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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第92回【メノン】探求のパラドクス 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

本当の意味で理解することは出来ない

これは、人間が住む宇宙も同じで、科学の法則が本当に正しいかどうかは、その宇宙に暮らす私達には分かりません。
本当の意味で正しいかどうかを確かめるためには、この宇宙をメタ的な視点である神の立場で観る必要がありますが、その立場に立って観たところで、『確からしい』という確信が深まるだけで、断言することは出来ません。
当然のことながら、宇宙を貫く法則である真理も、宿すだけで卓越した存在になれるアレテーもこれと同じで、知らないもの同士で話し合ったところで、それが正しいのかどうかは絶対に分かりません。

このメノンが主張する『探求のパラドクス』は、単純なようで非常に核心をついた指摘となっています。
では、メノンの指摘する通り、知らないもの同士で対話をする事に意味はないのでしょうか。

ソクラテスは、『探求のパラドクス』への反論として、『想起説』を唱えます。
『想起』とは思い出すという意味で、人間が思考したり実験したりして新たに生み出してきたと思い込んでいた宇宙の法則は、人間の頭で新たに見つけ出したものではなく、思い出しているのに過ぎないという説です。
人間は、この宇宙を貫く法則である真理を、考えることによって解き明かすのではなく、既に答えを持った状態で生まれてきているけれども、魂が肉体に受肉した際に忘れてしまう。 探求とは、それを思い出す作業に過ぎないという理屈です。

想起説

話が唐突すぎるので、もう少し詳しく説明をしましょう。
ソクラテスは、人間には肉体と魂が存在していて、人の死とは、肉体が活動を停止することであって、魂が消滅するわけではないと考えています。
ここでいう魂とは、人間の意識のようなものです。 ソクラテスに限らず、この時代では、人間が行動する際には、まず、『身体を動かそう』と意識することで身体が動くと考えられていました。

この様に考えている方は、今の時代でも結構いらっしゃると思います。
体を動かしたり、何かを決定するためには意識や精神が必要だという考え方で、この部分の調子が狂って病気になったりすると、精神病になったりするという考え方です。
体を通して入ってくる情報を認識したり、それを元に意思決定すると思われている部分のことを魂と表現するのですが、この魂は、肉体が死を迎えても同じようには死なないかもしれないと考えられていました。

では、その魂はどの様になるのかというと、この世の全てが混ざり合うカオス的な部分に返っていって一つとなり、次に生まれ変わる際には、そのカオスから再び分離して1人の人間の魂となり、肉体に宿ると、ソクラテスは考えました。
かなり抽象的で難解なので、別の例で言うなら… 前にも一度、例として出したことが有るのですが、PS2で発売されたアバタールチューナーというゲームで分かりやすく例えられているので、その例を引用して説明しています。

このゲームは、ヒンドゥー教の教えをベースにして作られている作品なのですが、ヒンドゥー教では、生まれ変わりというのが前提で世界観が作られているようです。
人間の魂は輪廻転生を繰り返すわけですが、どのようにして魂の輪廻転生が行われるのかというのを、水の循環に例えて説明されていました。
水というのは、この地球上を常に循環しているわけですが、最終的には全てが混ざり合うカオスである海に返っていきます。

海に帰った水は、太陽の光に照らされることで熱せられて蒸発し、空気中に水蒸気として舞い上がりますが、それが上空に溜まって冷やされると、雲を作り出します。
この雲も、いずれは雨となって大地に降り注ぐわけですが、その雨粒一つ一つが人間の魂で、雨粒が生まれてから地面に落ちるまでの期間を人間の一生と置き換えてみてください。
大地に降り注いだ水は、川に流れ着いたり地下水になったりと、様々なルートを辿ることになりますが、長い年月をかけて、最終的には海にたどり着きます。

これと同じ様に、人間が死を迎えた場合は、様々なルートを通って、最終的にはこの世の全てが混ざり込んだ場所へと辿り着くことになり、人の魂はその場所でこの世の全てと1つになると考えます。
海を照らす太陽のように、全てが混ざりあったカオス的なものに、何らかのアクションが有ると、その一部が切り離されて、人間1人分の魂となり、それが肉体に宿る事で、再び生まれ変わる。
こうして生まれた人間は、一時期はこの世のすべての要素と一体となっていたので、当然のことながら、宇宙を貫くただ1つの存在とも一体になっていた為、この世を構成する法則も知ってる状態で誕生する。

ただ、肉体に宿って1人の人間として誕生することは相当な衝撃のようなので、その時に多くの記憶が失われてしまう。
しかし生物は、それを学習することによって思い出すことが可能だということです。 人間は、全ての情報を予め知っているけれども、それを忘れているだけなので、何らかのショックでそれが蘇る。
メノンが指摘した『探求のパラドクス』は、知らないもの同士が話し合ったところで、答えは永久に見つからないというものでしたが…

ソクラテスに言わせれば、全ての人間は既に答えを持っているけれども、忘れているだけなので、答えを聞いたら思い出すという事です。
ただ、人が忘れている記憶を思い出すためには順序が必要で、物事を1つずつ正しい順番で学習していくことで、芋づる式に記憶が呼び覚まされるというのが、ソクラテスの主張する『想起説』です。

否定しなければならない探求のパラドクス

この『想起説』は、相当ぶっ飛んだ考え方なので、受け入れられない方も多くいらっしゃると思います。
想起説を受け入れるためには、魂は不滅だということを受け入れなければなりませんし、死んだ後にこの世の全てが混ざりあった場所に帰り、それと溶け合うということを認めなければなりません。
この世の中に、一度死んでから復活したとされる人は、宗教上の聖人などを除いていないわけですから、それを信じろというのは、かなり無理があります。

では何故、何事も疑って信じることのないソクラテスが、この様な観測不可能な死後の世界を持ち出してまで、想起説を主張したのでしょうか。
一つの理由としては、探求のパラドクスは、そこまでしても否定しなければならないものだからです。
探求のパラドクスは、突き詰めていくと『人間は、どれだけ頑張っても真理に到達できない』と主張しているのに等しいので、これを受け入れてしまうと、考えるという行為そのものに意味がなくなります。

しかし実際問題として、人間は探求することによってこの世の法則性を見つけ出し、様々な発明を行ってきました。
そして、新たな法則を見つけ出したり、今までに無かったようなものを発明する際には、多くの場合、論理ではなく閃きによって新たなものを発見しています。
この閃きを、どこからかアイデアが飛んできて自分に宿るというのではなく、既に知っているけれども忘れていたものを思い出したと表現したのかもしれません。

人間が、本当の意味で無知な者として生まれてきているのであれば、教えられてもいないアイデアを閃くはずがありません。
にも関わらず、人間は今までにないような優れたアイデアを閃くという事実があります。 これは、『知っていたものを再び思い出しているだけ』としてしまえば、この部分の辻褄は合わせられます。

この後、ソクラテスは、自分が提唱する想起説はでたらめな話ではないことを証明するために、メノンの前で実験を行うのですが、その話はまた次回にしていきます。