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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第153回【パイドン】『生』は『死』から生まれる 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

肉体のノイズ


今回も、対話篇『パイドン』を読み解いていきたいと思います。
前回は、ソクラテスが『哲学者であるのなら、私が死んだらすぐにでも後を追うように』と伝言を残したことに弟子のケベスが『発言の意図が理解できない』と食いつき、それに対してソクラテスが死について簡単に説明したところまで話しました。
なぜ、ソクラテスが仲間に向かって死ぬべきだと言ったのか。その理由は、真理を解明するためには肉体が邪魔だからです。

何故肉体が邪魔なのか、人間が真理を探究しようと思うときに頼るのは理性ですが、肉体からもたらされる様々なノイズによって、その理性が働かなくなるからです。
肉体は、自身の体に特定の刺激があれば、それをきっかけとして感情を揺さぶります。
気になる人から話しかけられたり、美味しいものを食べたり、人とのコミュニケーションを取った際に嫌なことがあったりと、人の人生には様々なことが起こりますが、その都度肉体は快感であったり不快感といった形で反応します。

その快感や不快感といったノイズは、人からまともな思考力を奪います。 つまり、肉体を通して入ってきた情報は、それを受け取った時に肉体が感じる感覚によって脚色されてしまいます。
そしてその脚色された情報を元に考えを巡らてしまうと、情報が正しく認識ができていないままに考えることになるため、出てきた答えは間違ったものになるということです。
例えば料理をつくる際、レシピ本の通りに作って同じものが出来上がるのは、同じ食材を使って手順を真似た場合のみです。

買ってきた食材に事前に何らかの味付けがされている場合、つまり純粋な材料ではなく混ざりものがある場合は、レシピ通りに作っても同じ料理にはなりません。
何らかの調味料や加工によって材料が変わってしまっている場合、レシピ本と同じ結果を得ようと思うのであれば、事前に材料につけられている調味料を洗い流すなり、その調味料がある前提で逆算して加える調味料を変化させる必要があります。
これを真理の探究に当てはめるのであれば、肉体が出す欲求や満足感や不快感といった余計なものを無視する必要があるということです。

煩悩を捨てる


これは仏教の思想にも通じるようなもので、煩悩を振り払って純粋な理性のみで考えるのにはかなりの精神的鍛錬が必要となるのですが、それを一番簡単にする方法が死ぬことです。
死とは肉体と精神との分離のことなので、死んで肉体がなくなれば、残された魂は肉体的欲求からは開放されることとなります。
この様な状態になるために、ソクラテスは『哲学者であるのなら、真理探究のために自ら死を選んだほうが良い』と答えます。

これは逆に言えば、生きていながら肉体的欲求と精神を切り離して思考できる人間であれば、死ぬ必要はないということです。
死んだところで本当に肉体と魂が分離するかどうかはわかりませんし、あの世があるのかどうかもわかりません。 第一、死んでも現状と同じ様に自我がや意識が保てるのかどうかもあやふやです。
仮に死後の世界があり、死んだ後で自我が保てて真理を得られるとしても、それを現世の人間に伝えることもできないため、基本的には生きている状態で考えたほうが良いでしょう。

では何故、ソクラテスは仲間に向かって死んだほうが良いなんて言ったのかというと、私が思うに、ショッキングな言葉を使って、これらのことを考える切っ掛けを与えたかったのでしょう。
このことは、このコンテンツでも紹介してきた過去の対話編を読み解いていけばわかりますが、ソクラテスはこの様な極端な言い回しで一度相手を混乱させて、相手に考えるきっかけを与えてから本格的な討論に入っていきます。
今回のこの一連の主張も、これと同じ様なものだと思われます。 『人は幸福のために死ぬべきだ』という極端な主張をし、それを正当化するような主張をすることによって、相手にこれまでになかったアイデアを授けようとします。

死の練習


話を対話編に戻すとソクラテスは、真理を得るために純粋な情報を元に考えを巡らそうと思うのなら、人は肉体を捨てるべきだと主張します。
そしてこの事を常に頭の片隅に置きながら真理について探究しているのであれば、実際に自分に死が迫ってきたとしても、そこに恐怖はないと言います。
何故なら、死は肉体からの開放で、それによって自分が生涯をかけて研究してきたことの答えにたどり着ける可能性があるわけですから。

自分が何よりも優先して追い求めてきたものが手に入るイベントが訪れたとしたら、普通の人ならそれに恐怖せず、むしろ喜ぶのが普通だろうというのがソクラテスの言い分です。
逆に言えば、死を恐れる人間は、真理の探究や本当の意味での幸福を考えたことがなく、肉体的欲求を満たすことで頭がいっぱいだといえます。
金が欲しい・性的快楽を味わいたい・美味しいものが食べたい・モテたい等など、この様な欲望に支配された人間は、死ぬことで肉体を失うと、それら全てを二度と味わうことができないわけですから、いざ死が目の前に迫ってくれば恐怖を感じるでしょう

しかしそんな人間は哲学者ではなく肉欲に囚われた人間で、ソクラテスたちはそんな者を目指しているわけではないといいます。
何故かといえば、ソクラテスたちは真に幸福になるために哲学に没頭しているからです。その幸福に絶対に必要だとされているのがアレテーと呼ばれる卓越性です。
ですが、繰り返しますがその卓越性は、肉体に支配されているような人間には宿りません。

死を恐れていては真理を得られない


例えば前回に紹介した対話篇『アルキビアデス』では、戦場で仲間が死にそうになっているが、助太刀すれば死ぬかもしれないという状況で、どの様に行動するのかという話がありました。
この問題に対してアルキビアデスは、助けに入って自分が死んでしまうと大損なので、助けにはいかないと答えています。
この彼の発言は、自分の肉体がなくなってしまうことが大きな損失になると考えての事なので、完全に肉体に依存した考えですが、彼のような考えの人間にアレテーの構成要素の1つである勇敢さは宿りません。

アレテーには他にも節制という要素もありますが、この節制とは簡単に言えば欲望を抑え込む理性なので、肉体的欲求に振り回されているような人間には宿ることはありません。
勇敢さや節制などをその身に宿そうと思うのであれば、自分と肉体的欲求との距離を離し、理性的に考える姿勢が必要となります。
ただここで1つ疑問が出てきます。 それは、死を恐れない人間に勇敢さが宿るのかという問題です。勇敢さは恐怖に耐えることのように思えるのに、そもそも死の恐怖を感じない人間に勇敢さが宿るのでしょうか。

これと同じことは節制にも当てはまります。 節制とは理性によって欲望に耐えたり抑え込む事を指しますが、そもそも最初から肉体的欲望を持たない人間には、欲望に耐えるという行為そのものが必要がありません。
欲望を抑え込むことが節制なのに欲望を持た無いがゆえに抑え込む必要がない人間には、節制は宿らないのではないでしょうか。
逆から言えば、どんな些細な事柄に対してでも欲望を抱いてしまうような人間は、それを抑え込む機会がたくさんあるわけですから、節制を獲得しやすい状態にあると言えてしまいます。

参考文献