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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第153回【パイドン】『生』は『死』から生まれる 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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苦痛で苦痛を交換する


しかしソクラテスは対話篇の中で、『それは苦痛という通貨で他の苦痛とを交換しているだけに過ぎず、こんなことで真理は得られない』と言っています。
この言葉の意味としては、死の恐怖という苦痛が自分の感情の中に生まれたのを、その恐怖に耐えるという別の苦痛に置き換えているだけだということです。
これは死の恐怖という通貨で恐怖に耐えるという別の苦しむを購入しているに過ぎず、こんな事を続けたところで本当の意味での真理には到達できないということです。

これは当然ですよね。 自分で火をつけて自分で鎮火するようなマッチポンプで真理が得られるのであれば苦労はありません。
また、この様な恐怖と恐怖を交換する。快楽と快楽を交換する、苦痛と苦痛を交換する行為というのは、欲望に弱く理性のない人間の取る行動です。
そんな動物的な行動で真理が手に入るのであれば、大半の人類は真理を得ているでしょうし、この世はユートピアになっていることでしょう。しかしそうなっていないということは、そんな事では真理を得られないという証でもあります。

あの世は存在するのか?


これにケベスは納得したのですが、彼はすぐに別の疑問をいだきます。 それが、人間の肉体と魂の関係性です。
ソクラテスは、この対話編では『仮に死んでも意識は消滅せず、魂は滅びゆく肉体から分離して神が治める素晴らしい世界、いわゆるあの世に行く』と主張していますが、本当にその通りになるかどうかはわかりませんし、証明のしようもありません。
何故なら、死ぬと再び生き返ることは出来ないため、当然のようにあの世を体験した人間はこの世にはいないからです。

体験することが出来ない以上は、あの世の存在も人間が魂だけで存在できるということも証明できないわけですから、死ぬと完全な無になってしまうかもしれないという不安は払拭できないわけです。
ソクラテスは、『死ぬことで魂、つまりは自分の意識が肉体から開放されることで、魂は真理に近づくことが出来る』と主張していますが、死ぬと同時に肉体とともに魂まで消滅してしまえば、魂は死後に真理を得ることは出来ません。
死後に真理を得られないというのであれば、真理は生きている間に到達しなければならないことになる為、死んだほうが良いなんてことにはなりません。

このケベスの疑問をきっかけに、ソクラテスは魂が不滅であることの証明を行おうとします。
まぁ証明とはいっても、肉体と魂の分離は、あの世に行って戻ってきた神話に出てくるオルフェウスでも無い限り実際に体験することが不可能ですから、あくまでも推論に過ぎません。
世の中にある法則の中から類似性を見つけ出して強引に結果を導き出しているものなので、確実にそうだと断定できるものではありませんが、それでもできるだけ論理的に説明をして弟子たちを納得させようと、ソクラテスは魂の存在の証明を行います。

概念は反対のものから生まれる


ギリシャ神話の解釈の中には、人は死ぬとその魂がハデスが治める領域に向かい、そこで一定期間過ごした後に再び肉体を得て、この世に生まれ変わるというものがあるようです。
この物語から分かることは、人は命ある状態から変化して死んだ状態になり、死んでいる状態から変化して再び生きている状態になるということです。
生と死が真逆の存在であるのなら、この現象は、概念は反対のものから生まれると読み解くことも出来ます。

少しわかりにくいと思うので他の例で見てみると、例えば美しいという概念の反対側には醜いと言う概念があります。
この真逆の概念は、正反対でありながらも互いに親子のような関係になっています。
例えば、人が美しくなるという状態を考えてみると、美しい状態に変化できるものは醜いものだけですし、醜い状態に変化できるのは美しいものだけとなります。

例えば、化粧をして美しくなった状態があったとすると、化粧をする前は醜かったということになります。
ある人物が何らかの出来事をきっかけとして善人になったとするのなら、そのきっかけ前はその人物は悪人だったことになります。
これは日本語でも英語でも同じなのですが、先程から『美しくなった』『善人になった』と言っていますが、この様な過去形の表現は、何らかの変化が起こったことによって過去と現在は違うよという事を表現します。

『美しくなった』と過去形でいえば、その言葉の中には『以前は美しくなかった』というニュアンスを含みますし、『善人になった』といえば、以前は悪人だったというニュアンスをを含みます。
この過去形で含まれるニュアンスは、変化後の正反対のものとなります。 『大きくなった』なら以前は小さかった。 『高くなった』なら以前は安かったと言った具合にです。
そしてこれらは一方的なものではなく、双方向的なものです。 『冷たい』と『熱い』といった2つの概念は、互いが互いの親であり子である関係となります。つまり『熱い』から『冷たい』が生まれ、『冷たい』から『熱い』が生まれます。

『生』は『死』から生まれる


では、『死』についてはどうでしょうか。 概念は正反対の概念から生まれるとするのであれば、『死』はそれとは真逆の概念から生まれることになります。
それでは『死』の正反対の概念とは何でしょうか? これは考えるまでもなく『生』つまりは生きている状態です。
生きている状態のものは、その状態が変化していずれは死んだものへと変わります。 では、生きているという概念はどこから生まれるのかというと、この法則に乗っ取るのであれば死から生まれたことになります。

多少強引な気もしますが、ケベスはこのやり取りについて納得してしまいます。 なぜ納得したのかというと、有効な反論をすることが出来ないからでしょう。
大きなものは小さくなり小さなものは大きくなる。 美しいものは醜くなり醜いものは美しくなる。 高いものは低くなり低いものは高くなる。 この様に相反する概念が親となって正反対の概念を生み出すということが起こっている中で、
生と死だけがそのルールから外れていると断言するためには、それを証明するようなきちんとした理屈が必要になります。

決して感情的にならず、理路整然と『生と死は大小や美醜などとは全く別のジャンルなので、これらの理論には当てはまらない』と説明できなければ討論にならないわけですが、ケベスにはそれが出来なかったので、納得するしか無かったのでしょう。

ちなみに言っておきますと、ここでの誕生とは魂の誕生のことです。 肉体の方は男女が交わって母親のお腹の中で誕生しますが、ここでの前提では、その肉体に霊が宿って初めて生きた人間になると考えます。
その魂はどこからやってきたのかを考えるのが、今現在やっていることです。
完全な『無』から何かが生まれるというのは考えにくいので、『死』が全くの『無』であるとするのなら、『死』から『生』が生まれるなんてことにはならないはずです。

つまり『死』から『生』が生まれる状態というのは、死は完全な『無』ではない状態を意味します。
『死』が完全な『無』ではなく、一方で死と同時に物質的な存在である肉体は消滅するわけですから、死後はどの様な存在になるのかといえば魂だけの存在になると考えられます。
これは『死』が訪れたことによって肉体が滅びたとしても、魂は滅びずにハデスが治めるあの世に存在している考えられるわけです。

この他に魂が存在すると言う根拠としては、魂が存在しないとするのであれば、魂は循環の和から外れた存在になるので、いずれリソースがなくなってしまうというのもあるのですが、その説明は次回にしていきます。


参考文献