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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第154回【パイドン】あの世の存在証明 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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あの世の存在証明


今回も、対話篇『パイドン』を読み解いていきます。
前回までの流れを簡単に振り返ると、この対話編はソクラテスが死刑判決を受け、その刑が執行される直前に行われたとされる対話の内容を記したものです。
対話の内容としては、死刑直前の会話にふさわしく『死について』です。

今でもそうですし、この対話編が書かれた約2500年ほど前でもそうですが、人は死ぬとどうなるのかというのは、大きく分けて2つの考え方に分かれていました。
1つは完全な無になるというもの。そしてもう1つが、あの世という死後の世界があり、死んだ後はそこに行くというものです。
この対話編ではソクラテス側が『あの世は存在する』という主張を支持し、それを信じきれない弟子たちに対して説得する様が描かれています

あの世の存在の証明というのは、本来であれば、事実を確かめるために体験してみるのが一番良いことです。しかし、死というのは実際に経験して感想を語ることが出来ません。
そこで、一般的にも当てはまるような『この世のルール』を探り、その法則に生と死を当てはめて『魂の存在』について考察していくことにします。
この『何にでも当てはまりそうで、尚且つ、生と死にも当てはまりそうなルール』として、ソクラテスは『概念というのは常に反対のものから生まれる』というルールを主張します。

『ある概念』が変化すると反対のものになる


これは例えば、大きいものが変化して概念そのものが変わる場合、どのように変化して概念が変わるのかというと、小さくなることで『大きい状態』とは違った状態になるといった感じのことです。
醜いものは美しいものへと変化し、重いものが変化すると軽いものになる。悪いものは良いものへと変化し、正義が変化する場合は悪い方向へと変化します。
この法則を、『生と死』に当てはめてみるとどうなるのか。 これまでの法則通りに考えると、生きることの反対は死ぬことなので、生きている状態がそれとは違う状態に変化する事、つまり生きていない状態になると死んでいる状態となります。

では、死んでいる状態から状態が変化するとどうなるのか。 これも同じ様に法則に当てはめて、死んでいる状態から死んでいない状態に変化する場合を考えると、生き返る。もしくは生まれ変わるなどして生きている状態に変化します。
つまりこの法則に当てはめるのなら、生きている状態というのは死んでいる状態から生まれることとなります。
ではこの、『死んだものが生き返り、生きているものは死ぬ』という流れですが、これは独立した流れなのか、それとも循環しているのかどちらでしょうか。

魂の循環


独立しているとは、死ぬことと生まれることは別々の現象として独立しているのかということです。それとも互いに関係し合っているのでしょうか?
この疑問に対してソクラテスは、当然のように、生と死は循環した流れの中にあると答えます。 この循環と独立という考えですが、わかりにくいと思うので別の例で考えてみましょう。

天気が悪くなって雨が降る場合、その雨粒は空にある材料から生成されて、一方的に下に落ちるだけで、地上にある水とは完全に切り離された独立した存在なのでしょうか?
それとも、地上に降り注いだ雨は水蒸気として上空に上がっていき、その水蒸気が上空で冷え固まって雨粒になる。つまりは材料となる水は常に地上から供給されている、循環している状態なのでしょうか。
これは考えればわかりますが、水は循環しています。

もし、上空にある材料のみで雨粒が構成されて、地上に落ちた雨粒は上空に循環することなく落ちたままなのであれば、いずれ上空にある雨粒の材料は尽きてしまいます。
何らかの手段、例えば太陽光によって水が蒸発して上空に巻き上げられるといった形で、上空に雨粒の材料が供給されない限り、雨が定期的に降るというサイクルが永遠に続くことはありません。

これを、人間の生と死に当てはめて考えると、人が死ぬと人の肉体は朽ち果てて自然に帰ってしまいます。
そして肉体は物質として自然の中で循環し、地球を構成する材料の一部となります。
では魂はどうでしょうか。 魂が無に帰るということは、人が生まれるたびに、何処かから何らかの材料によって魂が別で作られることになってしまいます。

これが、魂の生と死が独立している状態といえますが、この場合は先ほどの雨粒の例と同じ様に、どこかから魂の材料が供給されない限り、いずれ材料が尽きて魂の生産は終了してしまいます。
つまり、生命が誕生するとは永遠に続くサイクルではなく、材料が尽きることによって、いつか終わりが来るものになってしまうということです。
もし、生命の誕生には終わりがなく、永遠のサイクルとして続くと考えるのであれば、魂も雨粒や肉体と同じ様にその構成要素は循環していて、魂を作る材料は供給され続けていると考えなければなりません。

魂が死後も循環し新たな生命の材料になるのであれば、人の魂は死後に完全な無に帰るということはありえないということになります。

想起説


この他にも、ソクラテスが魂の不死性を支持する理由があります。 それが、過去に取り扱った事がある対話篇『メノン』に登場した想起説の存在です。
この想起説とはどのようなものだったのでしょうか。 簡単に振り返ってみたいと思います。

そもそもこの説は、メノンが抱いた素朴な疑問に答える形でソクラテスが主張したものです。その疑問とは『知識というのは、それを知らないもの同士で話したところで正しい答えに到達することは出来ないのではないか?』というものです。
真理と言うのは、未だに誰も見つけ出したものはいないとされているものです。
仮に、この世に誰一人として答えを見つけ出したものがいない問の答えを見つけ出したとしても、本人を含めた誰もが答えを知らないため、その答えが正しいか間違っているのかの判断が出来ません。

一生懸命探究して出した答えが正しいかどうかの判断が誰にもできないのであれば、仮に答えに到達したとしても真理に到達したという確信が得られないため、それが答えかどうかがわかりません。
『本人に正解の手応えがあれば良い』とするのであれば、間違った答えに到達しても本人に正解の手応えがあれば正解だということになってしまいます。
つまり、どちらにしても正解がわからないため、正解を知らない者同士ていくら討論を重ねたとしても、絶対に答えには到達しないのではないか?というのがメノンの疑問です。 このメノンの疑問は『探究のパラドクス』としても知られています。

これに対抗する主張として打ち出したのが想起説です。
想起説とは、人が死ぬとその魂はカオスと一体化し、そのカオスから再び魂が生まれて肉体に宿る事で人間が誕生するという主張です。
カオスとは、この世のすべての概念の大本になっているようなもので、全てはそこから誕生したとされている概念の集合体のようなものと考えてもらって良いと思います。

全ての概念の集合体ということは、当然、その中には真理も含まれています。 なんせ、すべての概念の集合体なわけですから。
人の魂が死ぬと、そのカオスと融合し、そのカオスから再び魂が生み出されて肉体に宿ることで人が誕生する。その魂には当然、カオスと一体化していた際の記憶があるため、真理を既に得ている状態で魂は生まれ変わります。
しかし、魂が人の肉体に宿るという出来事は魂に大きなショックを与えるため、人は肉体を得る時に記憶の大半を忘れてしまいます。

記憶は忘れてしまうけれども、元から何も知らない状態ではなく忘れているだけなので、何かしらのショックがあれば思い出すこともある。
その為、仮に真理を思い出した場合は、確信を持ってそれが正しいと断言できる。何故なら、真理の答えは既に自分の中にあるから。というのが、メノンに登場したソクラテスの主張する想起説です。

参考文献