【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第95回【メノン】アレテーは後天的なもの? 前編
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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次
今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて、考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。
想起説の復習
前回までの内容を振り返ってみると、『アレテーとは何か』という点について、知らない者同士が語り合うことで答えを見つけ出そうと提案したソクラテスに対し、メノンは『探求のパラドクス』を出して反論してきます。これに対してソクラテスは、想起説で迎え撃ちます。 想起説とは、人は肉体が滅びて魂だけになった後に、この世の全てと混ざりあうので、結果として、この世の真理を得ているという考え方です。
全ての人間は真理を得ていますが、人が再び生まれ変わる際に魂が肉体に宿ると、そのショックで記憶を失ってしまう。
記憶自身は完全に失っているわけではなく、単に忘れているだけなので、様々な知識や考えに触れていくと、それが呼び水となって記憶が呼び覚まされる。
この一連の出来事は、既に持っている記憶が蘇るだけなので、その際には確信を持って、知識を思い出したと言える。
人が新たにものを学ぶとは、一度得たものを再び思い出すという行為なので、アレテーについて知らないと思い込んでいる2人が話し合ったとしても、答えには辿り着けるという理論です。
この、忘れた記憶を呼び覚ます為に必要なのが、仮説を立てて推測するという行動です。
この行動によって、正しい答えと似たようなモノまで辿り着くことが出来れば、その刺激で思い出せるというわけです。
アレテーの正体を推測する
メノンは、このソクラテスの説明に納得し、共に、アレテーを見つけ出す為に対話を始めました。この部分の説明ですが、前回の終わりでは、少し早足になっていたので、今回は、少し丁寧に振り返っていきます。
まず最初は、アレテーとは『善い』ものなのか、それとも『悪いもの』なのかについて考えていき、善いものだと同意しました。
次に、アレテーとは教えられるものなのか、それとも、教えられない様なものなのかという点について考えていきました。
これは言い換えるなら、アレテーとは知識のようなものなのか、それとも、運動神経のような感覚的なものなのか、どちらに近いものなのかという事です。
この対話篇のストーリーは、そもそも、メノンがソクラテスに対して『アレテーについて教えて欲しい』と質問したところから始まっていますし…
そのメノンは、師匠のゴルギアスによって『アレテーとはどのようなものか』について教えてもらったと思い込んでいました。
この一連の行動は、『アレテーとは教えることが出来る』と決めつけての行動なのですが、本当にそうなのでしょうか。 もしそうであれば、アレテーを知っている人を探し出して、教えてもらうことが出来ます。
これを考えるために、まず、『アレテーを宿している』という状態はどの様な状態なのかを探っていきました。
徳を宿している状態とは
もし、『アレテーを宿す』というのがどの様な状態なのかが分かれば、そこから『知識』を差し引いてみれば、アレテーの本質がどちらに宿っているのかが分かりそうだからです。アレテーの本質は『善いもの』と仮定しているわけですから、この仮定のもとでは、『アレテーを宿したもの』から『知識』を差し引いて、『善いもの』がまだ残っていれば、『アレテーは教えられないもの』になるというわけです。
逆に、『アレテーを宿したもの』から『知識』を差し引いて、『善い』という概念が残らなかったら。 『善いもの』という状態は、差し引いた知識の方に宿っていることになり、アレテーの本質は知識の側にあるという事になります。
では、どの様な状態が『アレテーを宿す』状態なのかというと、他の人から『優れている』だとか『卓越している』と思われている状態の事だと分かりました。
どの様な人が『優れている』と思われるのかというと、健康的であったり強靭な肉体を持っていたり、美しい容姿をしていたり、巨額の富を持っている様な人が、『優れている』とか『卓越している』と思われやすい。
ですが、これらのものは、人にとって良くも悪くも作用します。 最初の前提でアレテーは善いものという前提をおいていますし、そもそもアレテーとは人を幸福に導いてくれるものなので、これらは『善い』状態の時のみ、アレテーに属すると考えます。
では、善悪をどの様に判断するのかといえば、『目的』です。 『目的』が『善い目的』の時だけ、その手段は『善いもの』と言えます。
この考えを当てはめて考えると、アレテーを身につける最終目標を『善い』とされている幸福とする時、その手段である『健康』や『造形美』や『巨万の富』は、『善い』ものであるといえます。
しかし、健康的な肉体や造形美、巨万の富といったものは、現実世界に実物として存在するものなので、概念でしか無い『知識』を差し引くことは出来ません。
概念を差し引きする
例えば、分数の計算でも同じですが、『足し算』『引き算』をしようと思えば、分母を合わせるなど、計算できる状態に変換する必要があります。つまり、『知識』という概念を差し引くためには、『アレテーを宿している状態』を、知識と同じ様な概念で考え直す必要があります。
ソクラテスの考え方によると、人間は肉体的な部分と魂、つまり、精神的な部分に分けることが出来るとしていて、『具体的な形のない概念』は、魂の領分ですので、この魂の分野で『アレテーを宿す』事について考えます。
精神的な面で『優れている』とされている人は、どのようなものを備えているかというと、『勇気』や『節制』『物分りの良さ』や『記憶力』といったものを備えている人間が、優れた良い人間だと思われます。
これらも先程と同じ様に、人を良い方向へも悪い方向へも導いてしまうものです。 アレテーとは幸福へと導いてくれるものなので、これらの手段を備えることで良い方向へ向かうものだけをアレテーとする場合…
『目的』の善悪に注目する必要があります。 自分自身を幸福へと導いてくれる、『善い目的』の為に発揮される『勇気』や『節制』や『物分りの良さ』が、アレテーの要素ということです。
これらの『善い目的』の為に行われる手段である『勇気』や『節制』や『物分りの良さ』といったものから、『知識』を差し引いて、『善い』という概念が残るのか残らないのかを見極めることで、『アレテーは知識の様なもの』かを判断していきます。
勇気に関しては、前に取り扱ったプロタゴラスでも出てきましたよね。 その際の勇気の本質は、『知識のようなもの』という事になり、プロタゴラスはこの説に対して有効な反論が出来ませんでした。
その時の対話によると、勇気と似たような精神状態に、元気や大胆さというものがありますが… 相手が強いのか弱いのかを全く知らない状態で、元気に、そして大胆に飛びかかっていく行為は、勇気とは言えませんよね。
一方で、相手の実力が凄く、強敵である事を自分も周りの仲間も知っていて、その強敵を相手に戦略を駆使する事で勝てると分かった状態で立ち向かい、実際に勝った場合。
勝利した自分は、周りにいる人達からは、勇気ある人物だと評価されることになります。
また、自分自身の主観としても、相手の実力が高いと知っている状態で、尚且、立ち向かっていかなければならない時に振り絞るのが、勇気ですよね。
勇気には、自分が立ち向かう敵に対する知識が必要不可欠で、それがない状態で立ち向かっていく行為に勇気は宿りません。
徳には知識が必要
これと同じことが、『節制』や『物分りの良さ』にも当てはまります。 節制とは、自分自身の欲望を抑える行為ですが、『社会の秩序を守ること』という正しいとされている目的を成し遂げたいという欲望まで抑え込んでしまうのは、良いとは言えません。自分の欲望のままに行動して、不正を行うという行為には『節制』が必要になりますが、『地震などの被災現場に訪れて、復興ボランティアに参加し、現地の人達の笑顔が見たい』という欲望は、抑えるべきではありません。
『節制』を正しく行うためには、何が社会の為になり、何が不正となるのかの『知識』を持つ必要があります。
『物分りの良さ』も同じで、反社会勢力の方たちの口車に乗って、犯罪行為に加担するというのは、褒められた事ではありません。
その物事を受け入れて自分の行動に反映させるという『物分りの良さ』は、受け入れることで自分自身が善い方向へ進めるだろうという『知識』がなければ、何を受け入れて良いのか、何を断るべきなのかの判断がつきません。
これらの事から、『勇気』や『節制』や『物分りの良さ』という、『アレテーの一部』とされているものは、知識がなければ成り立たない事が分かります。
これにより、アレテー全体なのか、それとも、その一部分なのかは置いておいて、アレテーとは知識や知性のようなものという推測が成り立ちました。
この推論に基づいて考えると、知識というのは才能のように、生まれ持ったものではなくて後天的に学習するものなので、誰からも教育されること無く、生まれながらにしてアレテーを持つものが居ない理由も納得が出来ます。
ソクラテスの意見を厳密に考えれば、想起説によって全ての人はアレテーを持って生まれてくる事になりますが、それは生まれる際に全員が忘れるとしているので、全ての人は自分の中にあるアレテーを認識していないという事です。