だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第153回【パイドン】『生』は『死』から生まれる 前編

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放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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肉体のノイズ


今回も、対話篇『パイドン』を読み解いていきたいと思います。
前回は、ソクラテスが『哲学者であるのなら、私が死んだらすぐにでも後を追うように』と伝言を残したことに弟子のケベスが『発言の意図が理解できない』と食いつき、それに対してソクラテスが死について簡単に説明したところまで話しました。
なぜ、ソクラテスが仲間に向かって死ぬべきだと言ったのか。その理由は、真理を解明するためには肉体が邪魔だからです。

何故肉体が邪魔なのか、人間が真理を探究しようと思うときに頼るのは理性ですが、肉体からもたらされる様々なノイズによって、その理性が働かなくなるからです。
肉体は、自身の体に特定の刺激があれば、それをきっかけとして感情を揺さぶります。
気になる人から話しかけられたり、美味しいものを食べたり、人とのコミュニケーションを取った際に嫌なことがあったりと、人の人生には様々なことが起こりますが、その都度肉体は快感であったり不快感といった形で反応します。

その快感や不快感といったノイズは、人からまともな思考力を奪います。 つまり、肉体を通して入ってきた情報は、それを受け取った時に肉体が感じる感覚によって脚色されてしまいます。
そしてその脚色された情報を元に考えを巡らてしまうと、情報が正しく認識ができていないままに考えることになるため、出てきた答えは間違ったものになるということです。
例えば料理をつくる際、レシピ本の通りに作って同じものが出来上がるのは、同じ食材を使って手順を真似た場合のみです。

買ってきた食材に事前に何らかの味付けがされている場合、つまり純粋な材料ではなく混ざりものがある場合は、レシピ通りに作っても同じ料理にはなりません。
何らかの調味料や加工によって材料が変わってしまっている場合、レシピ本と同じ結果を得ようと思うのであれば、事前に材料につけられている調味料を洗い流すなり、その調味料がある前提で逆算して加える調味料を変化させる必要があります。
これを真理の探究に当てはめるのであれば、肉体が出す欲求や満足感や不快感といった余計なものを無視する必要があるということです。

煩悩を捨てる


これは仏教の思想にも通じるようなもので、煩悩を振り払って純粋な理性のみで考えるのにはかなりの精神的鍛錬が必要となるのですが、それを一番簡単にする方法が死ぬことです。
死とは肉体と精神との分離のことなので、死んで肉体がなくなれば、残された魂は肉体的欲求からは開放されることとなります。
この様な状態になるために、ソクラテスは『哲学者であるのなら、真理探究のために自ら死を選んだほうが良い』と答えます。

これは逆に言えば、生きていながら肉体的欲求と精神を切り離して思考できる人間であれば、死ぬ必要はないということです。
死んだところで本当に肉体と魂が分離するかどうかはわかりませんし、あの世があるのかどうかもわかりません。 第一、死んでも現状と同じ様に自我がや意識が保てるのかどうかもあやふやです。
仮に死後の世界があり、死んだ後で自我が保てて真理を得られるとしても、それを現世の人間に伝えることもできないため、基本的には生きている状態で考えたほうが良いでしょう。

では何故、ソクラテスは仲間に向かって死んだほうが良いなんて言ったのかというと、私が思うに、ショッキングな言葉を使って、これらのことを考える切っ掛けを与えたかったのでしょう。
このことは、このコンテンツでも紹介してきた過去の対話編を読み解いていけばわかりますが、ソクラテスはこの様な極端な言い回しで一度相手を混乱させて、相手に考えるきっかけを与えてから本格的な討論に入っていきます。
今回のこの一連の主張も、これと同じ様なものだと思われます。 『人は幸福のために死ぬべきだ』という極端な主張をし、それを正当化するような主張をすることによって、相手にこれまでになかったアイデアを授けようとします。

死の練習


話を対話編に戻すとソクラテスは、真理を得るために純粋な情報を元に考えを巡らそうと思うのなら、人は肉体を捨てるべきだと主張します。
そしてこの事を常に頭の片隅に置きながら真理について探究しているのであれば、実際に自分に死が迫ってきたとしても、そこに恐怖はないと言います。
何故なら、死は肉体からの開放で、それによって自分が生涯をかけて研究してきたことの答えにたどり着ける可能性があるわけですから。

自分が何よりも優先して追い求めてきたものが手に入るイベントが訪れたとしたら、普通の人ならそれに恐怖せず、むしろ喜ぶのが普通だろうというのがソクラテスの言い分です。
逆に言えば、死を恐れる人間は、真理の探究や本当の意味での幸福を考えたことがなく、肉体的欲求を満たすことで頭がいっぱいだといえます。
金が欲しい・性的快楽を味わいたい・美味しいものが食べたい・モテたい等など、この様な欲望に支配された人間は、死ぬことで肉体を失うと、それら全てを二度と味わうことができないわけですから、いざ死が目の前に迫ってくれば恐怖を感じるでしょう

しかしそんな人間は哲学者ではなく肉欲に囚われた人間で、ソクラテスたちはそんな者を目指しているわけではないといいます。
何故かといえば、ソクラテスたちは真に幸福になるために哲学に没頭しているからです。その幸福に絶対に必要だとされているのがアレテーと呼ばれる卓越性です。
ですが、繰り返しますがその卓越性は、肉体に支配されているような人間には宿りません。

死を恐れていては真理を得られない


例えば前回に紹介した対話篇『アルキビアデス』では、戦場で仲間が死にそうになっているが、助太刀すれば死ぬかもしれないという状況で、どの様に行動するのかという話がありました。
この問題に対してアルキビアデスは、助けに入って自分が死んでしまうと大損なので、助けにはいかないと答えています。
この彼の発言は、自分の肉体がなくなってしまうことが大きな損失になると考えての事なので、完全に肉体に依存した考えですが、彼のような考えの人間にアレテーの構成要素の1つである勇敢さは宿りません。

アレテーには他にも節制という要素もありますが、この節制とは簡単に言えば欲望を抑え込む理性なので、肉体的欲求に振り回されているような人間には宿ることはありません。
勇敢さや節制などをその身に宿そうと思うのであれば、自分と肉体的欲求との距離を離し、理性的に考える姿勢が必要となります。
ただここで1つ疑問が出てきます。 それは、死を恐れない人間に勇敢さが宿るのかという問題です。勇敢さは恐怖に耐えることのように思えるのに、そもそも死の恐怖を感じない人間に勇敢さが宿るのでしょうか。

これと同じことは節制にも当てはまります。 節制とは理性によって欲望に耐えたり抑え込む事を指しますが、そもそも最初から肉体的欲望を持たない人間には、欲望に耐えるという行為そのものが必要がありません。
欲望を抑え込むことが節制なのに欲望を持た無いがゆえに抑え込む必要がない人間には、節制は宿らないのではないでしょうか。
逆から言えば、どんな些細な事柄に対してでも欲望を抱いてしまうような人間は、それを抑え込む機会がたくさんあるわけですから、節制を獲得しやすい状態にあると言えてしまいます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第75回【損益計算書】営業利益

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前回はこちら

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売上総利益


今回も引き続き損益計算書について見ていきます。 前回までは売上総利益に付いて話してきました。
売上総利益についてのエピソードを聞かれていない方は、まずそちらを先に聞いてほしいのですが、簡単に復習すると、売上総利益とは売上から商品の原価を差し引いたものです。
売上というのはモノやサービスを販売することで得た対価となりますが、売上からその元となっているモノやサービスを調達するためのコストである売上原価を差し引いたものが、売上総利益です。

他社が作った製品を仕入れて販売するような小売店や卸売は仕入れ額が売上原価にあたりますが、製造業の場合は物を生産する際にかかったコストがこれにあたります。
ここで注意点ですが、仕入れコストや生産にかかわるコストが全て売上原価となるわけではありません。 原価となるのは今年に販売された商品に限定されます。
つまり、仕入れたり製造したけれども余ってしまった商品や、材料を仕入れたけれども完成に至らなかったものは、この原価には含みません。 原価に含むのは売れた分だけです。

この様になっている理由としては、簿記の説明をした際に最初に言ったと思いますが、会社の現状を1年という期間で区切って正確に出すためです。
商品在庫や製造コストというのは、それが現金化されるのに一定の期間がかかったりします。 例えば、注文から納入までが3ヶ月かかるような商品を取り扱っている場合、その3ヶ月分の在庫は自分たちで持つ必要が出てきます。
すると当然、その在庫は期をまたいで持つことになります。 仮に3月末が期末の場合に3月に商品が届いたとすれば、支払いは今期ですが売上になるのは翌期以降となります。

この場合、来期の売上の元となる仕入れを今期にしていることになるため、このコストを今期のコストに含めてしまっては正しい利益を出すことが出来ません。来期のコストは来期の計算に含めるべきです。
その為、会社が持っている在庫はコストに含めず、今期に売れた分だけを売上原価としてコストに算入します。 この考えは、減価償却費の考え方にも通じるものがありますよね。
10年使用する目的で購入した大規模な製造設備を、購入したその年に全額コストとして落としてしまうと、会社の利益がわかりにくくなります。10年使うなら、10年で分割してコストを計上した方が分かりやすいです。

期末の在庫状況


この様な感じで会社の収支は、基本的にはその年の分だけを取り出して計算していきます。
計算方法としては、前期から引き継いだ在庫に今年の原価を足して、そこから今年に売れ残った在庫を差し引くことで計算します。
会社が期末に仕入れを抑えて在庫を減らそうとするのは、これが理由です。 最後に今年分の在庫を差し引くということは、在庫が大きくなればなるほど差し引かれる金額が大きくなってしまうため、売上原価は小さくなってしまいます。

売上原価が小さくなるということは、売上から売上原価を差し引いた利益のベースとなる売上総利益が増加してしまうことになるため、結果、税金が増えてしまうことになります。
具体的な数字を上げると、売上が1000で前期からの在庫が50あり、今期の製造コストが500あって今年の在庫が100になったとすると、売上原価は50+500-100になるので450。
その450を売上の1000から差し引くと売上総利益は550となりますが、今年の在庫が300に増加してしまうと、売上原価は50+500-300で250になってしまい、売上総利益は750まで増えてしまいます。

この様になってしまうため、企業は期末に在庫を減らすように動きます。
その他の理由としては、もし仕入れ値を全て原価に含めることが出来るのであれば、利益が出そうな時に仕入れを増やすことで税金を減らすことが出来てしまうので、それを防ぐ目的もあると思われます。
この様にして売上総利益は計算されるのですが、この売上総利益に含まれているコストは販売しているモノやサービスにかかわるコストだけです。

販売管理費


しかし実際には、この他にもコストがかかっています。 それを含めて計算するのが営業利益です。この営業利益が、会社が行う事業としての実質的な利益として考えても良いでしょう。
この営業利益で新たに組み入れられるコストは、主に販売管理費と言われているコストです。この販売管理費はその名の通り、販売や管理にかかわるコスト全般のことです。

想像しやすいように例えを出すと、小売店の場合は商品を仕入れただけでは売上にはなりません。 それを販売するための仕組みが必要となります。
分かりやすいのが店舗を構えて販売するという仕組みですが、この店舗を構えるというのは無料で出来るものではありません。 土地を持っていなければテナントを借りる必要がありますし、販売員を雇う必要も出て来るかもしれません。
売上に直接関わらない経理事務といった作業にも人件費がかかってきますし、店舗を運営するためには水道光熱費もかかってきます。

人手不足の業界であれば福利厚生を充実させて社員が逃げていかないようにする必要もありますが、これもタダではありませんので費用がかかります。
また小売店は、店を開店するだけで勝手に客が来るわけでもないでしょうから、店を宣伝するための宣伝広告費もかかるかもしれませんし、接待をしなければならない場合もあるでしょう。
通販対応をするのであれば通信費や送料なども当然かかってきますし、自社サイトの制作費や維持管理費もかかってきます。 このようなものが販売管理費と呼ばれるものです。

これらの販売管理費ですが、事業を行う上では絶対に必要な経費となりますが、前回に紹介した売上総利益には経費からは除外されています。
その様な状態では事業の正確な利益が出ないため、ここでその経費を差し引くことで営業利益を出していきます。

なぜ売上原価と販売管理費を分けるのか


では何故、売上原価と販売管理費をわざわざ分けて計算するのかというと、そうすることで会社の課題が見えやすくなるからです。というのも、これらのコストですが、まず、コストの性質が根本的に違います。
売上原価の構造としては基本的に原材料価格といった仕入れ値が関係してくるため、簡単に削ることは出来ませんし、削るとなるとクオリティに関しても妥協する必要が出てきたりします。
大量買い付けによってコスト削減をした場合、製品クオリティーには問題がないかもしれませんが、業態を薄利多売に変えるといった大幅な変更が必要となります。

一方で販売管理費は、製品品質とは関係のないコストとなるため、ここを削ったところで販売している商品のクオリティーが下がるわけではありません。
例えば、手書きで行っていた経理作業を会計ソフトを使うことで省人化し、結果としてコスト削減をしたところで、顧客が購入する製品には変化がありません。
今まで出張させていたのをリモートに置き換えても事業に悪影響がない場合は置き換えることでコストを削減できますが、これも顧客が最終的に手に入れる商品やサービスのクオリティが根本的に変わるわけではありません。

この様に性質が違うコストを一緒くたにして経費としてしまうと、後から見た際に分かりにくい為、商品原価と販売管理費という2つに分けることで、損益計算書を見るだけで簡単な分析ができるようにします。

利益増減の理由を分析


例えば、管理費は低く抑えられているけれども売上総利益が低くて利益が出ていない場合は、取り扱っている商品の市場が縮小していたりレッドオーシャンになっている可能性が出てきます。
平たくいえば、取扱商品が安売りしないと見向きもされない商品になっているということです。

一方で販売管理費が高くなっている場合ですが、これは社内に問題があるケースが多いです。 社内の業務が効率化出来ておらず、結果として高コスト体質になっている場合は、この部分の改革を進める必要が出てきます。
こういった場合は、販売管理費の中のコストをより詳しく見ていくことで問題を浮き彫りにしていきます。

例えば小売店の場合は実際に店舗を構えると言った方法ではなく、ネットで販売をするといった方法もあります。
ネットの場合は販売員などの人件費を削ることが出来ますし、店舗の開店時間なんてものも存在しませんので、維持管理という点ではコストが低くなります。
一方でネットでは数え切れないほどあるサイトから自社サイトを見つけて貰わないといけないので、宣伝広告費がかかる可能性もあります。

どの様な販売戦略を取るのかで、それぞれのコストがどの様に変化するのかをシュミレーションして販売管理費を縮小させていけば、結果として営業利益の上昇に繋がります。
この分析を更に分かりやすくしようと思うのであれば、自社が行っている事業ごとにコストを分けて記載するという方法もあります。
先程の例でいえば、実店舗の事業とネット事業を別事業として分けて、それぞれの事業ごとに売上やコストを出せば、2つの事業がより比べやすくなります。これはセグメント利益なんて言ったりもします。

分類すればするほど分析しやすい


それぞれの事業の営業利益を比べた結果、実店舗は販売管理費がかかりすぎていて利益が出ておらず、会社の利益の大半をネット事業が稼いでいたなんてことになれば、実店舗の事業の効率化や撤退を考えたほうが良いという決断も出しやすくなります。
これは、前回に説明した売上総利益に関しても同じことがいえます。 会社として作っている商品をカテゴリーごとに分けることが出来るのであれば、それぞれを分けて出す事で、商品ごとの粗利率や売上に対する貢献度がわかったりします。
取扱商品の粗利率や売上や利益に対しての貢献度がわかれば、どの商品に力を入れるべきなのかがわかりやすくなります。

それらが明確になれば、今後の戦略を立てる際にも役立つため、売上やコストは分けて計上するようにします。
少し本題からずれてしまいましたが、もう一度テーマである営業利益に話を戻すと、営業利益は売上総利益から販売管理費を差し引いたものなので、これが本業の利益を表したものとなります。
何故、売上原価と販売管理費を分けるのかというと、事業の状況を分かりやすくするためです。 そしてコストや売上は分ければ分けるほど、会社の状態が詳細にわかるようになっていきます。

分かりやすくなっては行くのですが、細かく分け過ぎると見るのが大変になってくるので、大まかに分けて計算された利益が、売上総利益と営業利益となります。
これで一旦営業利益の話は終わり、次回は今回登場した新たなワードであるセグメント利益について説明していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第152回【パイドン】人は神の所有物 後編

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哲学者にとっての死


ソクラテスの主張によれば、哲学者の本文というものは、『死ぬこと』そして『死んだ状態にあること』について考えることだけだと主張します。
つまり、常に死という現象に目を向け、それを検証し、実践し続けることこそが、本当の哲学者がやるべきことだと言うことです。

この主張を聞いた弟子のケベスは思わず笑い出し、『多くの人がそう思っていることでしょう』と言い出します。
何故ケベスが笑い出したのかというと、単にソクラテスの言葉の意味を誤解していたからです。
というのも、過去に紹介した対話編を思い出してもらうと分かるのですが、ソクラテスは欲望に従って生きるという人生を否定しています。

例えば『ゴルギアス』という対話編に登場するカリクレスという人物は、人の人生とは欲望を満たし続けることだと主張します。彼は、欲望を満たしたことで得られる満足感こそが幸福感だという考えなので、人生において欲望を満たすことを最優先します
逆に、何も欲さないゆえに何も行動を起こさないような人生には意味はなく、『そのような人生は生きているとはいえない』といったことを力説します。
しかしソクラテスは、皮膚病の例を出して反論します。 例えば漆を触るなどして皮膚が痒くなった場合、その部分をかけば快楽が得られます。

逆に皮膚に異常がなければ、皮膚を掻くという行為もしませんから、何の快楽も得られません。では人は、皮膚がかぶれた方が幸せんなんでしょうか。皮膚に何の異常もないがゆえに何も行動を起こさない人生は、何の楽しみもない状態なんでしょうか?
このような感じで、ソクラテスは肉体的快楽や金銭的欲望、地位や見た目といったことに夢中になり、そのために奔走するような行為を否定しています。
このソクラテスの態度を一般人が見たとすれば、ソクラテスの主張する人生には何の楽しみもないわけですから、生きながらに死んでいる状態、つまり、死んだ状態を実践している様に見えます。

彼の弟子のケベスは、ソクラテスがその事を自覚した上で自虐的に『哲学者は死んだような人生を送っている』と発言したと思い込み、思わず笑ってしまったというわけです。

真理を得るために肉体は不必要


これに対しソクラテスは、『世間一般の哲学者の評価は正しいだろう。 だが、彼らは本当の意味で言葉の意味を理解はしていないだろうけれども』として、この言葉の意味について話し始めます。
まずソクラテスは、真理に到達するために一番邪魔な存在は『肉体』だと主張します。

先ほど紹介したゴルギアスでのカリクレスとの対話を思い出してほしいのですが、ソクラテスが否定した快楽は全て、肉体がもたらすものです。
人がなぜ金を求めるのかといえば、その金を使って美味しいものを食べるといった感じで、金を消費することで肉体的快楽を得たいからです。
衣服を着飾って見た目を良くするというのは直接肉体に関連することですし、それによって得ようとするものも、最終的には肉体的快楽です。

地位もそれを手に入れて最終的に何がしたいのかといえば、カネを手に入れたり権力を行使したりといった感じになるため、金や地位や見た目の良さと言うのは全て、肉体的快楽を得るための手段となります。
つまり、カリクレスを始めとした一般の人達が抱く欲望の大本にあるのは肉体です。 この肉体が発する欲を満たそうとする行動が、先程あげたようなカネを稼いだり権力を手に入れたり衣服を着飾るといった行為となります。
しかし、この肉体というのは不滅のものではなく、いずれ寿命を終えて無くなるものです。 その無くなるものに起因する欲望を満たすという行為には、意味がないということです。

肉体が大元になっている欲望に意味がないとするのなら、その欲望を発し続けている肉体そのものにも大した意味はないと考えられます。
何故なら、人々にとって一番必要な事柄である真理、他の言い方をすれば『幸福になれる方法』ですが、それは肉体の機能を使ったところで見つけることは出来ないからです。

真理を得るために必要なもの


例えば、ソクラテスがずっと欲し続けている『卓越性とはなにか』という答えですが、この答えは肉体を通して知ることは出来ません。

人間の肉体には、目や耳や鼻や口といった様々なセンサーが付いていますし、これらを通して人は外の世界を認識して感じることが出来ます。
では、これらのセンサーを使って真理を見たり聞いたり匂いを嗅いだり味わったり出来るのかといえば、そんな事は出来ません。
ソクラテスが追い求めている卓越性・アレテーは、様々な要素に分解できるとされています。 例えば美しさや勇気と言った者がこれにあたりますが、ではそれらを見ることが出来るのかといえば、それも出来ません。

美しさは目で見ることが出来るじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そういった方はまず、過去に取り扱った『饗宴』という対話篇の回を聞いてみてください。
ここで語られれている美しさとは、単に見た目が綺麗だとかそういった事ではありません。 誰もが無条件でひれ伏してしまうようなパワーのことです。
仮に、絶世の美女がいたとして、その人の性格が最悪であった場合、多くの人は最初は見た目の美しさに惹かれるかもしれませんが、彼女の性格を知ることで離れていくでしょう。

先程も言いましたが、ここで語られている『美しさ』とは、誰もが無条件でひれ伏してしまう力のことなので、優先順位として人柄や性格に負けてしまう様な『見た目の綺麗さ』は美しさとは呼びません。
では、ここで上げられている『美しさ』というものはどうすれば理解できるのかといえば、方法は理性的に考えるだけとなります。
そして、この理性的に考えるという作業を最も妨害してくるものが、肉体となります。

肉体は真理を得る際に邪魔をする


何故肉体が邪魔をしてくるのかというのを先程の美しさの例で説明すると、人は欲望に弱い生き物なので、仮に理性的に美しさについて考えようと実践したとしても、その最中に自分の好みのものが目の前を通るとそれを美しいと思ってしまうからです。
その人が歌を歌っていれば、美しい歌声だと思ってしまいますし、その人から漂ってくる香りは良い香りだと錯覚するでしょう。
しかし、先程も言いましたがそんなものは美しさではありません。 美しさではありませんが、肉体に備わっているセンサーから入ってくる情報によって、意識はかき乱されてしまいます。

このようなことになってしまうため、哲学者は肉体からはできるだけ距離を取らなくてはいけませんし、その究極の形が、肉体を捨てるということになります。
ソクラテスが哲学者の知り合いに『できるだけ早く私の後を追いなさい』といったのはこういった理由なのですが、弟子のケベスはまだ納得がいっていないようなので、このあと、ソクラテスは彼とさらに討論をしていくことになるのですが…
その話はまた次回にしていきます。

参考文献



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前回の振り返り


今回も対話篇『パイドン』を読み解いていきます。
前回は対話篇を読み解くための前提となる知識や設定などの話を中心にし、最後に少し本編の話をしました。

その本編の内容を簡単に振り返ると、ソクラテスは投獄されてからというもの、今までは行ってこなかった芸術分野に手を出し始めます。
具体的には、イソップ物語の内容をポエムに直したり、神に捧げる讃歌を作ったりといった事を行っていました。
このような行動を取っていた理由としては、度々『芸術に身を捧げよ』といった感じのお告げにも似た夢を見るからです。

この夢自体は、投獄されてからというよりももっと前から見ていたようなのですが、では何故、投獄されてから芸術に身を捧げるようになったのかというと、ソクラテスがこの夢の内容を誤解していたからです。
彼は、真理に到達するために哲学について考えることこそが、神に捧げる最高の芸術だと思いこんでいたため、これまでは芸術に身を捧げよというお告げに対し、哲学に身を投じてきました。
しかし彼は投獄されてから、この夢の内容をもっと素直に受け止めるようになり、言葉通り、芸術に打ち込みだしたようです。

死刑執行前の会話で何故、このような話の流れになったのかというと、ケベスというソクラテスの弟子の仲間であるエウノソスがソクラテスの行動を不思議に思っていたので、ケベスが彼の代わりにソクラテスに質問をしたからです。
その流れでソクラテスは質問に答え、さらに『エウノソスも私の後を追って死ぬように伝えておいてくれ』と付け足します。
これにケベスがびっくりして、『何故、後を追って死ななければならないのか?』と質問をし、それに対してソクラテスが『生きるよりも死ぬことの方が良いことだからだ』といったのが、前回の最後でした。

人間は神の所有物


しかしこれに納得出来ないのがケベスです。ケベスは、人間は神の所有物であるため、勝手に死ぬことは許されないという考えの持ち主です。
人間が神の所有物というのは、人間関係で言うのであれば主人と奴隷の関係性と同じです。 人間の主人は神様であるため、奴隷である人間は勝手に死ぬことは許されないということです。
主人と奴隷の関係性で言えば、奴隷が主人の為にそこまで忠誠を誓う必要性があるのかという問題がありますが、この点に関してケベスは、善悪について考えたこともないような人間であれば、自由を求めて主人から逃げ出すのも分かると主張します。

何も考えていない奴隷は、誰かの所有物であることで自由が制限されていることに不満を持ち、漠然と逃げ出したいと考えて、実際に実行するものもいます。また、悪い主人のもとから逃げ出したいと考えるものも多いでしょう。
しかし、善悪についてよく考えている哲学者であれば、神と人間との関係性において、主人である神から逃れるなんて選択肢を選ぶ者はいないと断言します。
何故なら、神というのは絶対的に良い存在だからです。主人が良い存在であれば、そこから逃れようとするのは単なる馬鹿です。

わかりやすいように、現代風にサラリーマンと社長という設定で考えてみましょう。
ここに登場する社長は大変優れた人物で人間も出来ているため、得た利益はしっかりと社員に還元し、福利厚生もしっかりしているとしましょう。
ライフワークバランスも考えてくれて、仕事に飽きないようにと常に新しいことにも挑戦させてくれるような、そんな理想的な環境を整えてくれる社長であれば、社員はこの会社からわざわざ去る意味はありません。

もし仮にこの会社を辞めてしまったとしたら、転職しても待遇は悪くなるでしょうし、仕事も面白みがないものに変わってしまうでしょう。
転職はせずに個人事業主として会社を立ち上げたとしても、その立ち上げた会社が上手くいく保証はありませんし、独立したことで今ままでは所属していた会社がやってくれていた雑用をすべて自分でする必要性が出てきます。
当然、仕事時間は増えますし、休みの日であっても仕事のことが常に頭の片隅にある状態なのでリラックスも出来ません。

この様に、良い経営者のもとを離れた場合は、状況は悪化する場合が多いです。 その為、自分の雇い主である経営者が良い人間か悪い人間かを見極めることが出来る人間であれば、良い経営者からわざわざ離れようなんて選択肢は選びません。
先程のソクラテスとケベスの話に戻ると、人間の主人は神であり、神は絶対的な善なのですから、善悪を常に考えているような哲学者であれば、わざわざ神々から逃げようなんて思わないはずです。

輪廻転生


これに対してソクラテスは、死とは主人である神から逃れる行為ではなく神の元へ行く行為であり、生きている状態よりもさらに良い状態へと環境を移すことだと反論します。
例えば、死ぬと完全な無となり、この世から跡形もなく消えてしまうというのであれば、これから死ぬ人間は感情的にならざるをえないかもしれません。しかし、死ぬことで今よりも良くなるとわかっている人間であれば、心は平穏を保てると言います。
では、死ぬことで今よりも良い状況になるというのはどういうことなのでしょうか。

まず注意として、ソクラテスはこの死後の世界のあり方については断言はしていません。 何故なら、彼は死後の世界を見たこともなければ、行ったことのある人に話を聞いたこともないからです。
その為、断言は避けて、あくまでも憶測として『あの世』について話していきます。 ちなみに『ソクラテスの弁明』では彼は、仮に死ぬことが無に帰ることだとしても、それほど恐ろしいことではないと主張しています。
例えば、私たちは1日に数時間はねますが、その寝ている間は意識が飛びます。 つまり、私たちは毎日数時間は死と近い体験をしていることになります。

その際、私たちは『眠ることが恐ろしい!』として寝るのを拒絶するのかといえば、そんなことはしません。 眠たくなれば寝ますし、何なら目覚めた直後は『もっと寝ていたい』という誘惑が襲ってきたりもします。
この様に私たちは、意識がなくなることを恐れるどころか、もっと長い間意識がなくなっていたいと思ったりするため、意識が無に帰ることそのものに対しては恐怖を感じていないという立場でしたが…
この対話篇『パイドン』では、魂は無に帰らずに、死後も存続し続けるという推測を前提として話されます。

何故、死後も魂が存続し続けるのかについては、前回に話したピタゴラス教団の教義が大きく関係しているようです。ピタゴラス教団という数学が得意な哲学者ピタゴラスを元にした宗教団体では、輪廻転生を主張しています。
この宗教団体と著者のプラトンが親交を深めたあとに書かれたのが、この『パイドン』のようなので、この作品でもその輪廻転生の影響を強く受けていたりします。
その他の理由を考えてみると、プラトンが師匠のソクラテスのことを大変大切に思っていたため、彼の魂が無に帰ったと思いたくないというのも、もしかしたらあるのかもしれません。

もし仮に、ピタゴラス教団の主張通り魂が不滅で、あの世というものがあるのであれば。プラトンは死後にソクラテスに合うことが出来ますし、彼と無限の時間討論をすることも可能でしょう。
それだけでなく、ソクラテスが対話の際に名前を出していた過去の英雄などとも直接あって話を聞けるのですから、輪廻転生を受け入れるだけで、死後の世界に希望を持つことが出来ます。
そういった理由もあって、ここでは輪廻転生説を強く支持しているのかもしれません。

神の元へ行く


話を対話編に戻すと、ソクラテスに言わせれば、死とは主人である神様から逃げる行為ではなく、むしろ主人である神のもとへ行く行為だと言います。
現実の世界では、善悪も知らない人間の王が人を支配していることで、問題や争いが絶えません。
しかし『あの世』は、人間よりも遥かに優れている神が支配しています。 人間よりもはるかに優れた支配者が統治しているわけですから、当然、あの世は現世よりも優れた社会であるはずです。

死ぬという行為は、そのような世界へと旅立つことなのだから、絶望するようなことではないということでしょう。
そしてこの事は哲学者であるのであれば、とりわけよく理解していなければならないと言います。
では、哲学者にとっての死とは、どのようなものなのでしょうか。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第151回【パイドン】苦痛と快楽の関係性 後編

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苦痛と快楽の関係性


しかしその船がこの日にアテナイに返ってくるようです。 これは同時に神事も終わることを意味します。つまり死刑執行の延長期間も終わるということです。
ソクラテスは繋がれていた鎖から開放され、死刑執行までの少しの時間を牢内で自由に過ごすことを許可されます。
この時に彼は、苦痛と快楽の関係性について思ったことを簡単に説明します。

快楽と苦痛というのは、一般的な考えでいえば正反対のもののように思えますが、この両者の関係性は、単に両極端に位置しているといった簡単なものでは説明できず、もっと不思議な関係性です。
というのも、快楽と苦痛は両者が同時に人の感覚を支配することはありませんが、どちらか一方が体を支配している時にそれを体から追い出せば、もう一方が体に宿るからです。
わかりにくい言い回しになったので、もう少し具体的に言えば、仮に苦痛が体を支配しているとした場合、その苦痛を体内から追い出す。つまりは苦痛から開放された状態になると、体は快楽に包まれます。

ソクラテスの例で言えば、牢獄に重い鎖に繋がれている状態で長時間拘束されていると、肉体は苦痛に支配された状態になりますが、鎖を解かれて自由になると、体は苦痛から開放されたことによって気持ちの良い状態になります。
つまりは、苦痛を体から追い出したことによって、体に快楽が宿るというわけです。逆に、体を心地よい状態ではなくしてしまえば、体は苦痛を感じるということです。
この両者は対になっているような存在で、別々の概念として存在しているのではなくセットで存在し、これらは本当の意味で分けることは出来ません。

トランプの裏表


他のもので例えるのなら、裏と表の概念のようなものです。 裏と表は一見すると正反対のような概念のようにも思えますが、この両者を別々に分けることは出来ません。
これは実際に試してみるとわかりやすいかもしれません。 目の前に1枚の紙やカードなどを用意し、裏表を決めます。 この1枚のカードを表と裏に別々のものとして分けることは出来るのかといえば、出来ません。
仮に紙の表面を削いで2枚の紙に分けることが出来たとしても、2枚に分かれたそれぞれの紙に裏と表という概念が生まれるだけです。

例えば、男と女という概念は、それぞれの個体に分かれているため、男女10人の人間を男性と女性で分けることは可能です。
しかし裏と表や苦痛と快楽というのは、1つのものの側面であるため、分けることが出来ません。

ソクラテスは、これらの概念は例え神であっても分けることが出来ず、仮に力付くで無理やり分離しようとしたとしても、絶対にもう一方がついてきてしまう。
もしここにアイソポスがいれば、彼は『神が争っている苦痛と快楽を和解させようとしたが出来ないので、腹いせに彼らを縛り付けた』といった感じのおとぎ話を作るのではないかと言った冗談まで言います。
ちなみにアイソポスと言うのは英語読みに直すとイソップになるので、アイソポスが作るおとぎ話とは、イソップ物語のことを意味します、日本ではこちらの名前の方がわかりやすいですよね。

ソクラテスの行動の変化


このおとぎ話云々の話を聞いて、ケベスという弟子が、ここ最近のソクラテスの行動について不思議に思ったことを質問します。
というのもソクラテスは、有罪判決を受けて投獄されるまでは哲学一辺倒だったのに、投獄されてからというもの、イソップ物語の内容をポエムに直したり、アポロン神へ捧げるための歌を作るといった感じで、芸術に打ち込み始めたからです。
これらの行動にエウノソスというソクラテスの仲間が疑問を持っていたので、ケベスが変わりにその理由をを聞き出して伝えようと思ったようです。

これに対するソクラテスの返答としては、夢で芸術に打ち込めと言われたからだと説明します。 なぜ夢のお告げに従って行動を取っていたのかというと、ソクラテスは夢の世界は神々の住む世界とつながっているっと考えていたからです。
その世界から度々、芸術に打ち込めというメッセージを受けていたので、それは神のお告げだと思い込み、人生最後の時を芸術に捧げたようとしたようです。
そしてソクラテスは、ケベスにエウノソスに対して伝言を頼みます。 その伝言というのが、もし私が死んだら一刻も早く私の後を追いなさいというものでした。

つまりは、後を追って命を断てと言っているわけです。

人は神の所有物


当然、これを聞いたケベスはびっくりします。 というのも、これは今でもそうですが、自殺というのは世間一般でタブー視されていたからです。
キリスト教などでもそうですし、日本のように熱心に1つの宗教にはまらない民族もそうですが、自殺というのは禁止されているところが多いですし、仮にもし誰かが自殺を考えていたり実行に移そうとしていれば、止めるのが普通の価値観です。

この様に、自殺というのはいつの時代でもどの世界でも駄目だとされていますが、では何故、自殺は駄目なのでしょうか。
よくあるありきたりな答えとしては、『生きていれば良いこともあるから』というのが挙げられます。 確かにこれは1里あるでしょう。生きていれば良いことの1つや2つは訪れるでしょう。
しかし、ソクラテスの先程の苦痛と快楽の関係性で言えば、よい状態があるということは悪い状態もあるというわけで…自ら死ぬことを選ぶ人間は、どちらかといえば苦痛を感じている時間の方が長いから、それから開放されようとして死を選ぶわけです

この様に、『生きていれば良いこともある』というのは一見すると良い説得の言葉のようにも思えますが、実際には何も言っていないのと同じだったりします。
では当時のギリシャの人間はどの様な理屈で自殺は駄目だと考えたのかというと、人間は自分自身のものではなく神の所有物だから、勝手に死んではいけないと考えます。
例えば、ペットを例に考えてみましょう。 ペットを家族扱いし、ペットは所有物だという考えにアレルギーがある方もいらっしゃるかもしれませんが、他に例えが思いつかないのでペットの例で考えると…

仮にペットが自殺しようとして実際に行動に移そうとすると、飼い主は全力で止めるでしょう。 ペットにはペットの都合があり、自分で考えた結果として自ら死ぬことを選んだとしても、飼い主はそれを阻止します。
何故かといえば、ペットの命はペット自身のものではなく、所有者である飼い主のものだからです。その為、ペットが自分の意志で勝手に死ぬことは許されません。
これは神々と人間の関係性にも当てはまり、人間は神々によって生み出された神の所有物であるため、神の許しがなく勝手に自己判断で死ぬことは許されないと考えます。

ケベスも同じ様に考えているため、ソクラテスの発言の意味がわかりませんし、それは伝言相手であるエウノソスも同じです。 ケベスは、『仮に伝言を伝えたところで、彼は自ら死を選ぶことはないでしょう』と反論します。
これを聞いたソクラテスは、『彼は哲学者じゃないのか? 真剣に哲学について考えていれば、生きているよりも死ぬ方が良いことだとわかりそうなものだが…』といったことまで言い出します。
ソクラテスによれば、世の中の多くのことは相対的な価値観のもとに存在しているため、正しく良し悪しを分類することは難しいが、こと生きるか死ぬかの選択肢においては、死ぬほうが良いと主張します。

では何故、死ぬことのほうが人間にとっては良いのか。このことについては、次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第74回【損益計算書】売上総利益(2)

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損益計算書とは


前回から損益計算書についての説明に入り、その中でも売上総利益のについて話してきましたが、今回もその続きとなります。
簡単に前回の復習をしておくと、損益計算書では会社の利益を単純に収益からコストを差し引くという方法では行いません。
利益やコストをそれぞれの属性ごとにジャンル分けし、それを足したり引いたりすることで、複数の利益を出していきます。 前回紹介した売上総利益もその1種となります。

何故、こんなややこしいことをするのかというと、簡単に言えば事業の実態を分かりやすくするためと、収益性分析を行いやすくして今後の戦略に活かしやすくするためです。
もう少し具体的に説明すると、前回紹介した売上総利益を出すことによって、企業の粗利を計算することが可能になります。
粗利というのは、小売店でいえば商品の仕入れ値となります。 会社は販売するための商品を調達し、それに利益を上乗せすることで定価を設定して販売します。

この定価と仕入れ値の差額が粗利と考えてもらえれば分かりやすいと思います。
この粗利ですが、小売店のように完成品を仕入れて販売している業態は計算が簡単で理解もしやすいのですが、製造業のように自前で製品を製造しているところは、製品原価が把握しづらくなります。
その為、会社が支払ったコストの中から製品製造にかかわるコストのみを抜き出して製造原価を出すことで、粗利を計算できるようにします。

製品完成までの流れ


製造業の製造の流れを簡単に説明すると、製造というのは大抵の場合が作り始めから作り終わりまでに一定の期間が必要となります。つまり、作り始めてから『作りかけ』の状態を経て、商品の完成に至るわけです。
この作りかけは半分製品ということで半製品なんて言ったりもしますが、これは簿記的には仕掛品という勘定科目で表されます。
この仕掛品を使って、完成品のコストを計算していきます。

仕掛け品は作りかけであるため、当然、前期から今期にまたぐ形で製造されるものも存在します。
そういった前期からの残りの部分に、今期の仕入れや製造にかかわる燃料費や人件費といったコストを全て足し合わせ、最終的に今期中に完成に至らなかった仕掛品残を差し引くことで、完成品にかかったコストを算出します。
では、この完成品コストをそのまま売上から差し引けば粗利になるのかといえば、そうはなりません。 何故なら、作った商品が全て売れるわけではないからです。

以前に固定資産の説明をした際に、企業が在庫として持っている商品は流動資産となると言いました。 つまり、作ったけれども売れ残っている商品というのは会社の中に資産として眠っているということです。
正しい粗利を計算しようと思うと、この売れ残り商品を計算から省いて計算しなければ正しい粗利は計算できないため、その作業をする必要があります。
計算方法は先程の仕掛品から完成品製品を計算した流れと同じで、前期から持ち越した在庫の残りに今期の製造分を足し合わせて、そこから今期に売れ残った在庫を差し引きます。

今期の在庫の確認は、棚卸し作業などを通じて行います。 月末や期末に会社内の在庫状態を確認する棚卸しという作業があると思いますが、あれで集計して在庫の量を確認します。
その在庫を前期在庫と今期の製造分の合計から差し引くことで、今期に販売された売上原価を出し、それを売上から差し引くことで売上総利益を出します。
この売上総利益を出すことによって、単純に商品を販売することでどれぐらいの利益が得られているのかが把握できるようになります。

売上総利益とは


ではこうして出された売上総利益を、どの様に捉えればよいのでしょうか。
売上総利益は粗利率であるため、これが多いと利益率の高い商品を製造していることになり、逆に低いと、利幅の低い商品を製造していることになります。
前に製品のライフサイクルの話をしましたが、皆から求められているけれども市場での供給が少ないような製品を作っている場合は、需要と供給の場合からこの売上総利益は高くなる傾向にあると考えられます。

逆に低いということは、その市場に新規参入が相次ぐことでレッドオーシャンになっていたり需要が低下している可能性があります。
市場がレッドオーシャンになっていると、他社製品に勝つために製品クオリティーを上げなければなりませんが、高くなり過ぎると他社製品に顧客を取られてしまうため、大幅な値上げを行うことは難しくなります。
製品クオリティーを上げるためには品質の良い材料を使ったり手間暇を掛ける必要があるので当然コストは上昇します。 しかし値上げすることが出来ないということは、製造コストに対して売上が低くなってしまいます。

また市場がレッドオーシャンになっている状態では、品質度外視で製品を大量に製造し、それを大量販売することで生き残ろうとする企業も出てきます。
規模の経済といいますが、この戦略では大量生産によって生産が効率化され、大量買付によって調達コストが引き下げられるため、値段の割にはそこそこの品質のものが製造できたりします。
多くの客は、そこまで品質に差がなければ安い製品を選ぶため、この様な規模の経済を武器にする企業が現れると、販売価格は更に引き下げられてしまう可能性があります。

こういった状態になってしまうと当然ですが、粗利率が下がってしまいます。

粗利率


粗利率とは売上総利益率とも呼ばれ、売上に対して製造コストがどれぐらい締めていて、結果、利益がどの様になっているのかという指標です。
簡単にいえば、売上が100でコストが80とした場合、20%が売上総利益率となります。 計算方法は、売上総利益を売上で割っただけです。この数字が低ければ低いほど、割に合わない事業ということになります。
この数値が下がりすぎている場合、何らかの改善が必要となります。

理想的なのは販売価格を上昇させることです。 自社製品をブランド化させることで他社製品を差別化することができれば、高い販売価格を維持することが出来るため売上総利益率の下落は阻止できます。
しかしそんな簡単にブランド力を手に入れることは出来ませんので、次に考えることはコストの引き下げです。 
原材料の品質を落とすなり買付方法を変更するなりして原材料のコストを減らしたり、作業効率を上昇させることで人件費の抑制を目指したりして粗利率の上昇を狙っていきます。

ただ、コストの引き下げには限界があります。大量仕入れを行ったり川上産業を買収したりしたところで、『これ以上は下がらない』というレベルは確実に存在します。
そこまでコストカットをしても売上総利益率が低過ぎる場合は、その商品からの撤退を考える必要があります。
というのも、粗利率というのは企業の利益ではないからです。 コストはこの他にもあるため、売上総利益が少なすぎる場合は、その他のコストを差し引くと赤字になってしまう可能性が高いです。

その様な事業を行っている意味は無いので、儲からない事業で今後も粗利率の改善が見込めないと判断されれば、余裕のある間に他の事業に移行した方が良いことになります。

授業の寿命


事業というのは、一度立ち上げると未来永劫、需要が途絶えることがないなんてことはありません。 市場は絶えず変化し続けます。
新技術の登場や人々の考え方の変化などで、これまでは需要があった商品でも必要とされなくなってしまう時期はやってきます。

また、需要そのものは継続してあり続けるような商品だとしても、大手が参入してきて規模の経済で市場を独占してしまうケースも無いとは言い切れません。
この様になってから慌てて新規事業を起こしたところで、それが上手くいくとも限らないため、新規事業は早めから手掛けておく必要が出てきます。
そのためには現状把握が必要になるわけですが、それを手っ取り早く可能にしてくれるのが、売上総利益です。

もちろん、この数字だけ見ていれば大丈夫というわけではなく、これはそれを気づかせてくれる一つの指標でしかありませんが、この売上総利益が想定よりも低くなり始めた場合は、警戒する必要が出てきます。
想定よりもといったのは、売上総利益を意図的に低く引き下げるような戦略もあるからです。
製造コストに比べて低い価格をつけることで市場の独占を狙い、自分たちの市場にそもそも新規参入をさせないといった戦略もあります。

インターネットが出始めた頃は、ヤフーがモデムを無料で配って顧客を囲い込もうとしましたし、今はMETAと改名したfacebookも、VRゴーグルをかなりの低価格で販売して市場を独占しました。
この様な戦略を取った場合は当然、売上に対してコストが非常に高くなるため、売上総利益は下がってしまいます。
しかしこれらの事業は、初期に仮に赤字を出したとしても後から回収できる可能性があります。 長期で観て黒字が出る可能性があるのであれば、初期の赤字を受け入れるという選択肢もありえます。

撤退の判断


この様に、長期的な計画で意図的に売上総利益が低い状態を作っているのであれば問題はないのですが、意図しない形で下がり始めているのであれば問題となるので、自分たちが関わっている市場の現状などを把握していく必要が出てきます。
そして把握した結果、その事業に将来性がないのであれば、その事業から撤退する目的で、次の柱となる新規事業を探していく必要があります。
この新規事業の探し方については、過去に『アンゾフの成長ベクトル』を紹介した際に話していますので、そちらをお聞きください。

これは、沢山の従業員を抱えているところほど重要になってきます。 というのも、少ない従業員や家族経営の事業の場合は、最悪の場合はその事業から撤退して廃業してしまえば良いからです。
しかし沢山従業員がいる場合は、簡単に会社を解散することなんて出来ません。その為、会社が組織として長く続けていけるように、今の事業がこの先もやっていけるのかということに対して常に目を光らせていなければなりません。
その変化に気づきやすい1つの指標として、売上総利益があったりします。

損益計算書はまず、この売上総利益を計算するところから始まり、次に計算するのが営業利益となります。
その営業利益の計算については、次回に話していきます。 

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第151回【パイドン】苦痛と快楽の関係性 前編

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パイドンとは


今回からは、プラトンが描いたソクラテスの対話篇『パイドン』を読み解いていきます。
この対話編が書かれた時期は諸説あるのですが、プラトンが書いた対話篇としては中期頃の作品に当たると言われていて、プラトンの主張で有名なイデア論なども登場しだします。
書かれた時期は中期ですが、対話篇の中の時間軸としては、プラトンが最初に書いた作品だと言われている『ソクラテスの弁明』の続きとなります。

『続き』とは具体的にいうと、『ソクラテスの弁明』でソクラテスが裁判にかけられて死刑判決を受けるのですが、判決が出てから実際に刑が執行するまでには結構な時間があり、その間にソクラテスは弟子たちと対話を行います。
この時に行われたとされる対話は『クリトン』というタイトルの対話篇となっており、このコンテンツでも過去に取り上げて説明したと思いますが、今回取り上げるパイドンは、そのクリトンとほぼ同時期のソクラテスの死の直前に行われたという設定です。
ここで設定だといったのは、実際にソクラテスが話した言葉をそのまま書き起こしたというよりも、プラトンの主張が強めに出ていたりするからです。

対話編に登場する人物たちは実在する人達のようで、その人達とプラトンは交流があるため、実際に話を聞いて参考にして書いているとは思われますが、その話に自分なりの解釈や自分が考え出した理論を結構盛り込んでいると思われます。
その為、プラトンが最初期に書かいたとされる『ソクラテスの弁明』とはソクラテスの主張に若干の違いがあったりもしますが、それはソクラテスの主張が矛盾しているというよりも、プラトンの主張が強いと受け止めた方が良いでしょう。
ということで前置きが長くなりましたが、まず、対話篇の全体的な流れや簡単な解説をしていきたいと思います。

この対話編ですが、全体のテーマとして『死』を取り扱っています。 死というものは多くの人から嫌われ、良くないもの、悪いものとされていますが、それは本当なのかというのを切り口とし、そこから人間の本質について切り込んでいきます。
今までの対話篇の流れを見てきた方はおわかりだと思いますが、ソクラテスは死ぬことを悪いことだとは思っておらず、むしろ良いことではないかとすら思っていて、『そうではないか?』と他の者にも問いかけます。

死ぬことは良いことなのか悪いことなのか


何故、このような問いかけをするのかというと、多くの人たちは何の理由もなく、漠然と死ぬことが悪いことだと決めつけているため、当然、自殺することも悪いことだと思い込んでいるからです。
思い込んでいるということは、そこから先の思考は止まってしまっているわけですから、多くの人は死ぬことが良いことなのか悪いことなのかを考えることなく生きてきたことになります。
前回の対話編でも指摘しましたが、その事柄について考えたことがないということは、当然、そのことについての知識も持っていないため、自分の思い込みが正しいものかどうかも、本来なら判断がつかないはずです。

しかし人々は、死ぬことが悪いことだという共通認識を持っていて、多くの人がそう考えるものだからそれは常識だと思い込んでいます。
その思い込みに対して、全く真逆の価値観をぶつけることで、ソクラテスは人々に考える切っ掛けを与えます。

ピタゴラス教団


この際、ソクラテスは死ぬことが良いことだという根拠のようなものを突きつけないと説得することが出来ないわけですが、その根拠としてピタゴラス教団が提唱している輪廻転生の理論を持ち出します。
ピタゴラス教団というのは、ピタゴラスの定理でも有名な数学者が元になった団体で、最終的には数字を神様とした宗教団体にまでなります。この教団は、とある魔術の禁書目録という作品で敵としても登場したことで有名です。

何故、ここでピタゴラス教団が出てくるのかといえば、この対話編の著者であるプラトンピタゴラス教団の信者と意見交換をして、その教義の内容に興味を持ったからだとされています。
先程、『ソクラテスの意見というよりかはプラトンの主張が強めに出ている』と言いましたが、このピタゴラス教団の主張する世界観なども、その一つです。
この対話編では、この輪廻転生が正しいという前提のもとで、死後の世界であったり、それと対になるこの世ではどの様に生きるべきなのかを考えていくことになります。

テセウスの伝説


ということで、前置きが長くなりましたが、対話篇の内容の方に入っていきましょう。
先程も言いましたが、ソクラテスは裁判にかけられて死刑判決を受けるのですが、そこから刑が執行されるまでには結構な時間がありました。
その理由は対話篇『クリトン』には詳しく書かれていませんでしたが、このパイドンには少し詳しく書かれていました。それによると、とある儀式が関係していたようです。

アテナイでは、神聖な儀式が定期的に行われていたようです。この儀式は、テセウスに関する儀式です。
テセウスというのは前にも話したことがあると思いますが、クレタ島のラビリンスに幽閉されているミノタウロスを討伐した人物です。
ミノタウロスが誕生した経緯としては神々と人間との恋愛も含めたゴタゴタがあって生まれたのですが、そのミノタウロスは王族の子供ということもあって殺せません。

その為、発明家であり建築家でもあり、ロウの羽で息子イカロスと空を飛んだことでも有名なダイダロスに迷宮を作らせて、そこに幽閉します。
そして、大人しくその迷宮ラビリンスに縛り付けておくように、ミノタウロスに対して定期的に人間の生贄を捧げます。その生贄ですが、クレタ島側はは自国民ではなくアテナイから調達します。
アテナイから調達した理由としては、当時アテナイに対して支配的な権力をクレタ島側がもっていたというのが主な理由でしょう。 自国民からは生贄を出したくないですしね。

しかしこれはアテナイからしてみると、たまったものではありません。
そこで立ち上がったのがテセウスで、彼は生贄にまぎれてクレタ島に入り込み、ミノタウロスを討伐しようとします。

アポロンへの返礼


アテナイの人達はこの勇気ある行動を応援しようと、アポロンに祈ります。その際に、『もし、この作戦が成功したのなら、毎年デロス島で行われている祭りの為に使者をお送ります』と約束します。

この約束のおかげかどうかはわかりませんが、テセウスミノタウロス討伐を達成し、無事にアテナイに帰還します。
ここで余談ですが、テセウスの父親はアテナイの王様なのですが、彼は大変子供思いで、クレタ島に出発するテセウスを大変心配し、『もし作戦に成功して生きて戻ってこれたら、その印として船の帆を白にして戻ってきてくれ』と言います。
テセウスが出発する際には船の帆は黒色だったので、それを白に変えることで、テセウスが生きているかどうかを一刻も早く知りたいと思い、この提案をしたのでしょう。

しかしテセウスの方はというと、偉業を成し遂げた達成感からか、その事をすっかり忘れてしまって船の帆を黒色のままで帰還します。
それを見た彼の父親のアイゲウスは、息子が死んでしまったと嘆いて海に身を投げてしまい、彼が身を投げた海はアイゲウスの海 アイゲウス海と呼ばれるようになります。
そのアイゲウス海が、長い年月をかけて アイゲウス海 アーゲウス海 アーゲ海 変わっていき、今ではエーゲ海と呼ばれるようになったそうです。

話を戻すと、テセウスは見事にミノタウロスを討伐し、アテナイはその後はクレタ島から生贄を要求されることはなくなったため、アテナイアポロンとの約束を果たさなければならないことになります。
つまり、毎年デロス島で行われている祭りに使者を送らなければならないということです。 使者は当然舟で送るわけですが、その神事の間は国内では人を殺さないという決まりがあるようです。
ソクラテスの死刑判決はちょうどこの時期に重なっていたようなので、その舟が神事を終えて帰還するまでの間は、死刑の執行を先延ばしにされていたというわけです。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第150回【アルキビアデス】まとめ4 後編

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堕落への対抗策


それは、一般市民と関わり合いになることです。 何故、一般市民と関わり合いになると駄目なのかといえば、彼らは幸福になるための努力を一切していないからです。
幸福になるための努力とは、先程から言っている、魂を磨くために必要な専門知識を探究する行為のことです。知識というのは、自分が無知を認めた上で探究しなければ身につかないものですが、一般市民はそもそも自身の無知を認めていません。
つまり、自分は魂を磨くための方法を知っていると思い込んでいる、もしくは魂を磨くなんてことを想像もしていない人間ばかりであるため、彼らと話したところで、何も得るものはないどころか、彼らから悪影響を受けてしまいます。

ソクラテスの理屈によれば、善人は周りの人間を善人に変えますが、悪人は周りの人間を悪人に変えます。 仮に、人の幸福とは持っている財産の額だと間違った認識をした人がいた場合、その人は間違ったゴールを定めているため幸福にはなれません。
ソクラテスの理屈では、善人は幸福に成れるため、幸福にはなれないものというのは悪人と言いかえることが出来ます。その悪人は、周りの人を悪人に変えて不幸にしていくわけですから、これらと接すると堕落していくと言い換えることが出来ます。
大半の一般人は、正しいゴール設定が出来ていないという点で心の幸福には到達できない為、ソクラテスに言わせれば悪人です。そんな彼らと接すると堕落してしまうと彼は言いたいのでしょう。

ソクラテスは、このように一般人にかかわることで堕落してしまうことを『毒に侵される』と表現し、一般人とより多く接する機会のある政治家になるためには、このことを良く理解していなければならないとアルキビアデスに注意します。
何故なら、それをよく理解しておくことで、一般市民たちの意見を真に受けることを防ぐことができるからです。ソクラテスはこのことを、先程の『毒に侵される』という表現に合わせて解毒剤と表現しています。
では、魂を磨く行為とは何なのでしょうか。 これは、先程の一般市民とのかかわり合いの逆と考えればわかりやすいです。

物事を観察するには観察から


無知なものとの対話が魂を堕落させる行為であるとするのなら、その逆のものとの対話、つまり、自分自身の無知を認めて魂を磨くための知識を探究している者と話すことは魂を磨く行為に繋がります。
では何故、探究を続けるものとの対話が魂を磨く行為につながるのでしょうか。人間の魂に限らず、物事をよく理解するためには、対象の観察が必要不可欠です。
この観察対象が、実際に肉眼で見れるようなものであれば単純に目で見れば良いですが、もし、目で見ることが出来ないようなものであれば、何らかの道具を使う必要があります。

小さくて見えないのであれば顕微鏡を使う必要がありますし、対象が自分自身である場合は、鏡などを使う必要があります。
では、対象が鏡を使っても目で見ることが出来ないようなものである場合はどうすれば良いのでしょうか。人間の魂は肉眼で見ることが出来ないため、物質的な鏡を用意しても意味はありません。
これに対してソクラテスは、観察しようとしているものと似たようなものを用意して観察すれば良いと主張します。

探究を続けるものを客観視する


例えば、自分の内臓を観察しようと思っても観察することは出来ませんが、他人を解剖することで、近い情報を得ることが出来ます。
これは魂も同じで、自分自身の無知を認め、知識を探究するものの行動を外側から観察することで、自分の魂を観察することと近い状態を作り出すことが出来ます。
つまり、探究を続ける人物を対話を行い、相手がどの様に考えているのかを理解しようとする過程で、自分自身の魂も理解することができるということです。

ここで重要なのが、この対話は口喧嘩や論破合戦ではなく、あくまでも目標となるゴールに到達するために行わなければならないということです。
眼の前の相手を口で言い負かしたところで、真理に到達できるわけではありません。対話相手が1人減るだけです。重要なことは、共にゴールへと向かうために討論を通して探究することです。

これが、魂を磨くための方法となりますが、方法はこの1つではなく、もう1つあります。 それが、神について考えることです。

魂の鏡としての『神』


ソクラテスたちが信じていたギリシャ神話の神は、キリスト教で言うところの一神教の神とは違い、人間の精神のあり方をイメージ化したものです。
例えば、戦場で戦うための勇気をイメージ化したものであったり、人が持つ美しさをイメージ化したものに、それぞれ名前がつけられたものがギリシャ神話の神々です。

このイメージ化された神というのは、それぞれの究極を意味します。 つまり、勇気をイメージ化した神は人が持つ究極の勇気と言い換えることが出来ますし、美の神について考えることは究極の美しさについて考えることと同じです。
この様に神とは、人の精神の究極の状態を表しているものなので、その神々について深く考察するという行為は、人間のあり方について考えることと同意です。
人はこれらの方法によって『人間とは何か?善悪とは何か?』を考察することができるのですが、では、このような考察や探究をしている人間と全くしていない人間とを比べると、どちらの方が善悪についての知識が高いでしょうか。

自分のことがわからない人間


これは比べるまでもなく、常に探究を続けている人間の方が知識が高いといえます。
探究を続けた人間は、その結果として答えに到達できなかったとしても、何もしていない人間よりかは確実に真理に近い立場に到達できます。

これは別のことに当てはめればわかりやすいです。この世の出来事は科学で解明されておらず、わからないことのほうが多いですしわかっていることなんて極僅かです。
では、大半のことがわからないのだからと全く探究していない人間と、分からないなりに研究を続けている科学者とを比べて、どちらがこの世のことを理解しているかと問われれば、科学者の方がこの世のことを理解しているでしょう。
それと同じで、人間の本質や魂、この世の真理について全く探究していない人間と、分からないなりにも探究している人間とを比べれば、探究している人間のほうが真理に近くなります。

逆に、善悪について全く探究してこなかった人間は、善悪の区別をつけることが出来ません。つまり、身の回りにあるものや起こる出来事について善悪の見極めが出来ないということです。
その状態で何らかの選択肢を迫られたとしても、当然のことながら彼らは正解を選び出すことは出来ません。何なら、悪いことのほうが誘惑が多く魅力的に見えることがあるため、間違った選択肢を選びがちです。
このコトを考慮した上でソクラテスは、『探究をしようとすら思わない、無知であることすら知らない人間は、自分で判断をせずに誰かの命令にだけ従っていた方が幸福に成れる』と少し強めの主張をします。

政治家になるために


つまり、善悪の見極めがつく人間は、自身の判断で善悪を見分けて選択肢を選んでいく自由人として生きても幸福に成れる可能性はあるが、そうでない人間は自由人の奴隷になったほうが良いと言っているわけです。
この奴隷という言葉が強すぎるので拒絶反応を示す方も多いかもしれませんが、全員を幸福へと導いていこうという思いから論理的に考えていくと、このような考えになるのでしょう。
またこの理屈では、奴隷になるのか自由人になるのかは自身の行動によって決めることが出来ます。 何故なら、自分が無知だと認め、探究の道を進めばそれだけで自由人と成れるからです。

しかし、そういった事は一切したくない。自分の無知を認めるなんて事はしたくないし、勉強なんかもしたくないと思うのであれば、そういう人は自分で考えて行動しても碌なことにはならないので、賢者の言う通りに行動したほうが良いと言っているだけです。
一方で、アルキビアデスが目指す政治家になろうと思うのであれば、こういった者たちを導いていかなければならないため、善悪を見極める知識の探究が必要不可欠となります。

これで、アルキビアデスのまとめ回は終わりです。 次は、パイドンという対話編を読み解いていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第150回【アルキビアデス】まとめ4 前編

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上手く作戦を立てる能力


今回も、アルキビアデスのまとめ回を行っていきます。
前回までで、人が命令できる立場になるためには、何かしらの知識が必要だという事になり、当然、政治家にも専門知識が必要だということになりました。
これに対しアルキビアデスは、政治家に必要な能力は『上手く作戦を立てる能力だ』と主張しました。

前回の例で言えば、サッカーの監督や戦争になった際の司令官、将軍の目指すべきゴールは、勝負に勝つことです。 その為に、上手く作戦を立てる能力を発揮してゴールを目指すわけです。
他の例えで言えば、製造業の職人が上手く作戦を立てて運用する場合、目指すべきゴールは品質の高い製品を効率よく作るために、様々な作戦を立てるわけです。
つまり『上手く作戦を立てる能力』というのは、ゴールに向かうための手段にしか過ぎません。 では、政治家が目指すべきゴールはどこなのでしょうか。

アルキビアデスの矛盾


政治家の仕事は国を統治することなので、ゴールは国をよく統治することと言えます。 しかし、『国を良く統治する』と言われても曖昧すぎてよく分かりません。
この疑問に対してアルキビアデスは、皆が同じ思想を元に統一されている状態が理想的だと主張します。確かに、皆が同じ知識を持つことで価値観を共有できれば、そこに争いは生まれず平和に統治できそうです。
一見すると良さそうな答えですが、実際にそんな事が可能なのでしょうか。

人というのは社会を作り文明を発展させていく過程で、分業を行ってきました。 これは現在の私達の生活でも同じです。
事務員として働いている人が家を建てる場合、自分で森に入って木を切って木材を作り、それを材料にして家を建てるなんてことはしません。 住宅メーカーに発注して完成品を購入します。
食事も同じで、自分で農作物を育てたり狩りに行ったりして食料を調達している人は稀で、多くの人は市場で材料を購入しますし、人によっては金を払って完成品を購入します。

なぜ、このような分業が行われているかといえば、その方が効率が良いからです。 人の能力はそれほど高くないため、人間社会では自分で全ての分野の技術や知識を身につけて実行するよりも、専門分野に特化して身に付けようとします。
何故なら、いつ使うかわからないような知識を全て身に着けるよりも、実際に必要になった際に、専門家にお金を出して頼む方が効率的だからです。このような社会では、自分も何らかの専門家になれば稼げるため、社会が循環します。
しかしこのような社会では、それぞれの専門家が持つそれぞれの知識が違うため、先ほどアルキビアデスが主張したように、全ての人が同じ思想を元に統一されるというのは不可能です。

もし仮にそれを目指そうとした場合、先程も言いましたが、全ての人間が全ての物事に対する知識を身に着けなければならないため、効率が非常に悪くなります。
しかし一方で、国民の価値観がそれぞれ違っていれば、みんなが好き勝手な行動を取ってしまうため、国としての体制が保てなそうです。
ではこの矛盾をどの様に解消していけば良いのでしょうか。 ソクラテスは、アルキビアデスに質問をぶつけ続けることで、彼の中から答えを見つけ出そうとします。

無知の知


ソクラテスはまず、アルキビアデスが言う『統一した思想の中でしか友愛は生まれない』という部分に、『果たして本当にそうなのか?』と疑問を持ちます。
アルキビアデスは、同じ知識や経験を持っている人間の間でしか共感が生まれないのだから、それぞれ違った知識しか持たない人間同士で意思の統一は出来ないと主張しています。
これは、大切な人を失ったことがある人の気持ちを本当に理解して共感できる人間は、同じ様に大切な存在を失った人間だけだというような意味だと捉えればわかりやすいと思います。

しかし、友愛とは単なる同情のことだけではありません。 その関係性の中に生まれる親しみや尊敬の念もこもった感情です。
ソクラテスは、『自分ができないようなことが出来たり、知らないようなことを知っている人間が身近にいれば、尊敬しないか?』とアルキビアデスに投げかけ、アルキビアデスはこれを受けて考えを修正します。
この行動に対してソクラテスは『それは大きな前進だ』として彼を褒め称えます。 何故なら、探求とは自身の無知を認めるところから始まるからです。

よくする技術


ここでやっと、対話篇の本質である人間の本質への探求が始まります。
この探求で、彼らは最初に『人間の本質を見極めるために何に配慮すべきなのか』というテーマについて考えます。
『人間とは何なのか』を実際に想像してみると、その想像した人間には様々なレイヤーが重なっていることがわかります。

具体的に言えば、人間の本質の外側には、職業や持っている財産、肩書や着ている服といったものや、肉体やそれに宿る精神と言った具合に、様々な要素が重なり合って1人の人間を形成しています。
そしてこれらのレイヤーは、それぞれに、それらを改善するための方法があります。つまり、肩書をよくする方法と肉体を強靭にする方法はそれぞれ別にあり、同じではないということです。
これは当然人間の本質にも当てはまります。 では、それぞれのレイヤーのどれを改善していくことが、人間の本質を良くしていくことに寄与するのでしょうか。

人の本質は魂


まず消去法で、肩書や財産や衣服といったものは削除します。何故なら、それらがなくなったとしても人として機能するからです。
これによって丸裸の人間だけが残るわけですが、そこから見た目にかかわるものを排除していきます。 何故なら、見た目の美しさや肉体の強さがなかったとしても、人として存在できるからです。
こうして最後に残るのが、人間が持つ意志の力です。 人は肉体を動かしてなにかする際に、まず、行動を起こそうと決断をします。ソクラテスはこの決断する力こそが人間の本質で、これこそが魂だと主張します。

では、この魂を良くするためにはどうすれば良いのでしょうか。 先程の話では、それぞれの物事にはそれ自体を良くするための専門知識が有るとのことでしたので、魂をよくするための専門知識があるはずです。
逆に言えば、その専門知識を持っていないのであれば、良い肩書を持っていようが大量の財産を持っていようが見た目が良かろうが、その人は優れた人とは言えないことになります。
これらを前提においた上で優れた人間になろうと思うのであれば、まず、その専門知識は何かを突き止めた上で、その専門知識を身に着けようと努力することが必要になってきます。

人間の本質が財産の有無になると?


この様にゴールをしっかりと見定めることが重要で、ゴールを想定せずにあがいたところで、多くの場合はそれは無駄な努力となってしまいます。
何も進歩しない程度ならまだ良いですが、ゴールとは真逆の方向に全力疾走してしまえば、努力すれば努力するほどゴールから遠くはなれてしまうことになります。そのような努力は、ハッキリ言ってしない方がマシです。
例えば、財産の有無が人間の価値だと勘違いしてしまった人がいたとしましょう。 金は、自分で努力して稼ぎ出すよりも、他人から奪ったほうが圧倒的に楽なので、最短で財産を作る方法は他人から金を奪うこととなります。

金を奪う方法はたくさんあり、単純に他人を襲って金品を奪う方法もあれば、何の価値もない情報や商品を、価値があると錯覚させて高値で売りつける方法もあります。
では、これらの方法を駆使してお金を貯めたとして、その人は偉大な人間になることができるのかといえば、なれません。 犯罪者として軽蔑されるだけです。
『金を貯める方法が重要なのでは?』と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そうすると、金そのものよりも行動のほうが重要だということになってしまうので、前提が崩れてしまいます。

『見た目の美しさ』=『人の価値』だとしたら?


この例からわかることは、単純な財産の量は人の価値には直結せず、人がとる行動の方が重要視されるという事実です。
これは、対象が美しさに変わったとしても同じです。単純に見た目の美しさが全てだとするのであれば、全人類は整形手術を受けたほうが良いことになってしまいます。
しかし、美しさとは相対的なものなので、皆が同じような美しさを手に入れれば、それが普通に置き換わるだけです。 人間の本質には何も寄与しません。見た目だけが良くても立ち振舞が醜ければ、それは劣った人となります。

つまり、目標を間違って定めてしまい、その方向に向かうために必死に努力したところで、本当のゴールには決して到達することなく、下手をすればゴールから遠ざかってしまうということです。
財産にしても美しさにしても、結局はそれにかかわる人の行動のほうが重要なのであって、財産や見た目そのものが重要なわけではありません。そしてその行動を決定する魂こそが重要だとソクラテスは言っています。

人の魂を愛する


例えばもし、自分対して恋人になりたいと言い寄る人が現れたとして、その人が財産や見た目の美しさのみであなたを選んでいたとしたら、あなたはそれらを失った瞬間に捨てられます。
何故なら、相手が目的としているものが無くなってしまったからです。

しかし、魂の美しさに惚れて相手がいいよってきていたとすれば、財産や見た目の美しさは最初から求められていないわけですから、それらが無くなったとしても相手は離れては行きません。
もし相手が離れていくようなことがあるとすれば、それは貴方が魂を磨くことを忘れ、堕落したときのみです。
では、どのような状態になれば人は堕落するのでしょうか。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第73回【損益計算書】売上総利益

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損益計算書


今回からは、企業の収益について見ていきます。 今回のテーマは、会社の利益の一つである売上総利益です。
会社の利益と聞くと、これまでは『売上からコストを引いたもの』と説明してきましたが、実はこの収益には複数の種類があります。
前回紹介したインタレスト・カバレッジ・レシオで出てきた営業利益というのもそうですし、今回紹介する売上総利益も実はその一つだったりします。

これらの利益の理解を深めるために、各利益をまとめた損益計算書の説明からしていきます。

これまでで、貸借対照表で会社の資産や負債などを細かく属性ごとに分けているのは、会社の状態をより分かりやすくするためであったり財務分析をするためだと説明してきましたが、それは収益を表す損益計算書についても当てはまります。
会社のコストや収益をそれぞれの属性ごとに勘定科目として分類し、それを更にグループ分けすることで、収益やコストの種類を分類します。
そして、売上にそれぞれのコストを差し引いたり収益を足すことで、複数の利益を計算していきます。

この様な説明をしても正直なところ分かりにくいと思うので、もう少し具体的に見ていきましょう。

会社の収益とは


例えば収益ですが、会社の収益は何も事業の売上だけではありません。 例えば、会社が今使っていない現金を定期預金として預けていれば、銀行からは利息がもらえます。
今はゼロ金利政策中なので金利は少ないということで、その代わりとして株を買えば、配当金がもらえたりもします。

使っていない土地を誰かに貸し出せば家賃が入ってきますし、その土地を売却してもお金が入ってきます。
この様に、会社は事業を行って得られる売上以外にも、様々なお金を得る機会というのがあります。 もし仮に、この様なお金を全て売上として計上してしまえば、事業の正しい利益というものが出せなくなってしまいます。
例えば、商品を1000万で仕入れて2000万円で売ったけれども人件費が1500万かかっている事業というのは、500万円の赤字となります。

しかし、随分前にタダ同然で買ったまま使っていない土地を売却して3000万円手に入れたとして、それを売上に入れてしまえば、事業としては2500万円の黒字となってしまいます。
ですが土地というのは1回売ってしまえば、それをもう一度売ることは出来ません。 こんな臨時収入を事業の売上としてしまえば、事業の利益を正しく把握する事なんてできなくなってしまいます。

その為、収益はそれぞれの属性ごとに分けて計上することになっています。

これは、コストに関しても同じことがいえます。 資産運用の為に株や土地を購入したのを仕入れで計上してしまえばおかしな事になってしまいます。
この様な事を避ける為に利益やコストをそれぞれのカテゴリーごとに分け、それらを見やすく整理したものが損益計算書だったりします。

原価とは


では具体的に見ていきましょう。 会社というのは事業を行って利益を稼ぎ出していくものなので、基本となるのは事業の売上です。
当然ですが、この売上には銀行の預け入れ金利保有株式の配当金、固定資産の売却で得た金などは含みません。 事業を行うことで得た純粋な売上の合計金額です。
事業外で得たお金を計算から省くことで、純粋な事業で得られる利益が計算できるようになります。

このようにして計算された売上から、原価を引いたものが事業を営む上で得られた利益ということになるのですが、この原価というのは3つに分かれます。
1つ目が製造にかかわる原価で、2つ目が販売に関するコストで、3つ目が管理に関わるコストです。これらを全て足し合わせたものが総原価と呼ばれるものになります。

売上総利益


損益計算書ではまず最初に、製造にかかわる原価である売上原価を差し引いて、今回のテーマである売上総利益を出します。
この売上総利益は、粗利と呼ばれる場合もあります。

この売上原価は、事業で販売している商品を用意するためのコストです。 これは、小売店や卸売業で考えると分かりやすいと思います。
売店や卸売業などは自分たちで商品を作るわけではなく、既に出来上がっている商品を購入してきて販売していくケースが多いです。
そのため物を仕入れて販売する業種の場合は、仕入れ値がそのまま原価になるケースが多いです。 この為、売上から仕入れの値段を引いたものが粗利と考えると分かりやすいと思います。

ただ、これが製造業などになってくると変わってきます。 何故なら、原材料を仕入れるだけで『商品が勝手に作られる』なんてことにはならないからです。
具体的に考えてみると分かりやすいと思いますが、例えばケーキ屋を営む場合、小麦粉や卵や牛乳を購入しただけで、ゲームのようにそれらが勝手に合成されてケーキが生まれるなんてことにはなりませんよね。
品質の高いケーキを生み出すためには、それなりの技術を持った職人が原材料を使ってケーキを制作する必要があります。

そして当然ですが、そのケーキ職人を雇うためには人件費を支払う必要があります。このケーキ職人を雇うための人件費に関しては、商品の製造にかかわる人件費であるため、当然、原価に含められなければなりません。
以前ネットで『綿菓子の原価は3%で、原価10円で300円の商品が作れてボロ儲け!』なんてのが話題になりましたが、これは綿菓子とそれを巻きつけるための割り箸の料金しか含んでいないため、厳密には原価ではありません。
実際の原価には、それをつくる人の人件費も含みます。

綿菓子を作る機械をリースしている場合、当然そのリース費用も含まれますし、それを動かすための電気代も経費に含まれます。
キャラクターものの袋は著作権なども絡んできますから、ビニール袋代と印刷代だけで仕入れることなんて出来ませんので、それらも含める必要があります。

原価の内訳


これらの経費を大きくカテゴリー分けをすると、『材料費』『労務費』『経費』に分かれ、それぞれが直接と間接に分かれるので、合計で6個に分かれます。 

こうして考えると、先程の『綿菓子の原価は3%』というのは、『材料費』の中のごく一部だけを原価として見ていることがわかります。
これは冷静に考えればわかりますが、本当に利益率97%の商売が有って、その商品が飛ぶように売れるのであれば、みんなが綿菓子屋を始めています。
しかし実際に綿菓子屋を始める人がそれほどいないということは、そこまで利益率は高くないということです。

話を戻すと、製造原価は『直接材料費』『間接材料費』『直接労務費』『間接労務費』『直接経費』『間接経費』に分かれます。
直接と間接の違いとしては、それぞれの経費がどの製品に使われているのかが明確にわかっている場合は直接的なものとなり、明確にわからないものは間接的なものとなります。
例えば工場に事務作業も出来る部屋が併設されていて、電気メーターが一つの場合、どれぐらいの電気を工場部分に使って、どれぐらいの電気を事務作業で使っているのかはハッキリとは分かりにくいので、こういったものは間接的なものとなります。

この様に項目分けをして、それぞれの経費について計算して合算して製造原価を出していくのですが、その方法を細かく言葉で説明していくのは難しいですし理解するのも難しいと思うので、製造に関わる経費が製造原価だと理解してもらえば良いと思います。
余程大きな会社で大量生産していない限りは、この理解で大丈夫だと思います。
理解しやすいように具体例を出すと、製造にかかわる仕入れ代金と職人の人件費、製造機械の年間の減価償却費や修繕費、一部作業を外注していればその外注費、製造にかかわる電気代・ガス代などの経費の合計金額が製造原価となります。

製品製造までの流れ


これらの製造原価ですが、最終的には商品へと変換されます。
もう少し詳しく言うと、仕入れや減価償却費などの個別の勘定科目が仕掛品という半製品、つまりは作りかけの状態の勘定科目に変換され、その仕掛け品が完成すると製品や商品という勘定科目に変換されます。
1日で材料が製品になるような商売であれば仕掛け品は必要ありませんが、作るのにそれなりの期間がかかるような製品の場合は一旦コストを仕掛品という勘定科目に変えて、完成した分だけを製品や商品という勘定科目に置き換えます。

簿記的には、前期の仕掛品の残と、今期に購入した材料や人件費、水道光熱費減価償却費などを足し合わせて、そこから今期の仕掛品残、つまりは未完成品を差し引いた金額が完成した商品の金額となります
つまり、製造に関するコストというのは、仕掛品という勘定科目を経過して、商品という勘定科目に移行するわけです。 因みにこの商品という勘定科目は棚卸資産というカテゴリーに入り、貸借対照表流動資産に記載されることになります。

話を戻してますと、この商品という勘定科目を使って今期の売上原価を出していきます。計算方法としては、前期から持ち越した商品を今期に製造した商品に足して、そこから今期の売れ残りである商品残を差し引きます。
何故、こんな事をするのかというと、1年間の売上原価を正確に出すためです。 実際に事業をしている方はわかると思いますが、作った商品が1年できれいに売り切れるなんてことはありえません。

作るのに数日や数ヶ月かかるようなものであれば、その製造期間分の在庫を持っておかないと、販売機会を逃してしまうことにもつながってしまいます。
その為、ほとんどの会社では在庫を持ちます。そして販売する際にはその在庫から販売していくため、売上の順番としては前年の在庫から売れて売上になり、その後、今期に製造したものが売れ始め、今期製造分の1部が来期以降の在庫として残る事になります。
この様な考え方を先入先出法というのですが、この考えを採用した場合、今期の売上原価は去年製造分の在庫と今期製造分の製品の合計金額から、今期製造分の売れ残りである在庫を差し引いたものとなります。

話を整理すると、企業が商品を製造するために使った出費は全て、一旦仕掛品という勘定科目に入ります。
そのコストの合計に前年度の仕掛品残を足し合わせた合計金額から、今期の仕掛品残、つまりは未完成品を差し引いたものが、今期に製造された商品の金額となります。
その商品の金額に前期の商品残を足し合わせ、そこから今期の売れ残りを差し引いたものが、今期に販売した売上原価となります。

その売上原価を売上から差し引いたものが、売上総利益となります。 言葉での説明では少し分かりにくいと思いますが、youtube版では表もつけて説明していますので、わかりにくかった方はそちらも見てみてください。
次回は、営業利益について考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第149回【アルキビアデス】まとめ3 後編

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アルキビアデスの最終目標


というのも、アルキビアデスの目指しているところは普通の人が抱くような一般的な生活ではなく、覇者となって大帝国を築ことだからです。
それを実現させるためには、まずギリシャを統一し、隣国のペルシャを攻め滅ぼして制圧し、王として認められなければなりません。

それほどの野望を成し遂げるためには、それ相応の知識が必要だというのが、ソクラテスの言い分です。というのも、もし知識無しで他の王族と張り合おうと思うのであれば、彼らの土俵で勝負しなければならないからです。
彼らの土俵とは、支配している領土や人脈や、財産とそれらを誇示するような豪華な服飾、つまりは見た目の美しさのことですが、アルキビアデスの『それ』は世界の王様どころかギリシャ内の他のポリスの王たちの足元にも及びません。
いくらアルキビアデスの親が資産家だからといって、例えばスパルタの王様よりもお金持ちで人脈が有るのかと言われれば、そんなことはありません。

それほどの財産や人脈が有るのであれば、既にどこかのポリスの王様になっていても不思議ではありませんが、彼の家族はどこかを支配しているわけではありません。
何なら、アルキビアデスは政治家になるために、身分に関係なく政治家に成れる可能性のある民主主義国家のアテナイにやってきた人物ですし、この時点では市民権すらありません。
つまりアルキビアデスがこれまでに所有しているといって自慢してきたものは、庶民の中ではそれなりに凄いものでは有るけれども、王族のそれとは比べ物にはならない程度のものだということです。

この当時大帝国だったペルシャと比べれば、アルキビアデスは何も持っていないに等しい為、それなら誰もが身に着けていないような知識ぐらい身につけていないと、彼らと同じ土俵に立つことは出来ないというのが、ソクラテスの言い分です。
これは今現在の社会に当てはめても同じことなので、理解しやすいと思います。 人脈も金も持たない人間が成り上がろうと思うのであれば、他の人が持ってないような知識や技術を身に着けなければ、スタートラインに立つことすら出来ません。
逆に言えば、それらを持ってさえいれば、金だけ持っている資産家や人脈しか取り柄のない人よりも有利に立ち回ることが出来るということです。

どのような人間が優れているのだろうか


つまり、ギリシャの他の王族たちやペルシャの王様と比べると圧倒的に恵まれていないアルキビアデスであったとしても、彼らが持たない知識を持ってさえいれば、彼らに勝てる可能性があるということです。
例えば、仮にアルキビアデスがアテナイの代表になったとして、周辺の国々を傘下に収めるために必要なのは交渉力です。 この交渉力というのは、武力や経済力、そして知識といった様々な要因から成り立っていますが…
この中でも知識というのはかなり重要な役割を果たします。 知識というのは多くの人の尊敬を集め、それを持つものの言葉に力を与えます。

また、知識を手に入れるためには莫大な金もいりません。 必要なのは、探求に捧げる時間のみです。
これはつまり、知識をみにつけるという行動が、他の王たちと比べてあらゆる面で劣っているアルキビアデスに取っては、唯一、彼らに勝てる方法になるというわけです。
これに納得したアルキビアデスは、ソクラテスと共に善悪を見極めるための知識を探求し始めます。

知識について考えるために、多方面から『知識』について探っていきます。まず、ある物事を解明しようとしているが解明できていない人間と、そもそも何も勉強をしていない人間ですが、どちらが優れていると言えるでしょうか。
両者共に善悪を見極める方法を解明できていないという結果は変わらないですが、何も探求をしていない人間と比べると、探求している人間のほうが優れていそうです。
これはレースなど人例えるとわかりやすいですが、ゴールに向かって走っている人間と、スタート地点で座り込んで休憩している人間。どちらの方がゴールに近いかと問われれば、走っている人間の方がゴールに近いでしょう。

『支配する』とは


次に、知識というのは1つの事柄について身につければ良いのかについて考えていきます。 例えば、家を建てる技術や知識を持つ大工さんは、建築の知識を持っているからすべての面で優れているかというと、そうとは言えません。
大工さんは家を建てる為の知識はありますが、では人の体を治せるのかというと、それは直せません。つまり、特定の1分野の知識を持っていたところで、凄いのはその分野に限定されるということです。
では、建築についての知識を持つけれども、医学については無知なモノは、優れた者と同時に劣った者となってしまうのですが、このような事があり得るのでしょうか。 これに対してアルキビアデスは、『そんなことはないだろう』と主張します。

では彼にとって優れたものとは、どのような人間を指すのでしょうか。 これに対してアルキビアデスは『支配者こそが素晴らしい者だ』と主張します。
この発言によって、優れていることと支配できることは同じだということになったので、本当にそうなのかを考えていきます。

まず支配について考えていきますが、人を支配するとは人を自分の思い通りに動かすことと考えることが出来ます。 権力者である王様は、国民に一方的に命令できるから支配者であるわけです。
では命令できるのは王様だけかと言われれば、そうではありません。医学の知識を持つ医者は、それを持たない患者に対して言うことを聞かせることが出来ます。
建築の設計の知識を持つ人間は、それを持たない現場の人間に支持を出して言うとおりに動かすことが出来ます。つまり専門知識を持つ人間は、それらを持たない人間に対してその専門分野に限り、人を支配することが可能となります。

何の能力で支配するか


ということは人は、自分の専門分野に限定すれば、その専門知識を持たない人間を支配することができるけれども、自分が知らない分野においては支配されてしまうものだと言うことです。
つまり人は支配しながらも支配される存在だということです。 また、先程の『優れていると同時に劣っている存在』と同じような結果になってしまいました。
これに対してアルキビアデスは、互いに支配したりされたりするような者たちのことではなく、一方的に支配できる存在が優れたものだと主張します。 これは簡単に言えば独裁者のことなのでしょう。

ではこの独裁者は、何の知識を根拠にして一方的な支配を行えるというのでしょうか。 先程から言っているとおり、人が一方的に支配できる状態というのは、自分の専門分野のことに関してのみです。
仮に王族として生まれたところで、その者が無知であれば簡単に側近に支配されてしまうでしょうし、もしかしたら国民からクーデターを起こされてしまうかもしれません。自分の意志で支配するためには、何らかの知識が必要となるはずです。
これに対してアルキビアデスは、【上手く作戦を立てる能力】だと答えます。

これは他のことに例えてみればわかりやすいですが、例えばサッカーの監督は、細かいサッカーの知識は沢山あるのでしょうが、大雑把に言えば上手く作戦を立てる能力が求められます。
おそらく戦争の際の司令官でも同じでしょうし、その上の将軍でもそうでしょう。  そしてこれは、法律や他国との外交に関する仕事をする政治家にも当てはまるということです。
確かに言われてみればその様にも思えますが、では、政治家の場合のゴールは何になるのでしょうか。

この続きは、次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第149回【アルキビアデス】まとめ3 前編

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政治家に必要な知識


前回の話は、ソクラテスが『政治にとって一番必要な能力は善悪を正しく見極める能力』だと主張。
それに対してアルキビアデスが、政治に本当に求められている能力は『善悪を正しく見極める能力』ではなく、損得勘定ではないのかと反論しました。
人は建前としては綺麗事を言いますが、実際には自分が得をするのか損をするのかしか興味はありません。 そんな人をまとめ上げるのが政治家の仕事であれば、損得勘定に詳しい方が良いというわけです。

これに対してソクラテスは、『醜い行動だけれども正義にかなった行動を見たことが有るか?』と質問し、アルキビアデスからNOという返事をもらいます。
次は逆に『立派な行動は全て良いものか?』と尋ねると、アルキビアデスはこれにもNOと答えます。
最初の質問はNOの理由がわかりやすいですが、彼が2つ目の質問に対してもNOとといったのは何故なのでしょうか。

正義にかなった行動


アルキビアデスは、戦場で仲間が大勢の敵に殺されそうになっている時に、正しい行動としては助けに行くことだが、助けに行ったことで自分が確実に死ぬのであれば、行くだけ損なのでみっともなく逃げるほうが良いと例え話で返します。
自分の命を第一に考える者にとっては正論のように思える答えですが、ソクラテスはこの例え話は様々な要因を含んでいるとして、要素を一つ一つ分解して考えていくことにします。

物事を小さい単位に分解して考える


この例え話では行動と結果が固く結びついて固定されているので、まずはそこを解きほぐします。 つまり、行動と結果を分けます。

すると、行動は『仲間を勇敢に助けに行く』と『みっともなく逃げる』の2つとなり、結果の方も『死ぬ』と『生き残る』の2つに別れます。
死ぬことが悪いとした場合、生き残るのは良いことになるため、結果の方は善悪をすぐに分けることが出来ます。次に行動の方ですが、これも単純に考えれば、『仲間を助ける』方が良くて『逃げる』方が悪いと分類することが出来ます。
先程は助けに行くという行動をとった場合は、結果は死ぬと固定されていましたが、行動と結果を自由に組み替えても良いとして考えてみると、組み合わせは4種類になり先程よりもパターンは増えます。

せっかく事柄を細かく分けたので、次はそれぞれの事柄についての善悪を考えていきます。
まず、仲間を助太刀したほうが良いのか、それとも見捨てる方が良いのかを考えた場合、これは客観的にも主観的にも助ける方が良い行動だと考えられるでしょう。
次に、その結果として生き残る場合と死ぬ場合について考えますが、これは主観的にはどちらが良いとも言えませんが、客観的には生き残ったほうが良くて死ぬのは悪いといえるでしょう。

善人と悪人


大体の善悪が分類できたところで、次はもっと根本的な問題として善悪について考えていきます。 人は何故、良さを求めるのでしょうか。
これは客観的な観点で考えるとわかりやすいです。 良い人間と悪い人間、どちらかと一緒に暮らしていかなければならないとした場合、どちらと一緒に暮らしていきたいでしょうか。
善悪では抽象的すぎるので具体的にいうと、臆病者や卑怯者、詐欺師や自分の欲望のために暴力を振るう人間か、勇気があって立派で、いざという時に助けてくれる人間か、どちらと一緒にいたいと思うでしょうか。

多くの人が詐欺師や暴力人間と一緒にいたいなんて思わないはずです。 多くの人がそう感じるということは、善人には需要があり悪人には需要がない事を意味します。
つまり人から必要とされる人間になろうと思うのであれば、善人にならなければならないということです。 逆に、何らかの理由で悪人呼ばわりされるようなことがあれば、多くの人は『それは誤解だ!』と反論するはずです。
アルキビアデスに至っては、卑怯者呼ばわりされるぐらいなら死んだほうがマシだと言い放ちます。 アルキビアデスにとって死ぬとは最大の不幸らしいので、彼の主張では、悪人呼ばわりされるのは最大の不幸だということになります。

では逆に良い事というのはどうなんでしょうか。 先程も言いましたが、良い人というのは需要があるので、皆から必要とされます。誰からも必要とされない人生は寂しいものですが、皆から頼られる人生というのは充実している人生とも言えます。
充実した人生を歩むことは空虚な人生を歩むことに比べると格段に良いように思えるので、善人になることは良いことですし、先程の損得勘定で言えば悪人になるよりかは得な人生を歩めそうです。

行動と生き方


これまでの考えによって善悪の考え方がより鮮明になったので、、もう一度先程の例に立ち返ってみましょう。 
まず結果を生み出す行動の方である『仲間を助けるのか』それとも『見捨てて逃げるのか』について考えると、助ける方が勇気ある立派な行動で、このような選択をする人間と一緒にいたいと思う人が大半なので、こちらの方が善ということになります。
一方で見捨てて逃げるような人間と一緒にいたいと思うような人はおらず、見捨てて逃げることで生き残ったとしても、誰からも必要とされない卑怯者として残りの人生を生きることとなります。

行動と生き方2


アルキビアデスに言わせるのなら、この状態で生きているなら死んだほうがマシなようです。ということは、仮に自分の命おしさに逃げた場合、結果がどう転ぼうが死ぬのと同じ結末となります。
消去法として、先程の例では『助ける』一択となり、アルキビアデスが主張する損得勘定で考えたとしても、仲間を見捨てずに助けた方が自分の得ということになってしまいます。

無知の知

以上のやり取りによって、アルキビアデスは善悪の区別がつかない、優れているわけでもない人というのが確定してしまいました。
しかしソクラテスに言わせれば、この気付きは大きな前進となります。 何故なら、自分のことを無知だと築いていない人間は、学習そのものを行おうとしないからです。
ですがアルキビアデスは今回のことで自分の無知に気づけたため、ここから勉強をしたり探求をしたりすることで、自身を成長させることが出来ます。 つまり0が1になったわけです。

0に何を掛け合わせても0のままですが、1歩進んで1になれば、自身のやる気や環境によっては大きく成長することが可能となります。
アルキビアデスは自身の無知を知ることで、その1歩を歩みだすことが出来たため、これは大きな一歩となります。

勉強する必要性


ただ、アルキビアデスは自身の無知を認めたのですが、ソクラテスがいうような知識が本当に必要なのかどうかは疑っています。

というのも、ソクラテスが必要だと言っている善悪を見極める知識というのは、そもそも持っている人がいない知識です。 必要だと主張して人生を賭けて探求しているソクラテスですら、まだその法則を見つけてはいません。
もし見つけているのだとすれば、その法則をアルキビアデスに教えてあげるだけでよいのですが、ソクラテス自身が身につけていないため、それすら出来ない状態でいます。
アルキビアデスは、そんな知識が、果たして本当に必要なのかと疑問を持っているわけです。 誰も身に着けていない知識なんてなかったとしても、世の中は普通に回っていますし、人生の成功者も普通にいるからです。

身につけることで幸福に成れる知識を探求したところで、そんな知識は生きている間に身につけることが出来ないかもしれない。それならそんな勉強はせず、もっとレベルの低いところで幸福を求めた方が効率的だということでしょう。
これに対してソクラテスは『比べる相手が違うのでは?』と反論します。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第72回【財務・経済】インタレスト・カバレッジ・レシオ

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純資産とは


今回も、長期の財務分析について考えていきます。今回紹介するのは、インタレスト・カバレッジ・レシオで、これは利益と支払い金利の関係性を表す指標です。
これを紹介する前にまず前回の復習からしていくと、前回に紹介したのは、負債比率と自己資本比率でした。 これらの指標を簡単に説明すると、負債の中で返済不要の自己資本がどれぐらいの割合を占めているのかというのを見ていく指標でした。
負債というのは大きく分けると2つに分かれます。1つが返済が必要な銀行借入や社債などです。 そしてもう一つが、返済が不要な純資産です。

この純資産は、株主の持ち分とされる部分で、会社が利益を出せばこの純資産が増え、赤字が出れば純資産が減っていくという性質のものです。
株式というのは、この部分の所有権を分割して売り出したものだと考えればよいです。 ある会社の株式を100%所有するということは、その会社の所有者になるということを意味します。
その会社の所有者になるということは、資産も負債もひっくるめて、株を所有している人のものということです。

純資産というのは、資産から借り入金を差し引いた差額なので、会社全てが株主のものということは、純資産が株主の持ち分と言い変えることが出来ます。
例えば、会社が持つ資産を全て売却して現金にして、その金で全ての借入金を返済したとした場合、理論的には純資産と同じ金額の現金が残ることになります。
実際には、会社が持つ固定資産が簿価で売れるかどうかは分かりませんので、固定資産の簿価と実売価格との間に大きな差がある場合は、この純資産の額は変わることになってしまいますが、理論的には純資産額に近い数字となるはずです。

簿価


ここで簿価という言葉が出てきましたが、簿価とは帳面上に記載されている資産の価値と考えてもらえれば良いです。
例えばトラックを200万円で購入して10年で定額法で償却する場合、10年後には下取りされないとすると、1年あたりの減価償却額は20万となります。
この車を2年保有している場合、40万円の償却が終わっていることになるため、固定資産として帳面に記載されているトラックの価格は160万円となります。 これが簿価です。

このトラックを2年使用した後に160万円で実際に売れるのであれば、簿価と実売価格に差額がない事になりますが、もし、これよりも低い価格でしか販売できないのであれば、帳面上の純資産額と実際の純資産額は変わってくることになります。
トラックのようなどんな業種でも使いこなせるもので、尚且つ、そこまで単価が高くないものであれば、差額は大して出ません。
しかし、製造業でその会社でしか使っていないような高額な機械であったり、土地や建物といった唯一のものである場合、差額が大きく出がちです。

他の業種で使えないような機械は、いくら高額であったとしても欲しがる人はいないでしょう。
同じ様に土地や建物も、『その立地』に立っているのは1つしか無いため、立地によっては簿価よりも高く売れるかもしれませんし、そもそも買い手がつかない場合もあります。
その為、帳面に書かれている純資産額と、実際に現金化した際の金額というのは違う場合があります。

話が少し脱線してしまいましたが、会社は株主のものと言うことは、その会社の資産を自由にすることが出来るという一方で、負債の返済義務を負うことになります。
ということは、会社の資産を全て現金化し、それで返済義務のある負債を全て完済すれば、残ったお金は全て株主のものということになります。
これはつまり、会社の資産から借入金を差し引いて計算される純資産は、株主のものと言いかえることが出来ます。

自己資本比率


純資産は株主の持ち分なので、借入金ではないため返済は不要となります。 この返済不要のお金がどれぐらいの割合を締めているのかというのを測る指標が、前回紹介した自己資本比率と負債比率でした。
これは当然ですが、長期的な安全性という面から見れば純資産の割合が高ければ高いほど安全性は高いことになります。
では、借入金ゼロで完全な形での無借金経営をすれば良いのかというと、安全性という面から見ればそれは確かにそうなのですが、経営の効率性という面から見れば良くない事になります。

というのも、借金をして、新規事業に投資をすることでそれを上回るリターンを得れるのであれば、借金はすればするほど利益が上がっていくからです。
借金を増やせば増やすほど儲かるというのは理解が難しいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、銀行が行っている事業をみてみれば分かりやすいと思います。

銀行というのは、私達一般人からお金を借りて、それを他人に又貸しすることで成り立っている事業です。 つまり、私達が銀行口座にためているお金というのは、銀行に対する貸付だということです。
銀行に貸し付けているからこそ、私たちは僅かではありますが金利が貰えるわけです。 そしてそのお金を、銀行側は企業や個人に貸し出すことで利益を得ています。
私達個人のケースで言うのであれば、住宅ローンなどがこれにあたります。 住宅ローンの返済金利は、私達が銀行にお金を預けることでもらえる預金金利よりも高いですよね? この差額が、銀行の利益になるわけです。

この様な利益構造の場合、銀行側は『借りたい!』と言っている人がいる限り、口座開設キャンペーンを行うなり何なりして銀行預金を集めれば利益を伸ばすことが出来ます。
これと同じことが、銀行以外の事業全般にも言えることになります。
銀行からお金を借り入れて事業を起こした際に、銀行借入金利を超える利益率を出すことが出来るのであれば、企業は銀行からお金を借りれば借りるほど利益を伸ばすことが出来ることになります。

例えば、商品を仕入れて販売するという小売店を開業して、その小売店で10%の利益をコンスタントに出すことが出来るとします。
この状況下で銀行からの借入金利が3%である場合、3%でお金を調達して10%稼げる小売店事業に投資しまくれば、銀行に金利を支払っても差額の7%が利益として出ることになります。
もしこの状況を作り出せるのであれば、借金はすればするほど会社の利益を出すことが出来るようになります。

借金による効率化の具体例


具体的に見ていきましょう。
仮に自己資金1000万円で借入金無しで、先程の小売店を始めたとしましょう。 利益率は10%だったので、毎年100万円の利益が出ることになります。
その一方で、銀行から更に2000万円を借り入れて全額投資をしたとしましょう。 投資額は総額で3000万なので利益は300万となり、それに対して支払い金利が3%の場合は60万円になるのでそれを差し引くと利益は240万円となります。

仮に借金を5000万円に増やせば、事業への総投資額は6000万円となるため、利益は600万となり、それに対する支払い金利は150万円なので、金利を差し引いた利益は450万円となります。
これに加え、事業を大きくすればするほど、事業を効率化することが出来るようにもなりますし、大量仕入れによって仕入れコストを減らすことも可能になったりします。
このようなことも踏まえて考えると、借金の金利を上回る投資先がある場合は、お金は借りれば借りるほど儲かることになります。

ただ先程からも言っていますが、この様な環境を作り出せるのは、借入金利よりも利益を生み出せる状態にある場合のみです。
事業には寿命があるなんて言われていますし、経済環境も刻々と変化しています。 1つの業態が永遠に同じ利益率を稼ぎ出せるわけがありません。
上手く行っていた事業が、経済環境の変化やライバルの出現などで上手くいかなくなるケースというのも当然出てきます。

もし仮に、借入金利よりも事業で得られる利益の方が下回ってしまったとしたら、それは長期的にみて危険な状態といえます。
この事を知らせてくれる指標が、今回紹介するインタレスト・カバレッジ・レシオです。

インタレスト・カバレッジ・レシオ


このインタレスト・カバレッジ・レシオの計算式ですが、事業利益を支払利息で割ったものとなります。
事業利益というのは、営業利益に受け取り金利や配当金、社債国債のクーポンを加えたものとなります。簡単にいえば、事業で稼ぎ出した利益に、資産運用でえた金利などを加えた数字です。
これを支払利息で割るということは、事業利益が支払利息の何倍あるのかを示すということになります。

この数字は、事業利益が増えれば増えるほど大きくなりますし、支払利息が減ることでも増加するため、高ければ高いほど安全性が高いということになります。
当然ですが、事業を普通に行っていく上では1を超えていることが絶対条件となります。
何故1を上回ってないとだめなのか。 これは、1を下回っている状態を考えてみれば分かりやすいです。

インタレスト・カバレッジ・レシオが1を下回るということは、事業利益よりも支払い金利の方が多いことを意味します。
具体的に言えば、会社の営業利益と銀行金利、株式の配当や国債のクーポンなどを全てひっくるめて300万円しかない会社の支払い利息が400万円あるようなものです。
普通に考えればわかりますが、この様な状況が続けば会社の赤字は増えていくため、一刻も早く解消する必要が出てきます。

インタレスト・カバレッジ・レシオの改善方法


解消方法としては、経営改善をして事業利益を増やしていくか、借金を返済して支払利息を減らすか、事業を撤退するしかありません。
撤退とは、不採算事業から撤退し、それに関する固定資産などを売却して借金を返済するなどのことです。
『事業を辞めてしまえば借金が返せない!』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもこの数値が1を割り込んでいるということは、先程も言いましたが事業で利息分すら稼げていないことを意味します。

その為、その事業を続けていたとしても借金は返済できないどころか、利息を支払うために純資産を切り崩すか新たな借金をしなければならないため、事業を続ければ続けていくほどドツボにはまっていきます。
この様な状況でもし経営改善が出来ないのであれば、できるだけ早めに撤退した方が傷が浅く済む分マシということになります。

まとめると、会社の資産を効率的に使うためには借金は必要だけれども、その利率を上回る利益率が確保できないのであれば、事業を見直す必要があるということになります。
それを数字で表してくれているのが、インタレスト・カバレッジ・レシオとなります。
ということで長期の財務分析の紹介については一旦ここで終わり、次は収益性分析と行きたいところですが、その前に前提知識となる収益について学んでいきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 後編

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知識のレベルの違い


確かにこの説明には一理ありそうです。 しかしソクラテスは、その反論については当てはまる場合と当てはまらない場合が存在するとして、受け入れません。
ソクラテスの意見としては、たしかにアルキビアデスの言う通り、言葉については大衆から教えてもらうというのも可能かもしれないが、それは言葉を使いこなすのに求められる能力が低いからだと主張します。
これは言い換えるのであれば、一般大衆が知らないような高度なレベルの知識は、言葉と同じ様に何となく学ぶなんてことは出来ないということです。

もう少し具体的に言えば、言葉というのはその環境で長年暮らしていれば、誰でも慣れ親しんでくるし話せるようになるものです。
特に母国語の習得であれば、それしかコミュニケーション手段がない上に、その言葉が四六時中、そこらじゅうで話されていますし、そこらに置かれている本やテレビでは音声以外に文字も書かれています。
この環境で子供の頃から何年も暮らしていれば、基本的な言葉であれば誰でも話すことが出来るようになるでしょう。

しかし、学習もせずに無意識レベルで習得できる語学のレベルは日常生活レベルの話であって、もっと高度になってくると、誰かに教えてもらうか自ら探求し無い限りは身につけることは出来ません。
同じ言葉の扱い方であったとしても、誰もが魅了される様な文章を書いたり、人の興味を引くようなキャッチコピーを作ったりり、誰が聞いてもわかりやすく言葉で説明する能力というのは、普通に生活しているだけでは身につきません。
例えば小説のような文章を書くのであれば、まず多くの小説を読んで表現を真似てみたり、使える表現をストックするといった事を行った上で、何度も自分で文章を書いてみないことには習得することが出来ません。

これが、物事の真理と言ったより難しい事柄であればなおさらで、一般大衆とただ暮らしているだけで身につくようなものではありません。
これらのことをより簡単に言い直せば『人は自分が知っていることしか他人に伝えることは出来ない』ということです。
人は自分が知らないことを相手に教えることは出来ません。 現実の世界では、たまに口からでまかせを言って知らないことに対しても口を出す人が結構いますが…

法則に従えば答えは一致する


それらの意見は本来聞くべき意見ではありませんし、仮にその意見が偶然にも正解だったとしても、それはたまたま答えが一致していただけで、その答えに到達するためのプロセスなどはデタラメです。
その為、仮にその後、同じ様なケースに遭遇したとして、その時に教えられた知識が通用するのかといえば、当然ですが通用しません。
何故なら、その忠告はちゃんと検証されたものではありませんし、その人物が探求したり学習した結果として得られたものではなく、単なる当てずっぽうだからです。

このようにして導き出された答えは、答えるものの感情によってブレるので、法則に従って正しく導き出された答えとは言えません。
特定の法則によって導き出された答えではなく、その日の気分によって出された答えに従ったところで、当然ながら正しい道を進むことはできないということです。

では、法則に則った知識とはどのようなものなのかというと、いついかなる時でも、入力に対して出力が同じになる様な知識です。
例えば電卓で1+1と入力すれば、どんな環境であれ、誰が入力したとしても、必ず2と答えが出力されます。もし出力されないことがあれば、その電卓は壊れています。
これはなぜかというと、電卓は数学という学問によって見いだされた法則をプログラムした機械だからです。数学という法則によって、入力された数式は必ず同じ答えを出力します

大衆が善悪を正しく見極められるのなら…


この事は数学だけに当てはまることではなく、あらゆることに当てはまります。例えば言葉を正しく学習した人間に対して『右の方を向いてください』といえば、皆が同じ方向を向きます。
これは、右を向くという言葉の入力に対して行動という手段で出力された結果と言えます。
この理屈を善悪に考えてはてはめると、正しく善悪を見極める方法を身に着けた複数の人間が有る事柄に対峙した場合、その人達が下す判断はすべて同じとなります。これは、善悪で意見が別れないということです。

もし仮に、民衆たちが全て善悪の見極め方を知っているのであれば、何かことが起こった際に、善悪の判断で意見が分かれるなてことはないはずです。
では実際にそうなっていのかといえば、そうはなっていません。 日本の裁判は三審制で原則的に3回まで裁判をやり直せるという制度を採用しているそうですが…
全国民が善悪の法則を理解しているような国であれば、そんな制度は必要ありません。 何故なら、何回裁判をやり直したところで、出る答えは同じになるからです。

というかもしそんな世界で有るのなら、そもそも善人しかいないため、犯罪を犯す人間はいないことになります。
何故なら、ソクラテスの理屈で言えば、人は幸せになるために生まれていていて、その幸せに到達する方法は善人であることだからです。
その為、自らを不幸にしてしまうような悪いことに手を染める人間はいません。善人しかいないのであれば、そもそも行動を規制する法律も必要ありませんし、その法律が適応される範囲である国も必要なくなります。

しかし実際には、悪いことをする人間がいるから人の行動を規制する法律がありますし、その法律が適用される範囲である国も存在しています。
そしてそんな世の中だからこそ、法律を作り出す政治家という職業が存在し、アルキビアデスは政治家を目指しているわけです。

知識はテキストで学ぶ


では、本はどうでしょうか? 一般大衆は善悪を見極める知識を持っていないかもしれませんが、本であれば、過去に1人でも善悪の見極め方の法則を理解し、それを文字で書いてくれている人がいれば、それを読むことで法則を理解できます。

アルキビアデスは学校で読み書きを教わりましたが、その際に使用したギリシャ神話などの物語の中に、善悪を見極める法則が書かれていて、それを知らず識らずのうちに読んでいて、学習していた可能性は捨てきれません。
しかしこれに対してもソクラテスは、反論をします。当時の勉強というのは神話を読み解くことが主だったようで、先人たちは神話の中に教訓などを含む様々な知識を織り交ぜて後世に伝えようとしていたわけですが…
その神話の中ですら、神々は善悪を巡って争いを起こしています。 もし本当に先人たちが善悪を見極める方法を見つけていれば、それは神話の物語にも反映されているはずなので、トロイの木馬が登場するような戦争は起こっていないはずです。

このソクラテスの理屈にアルキビアデスは納得し、彼は自分が無知であったにもかかわらず知識を持っていると勘違いし、それを他人に教えようとしていたことを認めます。
参考文献の表現では、このあたりの部分はかなりアルキビアデスをバカにした感じで描かれていたりしますが、これは単にアルキビアデスをバカにしているというよりも、この対話編を読んでいるであろう一般市民に対しての警告も含まれていると思われます
というのも、勉強したわけでも探求したわけでもなく、自分の専門分野でもないことに対して、知ったかぶりで適当なことをいう一般市民はかなり多いからです。

不毛な議論


彼らがやっていることというのは、この対話編でバカにされているアルキビアデスと全く同じことで、自分が知らないことについて他人に教えようとする滑稽な行動です。
これはこの対話編が書かれた当時だけでなく、今でもそうです。これを聞かれている方の身の回りにもいらっしゃるでしょうし、もしかするとご自身がそうかも知れません。
勉強したわけでも探求したわけでもないのに、知った気になっているということは、その後勉強することもありませんから無知なままなのですが、その状態で人に物を教えると、教えられた方はデタラメを教えられたことになるので正しい方向へはいけません。

その事を読者に気付かさえるためにも、対話篇の登場人物であるアルキビアデスを必要以上にバカにしているのかもしれません。
しかしアルキビアデスは、自身が無知であったことは認めましたが、そもそも本当に正しい知識は必要なのかとソクラテスに対して問いかけます。
というのも、今も昔も、市民たちが本当に興味を抱いているものは真実ではなく、自身の損得だからです。

たとえ正しい行動であったとしても、自分が損をするのであればしない、悪そうな行動であったとしても自分が得をするのならやってみようというのが人間です。
理想論は置いておいて、現実の社会では損得勘定で動く人間の意見を取りまとめて社会を動かしていくのが政治家なので、誰も知らない善悪を見極める知識なんて知らなくても、損得勘定さえ知っていれば良いことになります。
そして人は弱い存在であるため、損得勘定を覆い隠して見えなくするような大義名分を用意してやれば、喜んで他人に損失を押し付けて自分の得になるような事を自ら進んで行おうとします。

これに対してソクラテスは、アルキビアデスにさらなる疑問を投げかけることで、彼の考え方を変えようとするのですが、その説明は次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 前編

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善悪を見極める知識


今回も、対話篇『アルキビアデス』のまとめを行っていきます。 前回を聞かれていない方は、そちらから聞かれることをおすすめします。
前回の話を簡単に振り返ると、青年へと育ったアルキビアデスは、自分は他の人間よりも優れているので政治家になるべきだと主張します。
この意見に対してソクラテスは、政治家になるために必要な知識は何だと思う?と彼に問いただします。

例えば大工になりたいと思うのであれば、建物を建てるための技術や知識が必要となります。建築家になるためには建築士の知識や免許が必要になるでしょう。
世の中には沢山の職業がありますが、それらの職業にそれぞれの専門知識が必要とされますし、ほとんどの職業では、その専門知識を多く持っている人や、知識を上手く活用できる人が優秀な人だとされます。
これは当然、政治家にも当てはまると思われますが、では政治家に必要な知識というのは何なのでしょうか。

討論の結果、政治家に必要な知識とは『正義にかなった行動を取る為の知識』ではないかという話になりました。
正義にかなった行動を取るための知識とは、『善悪を見極めるための基準』とも良いかえることが出来ますが、では、その基準をアルキビアデスは身につけているのでしょうか。
アルキビアデスは直感的に、『そのようなことは既に身につけている』といいたげですが、本当に彼はその『基準』を身に着けているのでしょうか。

知識をみにつける順番


知識を身につけるために必要なことは、まず最初に自分自身はその事柄に関しては無知であると受け入れるところから始まります。
逆に言えば、『その程度のことは知っている』と思い込んでいれば、その事柄について勉強しよう等とは思わないということです。
つまりアルキビアデスはこれまでの中で1度でも、『私は善悪の区別をつけることが出来ない』と自覚した上で、勉強するなり自ら探求するなりしていなければならないということです。

これは、身近な勉強に当てはめて考えてみるとわかりやすいと思います。 一度も教育を受けること無く、生まれながらにして九九がスラスラ言えるような人はいないでしょう。
何の練習もトレーニングもせずに、一流のスポーツ選手に成れるような人はいませんし、何の研究もせずに世紀の大発見をするような人もいないでしょう。
何らかの技術や知識を身に着けている人は、その事柄についての地道な勉強や反復練習などのトレーニングを行うことで、技術や知識を手に入れます。

そしてその勉強やトレーニングといった努力は、自分が『その知識を持っていない』もしくは、『まだまだ自分は未熟だ』といった無知の自覚であったり無力感を感じなければ行うことは無いということです。
アルキビアデスが『善悪の区別をつけるための知識を持っている』と主張するのであれば、先程も言いましたが、彼はこれまでの人生の中で無知からくる無力感を感じなければなりません。
では実際にアルキビアデスにその様な時期があったのでしょうか。

大衆から学ぶ


ソクラテスはアルキビアデスのことを子供の頃から知っていましたが、彼はその頃から善悪の区別がついていたような振る舞いをしていました。
具体的に言えば、他の子供と喧嘩になった際に、自分の正当性を主張するという行動を子供の頃から行っていたということです。
この様な言い方をすると大層に聞こえるかもしれませんが、平たく言えば『誰々くんがインチキをした』といった理由で喧嘩に発展することが多々あったということです。

つまりアルキビアデスは、子供の頃から善悪の区別がつくと思いこんでいて、『自分には善悪の区別をつけることが出来ない』と無力感を抱いた経験が一切ないということになります。
これによってアルキビアデスは論破されてしまうわけですが、彼は別の理論で自分には善悪の区別をつける為の知識を身に着けたと主張します。
その理論というのが、大衆から受動的に教えてもらったというものです。

これは、自ら進んで勉強をしたり誰かに弟子入したわけでもないのに、大衆が日常生活の中で自然と自分に知識を教えてくれたので、それを吸収することで知識を手に入れることが出来たということです。

言葉は大衆から学べている


こんな事があるのかと思われるかもしれませんが、例えば私達が母国語を話す際には、誰かに教えてもらっているという自覚なしにいつの間にか話せるようになります。
私達が本格的に日本語を学ぶのは小学校に入ってからですが、では小学校入学前は一切言葉が話せないのかと問われれば、そんなことはなく、ある程度のコミュニケーションが取れる程度の言葉は話せるようになっています。

当時のギリシャでも、教育を受けられないような奴隷であったとしても、言葉は話せたし聞けたでしょう。 何故なら、もしコミュニケーションが取れないのであれば、奴隷の仕事ですら行うことすら出来ないからです。
ではこの言葉というのは、ソクラテスが主張するような手順で持って身につけたのかというと、そうではないでしょう。

例えば、生まれたばかりの赤ん坊が『自分以外の人間は何らかの音を発することによってコミュニケーションを取っていて、その音にはパターンが存在する。
そのパターンを自分は知らないので、それを理解して自分もコミュニケーションを取れるように勉強しよう!』と思って勉強した上で身につけたのかというと、そんなことはないはずです。
親が語りかけてくれる言葉やテレビから流れてくる音などを聞き流しながら、何年かかけていつの間にか簡単な言葉を話せるようになっていっただけで、自分の無知を自覚した上で学習しようとしたから身についたわけではないでしょう。

言葉が少し話せるようになると、親や幼稚園や保育園の同年代の友達などと話すことで、子供はさらに言葉を上手に使いこなせるようになっていきますが、これは言葉を探求していると言えるのかといえば微妙です。
では誰か特定の人物の弟子や生徒になって教えてもらったのかというと、これも違うでしょう。 厳密に言えばその都度、誰かには教えてもらっているのでしょうが、その人数は多すぎて特定することは出来ません。
ならこの状況をどの様に表現するのかといえば、生活していくうちに何となく身につけた、強いて言うなら大衆に教えてもらったとしか言いようがありません。

参考文献