だぶるばいせっぷす 新館

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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第154回【パイドン】あの世の存在証明 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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想起説の具体例


具体例でいうと、例えば学校で算数を学んで足し算が出来るようになり、そのルールを完全に理解できるようになったとすれば、その応用である掛け算は、優れたものであれば自力で編み出すことが出来るようなものです。

人は近い情報に接すると、それと近い情報を思い出すという性質があります。 掛け算というのは分解して考えれば、同じ数字を複数回足すという足し算の応用でしかありません。
足し算という概念すら知らないものが一足飛びに掛け算を編み出すことはありませんが、その前提となっている足し算を理解できれば、それと近い考えである掛け算には自力で到達できる者もいるということです。

もし仮に、学習の末に真理に到達出来たとすれば、真理はあらゆるものに通用する法則のようなものなので、そこに到達できている状態というのは、既にあらゆる者を見通すことが出来るほどの知識を得ている状態ともいえます。
その状態で『自分は真理を得た』と確信できる様になったのであれば、その確信は正しいのだろうと言う理屈です。

これが想起説の概要で、メノンの疑問である探究のパラドクスを破るためには、この想起説の様に何らかの方法で、見つけ出した真理が正しいか間違っているかを判断できる状態にしなければなりません。

想起説が正しいとするのなら


そして仮に、この想起説が正しいとするのであれば、魂は死後にも消滅せずに残ることとなります。

というのも、仮に魂が消滅してしまうのであれば、そこで知識の連続性が絶たれてしまうからです。 知識の連続性が絶たれてしまうと、人は無垢の状態で生まれてゼロから知識を蓄えていかなければなりません。
そうすると、先ほどのメノンの疑問である『探究のパラドクス』を否定できなくなります。これはつまり、仮に真理に到達できたとしても、その答えには確信が持てない為に探究の旅が終わらない事を意味します。
真理を得ても確信が持てないので、その答えが本当にあっているのかどうかはわかりません。 これは、目指すべきゴールがわからない状態でさ迷い続けているのと同じ状態なので、真理を求める意味がなくなります。

真理は幸福になるために必要となる知識なので、これが見つけられないとなると、人は幸福を見つけ出すどころか幸福の意味すらわからずに、ただ生まれて死ぬだけの存在となってしまいます。
ソクラテスはそうは考えたくないため、想起説という話を打ち立てたのでしょう。

これが、メノンで語られた想起説の簡単な説明ですが、この対話篇『パイドン』では、これをベースにして話が進んでいきます。
ということで次は、パイドンで扱われている想起説を見ていきます。

パイドンで登場する想起説


人が何かを見る際に、その人は見たものだけをそのまま情報として取り入れるといった機械のような行動は取りません。
先程も言いましたが、例えば仮に、自分に好きな人がいたとして、その人が特定のジャンルの服をきていたとしましょう。 そういった場合、その人が着てそうな服を見るだけで、好きな人を思い出したりします。
この場合、その人は服という人間ではないものを見て、それと関連する情報として想い人を想起することになります。

逆も同じで、坊さんに腹の立つ行為をされた場合、彼らが制服のように来ている袈裟をみるだけで腹がたったりもします。 『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』なんて言ったりもしますよね。
これは人に限った話ではなく、人は何らかのものを見た際に、そこに共通するものであったりパターンを見出そうとします。
この『似たようなものを探す』といった行為は、全て、過去に見たものを思い出す行為である『想起』となります。

何故なら、見たことも無い物との共通点を探すなんてことは出来ないからです。 何かしらの共通点を探すという行為は、過去に見てきたものと見比べること以外には出来ません。
この様に、人は何かしらの情報を得た際に、過去に得た情報と比べて『同じものなのか、それとも違うのか』と比べてしまうものなのですが、では、『同じものだとして比べている物』それ自体は、人それぞれで同じなのでしょうか?

対象に抱く感情は他人ごとに違う


素人目からみると同じようなものに見えるのに、その道のプロに話を聞くと全く違うという事はよくあります。
例えば、印刷のプロは、私達が見ても同じ色にしか見えないような同じ様な色を見比べて、それらの色の違いを見つけ出して塗料の調整をしたりします。
逆に、世界の何処かに住む部族の人間は、虹を見ても7色に見えずに3色にしか見えないそうです。

ではその部族に属している人間は、身体的に何らかの欠損があって判断ができないのかというとそうではなく、野草の見分け方など他の分野では私達よりも遥かに高い識別能力を持っていたりするそうです。
何故、このようなことが起こるのかというと、人間が住む環境によって言葉そのものの発展の仕方が違うからです。
例えば、見渡す限り一面の雪景色の中で暮らしている場合は、視界に入るものの大部分は白色であるため、白色以外の色を見分ける必要があまりありません。

その為、色を表す言葉そのものが少なくなったりします。 一方で、その様な地方に住んでいる人にとって雪の状態を知ることは重要なので、雪の色を表す表現が多岐にわたっていたりするそうです。
つまりこの部族の人たちは、虹を見ても3色にしか色を見分けることが出来ませんが、同じ白色である雪の色は、その状態によって見分けることが出来るということになります。
この様に人は、自分にとって不必要であるものを見分けることは出来ませんが、必要な事柄であれば細かく分類して見分けることが出来るようになります。

ちなみにこの事は、『オオカミ少女はいなかった』という本に書かれているので、興味がある方は読んでみてください。

これらから分かることは、世の中に存在する物事や物の捉え方というのは人毎に違うということです、では、『同じ』と言う概念はどうでしょうか。

『同じ』という概念についての共通認識


同じという概念は共通で、これが変わることはありません。 もし仮に『同じ』という概念が人ごとに違っていれば、会話が成り立ちませんし、数学・算数も成り立たなくなってしまいます。
同じというのは数式の記号で表すと『=』ですが、この捉え方が人それぞれで変わってしまうのであれば、数式は人によって答えが変わってしまうことになります。

『同じ』という概念そのものは人が意味を共有できている状態ですが、それを物事に当てはめると、定義が違うために答えにばらつきが出るだけです。
ここから分かることは、『同じ様な事柄』というのと『同じという概念』と言うのはそれぞれ違うものだということです。
では、この私達が共通して持つ『同じ』という概念は、どこから来るのでしょうか。

先ほども言いましたが、人間は何か物事に触れた際に、『これは何かと同じだ・似ている』『同じようなこと・似たようなことを経験したことがある』と、自分の知識の中から似ているとされている参照元を引っ張ってきます。
この際に出てくる参照元というのは、過去に見たり聞いたりした出来事や知識であるため、行われるのは『思い出す』と言う作業であり想起となります。
そして『似ている』というからにはどこかに差異が存在するため、人は『どこが違うのか』というのを目の前の出来事と参照元とを見比べて違いを探そうとします。

そして、『どこが同じなのか』『どこが違うのか』その違いを決めるのは私達の感覚です。繰り返しになりますが、その感覚は人それぞれであるため、何が同じで何が違うとするのかという判断は人それぞれで変わってしまいます。
しかし、同じという概念そのものは変化することはありません。 同じものとして『=』で結ばれるという概念そのものには、人それぞれで差異は存在しません。
では、誰にも習ったわけでもなく教え込まれたわけでもないのに、人はなぜ、『同じ』という概念を正確に知ることが出来るのか。

このことについては、次回に話していきます。

参考文献