だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第101回【メノン】まとめ回 2/4

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼
open.spotify.com

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

『色』と『形』の説明

同じ様に、『アレテー』の説明をする際に、『アレテーという概念の中には、知識や美しさといった要素が入っている。』と答えたとしても、何も説明していないのと同じです。
先程も言いましたが、『アレテー』は日本語訳にすると『徳』という言葉になります。 では美しさはどの様に分類されているかというと、徳を構成するものの1つとして『徳目』とされています。
色が分からない人間に対して『赤色を含む概念』と言っても理解できないのと同じ様に、『徳とは、徳目を含む概念』と説明しても、そもそも『徳』が分からない人は『徳目』も理解出来ない為に、理解は得られません。

では、どの様に説明すればよいのかというと、『色』の説明をする時には、『色』という概念を使わずに説明する。 『形』も同じ様に『形』という概念を使わずに説明することで、『形』という概念を知らない人でも理解できる説明が可能です。
具体的に、どの様に説明するのかというと、『形』の説明をする際には、『色を伴って現れるもの』と説明することが出来ますし、『色』の説明をする際には、身体の『目』という部分を通って入ってきた情報として説明することが出来ます。
どちらの場合も、説明文の中に自分自身と同じ概念を含んでいないため、『形』を知らない人でも『形』を知ることが出来ます。

アレテーに関してもこれと同じ様に、説明をする際には、その説明文の中に『アレテー』や、それを含む要素を使用してはいけない事になります。

アレテーの説明

正しい説明の仕方が分かったところで、早速、『アレテー』とは何かの説明をメノンにしてもらう事になり、そこで彼が出した答えは『美しく立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる力』というものでした。
この答えは、アレテーそのものの概念も要素も入っていない為に、説明の仕方としては良いですが、形式が合っている事と答えが正しいことは別のことなので、ソクラテスは吟味していくことにします。

メノンの答えは、『美しく立派なものを欲しいと思い』という部分と、『それを手に入れる力』に分けることが出来ますが、前半部分の『美しく立派なものを欲しいと思う』のは特別なことではなく誰でも思うことです。
だれも『醜くて悪いものを欲しい』とは思わないので、次は、答えの後半部分である『それを手に入れる力』の方だけに焦点を当てて考えてみます。
欲しい物を手に入れるというのは漠然としすぎている為、ソクラテスはメノンに、具体的に何が美しくて立派なのかを聴いてみると、彼は『金と権力』だと答えます。

金と権力を手に入れる方法としては、正攻法意外にも、汚い手段を使うという方法もありますが、金と権力を手に入れる為に、不正を行っても良いのかと問いただすと、メノンはそれを否定します。
これによって、『金と権力』は正攻法で手に入れなければならないという条件が付きましたが、では、『金と権力』と、『不正に手を染めない』という2つの事柄を比べた場合、どちらをより優先すべきなのでしょうか。
不正を行えば金も権力も手に入るけれども、それを拒否すれば両方が手に入らない場合、『たった1度の不正なら』と不正行為を行うのか、それとも拒否するのか、どちらの行為にアレテーは宿るのでしょうか。

メノンは、不正によって『金と権力』を手に入れたとしても、それはアレテーとは呼ばないので、不正行為はしてはいけないという主張をします。
となると、メノンが考える本当の『アレテー』とは、不正行為を行わなず、『正義』や『節制』を宿すという事になり、この説明は破綻してしまいます。
何故なら、『正義』も『節制』も徳目の一つで、アレテーの要素の一つだからです。 ある概念を説明する際には、その概念そのものや要素を使ってはいけないとしましたが、この答えは、そのルールを破っています。

こうして、メノンはアレテーの説明に失敗してしまい、アレテーを知っていると思い込んでいた状態から、無知な状態へと引き戻されてしまいます。
ここでソクラテスは、メノンに対して『共にアレテーについて考えていこう』と誘いますが、メノンの方は『探求のパラドクス』を掲げて、それが不可能ではないかと指摘します。

探求のパラドクス

『探求のパラドクス』とは、知らない者同士で話し合って、一応の答えを導き出したとしても、両者が無知である為に、その答えが正しいのかどうかが判断できない。
その一方で、既にその事柄について知っているものは、わざわざ探求することはない。 つまり、知らない分野への探求という行為は、無意味なのではないかというパラドクスです。

この探求のパラドクスに対して、ソクラテスは『想起説』で迎え撃ちます。
想起説とは、人間は生まれながらに全ての知識を持っているけれども、それを忘れているだけだという意見で…
一度、記憶としては得ている知識を忘れているだけなので、順を追って情報を入れていけば、芋づる式に答えを思い出していくというものです。

この理論の説明ですが、死んだ後の魂の行く末が出てきたり、生まれ変わりと言った話が出てきたりして、かなりぶっ飛んだ話となっています。
ソクラテスといえば、自分自身が一生懸命に考えて導き出した答えすらも疑って、吟味するような慎重な人間なのに、何故、この様な説を主張しだしたのかというと、この様な説明をしなければ成り立たないような事が頻繁に起こるからでしょう。

例えば、好奇心があるとか地頭が良い子供に、算数の足し算と引き算だけを教えるとします。
そして、その子供には、算数の教科書などを与えずに、何も書かれていない真っ白のノートと鉛筆だけを与えて自習させたところ、独学で中学生レベルにまで到達したという話があります。
もっと身近な話で言えば、仕事場に新人が派遣された際に、1を説明されて10を理解する人がたまにいます。 その人は、何処から2・3・4・・・の知識を手に入れることが出来たのでしょうか。

想起説

知識というのが、既に知識を持っている他人から教えられなければ絶対に身につかない場合には、先程の例えのような現象は起こりえません。
しかし実際問題として、このような事は低確率ながら起こります。 では彼らは、どこから知識を得たのかと考えると、既に持っていたとしか考えられません。
一度、知識として得たものを忘れているだけだとすれば、何らかのキッカケで全てを思い出すことはあります。

例えば、昔よく聞いていて歌詞を暗記していた歌があるけれども、数年間、歌っていなかった為に、歌詞を忘れてしまったという事があったとして…
誰かが最初の一言をメロディーに乗せて歌い出すと、自然とそのフレーズを思い出し、その後、立て続けに歌詞を思い出して行き、最後まで歌えたという経験はないでしょうか。
この様に、一度、記憶したけれども、その後、その知識を長時間使用していなかったとか、ど忘れとか、何らかのショックで記憶をなくしてしまった場合は、呼び水さえあれば、それをキッカケに思い出すという事はよくあります。

しかし、全く知らないし聴いたこともない歌の最初のフレーズを聞いたとしても、そのフレーズを呼び水として歌を最後まで歌えるということはないでしょう。
ソクラテスは、人は死んだ後に肉体から抜け出た魂が、この世の全てと一体になる事で、真理を知る事が出来ると主張しています。
数学のような法則は、真理の一部と思われる為、生まれる前からすでに知識として持っているけれども、忘れているだけだとすれば、最初の呼び水さえ与えてやれば、思い出すと言いたいのでしょう。

現にソクラテスは、教育を全く受けていないメノンの付き人の少年に対して、何も教えること無く質問をするだけで、数学の問題の答えを引き出しています。
正方形の辺の長さをどの様に変化させれば、正方形という形を保ったままで面積だけを2倍にすることが出来るのかという知識を、従者の少年は誰からも教えられること無く、自身で考えるだけで答えています。
知識というのが、教えられなければ絶対に身につかないものであるのなら、生まれてから一度も教育を受けたことのない、この少年は、どのようにして、その知識を得たのでしょうか。

『知識』は生まれながらに持っているもの

もっと身近な例で言えば、私達は、『美しさ』であるとか『勇気』といった概念を、言葉によって説明されて知識として得る前から、その概念を知っています。
『美しい』という概念を言葉として知らない子供でも、美しい花そ見れば好意を示すでしょう。
想起説によれば、人は生まれる前から真理を知っていることになる為、ソクラテス達が散々テーマにしてきたアレテーや、その要素についても知識としては持っているけれども、それを忘れているだけだと考えられます。

その為、『美しい』ものを観た時には、それが美しいという条件を備えていることを直感的に思い出すけれども、何を備えていれば美しいと定義するのかと言った細かい部分までは思い出せないままなので、知識としては知らない状態だという事かもしれません。
ただ、その知識は全く知らないわけではなく、一度、世界と一体になる事で知ることは出来たけれども、忘れているだけなので、忘れた者同士が話し合ったとしても、答えに近いところまで行けば、それが呼び水となって答えを思い出すだろうと言うことです。

これに納得したメノンは、ソクラテスと共に答えを探す道を選び、再び対話を行うことにしました。
その後、『アレテーは知識のようなもの』という一応の結論には達したのですが、その結果が本当に正しいのかを吟味したところ、二人は壁にぶち当たってしまいまい、アニュトスに意見を求めました。
この後は、アニュトスとの対話が始まるのですが、この続きの『まとめ』は、次回に話していこうと思います。