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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第92回【メノン】探求のパラドクス 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

メノンのアラ探し

これまでの流れを振り返ると、メノンは当初、『自分はアレテーがどのようなものなのかを知っているけれども、ソクラテスが定義するアレテーとはどういうものなのかを聞いてみたいので、教えて欲しい』といった感じで、ソクラテスの元へやって来ました。
その質問に対し、『私はアレテーが何なのかを知らない』とソクラテスが答えると、少し馬鹿にしたような態度すらとってきました。
しかし、実際にメノンとソクラテスとで対話をおこなてみると、アレテーの意味を知っていると思い込んでいたメノンも、実はその意味を知らなかったことが分かってきます。

アレテーの意味を上手く説明できないメノンに対してソクラテスは、似たような概念を説明してみる事で、アレテーを説明する緒(いとぐち)を見つけ出そうとし、『形』と『色』の説明を試みます。
本来であれば、メノンとソクラテスが一つづつ説明の練習をして、その後、アレテーの説明に挑戦するところですが、メノンはソクラテスに論破され続けたのが面白くなかったのか、自分では説明を行おうとしません。
そして、『色』と『形』の説明をソクラテスに任せて、その説明のあら捜しを必死に始めます。

しかしソクラテスは、説明しようとしている概念を含まないという方法で両方の説明を完璧にしてしまい、再びメノンに順番が回ってきて、アレテーの説明を求められます。
メノンは咄嗟に吟遊詩人の歌の内容を引用し、『美しく立派なものを欲し、それを手に入れる力の事』と答えますが…
この答えを一つ一つ分解して考えていくと、メノンの答えは説明になっていないことが分かりました。

徳の説明で徳目を使用してはいけない

ある概念を説明する場合には、その概念が含まれた説明をしてはいけません。
例えば、右という概念がわからない人間は、左右という概念が無いために右という概念が理解できないので、その説明の中で左右という概念は使ってはいけません。
簡単にいえば、右がわからない人間に『左の逆の方向』といったところで、通じないということです。 何故なら、左右の概念そのものがわからないのに、説明の中で『左』という概念を使っているからです。

『右』という概念を説明する際には、左右の概念を含まない形で説明する必要があります。 例えば、北を向いている時の東の方向と言った具合にです。
同じ様に色を説明するためには、黒色や黄色といった色の概念を含むものを例として挙げて説明するという行為は無意味ですし、『形』を説明するために四角形や三角形の例を挙げることも不適切です。
形や色を説明するためには、それぞれの概念を含んでいない説明が必要です。

しかしメノンの『美しく立派なものを手に入れる力』というのは、その説明を追求していくと、『正義』や『節制』を伴った行動と言っているに等しく、説明にはなっていませんでした。
ゴルギアスから教えてもらった説明も、自分が正しいと思って引用した吟遊詩人の説明も、見事にソクラテスに論破されてしまったメノンは、完全にアレテーの意味を見失ってしまいます。
そしてソクラテスに対して、『アナタはシビレエイのような人だ、関わり合いになる人、全てを、その言葉の毒によって行動不能にしてしまう。』と不満を漏らします。

シビレエイというのは、人間を痺れさす事が出来る毒を持つ魚で、それに触れることで、身動きができなくなってしまうという生き物です。
これと同じようにソクラテスも、『この世の事が理解出来ている』と思っている人に近づいては、言葉という毒によって勘違いであったと思わせて、思考停止にさせていると罵ります。
これが何故、悪口になるのかというと、シビレエイそのものが美しいとは呼べないような魚だからです。 ソクラテス自身も、美しい外見を持っているとは言えない人物だったので、それを踏まえた形でシビレエイに例えたのでしょう。

しかしソクラテスは、この例えに対して反論します。 何故なら、シビレエイは自らの毒で行動不能になることはないが、無知の知によって一番苦しんでいるのはソクラテス自身だからです。
シビレエイが、自分の毒によって行動不能になり、もがき苦しんでいるのであれば、その例は的確かもしれないが、そうではないなら間違っていると指摘します。
ここまでをまとめると、二人で対話を行った結果、議論が先に進んだわけでもアレテーの事が分かったわけでもなく、再び、『アレテーについては何も分からない』という振り出しに戻ってしまいました。

探求のパラドクス

しかし、ここでメノンは、ふと疑問に思ってしまいます。
『わからない者同士で議論して、正解にたどり着くのだろうか。』と。
この疑問は『探求のパラドクス』と呼ばれるもので、単純なようで奥の深い疑問となっています。

『探求のパラドクス』を簡単に説明すると、有る対象物のことを理解しようとするためには、対象物がどのようなものかを知っている人に教えてもらわなければならない。しかし、対象について知っているのであれば、探求は必要がないというものです。
例えば、Xという物質について研究して、何らかの成果が出た場合、その研究成果が正しいかどうかは、Xという物質についての知識がある人に聴いてみないことには分からないという事です。
しかし、Xという物質についての知識を既に持っている人がいるのであれば、そもそも探求する必要がない事になります。

トランプを使った例え話をすると、部屋にあるテーブルを囲んで3人の人間がいて、その内の1人、仮にAさんだとして、Aさんだけがトランプを1枚めくって数字と絵柄を覚えて、それをもう一度山札に戻してシャッフルしたとします。
この時に、めくられたトランプを特定できるのはAさんだけで、他のBさんCさんには、トランプが何なのかは知る由もありません。
この状態で、Aさんだけがテーブルのある部屋を出ていき、テーブルにはBさんとCさんだけが残されたとしましょう。

残されたBさんとCさんだけで話し合ったとして、Aさんがめくったカードが何かを解明できるでしょうか。
その一方で、部屋を出て行ったAさんは、議論をする必要すらありません。 何故ならAさんは、めくられたカードが何かを既に知っているからです。
BさんとCさんが、めくられたカードが何かを知る為には、Aさんに教えてもらう他ありませんが、答えを知らないBさんとCさんには、その答えが正しいかどうかも分かりません。

何故なら、めくられたカードが何かという答えを知らないからです。 Aさんが正直者だということを知っていれば、高い確率で教えられた答えが正しいと思い込むことは出来ますが、仮に嘘をつかれていたとしても見抜くことは出来ません。
教えられた答えが正しいかどうかを確信を持って判断するには、カードがめくられた時に席を立って、Aさんと共にカードが何だったのかを確認して知っておく必要があります。

知らない知識は正しいか解らない

この探求のパラドクスは、全ての事柄について当てはまるので、当然、今現在、発達している科学についても当てはまります。
科学の分野では、数多くの法則と思われるものが見つかっていますが、探求のパラドクスに当てはめて考えると、それらは、絶対に正しいとはいえず、確からしいということしかいえません。
そのため科学の分野では、発見された様々な法則は『正しい法則』とは断言せずに、反論に耐えて続けて生き残っているので、『信憑性が高い』というふうにしか表現できません。

何故なら、人間というのは、既に『動いている法則』の中に暮らしている生物で、その法則を知らない生物だからです。
例えば、人間がコンピューターの中に一つの世界を作り出して、その中にAIで動く人工生命体を作ったとします。
そのAIは、自分が暮らしているコンピューターの中の世界をありのまま受け入れて、その世界を構成している様々な法則を見つけ出そうと頑張ったとして、AIに、その世界で動いている法則を全て見つけ出す事が出来るんでしょうか。

コンピューターの中の仮想世界に済むAI達は、どれだけ頑張って法則を見つけ出したとしても、その法則が正しいかどうかを判断する術はありません。
自分たちが見つけ出した法則が正しいかどうかは、コンピューター内に作られた仮想世界を抜け出して、実際にプログラミングをした人間に聞いて確かめるしかありませんが…
それが可能だったとしても、人間側が嘘をつかずに正しい返答をしてくれているかどうかを、見分ける方法はありません。