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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第151回【パイドン】苦痛と快楽の関係性 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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苦痛と快楽の関係性


しかしその船がこの日にアテナイに返ってくるようです。 これは同時に神事も終わることを意味します。つまり死刑執行の延長期間も終わるということです。
ソクラテスは繋がれていた鎖から開放され、死刑執行までの少しの時間を牢内で自由に過ごすことを許可されます。
この時に彼は、苦痛と快楽の関係性について思ったことを簡単に説明します。

快楽と苦痛というのは、一般的な考えでいえば正反対のもののように思えますが、この両者の関係性は、単に両極端に位置しているといった簡単なものでは説明できず、もっと不思議な関係性です。
というのも、快楽と苦痛は両者が同時に人の感覚を支配することはありませんが、どちらか一方が体を支配している時にそれを体から追い出せば、もう一方が体に宿るからです。
わかりにくい言い回しになったので、もう少し具体的に言えば、仮に苦痛が体を支配しているとした場合、その苦痛を体内から追い出す。つまりは苦痛から開放された状態になると、体は快楽に包まれます。

ソクラテスの例で言えば、牢獄に重い鎖に繋がれている状態で長時間拘束されていると、肉体は苦痛に支配された状態になりますが、鎖を解かれて自由になると、体は苦痛から開放されたことによって気持ちの良い状態になります。
つまりは、苦痛を体から追い出したことによって、体に快楽が宿るというわけです。逆に、体を心地よい状態ではなくしてしまえば、体は苦痛を感じるということです。
この両者は対になっているような存在で、別々の概念として存在しているのではなくセットで存在し、これらは本当の意味で分けることは出来ません。

トランプの裏表


他のもので例えるのなら、裏と表の概念のようなものです。 裏と表は一見すると正反対のような概念のようにも思えますが、この両者を別々に分けることは出来ません。
これは実際に試してみるとわかりやすいかもしれません。 目の前に1枚の紙やカードなどを用意し、裏表を決めます。 この1枚のカードを表と裏に別々のものとして分けることは出来るのかといえば、出来ません。
仮に紙の表面を削いで2枚の紙に分けることが出来たとしても、2枚に分かれたそれぞれの紙に裏と表という概念が生まれるだけです。

例えば、男と女という概念は、それぞれの個体に分かれているため、男女10人の人間を男性と女性で分けることは可能です。
しかし裏と表や苦痛と快楽というのは、1つのものの側面であるため、分けることが出来ません。

ソクラテスは、これらの概念は例え神であっても分けることが出来ず、仮に力付くで無理やり分離しようとしたとしても、絶対にもう一方がついてきてしまう。
もしここにアイソポスがいれば、彼は『神が争っている苦痛と快楽を和解させようとしたが出来ないので、腹いせに彼らを縛り付けた』といった感じのおとぎ話を作るのではないかと言った冗談まで言います。
ちなみにアイソポスと言うのは英語読みに直すとイソップになるので、アイソポスが作るおとぎ話とは、イソップ物語のことを意味します、日本ではこちらの名前の方がわかりやすいですよね。

ソクラテスの行動の変化


このおとぎ話云々の話を聞いて、ケベスという弟子が、ここ最近のソクラテスの行動について不思議に思ったことを質問します。
というのもソクラテスは、有罪判決を受けて投獄されるまでは哲学一辺倒だったのに、投獄されてからというもの、イソップ物語の内容をポエムに直したり、アポロン神へ捧げるための歌を作るといった感じで、芸術に打ち込み始めたからです。
これらの行動にエウノソスというソクラテスの仲間が疑問を持っていたので、ケベスが変わりにその理由をを聞き出して伝えようと思ったようです。

これに対するソクラテスの返答としては、夢で芸術に打ち込めと言われたからだと説明します。 なぜ夢のお告げに従って行動を取っていたのかというと、ソクラテスは夢の世界は神々の住む世界とつながっているっと考えていたからです。
その世界から度々、芸術に打ち込めというメッセージを受けていたので、それは神のお告げだと思い込み、人生最後の時を芸術に捧げたようとしたようです。
そしてソクラテスは、ケベスにエウノソスに対して伝言を頼みます。 その伝言というのが、もし私が死んだら一刻も早く私の後を追いなさいというものでした。

つまりは、後を追って命を断てと言っているわけです。

人は神の所有物


当然、これを聞いたケベスはびっくりします。 というのも、これは今でもそうですが、自殺というのは世間一般でタブー視されていたからです。
キリスト教などでもそうですし、日本のように熱心に1つの宗教にはまらない民族もそうですが、自殺というのは禁止されているところが多いですし、仮にもし誰かが自殺を考えていたり実行に移そうとしていれば、止めるのが普通の価値観です。

この様に、自殺というのはいつの時代でもどの世界でも駄目だとされていますが、では何故、自殺は駄目なのでしょうか。
よくあるありきたりな答えとしては、『生きていれば良いこともあるから』というのが挙げられます。 確かにこれは1里あるでしょう。生きていれば良いことの1つや2つは訪れるでしょう。
しかし、ソクラテスの先程の苦痛と快楽の関係性で言えば、よい状態があるということは悪い状態もあるというわけで…自ら死ぬことを選ぶ人間は、どちらかといえば苦痛を感じている時間の方が長いから、それから開放されようとして死を選ぶわけです

この様に、『生きていれば良いこともある』というのは一見すると良い説得の言葉のようにも思えますが、実際には何も言っていないのと同じだったりします。
では当時のギリシャの人間はどの様な理屈で自殺は駄目だと考えたのかというと、人間は自分自身のものではなく神の所有物だから、勝手に死んではいけないと考えます。
例えば、ペットを例に考えてみましょう。 ペットを家族扱いし、ペットは所有物だという考えにアレルギーがある方もいらっしゃるかもしれませんが、他に例えが思いつかないのでペットの例で考えると…

仮にペットが自殺しようとして実際に行動に移そうとすると、飼い主は全力で止めるでしょう。 ペットにはペットの都合があり、自分で考えた結果として自ら死ぬことを選んだとしても、飼い主はそれを阻止します。
何故かといえば、ペットの命はペット自身のものではなく、所有者である飼い主のものだからです。その為、ペットが自分の意志で勝手に死ぬことは許されません。
これは神々と人間の関係性にも当てはまり、人間は神々によって生み出された神の所有物であるため、神の許しがなく勝手に自己判断で死ぬことは許されないと考えます。

ケベスも同じ様に考えているため、ソクラテスの発言の意味がわかりませんし、それは伝言相手であるエウノソスも同じです。 ケベスは、『仮に伝言を伝えたところで、彼は自ら死を選ぶことはないでしょう』と反論します。
これを聞いたソクラテスは、『彼は哲学者じゃないのか? 真剣に哲学について考えていれば、生きているよりも死ぬ方が良いことだとわかりそうなものだが…』といったことまで言い出します。
ソクラテスによれば、世の中の多くのことは相対的な価値観のもとに存在しているため、正しく良し悪しを分類することは難しいが、こと生きるか死ぬかの選択肢においては、死ぬほうが良いと主張します。

では何故、死ぬことのほうが人間にとっては良いのか。このことについては、次回に話していきます。

参考文献