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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第91回【メノン】美しく立派なモノ 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

美しく立派なものは皆が欲しい

つまり、古びた家具や車などの物や反社などの人間関係を、第三者の目線から観て『醜く劣っている』と感じたとしても、その個人の主観で観れば、『美しく立派なもの』に見えているということです。
『美しく立派なもの』に見えているからこそ、自ら近づいていくし、割高な料金などを支払ってでも手に入れたいと思っているわけです。

こうして考えると、この世の全ての人間が、『美しく立派なもの』を欲していると考えられます。
全ての人間が『美しく立派なもの』を欲しいと思っているのであれば、これは特別なことではない為、わざわざ言う必要はありません。
となると、アレテーの正体を探るために注目して考えなければならないことは、後半部分の主張である『それを手に入れる力』という事になります。

ということで、『それを手に入れる力』に焦点を絞って考えていくわけですが、『それを手に入れる力』の『それ』とは、当然ですが『美しく立派なもの』を指しているのですが…
『美しく立派なもの』を、先程のように相対主義的に考えてしまって、『個人の主観ごとに存在する』としてしまうと、収集がつかなくなります。
そこでソクラテスは、メノンが考える『美しく立派なもの』について問いかけます。

欲望は不正な手段で叶えて良いのか

これに対してメノンは、『美しく立派なものとは、金銀財宝や、国家における名誉や要職を任されること』だと答えます。 平たくいえば、富と権力こそが美しく立派なものだということですね。
この答えを聞いたソクラテスは、『その富と権力は、どの様な手段を使って手に入れても良いのか。』つまりは、不正を行って手に入れても良いのかどうかを尋ねると、メノンはそれを否定します。
そして、富や権力を手に入れる手段には、正義や敬虔、これは、相手を敬って慎ましい態度をとることですが、それが伴っていない手段を使って手に入れても意味がないと答えます。

ここまでの意見をまとめると、メノンの主張としては、『財産や権力を手に入れる力を持つこと』がアレテーを宿す事と言い換えることは出来るが、その手段には、正義や節制や敬虔が伴っていなければならないという事になりました。
正義も節制も宿すこと無く、悪い事と分かっていながらも、自分の欲望を満たす為だけに不正に手を染めて、その結果として、国の要職という地位を手に入れて高収入を得られる状態になれたとしても…
それは『優れている』とか『卓越している』とか『徳が高い』とは言わず、悪徳だということです。

ソクラテスは、これまでの流れを確認した上で、次のような質問を行います。
『正義や節制や敬虔を優先した結果、お金や権力を諦めなければならなかった場面に直面した時には、どの様に行動すべきなんだろうか。』

優先すべきは欲望か正義か

例えば、自由気ままに権力を振りかざして不正を行い、自身の欲望を満たしている独裁者がいて、アナタはその下で働いているとします。この独裁者は国のトップの地位にいる為、アナタよりも上の立場という事になります。
この権力者が、自分勝手な都合で一人の無実の人間を捕まえてきて、その人を死刑にしようと目論見、部下であるアナタに処刑を任せてきたとします。
権力者のいうとおりに無実の人間を処刑することは不正行為ですし、当然、良い行為ではなく悪い行為です。 しかし、命令を遂行する事で、アナタは権力者には気に入られるでしょうから、出世出来る可能性が高まります。

仮に、この様な状況に迫られた時に、どの様に行動するほうが良いのでしょうか。
この例の場合は、人の命がかかっていたりと責任重大すぎるので、もう少し軽い例も挙げてみましょう。

スーパーやコンビニなどに買い物に行き、商品をレジに持っていって会計をし、提示された金額のお金を支払った際に、お釣りとして多めの金額が出てきた場合は、どうするのが良いのでしょうか。
間違ったのは店員の方なんだから、店員が悪い。 自分は相手を騙したわけではなく、相手が勝手に間違っただけなんだからと、黙って多めのお釣りを貰って店を去るほうが良いのでしょうか。
それとも、必要以上のお金を貰うことは不正行為となるので、店員の間違いを指摘して、差額分は返すべきなんでしょうか。

この2つの質問は根本的には同じことで、最終目的であるお金を、不正行為を行うことで手に入れられる場合、不正行為を行うほうが良いのか、それとも、不正を行わずにお金の方を諦めるのかという質問です。
この質問に対して、メノンは、『不正行為には手を染めずに、正義や節制を優先して、財産を諦める方が良い。』と答えます。

アレテーとは正義や節制?

この一連のやり取りによって、アレテーを宿す際にメノンが一番重要だと考えていることが明らかになりました。
メノンは当初、アレテーとは何かという問いに対して、『財産や地位を手に入れる力』だと答えていました。 しかし、これが成立するためには、正義と節制が伴っていなければならないとも付け加えました。
では、最終目的である『財産や地位』と『正義や節制』を天秤にかけた場合には、どちらの方が重要なのかというと、『正義』や『節制』。つまりは、不正行為を行わないことの方が重要だという事になりました。

この質問のやり取りによってソクラテスが知りたかった事は、『何を一番に優先するのか』という事です。
メノンは前提条件として、『正義』や『節制』が伴った行動を行わなければならないと主張していましたが、これをこの言葉通り受け取るのであれば、この前提条件は決して覆らずに、これを外して考えることは許されません。
例えば、数学や科学の世界の場合、前提条件を覆してしまえば、話になりませんよね。

しかし、ソクラテスが取り扱っている哲学の分野では、この前提条件は簡単に変わってしまいます。
他の対話篇のゴルギアスにしてもプロタゴラスにしても、議論が進めば進むほどに、聞いたこともない前提条件が突如として追加されたり、逆に、特定のケースに置いては前提条件が削除されたりしていました。
私達が日常の生活を送っていると、事前にマイルールを決めていたとしても、事ある毎に例外を設けて、ルールを破ってしまうということも結構あります。

例えば『ダイエットをする』という目標を掲げて、それを達成するためのルールを決めたとしても、『今日は会社の飲み会だから』など、様々な理由をつけてルールを破るのは珍しいことではありません。
その為、ソクラテスは、メノンが設定した前提条件が、どんな状態であっても揺るがないものなのかを確かめたかったのでしょう。
結果として、後から追加された条件である『正義』や『節制』や『敬虔』を伴った行動を取らなければならないという前提条件が、揺るがないものだという事が明らかになったのですが…

破綻するメノンの主張

これによって、新たな問題が生まれてしまいました。

それは、アレテーの本質が、当初メノンが主張していた『財産や地位を手に入れる力』ではなく、『正義や節制、敬虔を伴った行動』を取ることではないのかという事です。
先程の質問を深掘りしていくと、財産や地位を手に入れられる状態にも関わらず、それを諦めてでも、正義や節制を伴った行動を優先させなければならないという事が分かりました。
最終目標である財産や権力を諦めてまで優先すべき、『正義』や『節制』は、『それが宿った行動』そのものがアレテーとも考えられます。

しかし、そうなってしまうのは問題です。
何故なら、正義や節制はアレテーの一面を表す概念に過ぎないからです。

第90回では、『形』の概念を説明する際に、形に含まれる四角形や三角形という概念を用いて説明するのは不適切だという話をしました。
色の場合でも同じで、説明をする際に、赤色や黄色といった『色』という概念が含まれている言葉を使って説明しては駄目でしたよね。
同じ様に、アレテーを説明する際には、アレテーに含まれている要素である徳目と呼ばれるものは使用せずに説明しなければなりません。

徳目とは、アレテーの要素であると思われる、『正義』や『知識』や『美しさ』善悪を見極める『分別』欲望を抑え込む『節制』恐怖を克服する『勇気』などのことです。
この様な、『持っているだけで優れているとされているもの』を片っ端から挙げていくという説明方法は、色の説明をする際に、黒色・赤色・黄色と色を全て挙げていくのと変わらない行為なので、駄目だとされています。
何故なら、黒色は分解すると『黒』い『色』で、色に黒という形容詞が付いているだけのものなので、そもそも『色』という概念がわからない人間には黒色が理解できません。

同じ様に、そもそもアレテーと言うものを理解していない人間が、アレテーに含まれる概念を例として挙げたところで、説明にはならないということです。
という事で再び、メノンはアレテーの意味を見失ってしまい、『分からない事を分からない者同士で話し合たところで、正解にたどり着けるのか』という事に疑問を持つようになるのですが…
その話はまた次回にしていこうと思います。