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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第155回【パイドン】人はいつ真理を忘れるのか 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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kimniy8.hatenablog.com

知識を身につけるとは


ソクラテスのいう想起、つまり一度覚えた知識を思い出すという行為は、呼び水さえあれば、つまり知識を誘導するような条件が整っていれば自動的に起こる。つまりは勝手に思い出される状態を指します。
この勝手に思い出されるレベルの知識というのは、その事柄に対して相当理解が進んでいて、その状態で記憶として定着していないと無理です。

他の例えでいえば、特定分野の専門用語を暗記するために、語呂合わせで覚えるようなものです。
一つ一つの専門用語を反復練習によって覚えたとしても、その専門用語をいざ全て思い出して書いていこうと思うと、結構難しかったりします。 仮に用語が10個あったとすれば、普通の暗記だけでは2~3こ抜けてしまうというのは結構あります。
しかし、その専門用語の頭文字だけを取り出して10語で作られる文章を作ってそれを暗記すれば、その10で作られた言葉を思い出すだけで、専門用語をもれなく書き出すことが出来るようになったりします。

これは、最初の一文字を呼び水にして、既に覚えて定着している専門用語を思い出している、つまり想起している訳です。
この手法は、そもそも専門用語を覚えていなければ使えません。 大本の専門用語を覚えていなければ、いくらヒントを出されたからと言って思い出すことはありません。
このレベルの知識の定着を、1度本を読んだだけで可能なのかというと、多くの人にとっては無理でしょう。少なくとも私には無理です。

つまり先ほどの指摘である、『本を1度読んでも、その瞬間に内容を忘れてしまうことがある』という状態と、定着した知識を一時的に忘れている状態とは状況が全く違うということです。
これを踏まえた上で考えると、近しい知識をヒントとして与えられるだけで答えが導き出される程の知識の定着が、人間が生まれた瞬間に行われ、それと同時に知識を全て忘れてしまうというのは無理があります。
ここまでの流れをまとめると、人が真理に到達してそれが間違いなく真理だと認識するためには、導き出した真理が絶対に正しいと確信を持って言える状態になければなりません。

人はいつ真理を忘れるのか


ソクラテスは、その状態になるためには人は既に真理を得ていなければならないと考えます。 既に正しい真理を得ているのであれば、見つけた真理が正しいかどうかの判断が自分自身で可能になるからです。
しかし人は、既に知っていることを探究して見つけ出そうなんてしません。 何故なら、既に知っているからです。また、この主張は私たちは真理を理解していないという事実と異なります。
その事実と整合性をとるために、既に知っていたけれども生まれた瞬間に忘れてしまったという主張をします。何故なら、覚えていた状態から忘れてしまった状態に移行しているだけなら、近い情報を得ると答えを思い出せるからです。

では、人はいつ真理を得て、いつ真理を忘れてしまったのか。 確かなことは、私たちはこの世に生まれてから真理を忘れるというわけではないということです。
仮に生まれた後で忘れるのであれば、この世で一番賢いのは生まれたての赤ん坊だということになります。 しかし赤ん坊にはそこまでの知能は見られませんし、自分たちの事を思い返すのなら、物心つくまでは意識もハッキリしていなかったはずです。
このことから、人はこの世に生まれた段階で既に真理を忘れているということがわかります。

人は既に真理を得ているが、この世に生まれた時点では既にその知識は忘れているとするのなら、ではどの状態の時に真理を得ていたのかというと、時系列としては生まれる以前ということになります。
人には生まれる以前が存在、つまり肉体を授かる以前が存在するということは、人には魂だけで存在していた時期があるということになるというのが、ソクラテスの主張となります。
結構トンデモ理論のように聞こえますが、何故、ソクラテスがそこまでして魂の存在を強調するのかというと、そうしなければ『探究のパラドクス』を破れないだけでなく、知識に関して説明できないことが多すぎるからです。

探究のパラドクス


まず探究のパラドクスを破れないことについてですが、これが破れないと、いくら考えたところで真理には到達できないということになるため、探究することに意味がなくなります。
探究することに意味がなくなるのであれば、人が考えることは無駄なこととなるので、本能のままに暮らした方が良いことになりますが、これでは動物と同じです。
ソクラテス曰く、人と動物とを分けるものは理性であって、理性的とは本能ではなく考えて行動する事ですが、この考えることが無意味なら人は理性的である必要もなく、本能に従って動物的に生きれば良いことになります。

では実際問題として考えることは無意味なのかというとそうでもなく、人々が考えた結果として科学や文明は生まれているわけですし、その結果として暮らしやすい世の中になっています。
人々の暮らしが安全で便利で良くなっているということは、人は探究によって良い方向に進んでいっているとも考えられます。
つまり探究のパラドクスは、指摘そのものは正しいようにも思えますが、現実に起こっている事を踏まえて考えると、反論する余地があります。

その他に説明できない部分を考えるために、文明の発達や進化という観点で見ていくと、その過程には多くの発明が存在するわけですが、それらは一歩一歩階段を登るように地道に作られてきたかといえばそうではありません。
優れた発明品は発明者の閃きによって作られていることが多く、その閃きには理論の飛躍があることが多々あります。 この閃きですが、これは想起によく似ています。

想起する


ソクラテスが主張する想起説の想起とは、日々の探究によって答えに近いところまで行くと、正しい答えを思い出すという物です。

近いところまで考えが及ぶと正解を思い出すわけですから、そこには理論の飛躍があります。 理論の飛躍があったとしても、実験した結果、自分が思い描いた通りの結果が得られれば、それは正しいこととされます。
知識は一歩一歩階段を登るように身につくものではなく、勉強量に正比例するわけでもなく、一定レベルの知識が身につくと、一気に『物事が理解できる』レベルに飛躍して到達してしまいます。
この感覚は、自分で一つ一つ地道に解明した結果として到達したというよりも、忘れていたものを思い出している感覚に近いです。

これは技術などでも同じで、ある一定以上の修練を積めば感覚をつかむ瞬間のようなものが訪れて、それ以降は『技術を身に着けた』状態に移行します。
そしてそれ以降は、これまで何故、自分が未熟だったのかが理解できなくなります。
一度わかってしまった後は、これまで複雑に考えていたことがシンプルに理解できるようになり、たくさんの物事を覚えなければならないと思い込んでいたのは誤解で、単純な法則の応用だけであらゆる事に対応できるようになったりします。

そうなると、その分野においての未知の問題に遭遇したとしても、その法則の応用で対応できるようになったりもします。
繰り返しになりますが、この変化は地道な努力の延長線上にあるというよりかは、ある瞬間に今まで失っていた記憶を思い出すような感じです。
明確にボーダーラインのようなものがあって、それを超えるか超えないかで見えている世界が変わります。 この現象を説明しようと思うと、ソクラテスのいうように『忘れていたものを思い出しただけ』とする方が分かりやすいのでしょう。

この部分の説明は私自身の解釈もかなりはいっているのですが、ともかく、ソクラテスの弟子たちは『生まれるよりも前の状態』があることそのものには同意したのですが、その上でさらに疑問をいだきます。
その疑問については次回に取り扱っていきます。

参考文献