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【Podcast原稿】第89回【メノン】メノンが考えるアテレー 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

アレテーを宿す人

では、アレテーを宿した人が人々の前に現れたとしたらどうでしょうか。 アレテーとは卓越性や優れているとか徳といった言葉で表されるものですが…
徳が高く、他の人間よりも遥かに卓越した優れた人物が眼の前に現れて、それを前にした貴方自身も相手の優位性を認識できた場合、その人物が何かいえば、その人の言うとおりに動かないでしょうか。
その人物が、『アナタの取るべき行動はこれです。』と主張した場合、自分よりも遥かに優れた人間のアドバイスを聞き入れようと思うのではないでしょうか。

弁論術によって説得した人間も、アレテーによって自分の方が優れていることを納得させた人間も、結果だけを観れば、相手を自分の思い通りに動かせていることには変わりはないので、この2つを混同したのかもしれません。
しかし、人を思い通りに動かすというのは、果たして支配している事になるのでしょうか。

下のものが上のものを支配できるのか

例えば、アレテーを宿す優れた子供がいたとして、その子供は、親を支配して意のままに操ることが可能なのでしょうか。
古代ギリシャの奴隷は、単純労働だけを行う者ではなく、優れた知識を生かして働く者もいましたが、この奴隷が正義と節制という前提を宿し、アレテーをも宿していたとして、主人を意のままに支配することが出来るのでしょうか。
卓越した優秀な兵士は、自分の上官である将軍を支配下に置いて、コントロールすることが出来るんでしょうか。 卓越した役人は、一国の王を支配下に置いて自由に振る舞うことが出来るんでしょうか。

これは、絶対に出来ないとは言いませんが、ここまでの状態にする事は、相当難しいと思います。
優秀であるけれども立場的に弱い者と、無能だけれども立場が強い者という関係性の場合は、大抵、無能な上司の方が支配を強めようとします。
下の者の意見は、優秀な意見であれば採用される機会は増えるでしょうけれども、それがそのまま『支配する』事になるのかどうかと問われれば、微妙に違うような気もします。

ただ、絶対に不可能というわけでもないでしょうから、メノンの主張通り、アレテーとは人を支配する能力だという事で話を進めると…
人を支配する際にも、そこには前提として正義と節制が必要となるでしょう。
人は様々な方法で支配し、また、されるものですけれども、支配が可能だからといって、暴力で脅したり、子供を人質にとったり、不正に手を染めるといった方法で支配するのは、アレテーが宿った行動とは言えません。

支配者=卓越者ではない

また支配を行っている間も、支配者は自分自身の欲望を抑え込んで、支配しているものを正しい方向に導く為に調整をすべきです。
その為、『支配を行う』または、『支配を行っている』という結果でもって、『支配できているんだから、支配者にはアレテーが宿っている』とすべきではないでしょう。
何故なら、アレテーによって人を支配する時の前提となっているのが『正義』と『節制』だからです。 もし前提条件を無視してしまえば、支配者層は自動的にアレテーを宿した卓越した人になってしまいますからね。

支配者が全てアレテーを宿した卓越した人であれば、不正などは犯さないはずですし、その共同体に属している人々は幸せになっているはずですが、現実を観ると必ずしもそうはなっていないので、支配者=アレテーを宿す者ではありません。
以上のことを踏まえると、純粋なアレテーを定義するためには、前提条件が必要で、それは『不正行為に手を染めずに、正しく支配する場合に限ってであり、不正な手段で支配する場合には、その支配はアレテーを宿さない。』というモノになります。

メノンは、これまでのソクラテスの推測に同意し、アレテーに関わる『正義』や『節制』などの前提条件は、2つだけではなく、まだ有るのではないか? として、他に『勇気』『節度』『知恵』『堂々たる度量』を付け加えることを提案します。

1つの概念の答えが多数あるのか

しかしこの提案に対してソクラテスは、不満を漏らします。
ソクラテスからしてみれば、『アレテー』というただ一つの概念の意味を知りたいだけなのに、『正義』や『節制』だけでなく、『勇気』や『節度』や『知恵』などの様々な要素が新たに出てきて、更に複雑になっていっているからです。
そして再び、『全てに当てはまる、ただ一つの概念であるアレテーとは何か。』をメノンに対して質問してきます。

ただ、このソクラテスの主張には、正直な所、疑問を感じてしまいます。というのも、『アレテーをシンプルに説明できる』と主張するソクラテス自身が、アレテーとはどの様なものか、想像すら付いていないからです。
ソクラテスは自分自身で何度も言っている通り、彼は無知であるが故に、アレテーとはどの様なものかが分からない人物です。
どの様なものかが分からないという事は、アレテーがシンプルに説明できるものなのか、複雑なものなのかも分かっていないはずです。 にも関わらず、複雑ではないと断言するのは、シンプルであって欲しいという願望に過ぎません。

これは、シンプルに説明出来るはずという決めつけによって、議論を誘導しようとしているようにも思えてしまいます。
自分の知らない未知のものを前にした際には、とりあえず分かりそうな部分ごとに分解して、その物事の構造を理解しようとするのは、一つの方法として間違っていないと思われます。
未知のものが物質である場合は、それを分解していけば良いわけですが、概念のようなものである場合は、実際に手にとって分解することは出来ないので、どの様な材料から出来ているのかを推測することも有効な手段でしょう。

しかしソクラテスは、その手段をも否定して、メノンがアレテーというものが出現するためには複数の前提条件が有るかもしれないと言い出すと、それを否定します。
未知なものに対しては手探り状態なわけですから、理解できそうな部分から攻めていくしか無いわけですし、その結果として複雑になりそうであったとしても、他に道がないなら、とりあえずその方向で考えていくしかありません。
それを否定されてしまうと、結構つらい状態に追い込まれますよね。

卓越しているとは

また、メノンがソクラテスの意向に沿ってシンプルに答えたとしても、ソクラテスは納得しなさそうです。

アレテーとは何かという質問に、他のものよりも『卓越している』事と答えたとしても、『何に対して優れているのか』とか、卓越しているとはどういう事かを聞いてくるでしょう。
それを考える為には、様々なケースで『卓越している』状態というのを考えていくのも、一つの方法としては否定されるものではないでしょう。
例えば、運動能力や手足の長さなど、生まれ持った肉体やセンスによって他のものを圧倒する人は卓越した人と呼ばれるが、肉体的な才能に恵まれていなても、他の要因で卓越していると尊敬される場合もあります。

数多くのケースを上げて、それぞれに共通している部分を見つけ出すことで、『卓越している』という言葉の説明を見つけるというのは、先程ソクラテスが行いましたよね。
メノンが男性や女性などのそれぞれの理想像を上げてアレテーを複数上げた時に、その共通点を見つけ出して、今現在の『アレテーとは支配する事』について話し合ってるわけですからね。

この様に、様々なケースを挙げて考えていく過程で、『「卓越している」というただ一つの状態について聞いているのに、何故、そんなに沢山の答えが出てくるのか。』と横槍を入れられてしまえば、考えることができなくなります。
ソクラテスが明確な答えを持っているのであれば、誘導の意味も込めて物言いを付けるのも分からなくはないですが、ソクラテスがアレテーの本質を分かっていない状態での物言いは、どうなのかなと思ってしまいますが…
彼が何故、ここまで強引なまでの責めを子供に対して行ったのかというと、メノンは、この時点でまだ、『アレテーについて理解している』と思い込んでいるからでしょう。

メノンは実際にはアレテーの意味を見失い、わからなくなっているからこそ、前提条件を後から付け加える。 それも断言ではなく、推測で『前提条件かもしれない』という事を言っています。
態度としては、アレテーについては分からない者の振る舞いなのに、メノン自身は心の奥底ではアレテーを理解していると思い込んでいるので、『その事柄については知らない』事を自覚させる為に、強引に責め立てたのかもしれません。
この責に対してメノンは、ついに、『自分はアレテーを知った気になっていただけで、実際には知らないかもしれない。』と認めます。

メノンが自分の無知を認めたところで、ソクラテスは再び『共に、アレテーについて考えていこう。』と手を差し伸べます。
そしてこれ以降の展開では、メノンはソクラテスと共に再び、『アレテーとは何か』について考えていくわけですが、この続きは次回にしていこうと思います。