退し、それに関する固定資産などを売却して借金を返済するなどのことです。
『事業を辞めてしまえば借金が返せない!』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもこの数値が1を割り込んでいるということは、先程も言いましたが事業で利息分すら稼げていないことを意味します。

その為、その事業を続けていたとしても借金は返済できないどころか、利息を支払うために純資産を切り崩すか新たな借金をしなければならないため、事業を続ければ続けていくほどドツボにはまっていきます。
この様な状況でもし経営改善が出来ないのであれば、できるだけ早めに撤退した方が傷が浅く済む分マシということになります。

まとめると、会社の資産を効率的に使うためには借金は必要だけれども、その利率を上回る利益率が確保できないのであれば、事業を見直す必要があるということになります。
それを数字で表してくれているのが、インタレスト・カバレッジ・レシオとなります。
ということで長期の財務分析の紹介については一旦ここで終わり、次は収益性分析と行きたいところですが、その前に前提知識となる収益について学んでいきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 後編

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知識のレベルの違い


確かにこの説明には一理ありそうです。 しかしソクラテスは、その反論については当てはまる場合と当てはまらない場合が存在するとして、受け入れません。
ソクラテスの意見としては、たしかにアルキビアデスの言う通り、言葉については大衆から教えてもらうというのも可能かもしれないが、それは言葉を使いこなすのに求められる能力が低いからだと主張します。
これは言い換えるのであれば、一般大衆が知らないような高度なレベルの知識は、言葉と同じ様に何となく学ぶなんてことは出来ないということです。

もう少し具体的に言えば、言葉というのはその環境で長年暮らしていれば、誰でも慣れ親しんでくるし話せるようになるものです。
特に母国語の習得であれば、それしかコミュニケーション手段がない上に、その言葉が四六時中、そこらじゅうで話されていますし、そこらに置かれている本やテレビでは音声以外に文字も書かれています。
この環境で子供の頃から何年も暮らしていれば、基本的な言葉であれば誰でも話すことが出来るようになるでしょう。

しかし、学習もせずに無意識レベルで習得できる語学のレベルは日常生活レベルの話であって、もっと高度になってくると、誰かに教えてもらうか自ら探求し無い限りは身につけることは出来ません。
同じ言葉の扱い方であったとしても、誰もが魅了される様な文章を書いたり、人の興味を引くようなキャッチコピーを作ったりり、誰が聞いてもわかりやすく言葉で説明する能力というのは、普通に生活しているだけでは身につきません。
例えば小説のような文章を書くのであれば、まず多くの小説を読んで表現を真似てみたり、使える表現をストックするといった事を行った上で、何度も自分で文章を書いてみないことには習得することが出来ません。

これが、物事の真理と言ったより難しい事柄であればなおさらで、一般大衆とただ暮らしているだけで身につくようなものではありません。
これらのことをより簡単に言い直せば『人は自分が知っていることしか他人に伝えることは出来ない』ということです。
人は自分が知らないことを相手に教えることは出来ません。 現実の世界では、たまに口からでまかせを言って知らないことに対しても口を出す人が結構いますが…

法則に従えば答えは一致する


それらの意見は本来聞くべき意見ではありませんし、仮にその意見が偶然にも正解だったとしても、それはたまたま答えが一致していただけで、その答えに到達するためのプロセスなどはデタラメです。
その為、仮にその後、同じ様なケースに遭遇したとして、その時に教えられた知識が通用するのかといえば、当然ですが通用しません。
何故なら、その忠告はちゃんと検証されたものではありませんし、その人物が探求したり学習した結果として得られたものではなく、単なる当てずっぽうだからです。

このようにして導き出された答えは、答えるものの感情によってブレるので、法則に従って正しく導き出された答えとは言えません。
特定の法則によって導き出された答えではなく、その日の気分によって出された答えに従ったところで、当然ながら正しい道を進むことはできないということです。

では、法則に則った知識とはどのようなものなのかというと、いついかなる時でも、入力に対して出力が同じになる様な知識です。
例えば電卓で1+1と入力すれば、どんな環境であれ、誰が入力したとしても、必ず2と答えが出力されます。もし出力されないことがあれば、その電卓は壊れています。
これはなぜかというと、電卓は数学という学問によって見いだされた法則をプログラムした機械だからです。数学という法則によって、入力された数式は必ず同じ答えを出力します

大衆が善悪を正しく見極められるのなら…


この事は数学だけに当てはまることではなく、あらゆることに当てはまります。例えば言葉を正しく学習した人間に対して『右の方を向いてください』といえば、皆が同じ方向を向きます。
これは、右を向くという言葉の入力に対して行動という手段で出力された結果と言えます。
この理屈を善悪に考えてはてはめると、正しく善悪を見極める方法を身に着けた複数の人間が有る事柄に対峙した場合、その人達が下す判断はすべて同じとなります。これは、善悪で意見が別れないということです。

もし仮に、民衆たちが全て善悪の見極め方を知っているのであれば、何かことが起こった際に、善悪の判断で意見が分かれるなてことはないはずです。
では実際にそうなっていのかといえば、そうはなっていません。 日本の裁判は三審制で原則的に3回まで裁判をやり直せるという制度を採用しているそうですが…
全国民が善悪の法則を理解しているような国であれば、そんな制度は必要ありません。 何故なら、何回裁判をやり直したところで、出る答えは同じになるからです。

というかもしそんな世界で有るのなら、そもそも善人しかいないため、犯罪を犯す人間はいないことになります。
何故なら、ソクラテスの理屈で言えば、人は幸せになるために生まれていていて、その幸せに到達する方法は善人であることだからです。
その為、自らを不幸にしてしまうような悪いことに手を染める人間はいません。善人しかいないのであれば、そもそも行動を規制する法律も必要ありませんし、その法律が適応される範囲である国も必要なくなります。

しかし実際には、悪いことをする人間がいるから人の行動を規制する法律がありますし、その法律が適用される範囲である国も存在しています。
そしてそんな世の中だからこそ、法律を作り出す政治家という職業が存在し、アルキビアデスは政治家を目指しているわけです。

知識はテキストで学ぶ


では、本はどうでしょうか? 一般大衆は善悪を見極める知識を持っていないかもしれませんが、本であれば、過去に1人でも善悪の見極め方の法則を理解し、それを文字で書いてくれている人がいれば、それを読むことで法則を理解できます。

アルキビアデスは学校で読み書きを教わりましたが、その際に使用したギリシャ神話などの物語の中に、善悪を見極める法則が書かれていて、それを知らず識らずのうちに読んでいて、学習していた可能性は捨てきれません。
しかしこれに対してもソクラテスは、反論をします。当時の勉強というのは神話を読み解くことが主だったようで、先人たちは神話の中に教訓などを含む様々な知識を織り交ぜて後世に伝えようとしていたわけですが…
その神話の中ですら、神々は善悪を巡って争いを起こしています。 もし本当に先人たちが善悪を見極める方法を見つけていれば、それは神話の物語にも反映されているはずなので、トロイの木馬が登場するような戦争は起こっていないはずです。

このソクラテスの理屈にアルキビアデスは納得し、彼は自分が無知であったにもかかわらず知識を持っていると勘違いし、それを他人に教えようとしていたことを認めます。
参考文献の表現では、このあたりの部分はかなりアルキビアデスをバカにした感じで描かれていたりしますが、これは単にアルキビアデスをバカにしているというよりも、この対話編を読んでいるであろう一般市民に対しての警告も含まれていると思われます
というのも、勉強したわけでも探求したわけでもなく、自分の専門分野でもないことに対して、知ったかぶりで適当なことをいう一般市民はかなり多いからです。

不毛な議論


彼らがやっていることというのは、この対話編でバカにされているアルキビアデスと全く同じことで、自分が知らないことについて他人に教えようとする滑稽な行動です。
これはこの対話編が書かれた当時だけでなく、今でもそうです。これを聞かれている方の身の回りにもいらっしゃるでしょうし、もしかするとご自身がそうかも知れません。
勉強したわけでも探求したわけでもないのに、知った気になっているということは、その後勉強することもありませんから無知なままなのですが、その状態で人に物を教えると、教えられた方はデタラメを教えられたことになるので正しい方向へはいけません。

その事を読者に気付かさえるためにも、対話篇の登場人物であるアルキビアデスを必要以上にバカにしているのかもしれません。
しかしアルキビアデスは、自身が無知であったことは認めましたが、そもそも本当に正しい知識は必要なのかとソクラテスに対して問いかけます。
というのも、今も昔も、市民たちが本当に興味を抱いているものは真実ではなく、自身の損得だからです。

たとえ正しい行動であったとしても、自分が損をするのであればしない、悪そうな行動であったとしても自分が得をするのならやってみようというのが人間です。
理想論は置いておいて、現実の社会では損得勘定で動く人間の意見を取りまとめて社会を動かしていくのが政治家なので、誰も知らない善悪を見極める知識なんて知らなくても、損得勘定さえ知っていれば良いことになります。
そして人は弱い存在であるため、損得勘定を覆い隠して見えなくするような大義名分を用意してやれば、喜んで他人に損失を押し付けて自分の得になるような事を自ら進んで行おうとします。

これに対してソクラテスは、アルキビアデスにさらなる疑問を投げかけることで、彼の考え方を変えようとするのですが、その説明は次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 前編

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善悪を見極める知識


今回も、対話篇『アルキビアデス』のまとめを行っていきます。 前回を聞かれていない方は、そちらから聞かれることをおすすめします。
前回の話を簡単に振り返ると、青年へと育ったアルキビアデスは、自分は他の人間よりも優れているので政治家になるべきだと主張します。
この意見に対してソクラテスは、政治家になるために必要な知識は何だと思う?と彼に問いただします。

例えば大工になりたいと思うのであれば、建物を建てるための技術や知識が必要となります。建築家になるためには建築士の知識や免許が必要になるでしょう。
世の中には沢山の職業がありますが、それらの職業にそれぞれの専門知識が必要とされますし、ほとんどの職業では、その専門知識を多く持っている人や、知識を上手く活用できる人が優秀な人だとされます。
これは当然、政治家にも当てはまると思われますが、では政治家に必要な知識というのは何なのでしょうか。

討論の結果、政治家に必要な知識とは『正義にかなった行動を取る為の知識』ではないかという話になりました。
正義にかなった行動を取るための知識とは、『善悪を見極めるための基準』とも良いかえることが出来ますが、では、その基準をアルキビアデスは身につけているのでしょうか。
アルキビアデスは直感的に、『そのようなことは既に身につけている』といいたげですが、本当に彼はその『基準』を身に着けているのでしょうか。

知識をみにつける順番


知識を身につけるために必要なことは、まず最初に自分自身はその事柄に関しては無知であると受け入れるところから始まります。
逆に言えば、『その程度のことは知っている』と思い込んでいれば、その事柄について勉強しよう等とは思わないということです。
つまりアルキビアデスはこれまでの中で1度でも、『私は善悪の区別をつけることが出来ない』と自覚した上で、勉強するなり自ら探求するなりしていなければならないということです。

これは、身近な勉強に当てはめて考えてみるとわかりやすいと思います。 一度も教育を受けること無く、生まれながらにして九九がスラスラ言えるような人はいないでしょう。
何の練習もトレーニングもせずに、一流のスポーツ選手に成れるような人はいませんし、何の研究もせずに世紀の大発見をするような人もいないでしょう。
何らかの技術や知識を身に着けている人は、その事柄についての地道な勉強や反復練習などのトレーニングを行うことで、技術や知識を手に入れます。

そしてその勉強やトレーニングといった努力は、自分が『その知識を持っていない』もしくは、『まだまだ自分は未熟だ』といった無知の自覚であったり無力感を感じなければ行うことは無いということです。
アルキビアデスが『善悪の区別をつけるための知識を持っている』と主張するのであれば、先程も言いましたが、彼はこれまでの人生の中で無知からくる無力感を感じなければなりません。
では実際にアルキビアデスにその様な時期があったのでしょうか。

大衆から学ぶ


ソクラテスはアルキビアデスのことを子供の頃から知っていましたが、彼はその頃から善悪の区別がついていたような振る舞いをしていました。
具体的に言えば、他の子供と喧嘩になった際に、自分の正当性を主張するという行動を子供の頃から行っていたということです。
この様な言い方をすると大層に聞こえるかもしれませんが、平たく言えば『誰々くんがインチキをした』といった理由で喧嘩に発展することが多々あったということです。

つまりアルキビアデスは、子供の頃から善悪の区別がつくと思いこんでいて、『自分には善悪の区別をつけることが出来ない』と無力感を抱いた経験が一切ないということになります。
これによってアルキビアデスは論破されてしまうわけですが、彼は別の理論で自分には善悪の区別をつける為の知識を身に着けたと主張します。
その理論というのが、大衆から受動的に教えてもらったというものです。

これは、自ら進んで勉強をしたり誰かに弟子入したわけでもないのに、大衆が日常生活の中で自然と自分に知識を教えてくれたので、それを吸収することで知識を手に入れることが出来たということです。

言葉は大衆から学べている


こんな事があるのかと思われるかもしれませんが、例えば私達が母国語を話す際には、誰かに教えてもらっているという自覚なしにいつの間にか話せるようになります。
私達が本格的に日本語を学ぶのは小学校に入ってからですが、では小学校入学前は一切言葉が話せないのかと問われれば、そんなことはなく、ある程度のコミュニケーションが取れる程度の言葉は話せるようになっています。

当時のギリシャでも、教育を受けられないような奴隷であったとしても、言葉は話せたし聞けたでしょう。 何故なら、もしコミュニケーションが取れないのであれば、奴隷の仕事ですら行うことすら出来ないからです。
ではこの言葉というのは、ソクラテスが主張するような手順で持って身につけたのかというと、そうではないでしょう。

例えば、生まれたばかりの赤ん坊が『自分以外の人間は何らかの音を発することによってコミュニケーションを取っていて、その音にはパターンが存在する。
そのパターンを自分は知らないので、それを理解して自分もコミュニケーションを取れるように勉強しよう!』と思って勉強した上で身につけたのかというと、そんなことはないはずです。
親が語りかけてくれる言葉やテレビから流れてくる音などを聞き流しながら、何年かかけていつの間にか簡単な言葉を話せるようになっていっただけで、自分の無知を自覚した上で学習しようとしたから身についたわけではないでしょう。

言葉が少し話せるようになると、親や幼稚園や保育園の同年代の友達などと話すことで、子供はさらに言葉を上手に使いこなせるようになっていきますが、これは言葉を探求していると言えるのかといえば微妙です。
では誰か特定の人物の弟子や生徒になって教えてもらったのかというと、これも違うでしょう。 厳密に言えばその都度、誰かには教えてもらっているのでしょうが、その人数は多すぎて特定することは出来ません。
ならこの状況をどの様に表現するのかといえば、生活していくうちに何となく身につけた、強いて言うなら大衆に教えてもらったとしか言いようがありません。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第147回【アルキビアデス】まとめ回(1) 後編

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政治家に必要な知識


これに対してアルキビアデスは、『戦争や和平、またはそれ以外の国政に関することについての知識だ』と主張します。
アルキビアデスやソクラテスが生きていた時代というのは、頻繁に内戦や戦争が起こっていました。この様な状況では、政治家の行動や態度一つで大勢の市民たちの命が危険にさらされる可能性もあります。
それを踏まえて考えると、外交能力やそれに関する知識というのは、確かに政治家には必要な知識だと思われます。

適切なタイミング


しかし、一言で外交の知識と言っても範囲が広すぎます。そこでソクラテスは範囲を絞るために『その外交というのは、相手を見てタイミングを図り決断を下すことなのか』と彼に問いかけます。
外交というのは腹のさぐりあいなので、心理学を元にした心理戦などを研究すれば、ある程度は優位に立てるかもしれません。
しかし、その知識を勉強すれば誰でも交渉の場で優位に立てるのかといえば、そんなことも無いでしょう。時には何も考えずに大胆に行動した者の方が優位に立てる場合もあります。

そういう事も考えると、ソクラテスの言う通りタイミングの図り方というのが、より重要になってくるのかもしれません。
これは、外交カードのきり方と言い換えても良いかもしれません。 強いカードを持っていたとしても、カードを切るタイミングを間違えてしまえば勝負には勝てません。
適切なタイミングで適切なカードを切ることで初めて、外交という勝負に勝てるとういことです。

ちなみにこの『タイミングを図り、やるべきタイミングで事を行う』というのは、全ての事柄について当てはまります。
例えば格闘技の場合は、防御すべきタイミングで防御をして、攻撃すべきタイミングで攻撃をするだけで相手に勝てますし、ダンスの場合はステップを踏むべきタイミングでステップを踏むだけで上手に踊ることが出来ます。
『やるべきタイミングでやるべき事を行う』というのは、あらゆる物に通じる極意のようなものなので、この様に口で言うのは簡単ですが、実践することが非常に難しいものだったりします。

これを実践するために必要になるのが、学問であればその分野に対する探求になるでしょうし、スポーツの場合であれば反復練習による基本の刷り込みになるのでしょう。
日々の練習や探求によって、必要な知識やスキルをタイミングを図って出していくことが可能になります。 つまり、これを実践するためには、その専門分野で確立された知識や技術の習得が必要不可欠となります。
では、政治家の場合はどの様な知識の習得が必要不可欠となるのでしょうか?

戦争は正義を行使するために行う​


この質問に対してアルキビアデスは答えることが出来ません。答えることが出来ないということは、彼は政治家に必要な知識や分野を知らないということになるので、当然、その分野に対して積極的に勉強するなんてことはしていません。
しかしアルキビアデスは自信満々に『自分には政治家に成れる能力が有る』と思い込んでいたわけですから、本能レベルでは理解しているかもしれません。
その為ソクラテスは、彼に質問を続けることで、彼の認識を確かめようとします。

この2人が暮らす時代では戦争が身近なものだったというのはさきほど言いましたが、では、その戦争はどのようにして起こるのでしょうか。
これに対してアルキビアデスは『戦争は、仕掛ける側が相手側から国益に反するようなことをされたと主張して引き起こすと答えます。
この戦争理由は現在でも変わっていませんから、私達のような現代人でもわかりやすいと思います。

相手が一切悪くないのにも関わらず、自分たちの欲望を満たしたいからという自分勝手な理由で侵略戦争を仕掛けようとしても、実際に戦争に命をかける自国民の兵士達がついてきません。
戦争には、実際に戦地へと赴く自国民の兵士たちが納得するような大義名分が必要となり、それに正義が宿っていなければ人は動きません。
仮に、戦争を仕掛ける側の指導者や政治家が自分自身の利益を考えて戦争を仕掛けるにしても、それをそのまま国民に言うような者はいないでしょう。

その本当の目的は隠し、自分たちが正義側で相手が悪なのだと印象づけるための大義名分を考えて主張するのが政治家です。
そこまでして自国の正当性を主張して初めて、市民たちは自分の命を賭けて戦場へと向かう決意を固めます。
これは当然のことながら、相手の国も同じです。 相手の国も自らの正当性を主張することで、兵士の士気を高めようとするわけですから、戦争というのは結局は正義と正義の戦いとなります。

善悪を見極める知識


つまり、外交の最終手段である戦争というのは、突き詰めればどちらの国の正義の方が勝っているのか、どちらに正当性が有るのかの勝負となります。
これは政治にも当てはまり、良い政治とは『より正義にかなっている行動』を取れるかどうかとなります。では、正義や正当性はどの様な理論をベースにして作られているのでしょうか。
アルキビアデスは、自分には政治家に成れる能力が有ると訴えかけて政治家になろうとしていますが、彼は正義や正当性を導き出すための学問を知っているのでしょうか。

これについてアルキビアデスに質問してみると、彼は答えることが出来ませんでした。
前に紹介した『知識の身につけ方』について振り返ってみると、人は無知を自覚している状態で、その分野について詳しい人に教えてもらうか、自分で探求したものしか知識をみにつけることは出来ないという話でした。
その理屈をそのまま当てはめると、アルキビアデスは善悪の区別の仕方を知らないと自覚した状態で、それが出来る教師に教えてもらうか、自分自身で探求して身につける事でしか知識をみにつける事は出来ません。

どちらにしても、学習とは自分の無知を認めるところから始まるわけですが、人から聞かれるまでわからないということは、問題そのものを自覚していないとうことになりますから、当然、知識は身につけてはいないことになります。
しかしアルキビアデスは、この結論にどうも納得がいきません。 というのも、『正義にかなった行動』が分からないということは、善悪の区別がつかないという事を意味しているからです。
これは自分に当てはめてみるとわかりやすいと思います。他人から『お前は善悪の区別もつけることが出来ないのか?』と言われたとしたら、誰でも反論したくなるでしょう。

実際に私達は何らかの物事を目にした際に、どちらが善でどちらが悪かというのを振り分けたりします。
これは、何らかの理論に則って振り分けているのかというとそうでもなく、直感的に『あれは良いこと』『これは悪いこと』といった感じで振り分けます。
この様に実際に振り分けが出来ているわけですから、その基準となる知識は自分に自覚がなかったとしても、既に収めているのではないかと思うのではないでしょうか。

この様な感情を抱いたからか、アルキビアデスは納得できないようなので、ソクラテスはアルキビアデスと一つ一つ順序立てて、この事を考えていきます。 この続きについては次回に話していきます。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第147回【アルキビアデス】まとめ回(1) 前編

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アルキビアデスという人物


前回で14回にわたってお送りしてきたアルキビアデス回が終わりました。
結構長くなってしまったため、今回からの数回で、復習がてらこの対話編の要点を振り返っていきます。

このアルキビアデスとの対話篇の主なテーマは、人間の本質となっています。
人間とは、どの様な状態になっていれば優れているのか、どの様にすれば人の上に立てるような優れた人間になれるのかを、野心あふれるアルキビアデスと対話をすることによって考えていくという構成です。
では、対話相手となるアルキビアデスとはどの様な人物なのかというと、ものすごく簡単に言えば、自分のことを優れていると思い込んでいる青年です。

アルキビアデスの具体的な年齢は書かれてはいませんが、話の内容から考えるに、つい数年前まで子供だった成人して間もない青年ぐらいだと思われます。
彼は、自分が優れた人間であり、それ故に、自分には人々を統治する資格があると思い込んでいるため、政治家になって上り詰めようという野心を抱きます。
何故この様な勘違いをしてしまったのかというと、実際に彼は才能に溢れ、一般人と比べると優れていたからでしょう。

彼は地頭が良く美しく、且つ、その状態にあぐらをかかずに努力もしていたようなので、彼から見ると、年をとっているだけで勉強もしていないようなものは劣って見えていたのかもしれません。
それに加えて、実家の太さや両親の人脈の広さから彼自身の顔も広い状態で、これに若い人が持ちがちな万能感もプラスされ、自分が国を率いるべきだ思ってしまったのかもしれません。
そのため彼は、王族に生まれないと指導者になれないような国ではなく、民主主義の選挙によって政治家が選ばれるアテナイへとやってきて政治家を志そうと決心しますが、そんな彼の元へ、ソクラテスがやってきます。

アルキビアデスに手助けをするソクラテス


何故、このタイミングでソクラテスがやってきたのかというと、これまではアルキビアデスとコンタクトをとることを神から禁止されていた様なのですが、その神から『彼と話しても良い』と許しが出たからです。
ソクラテスは、ダイモニアという精霊を通じて神の声を聞くことが出来たそうなのですが、その声によって、アルキビアデスとコンタクトを取ることを禁止されていました。
しかし、アルキビアデスが政治家を志したタイミングで神からアルキビアデスと話す許可が出たので、彼と対話をしようとやってきたわけです。

欲深いアルキビアデス


ソクラテスによるアルキビアデスに対する評価としては、彼はかなり欲深い性格をしていて、現状で満足することはないような人物のようです。
手に入る可能性が少しでもあるのなら、それを手に入れるために行動し続ける様な性格で、それをやめろと言われれば『生きている意味はない』として死を選ぶような人間だそうです。
彼がもし政治家になることに成功したら、次はより権力を握れる将軍の座を狙うでしょうし、将軍の座を得てアテナイを手中に収めたとしても、更に隣国を占領しようとする。

そのようにして、可能な限り多くのものを手に入れようとあがくのが、アルキビアデスの本性だとソクラテスは主張します。
ではソクラテスは、そんな底なしの欲望を持つ彼に対して、欲望を控えるようにとアドバイスをしにやってきたのかというと、そうでもないようです。
ではどの様な理由でやってきたのかというと、アルキビアデスが悪い大人たちに騙されたり利用されたりしないために助言しに来たようです。

フリーライダー

現在でも、才能や能力は持っていて、それ故に大きな野心を持っているけれども社会経験が少ない若者に対して、怪しい大人が近づいてくるというのは結構あります。
ソクラテスはアルキビアデスに対して好意を持っているため、その様なアルキビアデスを利用しようと近づいてくる悪い大人たちから、彼を守りたかったのでしょう。
そのために必要なのが、彼との討論というわけです。 彼に対して討論で持って人間の本質を教えることができれば、彼は自分を利用しようとしている『しょうもない大人』を見分けることが出来るようになります。

そうなれば、彼は自身が利用される前にその様な人達から距離を取ることが出来るようになるわけですから、結果として彼を守ることが出来るようになります。
ソクラテスはこの事を対話篇の中で、『毒の中に入っていくのであれば、解毒剤を持っておかなければならない』といった感じの言葉で表現しています。
その様な状態。つまり、アルキビアデスに解毒剤を持たせるために、ソクラテスは彼との討論に挑みます。

知識の身に付け方


アルキビアデスは政治家を目指しているとのことでしたが、そのために必要になるのが市民に自分を売り込むことです。
今も昔も、政治家は街頭演説などを通して自分の有能さを市民たちに訴えますが、では何の能力があると言って国民に訴えかければ良いのかというと、知識です。
現状よりも国をより良くするために、また、国に何らかの災が降り注いだ時に、それらに対処する知識があることを国民に証明できれば、国民から政治を任せてもらえそうです。

では、知識とは何なんでしょうか。どのようにすれば手に入れることが可能なんでしょうか。
知識というのは、大きく分けると2通りの方法で身につけることが出来ます。 1つは、知識を持つ人から教えてもらうことです。これは、知識を持っている人が執筆した本を読むといった行為も含まれます
もう一つは、自分自身で発見することです。 近代でも古代でも研究者というのは存在しますが、彼らが探求した結果、何らかの研究成果を得ることが出来たとすれば、彼らは自分自身で知識を発見したことになります。

この2つの知識の身につけ方ですが、共通している点としては、自分の知らないことに対して興味や関心を持たなければ駄目ということです。
物事に興味や関心を持つということは、当然、そのことに関しては自分には十分な知識がないということを自分自身で認識していなければなりませんが、その状態で貪欲に知識を追い求めることで知識は身につきます。
逆に言えば、既にその物事については十分に知っていると思い込むなどして興味を持たなければ、その事柄についての知識は身につきません。

アルキビアデスの強み


この事を踏まえた上で、アルキビアデスが持つ知識について考えていきます。
アルキビアデスは、自分が一般市民たちを圧倒するような知識を持っている事を街頭演説を通じて訴えることができれば、自身の思惑通り国民を説得して政治家になることが出来るでしょう。
ではアルキビアデスはこれまでに、どの様な知識を身に着けたのでしょうか。

アルキビアデスがどの様な分野に興味を持ち、探求してきたのかというのは不明ですが、彼は教師によって教育されているので、その分野については知識を持っていることがわかります。
教師からどの分野について教えてもらったのかというと、『読み書き』と『楽器演奏』と『レスリング』の知識です。
ではアルキビアデスはこれらの知識でもって、政治家になって国民を導いていこうというのでしょうか。

彼は当然、『そんなもので自分の優位性を示そうなんて思っていない』と主張します。これは私達が暮らす現代に当て嵌めてみるとわかりやすいと思います。
自分の地域から出馬している政治家が、『私は国語が得意だし、楽器の演奏もできるし柔道も強い!』と誇ったからと言って、その人物に票を入れるかと聞かれれば多くの人が入れないでしょう。
これは別に、国語や楽器の演奏や柔道がなんの役にも立たないと言っているわけではありません。それらが出来たからと言って国の代表になって人々を先導できるのかといえば、出来ないというだけです。

知識にはそれぞれの専門知識があるので、音で人を魅了するためには音楽の知識が役立ちますが、音楽の知識が家を建てるのに役立つかといえば何の役にも立ちません。
これは政治にも当てはまり、政治家になって人々を正しい方向へと先導していくためには、政治の専門知識が必要となります。
では、政治家に必要な専門知識とは何なのでしょうか。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第146回【アルキビアデス】無邪気に人を不幸にする悪人 後編

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ギリシャの神々

ここで、神々と人間である自分を比べるのは不敬ではないのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、繰り返しになりますが、ここで語られている神々がギリシャ神話の神々というのが重要です。
というのもギリシャ神話の世界では、唯一神の世界観と比べると人間と神との距離が身近です。人間と結婚する神々も多くいますし、人間が試練を乗り越えて神になるというヘラクレスのような者も存在します。
神々はある一面において究極的な存在であるだけなので、その他の面を比べると人間と大差なかったりしますし、人間ぽい振る舞いをしてしまったりするのがギリシャ神話の神々です。

この様に、頑張れば手に届きそうな距離感にいる理想像について語るというのも重要なんだと思われます。
何故なら、考えても絶対に答えが見つからないとわかっている事を考え続けられる人間はいないからです。
ソクラテスも、自分が生きている間に自身が求めている答えは見つからないかもしれないと感じていたかもしれませんが、探求することで答えに到達するはずだと考えていたからこそ、生涯をかけて探求したのだと思われます。

自分のことが分からない人間

このようにして、人は自分自身の魂を探求していくことが出来るわけですが、では、このような方法を用いて自分自身を探求してこなかったものが、自分の周りにまとわりついている所有物について正しい判断が出来るでしょうか。
所有物とは、自分の肉体であったり肩書であったり、身につけている衣服や装飾品のことだと考えて貰えれば良いと思います。
自分自身の価値や向かうべき方向性、自分の魂のあり方が分からないものに、それらの所有物の善悪がつくのでしょうか。

これは当然ですが、見分けることが出来ません。 では他人についてはどうなのかというと、自分のことについても自分の所有物のことについても善悪の見分けがつけられないものに、他人の善悪なんてつくはずがありません。
何故なら、自分のことも分からないような節度のない人間には、善悪を測る物差しがないということなので、その様な善悪を見極める基準を持たない人間が、他人の善悪について判断できるはずがないからです。

では、その様な人間が、全国民を良い方向へと導いていく政治家に成れるのかといえば、これも当然ですが成れません。
このことに関しては事の大小は関係がないので、もっと小さなスケールで例えるのなら、そのような人間は自分の家族を正しい方向へと導くことも出来ません。
何故なら、節度を持たない人間は進むべき方向がわからない上に、自分の現在地も把握できていないからです。

また、何が正しいのかもわからないということは、悪いことも無意識のうちに行ってしまうということです。悪いことを行うということは、言い換えれば、自分自身や周りに不幸をばらまくということです。
これについては生まれや財産の量は関係ないため、権力者であれ金持ちであれ、不幸からは逃れることは出来ません。
これを避けようと思うのであれば、つまり自分自身や人々を悪い方向ではなく正しい方向へと導き幸福にしようと思うのであれば、それに必要なのは節度を持ち、何が正しく何が悪いのかを見極められる知識を身につけることです。

無邪気に人を不幸にする悪人

例えるなら、好き放題に食べ物を食べ続けている人が、その食習慣のために糖尿病になったとして、その人が医学の知識がない為に、『美味しいものを食べるのは幸福につながる!』と勘違いして欲望のままにご飯を食べ続けた場合、病気は悪化します。
本人は、自分自身の快楽を優先して好き勝手に楽しいことをしているはずなのに、その行動によって体は確実に悪くなっていきます。
そしてその人が、『食べることはこんなに楽しい!』と悪意なく他人に伝えれば、その話を鵜呑みにした人も同じ様に糖尿病になってしまいます。

勧めた本人は、他の人も自分と同じ様に幸せになって欲しいと勧めたにもかかわらず、その助言によって多くの人が糖尿病で苦しむことになるでしょう。
これを避けようと思うのであれば、人は欲望に身を任せるのではなく正しい知識を身に着け、自分が行っている行動が本当に良いことなのか悪いことなのかを知る必要が出てくるということです。

『良さ』を理解できている人

逆に言えば、もしこれが可能なのであれば、人々が幸福に成るのに財産や権力は必要無いことになりますし、国を守るための強固な防壁も必要がないことになります。
何故なら、良さを解明した指導者が行う行動には絶対的な正義が宿っているからです。そして絶対的な正義とは、関わるもの全てを本当の意味で幸福にする法則の上に成り立つからものだからです。
もし、そのような絶対的な正義を指導者が身に着け、それを知識として国民に分かち合うのであれば、その国民によって作られた国と関わり合いになる他国の者も、本当の意味で幸福となります。

正しい知識によって幸福となった隣国の市民たちは正義に目覚め、その正しい知識を他人に伝えて幸福の波を伝播させていこうとするわけですから、そこに争いは起こりません。
争いが起こらないということは、すなわち、国を守るための強固な防壁も強力な殺人兵器も、屈強な兵士も必要がないということになります。
これは国として理想的な状態にあるため、政治家や国の統治者は、ここを到達点として目指さなければなりません。

政治家になるために

これを実現するために政治家として身に付けなければならないのが、人々を幸福へと導くことが出来る『善悪を正しく見極める知識』です。
何故なら、人は自分が持っていないものを他人に分け与えることが出来ないからです。『善悪を正しく見極める知識』を持たない政治家は、それを国民に分け与えることは出来ません。

極端な言い方をすれば、正しい知識を持っていないのであれば、無知のまま自由に振る舞うよりも、知識を持つ人間の言うことを聞いている方が、まだ幸せになれます。
何故なら、知識を持ち徳を宿している人間は、他人を幸福にしようと道を指し示してくれるわけですから、その方向へと進んでいけば、今よりもより良い状態になることが出来ます。
この事をソクラテスは対話篇の中で、徳を持つ人間は自由に振る舞えばよいが、悪徳な人間は徳を持つ人間の奴隷になった方が良いという言葉で表現しています。

そして当然、政治家を志すのであれば、アルキビアデスは自由人を目指さなければなりません。
アルキビアデスはこの事に納得し、そして、ソクラテスと共に徳を身につけるために探求し続ける道を選びます。
これで、アルキビアデスの対話篇は終わりです。 次回からは、まとめ回に入っていきます

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第71回【財務・経済】負債比率・自己資本比率

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固定長期適合率と固定比率


今回も、長期目線での財務分析について考えていきます。
簡単にこれまでの長期での財務分析について振り返ると、最初に紹介したのが固定費率で、計算式としては固定資産を純資産で割ったものでした。
この固定費率の考え方を簡単に復習すると、不動産など保有しているだけでは何の利益も生まない資産は、返済義務のない純資産で賄えたほうが安全性が高いと考えて作られた数字です。この数字は100%を下回っていれば安全だと考えられています。

そして前回紹介したのが、この固定費率を少し改造した固定長期適合率という指標で、分母の純資産に固定負債を足し合わせて計算します。この数字も固定費率と同じく、100%を下回っていれば安全だとされます。
計算式としては、固定資産を純資産と固定負債の合計額で割って出すもので、長期的な借金があればそれだけ安全性は高まることになります。
『長期的な借金が多いほど安全性が高まる』というと、少し違和感を持たれる方も多いともいます。 これに関しては、詳しくは前回に話しているので、それをまだ聞かれていない方はそちらを聞いてもらいたいのですが…

固定長期適合率の考え方


簡単に振り返ると、固定資産の中には固定負債と密接な繋がりがあるものがあるので、それを加味した上で作られた数字が固定長期適合率だと思われます。
例えば、先程例に出した不動産などは売上に貢献しない固定資産と考えられていますが、その一方で製造業が持つ生産機械などは売上に直接寄与してくる固定資産です。
この機械設備は多くの会社がローンで購入するため、固定負債と密接なつながりがあります。

またこの機械設備の代金は、製品の原価に組み込むことで最終的な製品価格に反映させるものです。 その為、販売計画通りに商品が売れていれば機械設備のコストは順調に回収できることになります。
その回収したコストはそのまま返済に当てられるため、簿記的に見れば、固定資産と固定負債は同額ずつ減っていくことになります。
何故かというと、固定資産は毎年減価償却が行われるため、その減価償却分だけ固定資産は費用化されて減少していきます。

一方で固定負債ですが、これはローンで毎月返済額が決まっている場合が多いため、これも毎年のように減っていくことになります。
そして最終的に固定負債が完済される頃には、固定資産も償却が終わって無くなっていることになります。
こういった機械設備部分の長期投資を分離して考える目的で作られたのが、固定長期適合率だと思われます。

これを聞かれている方の中には、『固定資産の内訳を見て、不動産のような減価償却のない資産と機械設備のような減価償却される資産を分ければ良いじゃないか』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
正直、それは非常に面倒くさいです。 小さな企業であれば問題はありませんが、財務分析というのは上場企業のような大きな会社を分析する際にも使われます。
そういった大きな会社が持つ固定資産をいちいち分類するぐらいなら、不動産や設備機械と言った全てのものを足し合わせた数字として出てきた固定資産というグループを、固定負債と純資産を足し合わせたもので割った方が、計算も楽になります。

財務分析指標というのは、簿記に詳しくない人も簡単に計算ができて使えるように作られているため、それを踏まえて指標を作ろうと思うと、この様な計算式になるのでしょう。

指標の選び方


では、固定比率と固定長期適合率のどちらを使えば良いのかというと、それは会社のやっている事業によっても変わってきます。
サービス業で設備投資が必要のないような会社であれば固定費率を使った方が会社の現状が分かりやすいでしょうし、製造業で多額の設備投資が必要なのであれば、固定長期適合率を使ったほうが良いでしょう。

というのも、固定長期適合率というのは長期的な借金が増えれば増えるほど安全性が増してしまう指標です。
しかし実際問題として、機械設備などを持たないサービス業なのに固定負債が大量にある会社というのは、経営的な問題を抱えていると考えるのが普通でしょう。
極端な例で言えば、訪問型の英会話教師を自分1人出している人がいて、その人が多額の長期借入金を持っていれば経営的にはヤバそうだと考えるのが普通です。その為、この場合は固定負債を含まない固定費率で見た方が状況が良くわかります。

財務分析は複数の指標を組み合わせる


このように、財務分析指標というのは1つだけを使って分析をしようと思うと、問題が出てくる場合も多いです。 その為、複数の指標を組み合わせて使うのが一般的です。
組み合わせ方は、長期・短期・収益面と色々な角度から見れるものを組み合わせるのが一般的ですが、長期的な安全性についても複数の指標を組み合わせた方が企業の姿が分かりやすかったりします。
どの様な指標と組み合わせれば良いかというと、今回紹介する負債比率や自己資本比率もそれにあたります。

負債比率や自己資本比率は、基本的な考え方としては同じで、純資産に対して負債がどれぐらいあるのかというのを表した数字です。
それぞれの計算方法は、負債比率が負債額を純資産で割ったもので、自己資本比率が純資産を貸借対照表の負債の部の合計額で割ったものです。

計算式だけで見ると分かりにくいと思うので、具体的な数字で見ていくと…
仮に借金が600万円あって純資産が400万円ある場合、負債比率は600万円を400万円で割るので150%となり、自己資本比率は400万円を純資産の400万円と負債の600万円を足し合わせたもので割るので、40%となります。
負債比率の方は低ければ低いほど、自己資本比率は高ければ高いほど安全性が高くなります。

これはが何故そうなるのかは、考えてみればすぐに分かると思います。 これらの数字で表されているのは負債額に対してどれぐらいの純資産。つまりは返済不要の自己資金があるのかということを示しているので、純資産が多いほど安全性は高くなります。
これを先程の固定長期適合率何かと組み合わせて考えると、固定長期適合率は借金が大きくなればなるほど安全性が増していく指標ですが、この自己資本比率や負債比率などは借金が大きくなればなるほど安全性が低くなる指標です。
固定長期適合率だけ見ていると安全性に問題がないように見えても、自己資本比率も合わせてみると問題に気がついたりもするので、組み合わせる事で指標の欠点を補えたりもします。

数値の目安


話を自己資本比率と負債比率に戻すと…
では、これらがどれぐらいの数値になっていれば良いかというと、目安としては自己資本比率で50%なんて言われていたりもしますが、これも、業種や経済状態によって変わりますので一概には言えません。
また、これらの安全指標が高過ぎるということは、裏を返せば積極的な投資が行われてい無いことも意味しますので、一概に良いとも言い切れません。

例えば、日本はバブル崩壊後から景気対策のために低金利政策を続けていますし、それによって銀行からの借入金利も相当低下しています。
銀行の借入金利が低いということは、その低い金利でお金を借りて新規事業に投資した際に、儲けが出るハードルが下がっていることを意味します。
具体例を出すと、仮に1000万円を8%で借りることを想定すると、借入金利は年間80万円となるため、事業に投資して得る利益が最低でも80万円以上なければ、事業としては失敗になります。

何故なら、事業で得られた利益を全額返済に回したとしても、借入金利分にも満たないからです。
しかし一方で、借入金利が2%だとするとどうでしょうか。 2%の場合は1000万円に対する借入金利は20万円で済むので、差額で60万円分のコスト減となります。
その為、低金利の状態では借金をして新規事業をする際のハードルが下がります。 この様な状況下では、多く借金をして新規事業に投資した方が資金効率が良いことになります。

そもそも論で言えば、政府が金利を引き下げる政策を取っているのは、この様に投資に対するハードルを下げることが目的だったりします。
その為、この様な時期に自己資本比率が低くなっているからと行って、それがそのまま経営危機に繋がるわけではありません。

この様な経済的な要因以外にも、業種によって自己資本比率が低くなってしまうような場合もあります。
例えば、何も設備がいらないサービス業と多額の設備投資が必要な製造業とでは、借金の額が変わってきます。
また、商品1つあたりの単価が高い不動産業なども、土地の購入費用を全て自己資金で賄うのは不可能だと思われるので、借金比率が高くなりがちです。

指標の推移も重要


さらに言えば、これらの指標は推移が重要だったりします。
これまでに、固定資産と固定負債の関係性などを話してきましたが、多額の設備投資費を長期借入金で賄って返済していく場合、時を経るごとに長期借入金はローン返済によって減っていくため、自己資本比率などは改善していきます。
つまり設備投資の段階で一時的に自己資本比率が悪化したとしても、その後経営が順調に行われて借金が減って利益が増えていけば、自己資本比率は急速に改善していきます。

にも関わらず、設備投資を行った単年度だけを取り上げて『長期の安全性に不安がある』といったところで、意味はありません。
この様に財務指標は、複数のものを組み合わせたり、その推移を見ていくことが重要になってきたりします。

ということで負債比率と自己資本比率の話はこれまでにして、次回は、インタレスト・カバレッジ・レシオについてみていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第146回【アルキビアデス】無邪気に人を不幸にする悪人 前編

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物事を知るには観察から


今回も対話篇『アルキビアデス』に付いて話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、人間が本当に重要視しなければならないのは、人間という存在の外側にある財産や人脈や高い社会的ステータスなどではなく、自分の肉体といった目に見えるものでもなく魂で、その魂を探求する方法があるという話をしました。
どのようにして探求するのかというと、観察です。 どんな分野であれ、物事を詳しく調べようと思うのであれば対象を観察するのは基本中の基本です。それは魂も例外ではありません。

しかし自分の魂というのは、自分の目で直接観察できるものではありません。 これは魂に限らず、観察したいものを観察したいもので観察するというのは不可能です。
例えば人間の目というのは、外の世界を観察するために付いている器官ですが、この自分の目を、自らの目で観察することは不可能です。
自分の目を自分の目で観察しようと思うのなら、鏡のような光を反射する道具を利用して間接的に観察しなければ、自分の目を観察することは出来ません。

では鏡がなかったらどうするのか。 先程の目の例で例えるなら、鏡がない場合は観察しているものと似たようなものを利用することで、間接的に観察が可能となります。
つまり目の場合で言えば、誰か他の人の目を間近で覗き込めば相手の瞳に自分が映るため、相手の目を見ることで自分の目を観察することが出来るようになるということです。
ソクラテスの主張によれば、これは人間の魂を観察する際にも当てはまり、人間の魂は人間の魂と似たようなものを利用することで、観察が可能になるようです。

探求を続けるものを客観視する


では、人間の魂と似たような存在とは何かというと、これには2つあり、1つは自分と同じ様に魂について日々探求しようと頑張っている者との対話です。
人の魂とは、人間が動くきっかけになる『決断をする意識』のようなものと考えられますが、この決断は人との対話によって変わります。例えるなら、自分が尊敬している人からアドバイスを貰えば、そのアドバイスに従う形で行動を変えるようなものです。
人が行動を起こす際の順番的には、まず行動しようと決断を下してから行動を起こすため、行動を変えるというのは決断を変えている事と同じです。 つまり、人との対話は人の魂に作用するということです。

そして人というのは自分と同じ様に善悪について探求しているものと対話すると、魂を磨くという行為を客観的に観察することが出来るようになります。
例えば、一人でゴルフの打ちっぱなしに行くと、自分のスイングのどこが悪いのかが分かりにくいために改善もしにくいですが、他人のゴルフスイングを見ていると駄目なところが目につき易いと思います。
仮に自分がプロではなく、素人で練習の途中だったとしても、明らかに下手な人を見ると治すべきところや直したほうが良い方向性が分かったりもします。

この様に、自分自身の行動は自分自身では確認しづらいですが、同じ様に練習している人を見ることで、何がよくて何が悪いのかが客観的に理解しやすくなります。
やってはいけない事ややるべき事を他人の行動を通して認識することが出来れば、次の自分の練習にも活かしやすくなり、一人で黙々と練習をしているよりかは良い方向へと近づきやすくなります。
これは、善悪の区別をつけるという事柄についても当てはまるということです。

自分と同じ様に善悪を見極める知識を探求している人と話すことで、真実に近づいているのか、それとも横道にそれていってしまっているのかが客観的にわかりやすくなります。
これは対話相手も同じで、相手もこちら側の意見を客観的に見ることが出来るために、こちらの発言を受けて考えを修正していきます。
結果として、議論を通して互いが互いの意見を客観視し、正しい部分と間違っている部分、本質とは全く関係ない部分を見極めることで、議論そのものが正しい方向へと向かっていきます。

魂位の鏡としての神


残りのもう一つの方法は、神々について考えることで、これを行うことで魂を磨く行為に繋がります。
ここで注意としていっておくと、ここで取り上げられている神様とはキリスト教徒などが信仰している、絶対的な存在としての唯一神のことではありません。
ギリシャ神話に登場する神々のことです。

このギリシャ神話の神々というのは、人間の価値観であったり感情や精神状態、他には科学的な法則といったものを擬人化した存在です。
例えば勇気であったり愛情であったり嫉妬といった感情や、酒を飲んで酩酊している状態、その他には雷や時間といった概念などが、神様としてキャラクター化され、様々な神話に登場しています。
今の日本で言えば、様々な概念や建物などが擬人化されてマスコット的に利用されていたりもしますが、そういった存在だと考えると分かりやすいかもしれません。

この様にギリシャの神々というのは、人間の精神や物理学といった現象を擬人化した存在であるため、ギリシャ神話の神々について真剣に考えるということは、真理の探求をするというのと同じ行為です。
その神々の中でも、人間の本質を元にして生まれた神々というのは人間の魂に似ているため、これらのことを真剣に考えるというのは、その行為がそのまま魂を磨く行為に繋がります。
特に神々というのは、それぞれが人間の持つ感情や価値観の究極の形をキャラクター化したものであるため、自分自身の魂を見るための鏡としては最も美しいものとなります。

例えば、アフロディーテは美しさという概念や、美しいものを目に前にした際の人間の感情の動きなどを表していますが、このアフロディーテについて真剣に考えることは、美しさという概念について考えるということを意味します。
アフロディーテについての考察は、前に取り扱った対話篇『饗宴』で行われていますので、まだ聞いていない方や、聞いたけれども忘れてしまった方などはもう一度聞いてみてほしいのですが…
美しさという概念一つとっても、なかなか『これ!』といった答えを出すことは出来ません。

例えば、美しさというのは外見のことなのか、それとも内面のことなのかといった単純なことですら、簡単に答えはでないでしょう。
しかし、神々の名を出して語られる際のテーマというのは、常に『究極の存在について』であるため、相対的に見比べる対象を観察するための鏡として用いる場合は、最も美しい鏡となります。

人間の魂を見るための鏡


先程のアフロディーテの例で言えば、アフロディーテが象徴している美しさというのは、単純な見た目の話なのか、それとも人間の振る舞いの話なのかというのは明確な答えとしては出てきません。
ですが、美しさを語る際にアフロディーテの名前を出すということは、そこで語られる美しさというのは究極の美しさのことだということになります。
その究極に美しい存在であるアフロディーテについて議論をすることで、少しは美しさについて理解が進むわけですが、そこで多少なりとも明らかになった美しさの概念と自分自身の現状を比べるというのは、言ってみれば神と人間を比べるようなものです。

当然、美しさにおいて究極の存在であるアフロディーテと自分を比べると劣っているところしかないわけですが、そのようにして今現在の自分自身と見比べる鏡として用いるには、神々は最高の存在だというわけです。
わかりやすく現実レベルまで落として考えるために、先程だしたゴルフスイングの例で説明するのであれば…

下手な者同士が互いに自分たちのスイングを見せ合い、この部分を変えたほうが良いと互いに言い合って練習すれば、一人で黙々とやっているよりかは客観的目線が入って練習がはかどったりします。
しかし、それよりももっと効果的なのは、この世で一番上手いプレイヤーのスイング動画を用意した上で、その動画と自分たちのスイングとの違いを互いに指摘しあって練習することです。
ゴルフスイングに絶対の正解があるのかどうかはおいておいて、現状で一番の成績を収めているプレイヤーの実際のスイングというのを手本にして練習したほうが、上達しやすいでしょう。

人の精神についての探求も同じで、ギリシャの神々はある一面において究極の存在だとはいわれていますが、ではその究極の状態というのがどのような状態なのかというのは解明されていないために語られていません。
しかし、その神々が登場する神話には、過去の人達がそれぞれの概念について考えた理論が詰め込まれています。
それらの理論や考えというのは、絶対的な答えには辿り着いていないので、神話には絶対的な正解が書かれているわけではありませんし、それぞれの人々が自分なりの解釈によって神話を作るため、神話によって神々の振る舞いが変わったりもします。

しかし、人々から受け入れられなかったり否定されるような神話というのは、すぐに消えてしまうと思われます。
つまり神話として一定の年月語られてきたものであったり言い伝えというのは、長い間、人々から信頼されてきたという実績がある理論とも考えられます。
長年人々を惹きつけてきたり、納得させてきた理論というのは、一定の確からしさというものがあるようにも思えるため、これらについて探求するという行為には意味があります。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第145回【アルキビアデス】堕落への対抗策 後編

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堕落への対抗策


では、魂を映し出す鏡で自分自身の魂を見るとは、どういった意味なのでしょうか。
これを理解するために、もう一度、普通の鏡で自分の姿を確認するという状態について考えてみます。

目で見て観察するという行為を少し掘り下げて考えてみると、目というのは光を受け止め、それを情報として脳に送り届ける器官です。
目には光を情報に変換して脳に送り届けるという卓越性があるため、人は目を開いて何かを観た際に、その光の反射によって世の中を認識することが出来ます。

この目ですが、当然ながら限界があります。 人の目が感知できる光は可視光線という幅に限定されていますし、その可視光線が反射しないものは目で見ることが出来ません。
つまり、人の目が捉えられる情報は、可視光線が反射するものに限定されるということです。逆に言えば、その条件に合ってさえいれば、人は目で見て認識することが出来ます。
目で見て確認することが出来るのは光の反射なので、人間が見える範囲の光をそのまま反射できる物体、つまり鏡のようなものがあれば、本来なら見えないようなものも目で見て認識することが出来ます。

例えば自分自身の目などは、鏡などの道具を用いずには見ることが出来ません。光を反射させる何らかの物体を通してでしか見れません。
では、光を反射させる物体というのは、鏡などの人工物しかないのかといえばそうではなくて、人間の体でいうと人間の目がそれに当たります。
少しややこしいので例を出すと、人が他人の目を間近で覗き込んだ場合、相手の瞳の中に自分の顔が反射して見えるということです。

前に、アイドルの自撮り写真を拡大し、瞳に写っている景色から住んでいる家を割り出した人がいる… 何てことがニュースとして取り上げられていましたが、考え方としてはこれと同じです。
他人の目を覗き込めば、鏡として利用が可能ということです。 この事をもってソクラテスは、自分が持つ目という体の器官は、他人の目という似たような器官を使うことで、その存在を確認することが出来ると主張します。
つまりは、確認したいと思うものと似たような存在があれば、それを利用して自身の存在を確認することが出来るということです。

魂を映し出す鏡


話を魂を映し出す鏡の方に戻すと、魂というのは光を反射するわけではありませんから、当然、普通の鏡を使ったところで自分自身の魂を観察することは不可能です。
おそらく世界中を探したとしても、そして科学がどれだけ進んだとしても、人の魂を映し出す鏡なんてものは出てこないでしょうから、物質としての魂を映し出す鏡なんてものはないでしょう。
しかし先程ソクラテスは、観察しようとしているものと似たようなものがあれば、それを利用して自分自身を観察することが出来ると主張していました。

先ほど紹介した、他人の目を覗き込めば、相手の目が鏡の役割を果たして自分の姿が見えるというアノ理屈です。
つまり、自分の魂と似たような存在があれば、その存在を使って自分の魂を観察することが出来るということです。
では、自分が持つ魂と似たような存在は何なのかというと、卓越した存在になろうと探求を続けている他人の魂であったり、神そのものです。

探求を続けている他人の魂


まず『探求を続けている他人の魂』が何故、人の魂を見るための鏡に成るのかというと、これは先程の目で見るという行為のたとえ話と理屈は同じだと思われます。
善悪を見分ける知識を宿し、他よりも卓越した人間になろうとしている人間は、同じ様に頑張っている人の近くに行って相手と内面をさらけ出して対話をすれば、結果として自分自身を知ることが出来るということでしょう。

これは言葉で聞くと難しく感じますが、私達が日常生活を送る中でも頻繁に起こっていることだと思います。
例えば、仕事であれ趣味であれ、何かに真剣に打ち込んでいる人と対話を行えば、その話し合いの中でその対象についての自分の考えなどが明らかになってくると言ったことがないでしょうか。
同じ方向に向かって進んでいる相手と話して相手のことが理解できれば、その相手と自分を比べることで自分を客観視しやすくなります。

わかりやすさを優先するために、誤解を恐れずに別の表現をすると、対話を行うことで相手がどれぐらいのレベルかを知ることが出来、その相手と自分を比べることで、自分の位置を知ることが出来るといった具合でしょうか。
ただ、この時に気をつけないといけないのが、行うべきなのは討論であって、論破合戦ではないということです。
自分の存在を持ち上げたいがために相手の揚げ足を取り、相手の言葉を意図的に間違った解釈をし、時にはゴールをずらしたりして相手を論破したとしても、その行為には何の意味もないということです。

何故なら、その様な口喧嘩では、相手の方もそんな人間とはまともに議論をしようと思いませんから、相手の魂を正確に知ることが出来ないからです。
相手の魂を正確に知ることが出来ないということは、それと自分の魂を正確に比較することが出来なくなるわけですから、その様な口喧嘩は無意味となります。
相手の意見をよく聞き、わからないところは質問し、違うと思うところには素直に意見を言うという建設的な対話を行うことで、相手も知ることが出来、結果として自分も知ることが出来るようになります。

魂の鏡としての神


次に、人の魂を見る鏡は神だという話についてですが…
この神というのは、キリスト教で言うところの唯一神としての神のことではありません。 ギリシャ神話の神々のことです。両者の違いとしては、ギリシャ神話の神々の方が、より人間に近いです。
というのもキリスト教の神様というのが絶対的な善の象徴として人の手に届かないような語られ方をしているのに対し、ギリシャの神々というのは人間の精神であったり価値観の一側面を切り取って、象徴化したものだからです。

例えばエロスやアフロディーテというのは、人間が感じる美しさというイメージの究極の形に名前をつけて、神として扱っているものです。
軍神アレスは戦地へと赴く兵士の勇敢さを象徴するような神様ですし、同じく軍神アテナは、ゼウスの頭から生み出されたとされているので、軍事だけでなく知識をも宿してい存在とされています。
他にも、人が酒を飲んで酔っ払った状態を表している神様など、人の感情であったり状態などを神様扱いしているのがギリシャ神話の神様たちです。

このギリシャ神話の神々が、何故、人の魂の鏡に成るのかというと、先程も言いましたが、神そのものが人間の精神を研究して作られたものだからでしょう。
神というのは人間の魂を観察して探求し、魂がどの様な成分でできているのかを研究した結果として生まれたものなので、根本的な性質としては同じものと考えられます。
特に、人の魂の中でも説明が難しいもの、これは卓越性だとかアレテーと呼ばれているものですが、この部分は言葉での説明が難しいということで、その概念はそのまま、神として昇華されていたりします。

前に取り扱った対話篇の『饗宴』では、美しさというテーマだけで1冊の本になっていましたが、それでも『美しさ』というものがどういうものなのかという明確な答えは出ませんでした。
この様に、概念としては確実に存在していて、実際に人間が心を動かされる存在だけれども、それが何なのかが説明できないものは、デフォルメされてキャラクター化し、神となっています。
その為、人間の魂とは何なのかというのを究極レベルで考えていくと、それは結果として、神について考えることと同じことになってしまいます。

つまり人間の魂と神々は似たようなものと考えることが出来るため、神々は鏡として利用することが出来るということになります。
これらの鏡を利用することで、人は自分の魂について観察し、探求することが出来るようになります。
そして、探求をして『自分自身を知ること』を節度と言います。

では、節度のない人間。つまりは、自分の魂の研究を一切せず、自分が何者であるかもわからないような人間が、自分が所有しているものについて『これが悪い、これは良い』と判別することが出来るんでしょうか。
このことについては、次回に考えていきます。


参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第70回【財務・経済】固定長期適合率

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固定比率の計算式


今回も、財務分析で長期的な安全性を測るための指標を紹介していきます。
今回紹介するのは固定長期適合率です。
この指標は、前回に紹介した固定費率の計算式に少し変化を加えただけのものとなります。

その為、固定費率が分かっていなければ今回の話の理解もしにくいと思いますので、まずは前回紹介した固定費率の復習を行っていきます。
まず固定費率の計算式ですが、これは【固定資産÷純資産】で計算されます。
この式の意味合いとしては、固定資産というのは基本的には利益を生まない資産として固定されているものなので、この固定資産分のお金は純資産として持っておいた方が長期的には安全ですよねという感じで作られたようです。

固定資産の考え方


固定資産が利益を生まないというのは、例えば土地などで考えてみれば分かりやすいと思います。
例えば不動産屋のように、土地を転売したり貸し出したりして利益を得ているような会社であれば、不動産は利益を生み出す大切な商品となるので少し意味合いは変わってくるのですが、それ以外の大半の業種が持つ土地は何の利益も生みません。
例えば卸売会社が自社で取り扱う商品を置くために倉庫を所有していたとすると、その土地部分と減価償却されていない建物部分は固定資産として固定されてしまいますが、ではこれが具体的に利益を生み出しているかと言われれば生み出してはいません。

むしろ、土地を保有することで毎年固定資産税を取られてしまうので、会社の利益は圧迫されてしまいます。
ここで『仮に土地を持っていなければ誰かに借りなければならないんだから、そうすれば家賃が発生してしまう。自社で倉庫を持っていれば家賃が必要ないのだから、実質利益が出る!』という反論をしたいという方もいらっしゃると思います。
しかし、会社の利益というのは売上からコストを引いて計算するため、本来なら支払わなければならないはずのお金を節約できたから利益が増えるなんてことにはなりません。

『家賃の支払い分だけコストが下がるのだから、結果として利益は上がるはず!』という反論もあると思いますが、仮に、この会社が自社で土地を買って建物を建てなかった場合、この会社はその分の資産を現金として持つことになります。
その現金を別の事業に投資していれば、更に大きな利益が得られていた可能性もありますので、その可能性も計算に含むとすると利益が得られるとは考えません。
ここで、『事業に投資したところで、支払家賃以上の金なんて稼げるはずがない!』という反論も出てくると思いますが、そういう方は、本業を辞めて不動産業を始めたほうが良いです。

そもそも会社というのは、貸借対照表の負債の部にあるお金を運用して利益を上げるというのが役割です。
その運用方法の一つとして『事業を行う』というのがあり、製造業であれば製造を行い、サービス業であればサービスを行って利益を上げるわけです。
その製造やサービスの対価として得られる利益が、不動産の家賃に負けてしまうほど利益率が低いのであれば、そんなサービスは辞めてしまって、全額を不動産投資に回して不動産業として事業を行っていく方が良い事になってしまいます。

不動産投資の運用で得られる利益率はだいたい5%前後と言われていますが、製造業やサービス業をして利益が5%にも達しないのであれば、辞めてしまって不動産投資に集中した方が良いということです。
このようにして考えると、不動産などの固定資産は持っていることで利益を生まない資産と考えることが出来るので、その固定資産は、返済義務のない純資産で賄われていたほうが望ましいと言うのが固定費率の考え方です。

固定長期適合率の計算式


これが固定費率の考え方だったのですが、今回紹介する固定長期適合率では、計算式が少し違います。どのように違うのかというと、分母が純資産ではなく、『純資産+固定負債』となっています。
分母が固定負債の金額ぶん大きくなっているため、無借金でもない限り、先ほど紹介した固定費率よりも出てくる数字は値としては小さくなります。
この固定長期適合率も、100%以内に収まっているのが望ましいとされています。

固定資産の種類


では何故、固定負債を足し合わせるのでしょうが。 これは、固定資産の内訳を見ていくと理解しやすいと思います。
固定資産には、先ほど紹介した土地といった利益に直接結びつかないような資産もありますが、これがないと利益を生み出せないといった固定資産も存在します。
わかり易い例で言えば製造機械などの設備です。 製造業で全ての工程を手作業で行うといった仕事でもない限り、生産工場では何らかの製造機械を導入しているはずです。

その製造機械がなければ、利益の源泉となる売上を上げるための製品が作れないので、この固定資産は事業を行う上では絶対に必要なものといえます。
そしてこの製造機械は、多くの会社が銀行から借金をして購入します。 この銀行の借金は返済期限が1年以上にわたって続くものが多いため、貸借対照表には固定負債として記載されます。
この場合、借金をして機械を購入するというのは、固定負債を増やして固定資産を購入していることになるため、この投資に限定して見てみると、増える固定負債と固定資産はほぼ同額ということになります。

そして事業計画がしっかりしている場合、この固定資産と固定負債は同じように減少していくと考えられます。
何故かというと、まず固定資産から見ていくと、購入した製造機械は毎年減価償却を行っていき、その金額分だけ固定資産は減少していきます。
一方で固定負債は、毎月ローンを返済するわけですから、毎年返済分だけ減少していくことになります。

減価償却の金額とローン返済額はだいたい似たような金額になると思われるので、この投資の場合は固定資産と固定負債は同じように減少していくことになります。
何故この様な関係になるのかというと、減価償却の基本的な考え方としては、例えば償却期間を10年とした場合は10年で機械を使い潰すことになります。
10年で機械を使い潰すということは、機械の購入費を10で割って、その金額をコストに組み入れるということです。 つまり、製品の製造単価を出す際には、その金額を含めて原価計算しないと駄目だということです。

そうしなければ機械の購入費用が捻出できないので、当然と言えば当然ですよね。
例えば機械が1000万円で10年で使い潰す場合は、その機械の年間のコストは100万円です。 その機械を使って年間10万個の製品を作って販売する場合、製品1個あたりに機械の償却費として10円分のコストを組み込む必要があります。
これをしなければ、10年後に機械が壊れた際に機械を書い直すことができなくなります。 この1個10円のコストというのは、製品が売れれば回収されるわけで、その回収した金を返済に回せば、無理のない返済ができることになります。

これが物凄く単純化した設備投資と減価償却と返済の流れですが、この様な無理のない事業計画を立てれば、基本的には機械などの減価償却が発生する固定資産と固定負債の金額は同じ様な金額となります。
これが、純資産に固定資産を足し合わせている理由と考えられます。

固定長期適合率の考え方


つまりこの固定長期適合率というのは、固定資産を大きく2種類に分割し、減価償却が発生しないような不動産などの固定資産に関しては純資産でまかない、機械などの設備投資といった減価償却がある固定資産部分については、固定負債で賄うのが望ましい。
それらを2つ足し合わせると、固定資産を固定負債と純資産を足し合わせたもので割って値を出すという計算式になります。

ここで、『固定負債は毎年返済していくんだから、この固定長期適合率では毎年分母の方が小さくなる。 その為、ローンを返済するほど安全性が低くなるのではないか?』と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
事業がまともに行われていれば、そんな事にはなりません。 というのも、何度も繰り返すことになりますが、企業というのは貸借対照表の負債の部に記載されているものを、資産の部にあるもので運用して利益を上げる為に存在しています。
その運用がしっかりと行われているのであれば、毎年利益が発生します。 その利益は最終的には貸借対照表の純資産に組み込まれることになるので、企業が利益を出し続けていれば、純資産は増え続けることになります。

先程も少し説明しましたが、固定負債で調達して購入した機械の代金は、コストとして商品価格に上乗せされて回収されることになります。
そのコストを差し引いて残ったものが利益となるため、利益が出ているということは、固定長期適合率の数字は小さくなることを意味します。 何故なら、固定負債の減少額と同程度に固定資産も減少するからです。
固定資産と固定負債が同程度で減少する中、純資産が増加するわけですから、基本的には固定長期適合率の値は小さくなります。

もし、この値が大きくなるということは、赤字が出て純資産が減少しているということになるため、事業計画が狂ってきている事が考えられますし、赤字が出れば安全性に問題が出てくるのも当然といえば当然ですよね。
その他には、減価償却のない不動産を借金して購入し、返済が進んだというケースもありますが、こちらも本当にコストの圧縮ができていれば利益が出て純資産が増えているはずです。
にも関わらず固定長期適合率が高くなるということは、資産の運用効率が悪いということになるので、事業を見直すきっかけにすべきでしょう。

ということで固定長期適合率の話はこれぐらいにして、次回は負債比率についてみていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第145回【アルキビアデス】堕落への対抗策 前編

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必要なのは討論


今回も、対話篇『アルキビアデス』を読み解いていきます。
前回は、人の本質とは見た目の美しさや持っている財産、社会的地位などではなく、魂だという話をしました。
魂というのは、人が何か行動を起こす際に行う決断と考えてもらって良いと思います。

人がどこかに出かけようと思う場合、大抵は目的地や行うことを決めた上で行動を行います。
例えば、『食材がないので買いに行こう』だとか、『何もすることがないので暇だから、気分転換に外に出よう』といった具合に、人はまず決断をしてから行動を起こします。
その決断を下す主体のことを、魂と思ってもらって良いと思います。

ソクラテスの主張によると、この世に存在するものは、物質や概念的なものを含めて、それらを全てより良くするための知識や技術が存在するようです。
その理屈を人間の本質にも当てはめるのであれば、仮に人の本質が魂であるのなら、人間としてより良い存在になるために必要なのは魂を磨くための知識や技術となります。
では、その技術とは何なのかというと、大雑把に言えば、魂を磨くための技術や知識を探求している人達と討論をすることです。

人の考えや行動というのは、他者との対話によって変化します。 例えば、自分よりも優れていると思われる人からアドバイスを貰ったり、討論をした結果、自身が行動を変えるべきだと納得した場合、人の行動は変わります。
先程も言いましたが、人の行動というのはまず最初に決断をすることによって決まるわけですから、討論によって人の行動が変わるということは、討論によって決断をするプロセスに何らかの変化があった事が予測されます。
この決断に関わるプロセスそのものを魂と呼んでいたわけですから、これに変化を与えることが出来る討論というのは、魂を磨く行動と捉えてもよいのでしょう。

対話相手


しかし討論相手というのは誰でも良いのかといえば、そんな事はありません。 相手は、人の魂をより良い方向へと導く方法を探求している人に限られます。
仮にそれらのことを一切考えたことがないような人物。ソクラテスに言わせれば大半の一般大衆がそれに当たりますが、その人達と討論をしたところでより良い方向へと進む道は見つかりませんし、何なら魂が堕落してしまったりもします。
魂が堕落するとは、人間の本質がより悪い方向へと劣化してしまう事を意味しています。

討論にはこの様な性質があるため、ソクラテスは、アルキビアデスのように政治家を志す人間は特に、この事を肝に銘じて置かなければならないと注意します。
なせ、政治家になろうとする人間は特に気をつけなければならないのかというと、悪意を持った人間が周りに集まってきがちだからです。
政治家というのは、国のシステムを作ったり変えたりする仕事です。 その為、政治家の行動によって損失を被ったり、逆に大きな利益を得たりする人達も出てきます。

こういった人達は自分の立場を有利にするために、力が有ったり有望だと思える政治家に擦り寄り、様々な事を言ってきたりします。
しかし、そうして寄ってくる人たちの多くは人間の本質について考えたこともありません。そういう人達が興味を持つのは、自身の欲望を満たすことであったり、その欲望を満たす手段である金を得ることだったりします。
もちろん、政治家に近寄ってくる人達全員が、自分のことだけを考えているサイコパスということはないでしょう。 現状の国の問題点を指摘して、今必要なことをやってくれと陳情にやってくる人もいると思います。

ですが割合としてみると、人間の本質について探求し、『人がどうすればより良い方向へ進んでいけるか』を考えている人は極少数でしょう。
また、市民のことを考えて陳情にやってくる人たちも、人間の善悪について真剣に討論したことがあるのかといえば、していなかったりするでしょう。
この事を予めわかった上で彼らと接するのであれば、彼らと対話をしたとしても予防線を張れるために魂の劣化は防げますが、この事を知らない状態で彼らと対話し続けてしまうと、自身の魂も劣化してしまいます。

堕落への対抗策


ソクラテスは対話篇の中でこの事を解毒剤と表現し、それさえ持っていれば毒の中に飛び込んだとしても助かる見込みはあるとしてアルキビアデスに説明しています。
これは今風に言えば、伝染病に対抗するためにワクチンを打つようなものでしょう。何の対策もせずにいれば、悪人から魂が劣化するような話を聞かされて自身も悪人へと変化してしまう。
しかし、事前に『この世の大半の人間は人間の本質について考えたことがなく、そんな彼らが良いと主張するものは人間の本質には全く関係のないものだ』という考えをワクチンとして自分の頭の中に入れておけば、彼らからの汚染は防げるというわけです。

自分自身を見る


ではアルキビアデスは自らの魂を磨くために、誰と対話を行えば良いのか。
彼の目の前にはちょうど、善悪を見分ける知識について人生をかけて探求しているソクラテスがいるので、アルキビアデスにとっては彼と話すのが良さそうです。
ということでソクラテスとアルキビアデスは、魂の磨き方について対話していくことになります。

ソクラテスはまず、デルポイという神からのお告げを聞く神殿にある石に書かれた文章を紹介します。
そこには、『あなた自身を見ろ』と書かれているそうですが、その文章が自分の魂を磨く方法を考えるヒントになるのではないかと主張します。

『あなた自身を見ろ』という言葉をストレートに受け止めるのであれば、鏡を覗き込む行動がこれに当たります。
人間が何らかのものをより良い存在に改良しようと思うのであれば、まず、その対象をよく観察する必要があります。
これは人間自身にも当てはまり、自分という存在をより良い状態に改良しようと思うのであれば、自分自身を観察しなければならないということになります。

しかしこれまでの話の流れで、本当に鏡を覗き込んだとしても意味はありません。 何故なら、人間の本質とは目で見えるものではないからです。
自分を鏡で見て映し出される外見というのは、肉体であったり衣服であったりするわけですが、これらは人間の本質ではありません。人間の本質はその内側にある魂です。
その為、魂を改善・改良するためには、魂を映し出す鏡が必要となります。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第144回【アルキビアデス】人の本質は魂 後編

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人の魂を愛する


例えば、ギリシャの中でもトップレベルの美貌を持つ彼に対して、誰かが恋心をいだいて近づいてきたとしましょう。
その者が、彼の人間としての本質ではなく外見のみに注目して近寄ってきている場合、アルキビアデスが年老いたり、中年になって太りだしたりして醜くなってしまえば、その者はアルキビアデスの元を去っていってしまうでしょう。
別のものが、アルキビアデスの持つ財産に注目して近づいてきた場合、彼が事業で失敗するなりして破産してしまえば、これまた彼の元からは離れていくでしょう。

しかし、近づいてくるものがアルキビアデスの人間としての本質、魂に惚れ込んで近づいてきているとすればどうでしょうか。
この者は、アルキビアデスが良い存在であろうと魂を磨き続ける限り、決して離れることがありません。
仮に彼の外見が崩れようと、金や地位を失おうと、そもそも、相手はそんなものに引かれていないので、それらを失ったとしても離れてはいきません。

この者が離れていくことがあるとすれば、魂を磨く行為をやめて堕落していったときのみです。
では、どういった状態になれば、魂は堕落してしまうのかというと、民衆たちと関わることによって魂は堕落していきます。
なぜ民衆たちと関わると堕落するのかというと、彼らは人の本質を良くするという点においては何の努力もしていないからです。

善悪を知った気になっている民衆


この事は、この対話編でもそうですし過去に取り扱った対話篇でも頻繁に出てきましたが、大半の民衆というのは、良い悪いという基準を勉強したことも自分で見つけ出そうと必死で考えたこともないにも関わらず、知っている気になっています。
知っている気になっているので、当然のようにこの事について勉強しようなんて思いませんし、なんなら『あなたは善悪の区別がつかないんじゃないの?』なんて指摘されれば、多くの人が気分を害するでしょう。
なぜ気分が悪くなるのかといえば、善悪の見極め方を知っていると思い込んでいるからです。 しかし大半の民衆は、何が善で何が悪かなんてそもそも考えたこともないわけですから、当然、善悪の見極め方なんて知りません。

善悪の基準がわからない人間は、当然のように良い人間への成り方なんてものも知りません。何故なら、善悪の区別がつかないのに良い方向なんてわかるはずがないからです。
では、一般市民達がどの様な基準で話しているのかというと、これはアルキビアデスが前に主張したとおり、自分にとっての損得勘定で動いています。
つまり、自分にとって都合が悪いことは悪だし、都合の良いことは善だと言っているだけです。

魂を磨くための行為


では逆に、魂を磨くための行為とは何なのかというと、善悪の基準や人の本質については知らないということを認め、そのことについて探求しているものと対話することです。
人の本質とは魂で、その魂とは決断を下す意志だと先程言いましたが、この意志は、人の説得によって揺らいだり変わったりします。
この対話編でもアルキビアデスはソクラテスに指摘される度に自分の主張を変えていき、最終的には自分の無知を認め、善悪の基準や人間の本質について興味を持ち、探求しようとしています。

この様に、問題に対して真摯な態度で挑むものと対話を行うことによって、自分も問題に対して真摯に向き合えるようになり、結果として良い状態に近づくことが出来ます。
ここで言う良い状態とは、善悪について考えることが出来るということを意味しています。
自分が知識がないにもかかわらず知った気になっているために勉強をしない状態と、自分の無知を認めて勉強をする状態、どちらが良いかを比べると、勉強をしている状態のほうがマシな状態と言えるからです。

もしかすると、自分の無知を認めてた上で、人生をかけて善悪や人間の本質について探求する道を選んだとしても、真実には到達できない可能性もあります。
というよりも、ソクラテスの時代から約3000年たった今でも、これらのことについては明確な答えが出ていないわけですから、人間1人分程度の寿命を使って死ぬまで考えたとしても真実には到達できない可能性のほうが高いでしょう。
それでも全く何も行動しないよりかは、何らかのアクションを起こした方が少しは真実には近づけるでしょう。

魂の美しさを見定めようとする者は少ない


この様に、人は良い人間になろうと懸命に努力している人間と対話をすることによって、自分自身も良い方向へと進み出すことが出来ます。
しかし、先程から繰り返しいっていますが、人間の本質や、その本質をどうすれば良い方向へと導くことが出来るのかを日々探求している人間というのは、ごく少数です。
これは、今現在の状況を見てみてもよくわかると思います。

わかり易い例でいえば、マッチングアプリで結婚相手を探す際に一番優先されるのは、男性であれば年収ですし、女性であれば見た目や年齢だったりするでしょう。就職活動をする際には学歴が重要視されることもあるでしょう。
ここまで大きな事柄ではなく、単純に友だちになりたいと言った場合であっても、見た目が良い人や金を持っている人のほうが、単に知り合いを増やすという点においては有利に成るでしょう。
この事から分かることは、世の中の大部分の人は、ソクラテスが言うような人間の本質については、余り考慮していないということです。

先程、例として挙げた年収や年齢や外見といったものは、ソクラテスが人間の本質では無いと否定したものです。
つまり、それらを持っていたからといって人として優れているとは限りませんし、良い人間とも限らないわけです。

本質を見極めることの重要さ


もし彼らが悪人であるなら。つまり、金は持っているけれども人間の本質としては悪。 もしくは、外見は良いけれども人間の本質としては醜い者である場合は、彼の外見や金に惑わされて近づいていくと、不幸になってしまいます。

何故なら、悪人とは周囲の人間に害悪を撒き散らして、不幸にしていく存在のことを指すからです。
逆に言えば、自分自身が幸せになろうと思えば悪人から距離を取る必要が出てくるわけですが、悪人たちは悪人たちで、不幸にするための人を引きつけるために様々な偽装をして、人々をおびき寄せようとします。
例えば、『人間の本質』について考えたことがない人たちが良いものだと信じて疑わない、財産や学歴や社会的な地位を持っていると偽装することで、無知な人達をおびき寄せるわけです。

では何故、悪人はわざわざそんな労力をかけてまで人々を引きつけて不幸にしていくのかというと、そうすることが自分自身の人生にとって良いことだと信じているからです。
例えば、現在でいうと迷惑系youtubeなんてものがいますが、何故、人に迷惑をかける様を動画で撮って全世界に公開するのかというと、ネットで自ら炎上を起こすことでフォロワー数が増えるからです。
人は良くも悪くも、知名度さえ上がってしまえば注目をさらに集めやすくなるため、フォロワー数が増えれば影響力が大きくなります。

マタイの法則って言うんですかね。

マタイの法則


悪目立ちすることで注目されれば、『注目されている人なんだから凄い人なんだろう』と勘違いする人が増えてきて、結果として影響力が大きくなります。
今現在もそうですし、昔もそうだったんだと思いますが、影響力というのはそのまま、社会的地位や金銭に直結します。
youtubeで言うなら、フォロワー数が多ければ多いほど動画の収入アップに繋がりますし、コラボや企業案件の依頼が来れば、更に影響力が増して社会的地位は高くなっていきます。

つまり、最初に他人に迷惑をかけたりだとか、社会的地位や人脈、金を持っていると嘘を言ってフォロワー数を稼いでしまえば、社会的地位や人脈や金はあとから付いてきたりもするわけです。
この方法は、誰がやっても成功するなんて事はありませんが、一見するとコツコツ働くよりも楽そうなので、挑戦する人達は一定数存在します。
ただ、自分の利益のために他人に迷惑をかけたり嘘を言うことが良いことだと錯覚しているような人達なので、基本的な性質としては悪人です。

そして、悪人と交われば交わるほどに魂は堕落し、自身も悪人になってしまいます。では逆に、魂を磨くにはどうすればよいでしょうか。そのことについては次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第144回【アルキビアデス】人の本質は魂 前編

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それぞれの専門知識

今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、この世に存在するものは全て、それらをより良くするための専用の知識があるはずだという話になりました。

例えば人間というものを想像した際に、人が着ている服をよりよく改良しようと思うのであれば、デザイン知識や裁縫技術といったものが必要となります。
人の肉体に焦点を当てれば、運動やストレッチについての知識やトレーニング技術が必要となりますし、人の体をもっと詳しく見るのであれば、爪には爪の、肌には肌の手入れをするための技術や知識があります。
これは、目で見ることが出来ないような肩書や職業についても同じです。それらをより良くしようと思えば、それぞれ専用の知識なり技術なりが必要になってきます。

人の本質は魂

では、これらの中でどれが人間の本質なのかというと、これはどれでもありません。
というのも人の本質とは何かを探っていくと、人というのは何かしらの行動を起こす際には何かしらの決断を下すことで実行をしますが、その実行に関わるものを考えると、先程あげた肉体や服や肩書とは到底思えないからです。
では人間の本質とは何なのか。 この対話編では、人の決断に関わるような事柄を魂として取り扱っていきます。

この世にあるモノや概念には、それ自体を良くしていく専用の知識や技術があると先ほど言いましたが、人の本質を魂だとする場合、当然、その魂にも良くするための専用の知識や技術があるということになります。
つまり、人の魂を良くするための技術と、人の肉体や、それに付属する財産といったものを良くするための技術というのは違ってくるということです。
何故、この様に人の本質を見極めたり、それを改良するための技術や知識という存在について細かく考えていかなければならないのかというと、ここをハッキリしておかないと正しい答えが出ないからです。

もし人の価値が財産の量で決まるなら

前回に挙げた例で説明すると、もし人間をより良い存在にしてくれるものが、財産やそれを稼ぎ出すための能力だと言う話になってしまえば、人々はお金を手に入れるためにあらゆる事に手を染めてしまうでしょう。
真面目に働く事で金を稼ごうと思うのであれば良いですが、普通に考えれば働いて金を稼ぐよりも、誰かが働いて貯めたお金を奪い取るほうが手っ取り早いので、詐欺や強盗といった事が頻発することが予測されます。
『例えが極端すぎるだろ!』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、財産の額のみが人の価値を測る尺度であるのなら、この例えは極端すぎる考えではありません。

『何故なら、財産は真っ当な方法で真面目に稼がなければならない』なんて条件はどこにも付いて無いからです。もしこの条件付を行う場合は、結果としての金よりも稼ぐ手段の方が重要だということになりますから、前提が崩れてしまいます。
このような感じで、金の代わりに別のものを当てはめて行くことで『人間の本質とは何か』というのを考えていくと、わかりやすいかもしれません。

もし『見た目の美しさ』=『人の価値』なら

例えば財産の代わりに見た目の美しさを当てはめて考えてみるとどうなるでしょうか。
見た目の美しさを磨くことが人間の本質の上昇に直接つながると考えるのであれば、人の生活の全ては外見を磨くことに向けられるべきだということになります。
働く場合は美容関係や服飾関係で働くのが良いことになりますし、そこで得られた給料は全て、自分の見た目を美しくするために使った方が良いです。

本を読む場合はファッション雑誌を読むのが一番良いということになりますし、結婚相手を探す場合は、とにかく見た目の良い人と結婚するほうが良いということになります。
何故なら、幸せになるためには良い人と一緒に暮らすのが一番良いからです。 人間の本質が『より美しくあること』であるのなら、良い人とは美しい人ということになるので、外見的に美しい人と一緒にいることで幸せになれることになります。
もし子供が生まれれば、その子供には美しく成る事を目指すように育てるべきです。何故なら、美しくなることこそが人の価値を上げて人を幸福へと導いてくれるからです。

この様な世界観では、醜く生まれてしまえばそれだけで、不幸が確定してしまいます。 その為、醜く生まれたものは整形をするなり何なりして、見た目を美しく変える必要が出てきてしまいます。
人が生まれる状態というのに注目して考えてみると、生まれながらに目が見えない盲目の状態で生まれてしまえば、その子供はかなり不利になるでしょう。というのも、自分の目で美しさというの観察し、学習できないからです。
自分がどの様な姿形をしているのかが確認できませんし、服や仕草なども目で見て確認することが出来ませんので、美しさを探求することができなくなってしまいます。

このたとえ話の前提では見た目の美しさが幸福に直結するわけですから、目が見えない為に見た目の美しさを追求できないということは、幸福に成るための探求や努力をすることが出来ないということを意味することになります。
幸福に成るための努力や探求が出来ないということは、その者が幸福に到達することは出来ないということを意味します。
ソクラテスは、人は幸福に成るために生まれてきたといった感じのことを言っていますが、頑張っても幸福になれないのであれば、生まれてきた意味がないことになってしまいます。

人は手持ちのカードで勝負するしか無い

では、実際の世の中はそうなっているのかというと、そうとは言い切れません。
私は目が悪いですが眼鏡をかければ普通に見える程度の視力なので盲目の方の気持ちはわかりませんが、あの方たちは目が見えなければ見えないなりに、独自の方法で幸せになれる方法を探し出して実践しているのではないでしょうか。
この世界は目が見える人のほうが圧倒的に多いので、目で見るタイプの娯楽がかなり多い状態です。盲目であればそれらを楽しむことは出来ないわけですから、楽しめることが減ることは確かでしょう。

しかしだからといって、生まれてこなければ良かったと言ってしまえるのかというと、そんな事も言えないでしょう。 人は手持ちのカードで勝負するしか無いので、人が幸福を求めるのなら、与えられたもので精一杯、幸福を追求するしかありません。
この様に、人間の本質は何なのかというのを定義し、その本質をより良くするためにはどの様な知識や技術が必要なのかを理解し、その知識や技術を突き詰めていった先に幸福があるのか無いのかを考えていくと、問題がわかりやすくなると思います。

人間の本質

では、人の本質とはなんなんでしょうか。 それを明確に言い当てることが出来て、それをより良くするための知識や技術がわかれば良いのですが、ソクラテスはその答えを持ち合わせていません。
しかし正解を推測することは出来るので、彼は人間の本質を『魂』だと予測します。
魂だけでは分かりにくいので補足すると、人間は行動を起こす際にはまず決断をして、その後で行動を起こします。この意思決定する存在のことを魂と呼んでいます。

人間は無意識の中で、本能のみに従って行動しているわけでは無いと思われます。
ソクラテスは、人と動物との間に差があるのなら、それは理性の有無だと別の対話篇で言っているので、人は本能に従って動くのではなく、理性によって本能を抑え込んだ上で考えて行動していると思われます。
その『考えて決断をする存在』のことを、彼は魂だと表現しています。 そして、この魂を基準にして考えることが重要だとソクラテスは主張します。

参考文献