だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第155回【パイドン】人はいつ真理を忘れるのか 前編

広告

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

対話篇メノンの想起説


今回も、対話篇『パイドン』について話していきます。
前回は、対話篇『メノン』に登場した想起説の振り返りを簡単にしたあとで、『パイドン』で再び登場した想起説について途中まで話しました。
想起説を詳しく知りたい方は、対話篇のメノンを取り扱った回や前回をまず聞いて欲しいのですが、それが面倒くさい方のために極簡単に説明すると、人の魂は死んだあとも消滅せず、何ならこの世の全てと一体化して真理とも1つになるという説です。

何故、この様なトンデモ理論が出てきたのかというと、メノンが『探究のパラドクス』というソクラテスの活動を全否定するような疑問を投げかけてしまったからです。
探究のパラドクスと言うのを簡単に説明をすると、答えを知らないもの同士でいくら話し合ったところで答えは出ないし、仮に答えが出てもそれが正しいかどうかを確かめようがないという主張です。
この主張に対してソクラテスが出したのが、人は死んだ後にカオスと一体化して真理を得て、その後に再び魂が復活して肉体に宿るので、人は生まれながらに真理を得ているという主張です。

対話篇のメノンでは、この主張のあと実際に、学校で教育を受けていないメノンの従者を使って、正方形の1辺を何倍にすれば、正方形という形を保ったままで面積を倍にできるのかという問題を彼に解かせるという方法で、想起説を証明しようとします。
人が、過去に教育されたことしかわからないのであれば、何の教育も受けていない人間にルートが絡む算数の問題を解くことは出来ないはずですが、メノンの従者は何の知識も入れることなく、この問題を解くことに成功します。
何の教育も受けていないのに何故、彼は難しい問題を解けたのか。 ソクラテスこれに対して、生まれながらに答えを知っていたからと考えるのが自然だと主張します。

パイドンでの想起説


これがメノンに登場した想起説ですが、パイドンでもこの理論が登場し、こちらの方では『学習というものは想起することだ』という結論に追加で別の説明が加わります。こちらも簡単に説明すると…
人は何か情報に接した際に、大抵の場合はそれと似たような情報を思い出して比べます。
何らかの技術に接した際には、自分がこれまでに見たり触れたりした技術の中で『目の前のそれと似ている技術』を思い出しますし、新たな知識を目にした際は、過去に学習してきた知識の中から共通点を探したりします。

もっと直感的な例で言えば、初めて人とあった際にその人が芸能人でいうと誰に似ているのかなんて感じで、似ている人を思い出そうとします。
この時に思い出されるものというのは、その人の中では何らかの共通点があると思われるので思い出される、つまりは想起するわけですが、その似ているものそのものは、人によって感じ方が違います。
例えば、誰かを見た際に『誰々さんに似てるね』と一緒にいる人に共感を求めた場合、全員が確実にその意見に同意するかといえばそんなことはなく、『そうでもなくない?』という人が一定確率で現れます。

この場合、似ていると主張したアナタと、そんなに似ていないと主張する人物とで、モノの捉え方が違うことを意味します。
ものの捉え方は違いますが、この両者で共有している価値観は存在します。 それが、『同じ』という概念です。
『似ている』とは、比べているモノ同士がどれぐらい『同じ』かを表す言葉なので、似ている似ていないという議論は、比べている対象物とそれがどれほど同じなのかと言い争っているのに過ぎません。

共通の概念


つまり、『同じ状態』から距離が近いか遠いかで議論しているだけです。その為、この議論の中心には『同じ』という概念があり、その『同じ』という概念は両者が正しく認識しています。
この『同じ』という概念そのものの意味があやふやだったり分からなかったりする人間は、おそらくいないはずです。
人にはこの様に、確信を持っていい切れる物が存在します。 では私たちは、この『同じ』という概念をどこで身につけたのでしょうか。

もし、人間が生まれてから『同じ』という概念について学んでいないのにもかかわらず、感覚的に知っているのであれば、生まれた時から知っていることになります。
この『生まれる時から知っている状態』ですが、この様な状態になるのは可能性としては二通りあります。1つは、知識を持った状態で生まれてくる。
これは、脳にデータが書き込まれた状態で人が誕生するということです。 寄生獣という漫画では、寄生生物が人間に取り付いた瞬間に『この種を食い殺せ』という衝動に駆られたそうですが、その様な感じで生まれた瞬間からデータがある状態です。

もう1つの状態は、生まれる前から知っていた状態です。 これは、前にも話しましたが、ソクラテスが推している説です。
もし、このソクラテスの説が正しいとするのであれば、私達が学習と呼んでいるものは新たな知識を身につけるための努力ではなく、既に知っている情報を思い出すための行動だということになります。

では人の知識というのは、生まれた瞬間に脳に書き込まれて『知識を得ている状態』になるのか、それとも、生まれる前の魂の状態では知っていたものが、魂が肉体に宿ることで大部分の知識を忘れてしまっているのか、どちらになるのでしょうか。
このようにして考えると、生まれる前から知っていたけれども、魂が肉体に宿ると同時に記憶の大部分を忘れてしまうと考えるほうが自然です。というのも、人が生まれた瞬間には知識は何もないからです。
生まれると同時に脳に情報が書き込まれるというプロセスの方も想起説と同じ様に知識を忘れているだけだとするのであれば、その情報は書き込まれると同時に忘れてしまうことになります。

人間が誕生すると同時に、ある一定の概念の情報が知識として書き込まれ、それと同時に忘却してしまうというのは、意味がわかりません。
じゃぁ、人間の魂が肉体に宿ると同時に記憶の大半を忘れてしまうという現象は理解できるのかと言われると難しいですが、こちらの方が、先程の例に比べると理解はしやすい方だと思います。
というのも、こちらにはタイムラグや死んでいる状態から生きている状態への変化といった分かりやすいキッカケがあるからです。

人はよく忘れる


人間は、一度覚えたことでも時間が経つと忘れてしまったり、何かしらの強いショックによって記憶が飛んでしまうことというのは結構あります。
よく知っているはずの人の名前が思い出せないなんてことがよくあったりしますが、それなどはこの典型的な例と言えるかもしれません。
人は時間が立ったり、極度の緊張などの体調変化でド忘れしてしまうことは結構あります。

この程度のことで記憶が飛んでしまうわけですから、魂の状態だったものが新たな肉体を得るという大き過ぎるショックであれば、記憶をなくすキッカケとしては十分と考えられます。
一方で先ほどの説である『生まれた瞬間に脳に書き込まれるが、それと同時に書き込まれた情報を忘れてしまう』というのは、何のタイムラグも変化も無いため、説得力がありません。
これを聞かれている方の中には『本を読んでも1度ですべての内容を暗記できるわけではないため、学習と忘却は同時に起こりうる』と反論される方もいらっしゃるかもしれませんが…

それはそもそもが記憶出来ている状態とは言えません。 本を読んだ瞬間に忘れてしまっている状態というのは、学習したことが身についている状態とは言えないため、記憶は出来ていないと考えられます。
ちゃんと学習できていない為に知識が定着していない状態なので、これを『知識の取得と同時に忘れてしまった』とするのは無理があります。

例えば、学校では定期的にテストがありますが、そのテストに出題される内容は教科書に書かれている内容です。 それを覚えているかどうかをテストするのが、学校で主に行われるテストです。
テストには回答を促すための問題が書かれているわけですから、教科書を1度読んで知識が定着したれども、単に忘れてしまっているだけであれば、問題を見た瞬間にある程度の答えは思い出されるはずですし、答えを見れば納得するはずです。
しかし、テストで答えを思い出せないどころか答えを見ても、何故、その答えになるのかが分からないような状態と言うのは、学習ができていない状態と言えます

参考文献