だぶるばいせっぷす 新館

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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第102回【メノン】まとめ回 4/4

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

良くなる方法

例えば、仕事が肌に合わなかったとして、退職して無職になった場合、失業手当が出ている期間はとりあえず遊ぶという人は、大勢います。
自分の生活を改善して、より暮らしやすい環境にしようと思えば、その失業期間中に新たな知識や技術を身に着けたり、資格をとったりして自分自身をグレードアップさせれば、前よりも良い職場を選べる可能性は高まります。
仕事自体を辞める前でも、仕事が終わった後に自分で勉強をしたりする事で、自分の能力を高めると、周りの見る目変えられたりするでしょう。

でも、私も含めて大半の人間が、そんな事はしないでしょう。 仕事が終わった後の自由な時間は、動画を見たり本を読んだりと、自由に楽しむ時間として使ってしまいます。
アニュトスに言わせれば、大半の人間は改善しなければならない点が沢山ある様な生活をしていて、それは誰の目から見ても一目瞭然なのだから、その指摘を素直に受け入れて生活を改善すれば、誰でも優れた人になれるということなのでしょう。

この主張には、納得できる部分があります。 この世の中の問題は、全てが努力で解決できるといった単純なものではありませんが、努力で解決できる事も、それなりにはあります。
努力をしているにも関わらず、全く報われていない人であれば、幸福に向かうためにはソクラテス達の様に深い考察が必要になるかもしれませんが、努力を全くしていない人に対しては、『とりあえず努力してみたら』というのは、正論です。
ただアニュトスは、この主張で終わってしまっていて、細かい部分についての考察が不十分です。

その為、彼の主張では、十分に努力しているけれども幸福になれていない人に対しても、『もっと頑張れよ。』としか言えません。
逆に、特に努力もしていないけれども幸福な環境にいる人に対しては、『頑張ったからあの地位にいる』と言ってしまうかもしれません。

この、努力至上主義的な考え方は、『努力すれば報われる』『報われていない人間は努力していない』という単純な決めつけでしかありませんし、幸福に努力は必須と断言しているのに等しく、そこで思考停止しています。
幸福になる為には、本当に努力が必須なのか。 努力せずに、生まれながらの環境で幸福になっている人などはいないのか?と言ったことは、考えてません。

アレテーを教えられているはずの人達

その他には、人が直感として正しいと思うアドバイスは、本当に正しいのかや、それを聞き入れた結果として、本当に幸福と成れているのかといった検証もされていません。
ソクラテスは、アニュトスの主張が本当に正しいのかを吟味する為に、アテナイ人、その中でも一般市民よりも優れているとされている偉人の子供達の人生を追うことにします。
その結果として分かった事は、偉人の息子たちは、親や金で雇われた教師たちから、アテレーを教えてもらっているはずなのに、偉大な人物になっていないという事です。

これは、逆の見方もできると思います。 それは、世間から『優れた人』『卓越した人』と呼ばれている人達の親は、みんな優れた優秀な人物で、親から『優秀さ』を教えてもらったのかという事です。
偉人とされている人の親が、それほど優れているというわけでもなく、凡人の粋を出なかったのにも関わらず、子供の方が優秀になったとしたら、その子供は、どこから優秀さを学んだのかという疑問も生まれます。

これらの事実だけを観ると、『優秀さ』や『卓越性』といったものは、人から人へと単純に伝えられるようなものではない事が分かります。
しかし、そうなってしまうと、困ってしまうのはソクラテス達です。
ソクラテス達は、アテレーがどの様なものかが分からないなりに、仮説を立てて一生懸命に推測した結果、『アテレーとは知識のようなもの』だという一応の結論にたどり着いたわけですが、それを吟味した結果、間違っていることが分かってしまいました。

知識と推測

そこでソクラテスは、前提条件が間違っていたのではないかという事で、アテレーから『知識』を差し引き、『知識』の代わりに『推測』を入れてもアテレーは成り立つのではないかと意見を変えます。
例えとして合っているかどうかが分からない、先程の『アンパンの例え』でいうなら、アンパンから『つぶあん』を抜いたら、ただのパンになる為に、アンパンのコアになる部分は『つぶあん』という事が分かったわけですが…
その餡は、『つぶあん』じゃなければ絶対に駄目なのか、それとも、代わりに『こしあん』を入れても『アンパン』という概念は通用するのかを考えるようなものです。 『こしあん』でも代用できるのであれば、前提条件は変えられるということになります。

この答えを聞いたメノンは、『アテレーを宿したものが取る行動は、知識に先導されるものだけでなく、推測によって出た答えを元にしても良いのなら、偉人たちが間違った事も行ってしまう理由になる。』と納得しますが…
ソクラテスはそれに対して、『正しい考えによって導き出された答えが間違うということは、絶対にない。』と、それを否定してしまいます。

この両者の意見の違いが、何故、起こったのかと言うと、『推測』の捉え方が両者で違うからです。
メノンの捉え方としては、周辺情報など集めることによって、正しいと思われる答えを想像する事を『推測』だと認識しているので、当然のことながら、集めた情報に重要なピースが欠けていたりすると、その推測は間違える可能性が出てきます。
そして、メノンがこの様に勘違いをしたのは、ソクラテスがその様に説明をしたからです。

推測と閃き

一方で、ソクラテスが主張する『考え』とは、一種の『閃き』のことです。
ソクラテスは、『探求のパラドクス』が話題に登った際に、反論として『想起説』を主張しています。
『想起説』は、簡単にいえば、人間は絶対に正しいとされる答えを既に知っているけれども、生まれた時に記憶を失ってしまっている。 しかしその記憶は忘れているだけなので、呼び水があれば思い出すという説です。

ソクラテスに言わせれば、周辺情報を集めれば、それらの情報が呼び水となって答えを思い出す事が『推測』なのだから、絶対に間違うことはないと言いたいのかもしれません。
そして、その後に続く『ダイダロスの彫像』の例え話では、『閃き』というのは『求めている答え』だけがどこかから飛んでくると言うよりも、『閃く時』というのは、自分の中にある真理と自分の理性がつながっている状態だと説明しています。

漫画の例でいえば、鋼の錬金術師という漫画がありますが、その漫画の設定では、全ての人間が自分の精神の奥深くに、真理の扉と呼ばる扉を持っていて、その扉の向こう側には、全ての知識である心理があるとされています。
その扉は、何らかの代償を払うことで、支払った対価に応じた時間の間だけ開かれて、そこから膨大な知識を取り出すことが出来ます。
ソクラテスの例え話で言うのなら、その『真理の扉が開いている状態』が、『ダイダロスの彫像が目の前に現れた時』というわけです。

鋼の錬金術師という漫画の世界では、代償を払わなければ扉は開きませんが、ソクラテスの考えでは、扉を開く為には代償は必要ないという考え方です。
真理の扉を開いてアテレーを手にするのに必要なのは鍵で、その鍵となるのが何かを探る為にも、扉が開かれるタイミングや開かれた状態を分析する必要があると主張しているのでしょう。
真理の扉が開かれている状態では、自分が忘れていた知識を取り放題の状態になるので、今、直面している問題を解決する為の答えを、いつでも扉の向こう側に取りに行くことが出来る。

真理の扉の向う側にある答えは絶対に間違っていない正解のものしか無いので、その答えが間違っているはずがありません。 常に正解の道を選ぶことが出来れば、失敗することがないわけですから、その様な状態は『神がかりの状態』といえます。
しかしその扉は、何の前触れもなく閉ざされてしまうので、扉が開いている間に、重要だと思われる情報はできるだけ、引き出して置かなければならないということです。
何故なら、ソクラテスの考えによると、『神がかりの状態』になる鍵は、知識だからです。 知識が呼び水になって、新たな知識を得ることが出来る。 この連鎖によって、人は高みを目指す事が出来ると言っているからです。

アレテーは体得しているもの

ただ、真理の扉の向う側にある知識ですが、『想起説』によれば、これは誰かから教えてもらった知識ではなく、自分の魂が地球のカオス的なものと融合した際に獲得したものです。
その為、その知識をアウトプットして他人に教える事は困難です。 何故なら、その知識は、誰かがアウトプットしたものをインプットしたわけではなく、いつの間にか自分と融合していたものだからです。
アテレーを宿す状態とは、真理の扉が開き、この世の真理と自分の理性とがつながっている状態の事を指し、その扉は、自分の意志で自由に開けるものではなく、何らかの偶然性によって開かれるという事なんでしょう。

まとめると、アテレーというのは、人から教えられて学ぶようなものではなく、既に体験として得ているけれども忘れてしまっている存在。 そして、知識を蓄えておけば、何らかのタイミングでそれが呼び水となり、それを宿した存在になれる。
分かったような分からないような説明ですし、想起説の説明では、確認がしようもない死後の世界の話なんてものも出て来るので、納得が出来ないという方も大勢いらっしゃるとは思いますが…
そういったものを持ち出さないと説明がつかないものが、アテレーというのは、興味深かったりもしますよね。

という事で、今回でメノンの読み解きは終わり、次回からは、『ソクラテスの弁明』を読み解いていこうと思います。