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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第147回【アルキビアデス】まとめ回(1) 後編

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放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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政治家に必要な知識


これに対してアルキビアデスは、『戦争や和平、またはそれ以外の国政に関することについての知識だ』と主張します。
アルキビアデスやソクラテスが生きていた時代というのは、頻繁に内戦や戦争が起こっていました。この様な状況では、政治家の行動や態度一つで大勢の市民たちの命が危険にさらされる可能性もあります。
それを踏まえて考えると、外交能力やそれに関する知識というのは、確かに政治家には必要な知識だと思われます。

適切なタイミング


しかし、一言で外交の知識と言っても範囲が広すぎます。そこでソクラテスは範囲を絞るために『その外交というのは、相手を見てタイミングを図り決断を下すことなのか』と彼に問いかけます。
外交というのは腹のさぐりあいなので、心理学を元にした心理戦などを研究すれば、ある程度は優位に立てるかもしれません。
しかし、その知識を勉強すれば誰でも交渉の場で優位に立てるのかといえば、そんなことも無いでしょう。時には何も考えずに大胆に行動した者の方が優位に立てる場合もあります。

そういう事も考えると、ソクラテスの言う通りタイミングの図り方というのが、より重要になってくるのかもしれません。
これは、外交カードのきり方と言い換えても良いかもしれません。 強いカードを持っていたとしても、カードを切るタイミングを間違えてしまえば勝負には勝てません。
適切なタイミングで適切なカードを切ることで初めて、外交という勝負に勝てるとういことです。

ちなみにこの『タイミングを図り、やるべきタイミングで事を行う』というのは、全ての事柄について当てはまります。
例えば格闘技の場合は、防御すべきタイミングで防御をして、攻撃すべきタイミングで攻撃をするだけで相手に勝てますし、ダンスの場合はステップを踏むべきタイミングでステップを踏むだけで上手に踊ることが出来ます。
『やるべきタイミングでやるべき事を行う』というのは、あらゆる物に通じる極意のようなものなので、この様に口で言うのは簡単ですが、実践することが非常に難しいものだったりします。

これを実践するために必要になるのが、学問であればその分野に対する探求になるでしょうし、スポーツの場合であれば反復練習による基本の刷り込みになるのでしょう。
日々の練習や探求によって、必要な知識やスキルをタイミングを図って出していくことが可能になります。 つまり、これを実践するためには、その専門分野で確立された知識や技術の習得が必要不可欠となります。
では、政治家の場合はどの様な知識の習得が必要不可欠となるのでしょうか?

戦争は正義を行使するために行う​


この質問に対してアルキビアデスは答えることが出来ません。答えることが出来ないということは、彼は政治家に必要な知識や分野を知らないということになるので、当然、その分野に対して積極的に勉強するなんてことはしていません。
しかしアルキビアデスは自信満々に『自分には政治家に成れる能力が有る』と思い込んでいたわけですから、本能レベルでは理解しているかもしれません。
その為ソクラテスは、彼に質問を続けることで、彼の認識を確かめようとします。

この2人が暮らす時代では戦争が身近なものだったというのはさきほど言いましたが、では、その戦争はどのようにして起こるのでしょうか。
これに対してアルキビアデスは『戦争は、仕掛ける側が相手側から国益に反するようなことをされたと主張して引き起こすと答えます。
この戦争理由は現在でも変わっていませんから、私達のような現代人でもわかりやすいと思います。

相手が一切悪くないのにも関わらず、自分たちの欲望を満たしたいからという自分勝手な理由で侵略戦争を仕掛けようとしても、実際に戦争に命をかける自国民の兵士達がついてきません。
戦争には、実際に戦地へと赴く自国民の兵士たちが納得するような大義名分が必要となり、それに正義が宿っていなければ人は動きません。
仮に、戦争を仕掛ける側の指導者や政治家が自分自身の利益を考えて戦争を仕掛けるにしても、それをそのまま国民に言うような者はいないでしょう。

その本当の目的は隠し、自分たちが正義側で相手が悪なのだと印象づけるための大義名分を考えて主張するのが政治家です。
そこまでして自国の正当性を主張して初めて、市民たちは自分の命を賭けて戦場へと向かう決意を固めます。
これは当然のことながら、相手の国も同じです。 相手の国も自らの正当性を主張することで、兵士の士気を高めようとするわけですから、戦争というのは結局は正義と正義の戦いとなります。

善悪を見極める知識


つまり、外交の最終手段である戦争というのは、突き詰めればどちらの国の正義の方が勝っているのか、どちらに正当性が有るのかの勝負となります。
これは政治にも当てはまり、良い政治とは『より正義にかなっている行動』を取れるかどうかとなります。では、正義や正当性はどの様な理論をベースにして作られているのでしょうか。
アルキビアデスは、自分には政治家に成れる能力が有ると訴えかけて政治家になろうとしていますが、彼は正義や正当性を導き出すための学問を知っているのでしょうか。

これについてアルキビアデスに質問してみると、彼は答えることが出来ませんでした。
前に紹介した『知識の身につけ方』について振り返ってみると、人は無知を自覚している状態で、その分野について詳しい人に教えてもらうか、自分で探求したものしか知識をみにつけることは出来ないという話でした。
その理屈をそのまま当てはめると、アルキビアデスは善悪の区別の仕方を知らないと自覚した状態で、それが出来る教師に教えてもらうか、自分自身で探求して身につける事でしか知識をみにつける事は出来ません。

どちらにしても、学習とは自分の無知を認めるところから始まるわけですが、人から聞かれるまでわからないということは、問題そのものを自覚していないとうことになりますから、当然、知識は身につけてはいないことになります。
しかしアルキビアデスは、この結論にどうも納得がいきません。 というのも、『正義にかなった行動』が分からないということは、善悪の区別がつかないという事を意味しているからです。
これは自分に当てはめてみるとわかりやすいと思います。他人から『お前は善悪の区別もつけることが出来ないのか?』と言われたとしたら、誰でも反論したくなるでしょう。

実際に私達は何らかの物事を目にした際に、どちらが善でどちらが悪かというのを振り分けたりします。
これは、何らかの理論に則って振り分けているのかというとそうでもなく、直感的に『あれは良いこと』『これは悪いこと』といった感じで振り分けます。
この様に実際に振り分けが出来ているわけですから、その基準となる知識は自分に自覚がなかったとしても、既に収めているのではないかと思うのではないでしょうか。

この様な感情を抱いたからか、アルキビアデスは納得できないようなので、ソクラテスはアルキビアデスと一つ一つ順序立てて、この事を考えていきます。 この続きについては次回に話していきます。


参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第147回【アルキビアデス】まとめ回(1) 前編

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アルキビアデスという人物


前回で14回にわたってお送りしてきたアルキビアデス回が終わりました。
結構長くなってしまったため、今回からの数回で、復習がてらこの対話編の要点を振り返っていきます。

このアルキビアデスとの対話篇の主なテーマは、人間の本質となっています。
人間とは、どの様な状態になっていれば優れているのか、どの様にすれば人の上に立てるような優れた人間になれるのかを、野心あふれるアルキビアデスと対話をすることによって考えていくという構成です。
では、対話相手となるアルキビアデスとはどの様な人物なのかというと、ものすごく簡単に言えば、自分のことを優れていると思い込んでいる青年です。

アルキビアデスの具体的な年齢は書かれてはいませんが、話の内容から考えるに、つい数年前まで子供だった成人して間もない青年ぐらいだと思われます。
彼は、自分が優れた人間であり、それ故に、自分には人々を統治する資格があると思い込んでいるため、政治家になって上り詰めようという野心を抱きます。
何故この様な勘違いをしてしまったのかというと、実際に彼は才能に溢れ、一般人と比べると優れていたからでしょう。

彼は地頭が良く美しく、且つ、その状態にあぐらをかかずに努力もしていたようなので、彼から見ると、年をとっているだけで勉強もしていないようなものは劣って見えていたのかもしれません。
それに加えて、実家の太さや両親の人脈の広さから彼自身の顔も広い状態で、これに若い人が持ちがちな万能感もプラスされ、自分が国を率いるべきだ思ってしまったのかもしれません。
そのため彼は、王族に生まれないと指導者になれないような国ではなく、民主主義の選挙によって政治家が選ばれるアテナイへとやってきて政治家を志そうと決心しますが、そんな彼の元へ、ソクラテスがやってきます。

アルキビアデスに手助けをするソクラテス


何故、このタイミングでソクラテスがやってきたのかというと、これまではアルキビアデスとコンタクトをとることを神から禁止されていた様なのですが、その神から『彼と話しても良い』と許しが出たからです。
ソクラテスは、ダイモニアという精霊を通じて神の声を聞くことが出来たそうなのですが、その声によって、アルキビアデスとコンタクトを取ることを禁止されていました。
しかし、アルキビアデスが政治家を志したタイミングで神からアルキビアデスと話す許可が出たので、彼と対話をしようとやってきたわけです。

欲深いアルキビアデス


ソクラテスによるアルキビアデスに対する評価としては、彼はかなり欲深い性格をしていて、現状で満足することはないような人物のようです。
手に入る可能性が少しでもあるのなら、それを手に入れるために行動し続ける様な性格で、それをやめろと言われれば『生きている意味はない』として死を選ぶような人間だそうです。
彼がもし政治家になることに成功したら、次はより権力を握れる将軍の座を狙うでしょうし、将軍の座を得てアテナイを手中に収めたとしても、更に隣国を占領しようとする。

そのようにして、可能な限り多くのものを手に入れようとあがくのが、アルキビアデスの本性だとソクラテスは主張します。
ではソクラテスは、そんな底なしの欲望を持つ彼に対して、欲望を控えるようにとアドバイスをしにやってきたのかというと、そうでもないようです。
ではどの様な理由でやってきたのかというと、アルキビアデスが悪い大人たちに騙されたり利用されたりしないために助言しに来たようです。

フリーライダー

現在でも、才能や能力は持っていて、それ故に大きな野心を持っているけれども社会経験が少ない若者に対して、怪しい大人が近づいてくるというのは結構あります。
ソクラテスはアルキビアデスに対して好意を持っているため、その様なアルキビアデスを利用しようと近づいてくる悪い大人たちから、彼を守りたかったのでしょう。
そのために必要なのが、彼との討論というわけです。 彼に対して討論で持って人間の本質を教えることができれば、彼は自分を利用しようとしている『しょうもない大人』を見分けることが出来るようになります。

そうなれば、彼は自身が利用される前にその様な人達から距離を取ることが出来るようになるわけですから、結果として彼を守ることが出来るようになります。
ソクラテスはこの事を対話篇の中で、『毒の中に入っていくのであれば、解毒剤を持っておかなければならない』といった感じの言葉で表現しています。
その様な状態。つまり、アルキビアデスに解毒剤を持たせるために、ソクラテスは彼との討論に挑みます。

知識の身に付け方


アルキビアデスは政治家を目指しているとのことでしたが、そのために必要になるのが市民に自分を売り込むことです。
今も昔も、政治家は街頭演説などを通して自分の有能さを市民たちに訴えますが、では何の能力があると言って国民に訴えかければ良いのかというと、知識です。
現状よりも国をより良くするために、また、国に何らかの災が降り注いだ時に、それらに対処する知識があることを国民に証明できれば、国民から政治を任せてもらえそうです。

では、知識とは何なんでしょうか。どのようにすれば手に入れることが可能なんでしょうか。
知識というのは、大きく分けると2通りの方法で身につけることが出来ます。 1つは、知識を持つ人から教えてもらうことです。これは、知識を持っている人が執筆した本を読むといった行為も含まれます
もう一つは、自分自身で発見することです。 近代でも古代でも研究者というのは存在しますが、彼らが探求した結果、何らかの研究成果を得ることが出来たとすれば、彼らは自分自身で知識を発見したことになります。

この2つの知識の身につけ方ですが、共通している点としては、自分の知らないことに対して興味や関心を持たなければ駄目ということです。
物事に興味や関心を持つということは、当然、そのことに関しては自分には十分な知識がないということを自分自身で認識していなければなりませんが、その状態で貪欲に知識を追い求めることで知識は身につきます。
逆に言えば、既にその物事については十分に知っていると思い込むなどして興味を持たなければ、その事柄についての知識は身につきません。

アルキビアデスの強み


この事を踏まえた上で、アルキビアデスが持つ知識について考えていきます。
アルキビアデスは、自分が一般市民たちを圧倒するような知識を持っている事を街頭演説を通じて訴えることができれば、自身の思惑通り国民を説得して政治家になることが出来るでしょう。
ではアルキビアデスはこれまでに、どの様な知識を身に着けたのでしょうか。

アルキビアデスがどの様な分野に興味を持ち、探求してきたのかというのは不明ですが、彼は教師によって教育されているので、その分野については知識を持っていることがわかります。
教師からどの分野について教えてもらったのかというと、『読み書き』と『楽器演奏』と『レスリング』の知識です。
ではアルキビアデスはこれらの知識でもって、政治家になって国民を導いていこうというのでしょうか。

彼は当然、『そんなもので自分の優位性を示そうなんて思っていない』と主張します。これは私達が暮らす現代に当て嵌めてみるとわかりやすいと思います。
自分の地域から出馬している政治家が、『私は国語が得意だし、楽器の演奏もできるし柔道も強い!』と誇ったからと言って、その人物に票を入れるかと聞かれれば多くの人が入れないでしょう。
これは別に、国語や楽器の演奏や柔道がなんの役にも立たないと言っているわけではありません。それらが出来たからと言って国の代表になって人々を先導できるのかといえば、出来ないというだけです。

知識にはそれぞれの専門知識があるので、音で人を魅了するためには音楽の知識が役立ちますが、音楽の知識が家を建てるのに役立つかといえば何の役にも立ちません。
これは政治にも当てはまり、政治家になって人々を正しい方向へと先導していくためには、政治の専門知識が必要となります。
では、政治家に必要な専門知識とは何なのでしょうか。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第146回【アルキビアデス】無邪気に人を不幸にする悪人 後編

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ギリシャの神々

ここで、神々と人間である自分を比べるのは不敬ではないのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、繰り返しになりますが、ここで語られている神々がギリシャ神話の神々というのが重要です。
というのもギリシャ神話の世界では、唯一神の世界観と比べると人間と神との距離が身近です。人間と結婚する神々も多くいますし、人間が試練を乗り越えて神になるというヘラクレスのような者も存在します。
神々はある一面において究極的な存在であるだけなので、その他の面を比べると人間と大差なかったりしますし、人間ぽい振る舞いをしてしまったりするのがギリシャ神話の神々です。

この様に、頑張れば手に届きそうな距離感にいる理想像について語るというのも重要なんだと思われます。
何故なら、考えても絶対に答えが見つからないとわかっている事を考え続けられる人間はいないからです。
ソクラテスも、自分が生きている間に自身が求めている答えは見つからないかもしれないと感じていたかもしれませんが、探求することで答えに到達するはずだと考えていたからこそ、生涯をかけて探求したのだと思われます。

自分のことが分からない人間

このようにして、人は自分自身の魂を探求していくことが出来るわけですが、では、このような方法を用いて自分自身を探求してこなかったものが、自分の周りにまとわりついている所有物について正しい判断が出来るでしょうか。
所有物とは、自分の肉体であったり肩書であったり、身につけている衣服や装飾品のことだと考えて貰えれば良いと思います。
自分自身の価値や向かうべき方向性、自分の魂のあり方が分からないものに、それらの所有物の善悪がつくのでしょうか。

これは当然ですが、見分けることが出来ません。 では他人についてはどうなのかというと、自分のことについても自分の所有物のことについても善悪の見分けがつけられないものに、他人の善悪なんてつくはずがありません。
何故なら、自分のことも分からないような節度のない人間には、善悪を測る物差しがないということなので、その様な善悪を見極める基準を持たない人間が、他人の善悪について判断できるはずがないからです。

では、その様な人間が、全国民を良い方向へと導いていく政治家に成れるのかといえば、これも当然ですが成れません。
このことに関しては事の大小は関係がないので、もっと小さなスケールで例えるのなら、そのような人間は自分の家族を正しい方向へと導くことも出来ません。
何故なら、節度を持たない人間は進むべき方向がわからない上に、自分の現在地も把握できていないからです。

また、何が正しいのかもわからないということは、悪いことも無意識のうちに行ってしまうということです。悪いことを行うということは、言い換えれば、自分自身や周りに不幸をばらまくということです。
これについては生まれや財産の量は関係ないため、権力者であれ金持ちであれ、不幸からは逃れることは出来ません。
これを避けようと思うのであれば、つまり自分自身や人々を悪い方向ではなく正しい方向へと導き幸福にしようと思うのであれば、それに必要なのは節度を持ち、何が正しく何が悪いのかを見極められる知識を身につけることです。

無邪気に人を不幸にする悪人

例えるなら、好き放題に食べ物を食べ続けている人が、その食習慣のために糖尿病になったとして、その人が医学の知識がない為に、『美味しいものを食べるのは幸福につながる!』と勘違いして欲望のままにご飯を食べ続けた場合、病気は悪化します。
本人は、自分自身の快楽を優先して好き勝手に楽しいことをしているはずなのに、その行動によって体は確実に悪くなっていきます。
そしてその人が、『食べることはこんなに楽しい!』と悪意なく他人に伝えれば、その話を鵜呑みにした人も同じ様に糖尿病になってしまいます。

勧めた本人は、他の人も自分と同じ様に幸せになって欲しいと勧めたにもかかわらず、その助言によって多くの人が糖尿病で苦しむことになるでしょう。
これを避けようと思うのであれば、人は欲望に身を任せるのではなく正しい知識を身に着け、自分が行っている行動が本当に良いことなのか悪いことなのかを知る必要が出てくるということです。

『良さ』を理解できている人

逆に言えば、もしこれが可能なのであれば、人々が幸福に成るのに財産や権力は必要無いことになりますし、国を守るための強固な防壁も必要がないことになります。
何故なら、良さを解明した指導者が行う行動には絶対的な正義が宿っているからです。そして絶対的な正義とは、関わるもの全てを本当の意味で幸福にする法則の上に成り立つからものだからです。
もし、そのような絶対的な正義を指導者が身に着け、それを知識として国民に分かち合うのであれば、その国民によって作られた国と関わり合いになる他国の者も、本当の意味で幸福となります。

正しい知識によって幸福となった隣国の市民たちは正義に目覚め、その正しい知識を他人に伝えて幸福の波を伝播させていこうとするわけですから、そこに争いは起こりません。
争いが起こらないということは、すなわち、国を守るための強固な防壁も強力な殺人兵器も、屈強な兵士も必要がないということになります。
これは国として理想的な状態にあるため、政治家や国の統治者は、ここを到達点として目指さなければなりません。

政治家になるために

これを実現するために政治家として身に付けなければならないのが、人々を幸福へと導くことが出来る『善悪を正しく見極める知識』です。
何故なら、人は自分が持っていないものを他人に分け与えることが出来ないからです。『善悪を正しく見極める知識』を持たない政治家は、それを国民に分け与えることは出来ません。

極端な言い方をすれば、正しい知識を持っていないのであれば、無知のまま自由に振る舞うよりも、知識を持つ人間の言うことを聞いている方が、まだ幸せになれます。
何故なら、知識を持ち徳を宿している人間は、他人を幸福にしようと道を指し示してくれるわけですから、その方向へと進んでいけば、今よりもより良い状態になることが出来ます。
この事をソクラテスは対話篇の中で、徳を持つ人間は自由に振る舞えばよいが、悪徳な人間は徳を持つ人間の奴隷になった方が良いという言葉で表現しています。

そして当然、政治家を志すのであれば、アルキビアデスは自由人を目指さなければなりません。
アルキビアデスはこの事に納得し、そして、ソクラテスと共に徳を身につけるために探求し続ける道を選びます。
これで、アルキビアデスの対話篇は終わりです。 次回からは、まとめ回に入っていきます

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【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第71回【財務・経済】負債比率・自己資本比率

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固定長期適合率と固定比率


今回も、長期目線での財務分析について考えていきます。
簡単にこれまでの長期での財務分析について振り返ると、最初に紹介したのが固定費率で、計算式としては固定資産を純資産で割ったものでした。
この固定費率の考え方を簡単に復習すると、不動産など保有しているだけでは何の利益も生まない資産は、返済義務のない純資産で賄えたほうが安全性が高いと考えて作られた数字です。この数字は100%を下回っていれば安全だと考えられています。

そして前回紹介したのが、この固定費率を少し改造した固定長期適合率という指標で、分母の純資産に固定負債を足し合わせて計算します。この数字も固定費率と同じく、100%を下回っていれば安全だとされます。
計算式としては、固定資産を純資産と固定負債の合計額で割って出すもので、長期的な借金があればそれだけ安全性は高まることになります。
『長期的な借金が多いほど安全性が高まる』というと、少し違和感を持たれる方も多いともいます。 これに関しては、詳しくは前回に話しているので、それをまだ聞かれていない方はそちらを聞いてもらいたいのですが…

固定長期適合率の考え方


簡単に振り返ると、固定資産の中には固定負債と密接な繋がりがあるものがあるので、それを加味した上で作られた数字が固定長期適合率だと思われます。
例えば、先程例に出した不動産などは売上に貢献しない固定資産と考えられていますが、その一方で製造業が持つ生産機械などは売上に直接寄与してくる固定資産です。
この機械設備は多くの会社がローンで購入するため、固定負債と密接なつながりがあります。

またこの機械設備の代金は、製品の原価に組み込むことで最終的な製品価格に反映させるものです。 その為、販売計画通りに商品が売れていれば機械設備のコストは順調に回収できることになります。
その回収したコストはそのまま返済に当てられるため、簿記的に見れば、固定資産と固定負債は同額ずつ減っていくことになります。
何故かというと、固定資産は毎年減価償却が行われるため、その減価償却分だけ固定資産は費用化されて減少していきます。

一方で固定負債ですが、これはローンで毎月返済額が決まっている場合が多いため、これも毎年のように減っていくことになります。
そして最終的に固定負債が完済される頃には、固定資産も償却が終わって無くなっていることになります。
こういった機械設備部分の長期投資を分離して考える目的で作られたのが、固定長期適合率だと思われます。

これを聞かれている方の中には、『固定資産の内訳を見て、不動産のような減価償却のない資産と機械設備のような減価償却される資産を分ければ良いじゃないか』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
正直、それは非常に面倒くさいです。 小さな企業であれば問題はありませんが、財務分析というのは上場企業のような大きな会社を分析する際にも使われます。
そういった大きな会社が持つ固定資産をいちいち分類するぐらいなら、不動産や設備機械と言った全てのものを足し合わせた数字として出てきた固定資産というグループを、固定負債と純資産を足し合わせたもので割った方が、計算も楽になります。

財務分析指標というのは、簿記に詳しくない人も簡単に計算ができて使えるように作られているため、それを踏まえて指標を作ろうと思うと、この様な計算式になるのでしょう。

指標の選び方


では、固定比率と固定長期適合率のどちらを使えば良いのかというと、それは会社のやっている事業によっても変わってきます。
サービス業で設備投資が必要のないような会社であれば固定費率を使った方が会社の現状が分かりやすいでしょうし、製造業で多額の設備投資が必要なのであれば、固定長期適合率を使ったほうが良いでしょう。

というのも、固定長期適合率というのは長期的な借金が増えれば増えるほど安全性が増してしまう指標です。
しかし実際問題として、機械設備などを持たないサービス業なのに固定負債が大量にある会社というのは、経営的な問題を抱えていると考えるのが普通でしょう。
極端な例で言えば、訪問型の英会話教師を自分1人出している人がいて、その人が多額の長期借入金を持っていれば経営的にはヤバそうだと考えるのが普通です。その為、この場合は固定負債を含まない固定費率で見た方が状況が良くわかります。

財務分析は複数の指標を組み合わせる


このように、財務分析指標というのは1つだけを使って分析をしようと思うと、問題が出てくる場合も多いです。 その為、複数の指標を組み合わせて使うのが一般的です。
組み合わせ方は、長期・短期・収益面と色々な角度から見れるものを組み合わせるのが一般的ですが、長期的な安全性についても複数の指標を組み合わせた方が企業の姿が分かりやすかったりします。
どの様な指標と組み合わせれば良いかというと、今回紹介する負債比率や自己資本比率もそれにあたります。

負債比率や自己資本比率は、基本的な考え方としては同じで、純資産に対して負債がどれぐらいあるのかというのを表した数字です。
それぞれの計算方法は、負債比率が負債額を純資産で割ったもので、自己資本比率が純資産を貸借対照表の負債の部の合計額で割ったものです。

計算式だけで見ると分かりにくいと思うので、具体的な数字で見ていくと…
仮に借金が600万円あって純資産が400万円ある場合、負債比率は600万円を400万円で割るので150%となり、自己資本比率は400万円を純資産の400万円と負債の600万円を足し合わせたもので割るので、40%となります。
負債比率の方は低ければ低いほど、自己資本比率は高ければ高いほど安全性が高くなります。

これはが何故そうなるのかは、考えてみればすぐに分かると思います。 これらの数字で表されているのは負債額に対してどれぐらいの純資産。つまりは返済不要の自己資金があるのかということを示しているので、純資産が多いほど安全性は高くなります。
これを先程の固定長期適合率何かと組み合わせて考えると、固定長期適合率は借金が大きくなればなるほど安全性が増していく指標ですが、この自己資本比率や負債比率などは借金が大きくなればなるほど安全性が低くなる指標です。
固定長期適合率だけ見ていると安全性に問題がないように見えても、自己資本比率も合わせてみると問題に気がついたりもするので、組み合わせる事で指標の欠点を補えたりもします。

数値の目安


話を自己資本比率と負債比率に戻すと…
では、これらがどれぐらいの数値になっていれば良いかというと、目安としては自己資本比率で50%なんて言われていたりもしますが、これも、業種や経済状態によって変わりますので一概には言えません。
また、これらの安全指標が高過ぎるということは、裏を返せば積極的な投資が行われてい無いことも意味しますので、一概に良いとも言い切れません。

例えば、日本はバブル崩壊後から景気対策のために低金利政策を続けていますし、それによって銀行からの借入金利も相当低下しています。
銀行の借入金利が低いということは、その低い金利でお金を借りて新規事業に投資した際に、儲けが出るハードルが下がっていることを意味します。
具体例を出すと、仮に1000万円を8%で借りることを想定すると、借入金利は年間80万円となるため、事業に投資して得る利益が最低でも80万円以上なければ、事業としては失敗になります。

何故なら、事業で得られた利益を全額返済に回したとしても、借入金利分にも満たないからです。
しかし一方で、借入金利が2%だとするとどうでしょうか。 2%の場合は1000万円に対する借入金利は20万円で済むので、差額で60万円分のコスト減となります。
その為、低金利の状態では借金をして新規事業をする際のハードルが下がります。 この様な状況下では、多く借金をして新規事業に投資した方が資金効率が良いことになります。

そもそも論で言えば、政府が金利を引き下げる政策を取っているのは、この様に投資に対するハードルを下げることが目的だったりします。
その為、この様な時期に自己資本比率が低くなっているからと行って、それがそのまま経営危機に繋がるわけではありません。

この様な経済的な要因以外にも、業種によって自己資本比率が低くなってしまうような場合もあります。
例えば、何も設備がいらないサービス業と多額の設備投資が必要な製造業とでは、借金の額が変わってきます。
また、商品1つあたりの単価が高い不動産業なども、土地の購入費用を全て自己資金で賄うのは不可能だと思われるので、借金比率が高くなりがちです。

指標の推移も重要


さらに言えば、これらの指標は推移が重要だったりします。
これまでに、固定資産と固定負債の関係性などを話してきましたが、多額の設備投資費を長期借入金で賄って返済していく場合、時を経るごとに長期借入金はローン返済によって減っていくため、自己資本比率などは改善していきます。
つまり設備投資の段階で一時的に自己資本比率が悪化したとしても、その後経営が順調に行われて借金が減って利益が増えていけば、自己資本比率は急速に改善していきます。

にも関わらず、設備投資を行った単年度だけを取り上げて『長期の安全性に不安がある』といったところで、意味はありません。
この様に財務指標は、複数のものを組み合わせたり、その推移を見ていくことが重要になってきたりします。

ということで負債比率と自己資本比率の話はこれまでにして、次回は、インタレスト・カバレッジ・レシオについてみていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第146回【アルキビアデス】無邪気に人を不幸にする悪人 前編

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物事を知るには観察から


今回も対話篇『アルキビアデス』に付いて話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、人間が本当に重要視しなければならないのは、人間という存在の外側にある財産や人脈や高い社会的ステータスなどではなく、自分の肉体といった目に見えるものでもなく魂で、その魂を探求する方法があるという話をしました。
どのようにして探求するのかというと、観察です。 どんな分野であれ、物事を詳しく調べようと思うのであれば対象を観察するのは基本中の基本です。それは魂も例外ではありません。

しかし自分の魂というのは、自分の目で直接観察できるものではありません。 これは魂に限らず、観察したいものを観察したいもので観察するというのは不可能です。
例えば人間の目というのは、外の世界を観察するために付いている器官ですが、この自分の目を、自らの目で観察することは不可能です。
自分の目を自分の目で観察しようと思うのなら、鏡のような光を反射する道具を利用して間接的に観察しなければ、自分の目を観察することは出来ません。

では鏡がなかったらどうするのか。 先程の目の例で例えるなら、鏡がない場合は観察しているものと似たようなものを利用することで、間接的に観察が可能となります。
つまり目の場合で言えば、誰か他の人の目を間近で覗き込めば相手の瞳に自分が映るため、相手の目を見ることで自分の目を観察することが出来るようになるということです。
ソクラテスの主張によれば、これは人間の魂を観察する際にも当てはまり、人間の魂は人間の魂と似たようなものを利用することで、観察が可能になるようです。

探求を続けるものを客観視する


では、人間の魂と似たような存在とは何かというと、これには2つあり、1つは自分と同じ様に魂について日々探求しようと頑張っている者との対話です。
人の魂とは、人間が動くきっかけになる『決断をする意識』のようなものと考えられますが、この決断は人との対話によって変わります。例えるなら、自分が尊敬している人からアドバイスを貰えば、そのアドバイスに従う形で行動を変えるようなものです。
人が行動を起こす際の順番的には、まず行動しようと決断を下してから行動を起こすため、行動を変えるというのは決断を変えている事と同じです。 つまり、人との対話は人の魂に作用するということです。

そして人というのは自分と同じ様に善悪について探求しているものと対話すると、魂を磨くという行為を客観的に観察することが出来るようになります。
例えば、一人でゴルフの打ちっぱなしに行くと、自分のスイングのどこが悪いのかが分かりにくいために改善もしにくいですが、他人のゴルフスイングを見ていると駄目なところが目につき易いと思います。
仮に自分がプロではなく、素人で練習の途中だったとしても、明らかに下手な人を見ると治すべきところや直したほうが良い方向性が分かったりもします。

この様に、自分自身の行動は自分自身では確認しづらいですが、同じ様に練習している人を見ることで、何がよくて何が悪いのかが客観的に理解しやすくなります。
やってはいけない事ややるべき事を他人の行動を通して認識することが出来れば、次の自分の練習にも活かしやすくなり、一人で黙々と練習をしているよりかは良い方向へと近づきやすくなります。
これは、善悪の区別をつけるという事柄についても当てはまるということです。

自分と同じ様に善悪を見極める知識を探求している人と話すことで、真実に近づいているのか、それとも横道にそれていってしまっているのかが客観的にわかりやすくなります。
これは対話相手も同じで、相手もこちら側の意見を客観的に見ることが出来るために、こちらの発言を受けて考えを修正していきます。
結果として、議論を通して互いが互いの意見を客観視し、正しい部分と間違っている部分、本質とは全く関係ない部分を見極めることで、議論そのものが正しい方向へと向かっていきます。

魂位の鏡としての神


残りのもう一つの方法は、神々について考えることで、これを行うことで魂を磨く行為に繋がります。
ここで注意としていっておくと、ここで取り上げられている神様とはキリスト教徒などが信仰している、絶対的な存在としての唯一神のことではありません。
ギリシャ神話に登場する神々のことです。

このギリシャ神話の神々というのは、人間の価値観であったり感情や精神状態、他には科学的な法則といったものを擬人化した存在です。
例えば勇気であったり愛情であったり嫉妬といった感情や、酒を飲んで酩酊している状態、その他には雷や時間といった概念などが、神様としてキャラクター化され、様々な神話に登場しています。
今の日本で言えば、様々な概念や建物などが擬人化されてマスコット的に利用されていたりもしますが、そういった存在だと考えると分かりやすいかもしれません。

この様にギリシャの神々というのは、人間の精神や物理学といった現象を擬人化した存在であるため、ギリシャ神話の神々について真剣に考えるということは、真理の探求をするというのと同じ行為です。
その神々の中でも、人間の本質を元にして生まれた神々というのは人間の魂に似ているため、これらのことを真剣に考えるというのは、その行為がそのまま魂を磨く行為に繋がります。
特に神々というのは、それぞれが人間の持つ感情や価値観の究極の形をキャラクター化したものであるため、自分自身の魂を見るための鏡としては最も美しいものとなります。

例えば、アフロディーテは美しさという概念や、美しいものを目に前にした際の人間の感情の動きなどを表していますが、このアフロディーテについて真剣に考えることは、美しさという概念について考えるということを意味します。
アフロディーテについての考察は、前に取り扱った対話篇『饗宴』で行われていますので、まだ聞いていない方や、聞いたけれども忘れてしまった方などはもう一度聞いてみてほしいのですが…
美しさという概念一つとっても、なかなか『これ!』といった答えを出すことは出来ません。

例えば、美しさというのは外見のことなのか、それとも内面のことなのかといった単純なことですら、簡単に答えはでないでしょう。
しかし、神々の名を出して語られる際のテーマというのは、常に『究極の存在について』であるため、相対的に見比べる対象を観察するための鏡として用いる場合は、最も美しい鏡となります。

人間の魂を見るための鏡


先程のアフロディーテの例で言えば、アフロディーテが象徴している美しさというのは、単純な見た目の話なのか、それとも人間の振る舞いの話なのかというのは明確な答えとしては出てきません。
ですが、美しさを語る際にアフロディーテの名前を出すということは、そこで語られる美しさというのは究極の美しさのことだということになります。
その究極に美しい存在であるアフロディーテについて議論をすることで、少しは美しさについて理解が進むわけですが、そこで多少なりとも明らかになった美しさの概念と自分自身の現状を比べるというのは、言ってみれば神と人間を比べるようなものです。

当然、美しさにおいて究極の存在であるアフロディーテと自分を比べると劣っているところしかないわけですが、そのようにして今現在の自分自身と見比べる鏡として用いるには、神々は最高の存在だというわけです。
わかりやすく現実レベルまで落として考えるために、先程だしたゴルフスイングの例で説明するのであれば…

下手な者同士が互いに自分たちのスイングを見せ合い、この部分を変えたほうが良いと互いに言い合って練習すれば、一人で黙々とやっているよりかは客観的目線が入って練習がはかどったりします。
しかし、それよりももっと効果的なのは、この世で一番上手いプレイヤーのスイング動画を用意した上で、その動画と自分たちのスイングとの違いを互いに指摘しあって練習することです。
ゴルフスイングに絶対の正解があるのかどうかはおいておいて、現状で一番の成績を収めているプレイヤーの実際のスイングというのを手本にして練習したほうが、上達しやすいでしょう。

人の精神についての探求も同じで、ギリシャの神々はある一面において究極の存在だとはいわれていますが、ではその究極の状態というのがどのような状態なのかというのは解明されていないために語られていません。
しかし、その神々が登場する神話には、過去の人達がそれぞれの概念について考えた理論が詰め込まれています。
それらの理論や考えというのは、絶対的な答えには辿り着いていないので、神話には絶対的な正解が書かれているわけではありませんし、それぞれの人々が自分なりの解釈によって神話を作るため、神話によって神々の振る舞いが変わったりもします。

しかし、人々から受け入れられなかったり否定されるような神話というのは、すぐに消えてしまうと思われます。
つまり神話として一定の年月語られてきたものであったり言い伝えというのは、長い間、人々から信頼されてきたという実績がある理論とも考えられます。
長年人々を惹きつけてきたり、納得させてきた理論というのは、一定の確からしさというものがあるようにも思えるため、これらについて探求するという行為には意味があります。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第145回【アルキビアデス】堕落への対抗策 後編

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堕落への対抗策


では、魂を映し出す鏡で自分自身の魂を見るとは、どういった意味なのでしょうか。
これを理解するために、もう一度、普通の鏡で自分の姿を確認するという状態について考えてみます。

目で見て観察するという行為を少し掘り下げて考えてみると、目というのは光を受け止め、それを情報として脳に送り届ける器官です。
目には光を情報に変換して脳に送り届けるという卓越性があるため、人は目を開いて何かを観た際に、その光の反射によって世の中を認識することが出来ます。

この目ですが、当然ながら限界があります。 人の目が感知できる光は可視光線という幅に限定されていますし、その可視光線が反射しないものは目で見ることが出来ません。
つまり、人の目が捉えられる情報は、可視光線が反射するものに限定されるということです。逆に言えば、その条件に合ってさえいれば、人は目で見て認識することが出来ます。
目で見て確認することが出来るのは光の反射なので、人間が見える範囲の光をそのまま反射できる物体、つまり鏡のようなものがあれば、本来なら見えないようなものも目で見て認識することが出来ます。

例えば自分自身の目などは、鏡などの道具を用いずには見ることが出来ません。光を反射させる何らかの物体を通してでしか見れません。
では、光を反射させる物体というのは、鏡などの人工物しかないのかといえばそうではなくて、人間の体でいうと人間の目がそれに当たります。
少しややこしいので例を出すと、人が他人の目を間近で覗き込んだ場合、相手の瞳の中に自分の顔が反射して見えるということです。

前に、アイドルの自撮り写真を拡大し、瞳に写っている景色から住んでいる家を割り出した人がいる… 何てことがニュースとして取り上げられていましたが、考え方としてはこれと同じです。
他人の目を覗き込めば、鏡として利用が可能ということです。 この事をもってソクラテスは、自分が持つ目という体の器官は、他人の目という似たような器官を使うことで、その存在を確認することが出来ると主張します。
つまりは、確認したいと思うものと似たような存在があれば、それを利用して自身の存在を確認することが出来るということです。

魂を映し出す鏡


話を魂を映し出す鏡の方に戻すと、魂というのは光を反射するわけではありませんから、当然、普通の鏡を使ったところで自分自身の魂を観察することは不可能です。
おそらく世界中を探したとしても、そして科学がどれだけ進んだとしても、人の魂を映し出す鏡なんてものは出てこないでしょうから、物質としての魂を映し出す鏡なんてものはないでしょう。
しかし先程ソクラテスは、観察しようとしているものと似たようなものがあれば、それを利用して自分自身を観察することが出来ると主張していました。

先ほど紹介した、他人の目を覗き込めば、相手の目が鏡の役割を果たして自分の姿が見えるというアノ理屈です。
つまり、自分の魂と似たような存在があれば、その存在を使って自分の魂を観察することが出来るということです。
では、自分が持つ魂と似たような存在は何なのかというと、卓越した存在になろうと探求を続けている他人の魂であったり、神そのものです。

探求を続けている他人の魂


まず『探求を続けている他人の魂』が何故、人の魂を見るための鏡に成るのかというと、これは先程の目で見るという行為のたとえ話と理屈は同じだと思われます。
善悪を見分ける知識を宿し、他よりも卓越した人間になろうとしている人間は、同じ様に頑張っている人の近くに行って相手と内面をさらけ出して対話をすれば、結果として自分自身を知ることが出来るということでしょう。

これは言葉で聞くと難しく感じますが、私達が日常生活を送る中でも頻繁に起こっていることだと思います。
例えば、仕事であれ趣味であれ、何かに真剣に打ち込んでいる人と対話を行えば、その話し合いの中でその対象についての自分の考えなどが明らかになってくると言ったことがないでしょうか。
同じ方向に向かって進んでいる相手と話して相手のことが理解できれば、その相手と自分を比べることで自分を客観視しやすくなります。

わかりやすさを優先するために、誤解を恐れずに別の表現をすると、対話を行うことで相手がどれぐらいのレベルかを知ることが出来、その相手と自分を比べることで、自分の位置を知ることが出来るといった具合でしょうか。
ただ、この時に気をつけないといけないのが、行うべきなのは討論であって、論破合戦ではないということです。
自分の存在を持ち上げたいがために相手の揚げ足を取り、相手の言葉を意図的に間違った解釈をし、時にはゴールをずらしたりして相手を論破したとしても、その行為には何の意味もないということです。

何故なら、その様な口喧嘩では、相手の方もそんな人間とはまともに議論をしようと思いませんから、相手の魂を正確に知ることが出来ないからです。
相手の魂を正確に知ることが出来ないということは、それと自分の魂を正確に比較することが出来なくなるわけですから、その様な口喧嘩は無意味となります。
相手の意見をよく聞き、わからないところは質問し、違うと思うところには素直に意見を言うという建設的な対話を行うことで、相手も知ることが出来、結果として自分も知ることが出来るようになります。

魂の鏡としての神


次に、人の魂を見る鏡は神だという話についてですが…
この神というのは、キリスト教で言うところの唯一神としての神のことではありません。 ギリシャ神話の神々のことです。両者の違いとしては、ギリシャ神話の神々の方が、より人間に近いです。
というのもキリスト教の神様というのが絶対的な善の象徴として人の手に届かないような語られ方をしているのに対し、ギリシャの神々というのは人間の精神であったり価値観の一側面を切り取って、象徴化したものだからです。

例えばエロスやアフロディーテというのは、人間が感じる美しさというイメージの究極の形に名前をつけて、神として扱っているものです。
軍神アレスは戦地へと赴く兵士の勇敢さを象徴するような神様ですし、同じく軍神アテナは、ゼウスの頭から生み出されたとされているので、軍事だけでなく知識をも宿してい存在とされています。
他にも、人が酒を飲んで酔っ払った状態を表している神様など、人の感情であったり状態などを神様扱いしているのがギリシャ神話の神様たちです。

このギリシャ神話の神々が、何故、人の魂の鏡に成るのかというと、先程も言いましたが、神そのものが人間の精神を研究して作られたものだからでしょう。
神というのは人間の魂を観察して探求し、魂がどの様な成分でできているのかを研究した結果として生まれたものなので、根本的な性質としては同じものと考えられます。
特に、人の魂の中でも説明が難しいもの、これは卓越性だとかアレテーと呼ばれているものですが、この部分は言葉での説明が難しいということで、その概念はそのまま、神として昇華されていたりします。

前に取り扱った対話篇の『饗宴』では、美しさというテーマだけで1冊の本になっていましたが、それでも『美しさ』というものがどういうものなのかという明確な答えは出ませんでした。
この様に、概念としては確実に存在していて、実際に人間が心を動かされる存在だけれども、それが何なのかが説明できないものは、デフォルメされてキャラクター化し、神となっています。
その為、人間の魂とは何なのかというのを究極レベルで考えていくと、それは結果として、神について考えることと同じことになってしまいます。

つまり人間の魂と神々は似たようなものと考えることが出来るため、神々は鏡として利用することが出来るということになります。
これらの鏡を利用することで、人は自分の魂について観察し、探求することが出来るようになります。
そして、探求をして『自分自身を知ること』を節度と言います。

では、節度のない人間。つまりは、自分の魂の研究を一切せず、自分が何者であるかもわからないような人間が、自分が所有しているものについて『これが悪い、これは良い』と判別することが出来るんでしょうか。
このことについては、次回に考えていきます。


参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第70回【財務・経済】固定長期適合率

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固定比率の計算式


今回も、財務分析で長期的な安全性を測るための指標を紹介していきます。
今回紹介するのは固定長期適合率です。
この指標は、前回に紹介した固定費率の計算式に少し変化を加えただけのものとなります。

その為、固定費率が分かっていなければ今回の話の理解もしにくいと思いますので、まずは前回紹介した固定費率の復習を行っていきます。
まず固定費率の計算式ですが、これは【固定資産÷純資産】で計算されます。
この式の意味合いとしては、固定資産というのは基本的には利益を生まない資産として固定されているものなので、この固定資産分のお金は純資産として持っておいた方が長期的には安全ですよねという感じで作られたようです。

固定資産の考え方


固定資産が利益を生まないというのは、例えば土地などで考えてみれば分かりやすいと思います。
例えば不動産屋のように、土地を転売したり貸し出したりして利益を得ているような会社であれば、不動産は利益を生み出す大切な商品となるので少し意味合いは変わってくるのですが、それ以外の大半の業種が持つ土地は何の利益も生みません。
例えば卸売会社が自社で取り扱う商品を置くために倉庫を所有していたとすると、その土地部分と減価償却されていない建物部分は固定資産として固定されてしまいますが、ではこれが具体的に利益を生み出しているかと言われれば生み出してはいません。

むしろ、土地を保有することで毎年固定資産税を取られてしまうので、会社の利益は圧迫されてしまいます。
ここで『仮に土地を持っていなければ誰かに借りなければならないんだから、そうすれば家賃が発生してしまう。自社で倉庫を持っていれば家賃が必要ないのだから、実質利益が出る!』という反論をしたいという方もいらっしゃると思います。
しかし、会社の利益というのは売上からコストを引いて計算するため、本来なら支払わなければならないはずのお金を節約できたから利益が増えるなんてことにはなりません。

『家賃の支払い分だけコストが下がるのだから、結果として利益は上がるはず!』という反論もあると思いますが、仮に、この会社が自社で土地を買って建物を建てなかった場合、この会社はその分の資産を現金として持つことになります。
その現金を別の事業に投資していれば、更に大きな利益が得られていた可能性もありますので、その可能性も計算に含むとすると利益が得られるとは考えません。
ここで、『事業に投資したところで、支払家賃以上の金なんて稼げるはずがない!』という反論も出てくると思いますが、そういう方は、本業を辞めて不動産業を始めたほうが良いです。

そもそも会社というのは、貸借対照表の負債の部にあるお金を運用して利益を上げるというのが役割です。
その運用方法の一つとして『事業を行う』というのがあり、製造業であれば製造を行い、サービス業であればサービスを行って利益を上げるわけです。
その製造やサービスの対価として得られる利益が、不動産の家賃に負けてしまうほど利益率が低いのであれば、そんなサービスは辞めてしまって、全額を不動産投資に回して不動産業として事業を行っていく方が良い事になってしまいます。

不動産投資の運用で得られる利益率はだいたい5%前後と言われていますが、製造業やサービス業をして利益が5%にも達しないのであれば、辞めてしまって不動産投資に集中した方が良いということです。
このようにして考えると、不動産などの固定資産は持っていることで利益を生まない資産と考えることが出来るので、その固定資産は、返済義務のない純資産で賄われていたほうが望ましいと言うのが固定費率の考え方です。

固定長期適合率の計算式


これが固定費率の考え方だったのですが、今回紹介する固定長期適合率では、計算式が少し違います。どのように違うのかというと、分母が純資産ではなく、『純資産+固定負債』となっています。
分母が固定負債の金額ぶん大きくなっているため、無借金でもない限り、先ほど紹介した固定費率よりも出てくる数字は値としては小さくなります。
この固定長期適合率も、100%以内に収まっているのが望ましいとされています。

固定資産の種類


では何故、固定負債を足し合わせるのでしょうが。 これは、固定資産の内訳を見ていくと理解しやすいと思います。
固定資産には、先ほど紹介した土地といった利益に直接結びつかないような資産もありますが、これがないと利益を生み出せないといった固定資産も存在します。
わかり易い例で言えば製造機械などの設備です。 製造業で全ての工程を手作業で行うといった仕事でもない限り、生産工場では何らかの製造機械を導入しているはずです。

その製造機械がなければ、利益の源泉となる売上を上げるための製品が作れないので、この固定資産は事業を行う上では絶対に必要なものといえます。
そしてこの製造機械は、多くの会社が銀行から借金をして購入します。 この銀行の借金は返済期限が1年以上にわたって続くものが多いため、貸借対照表には固定負債として記載されます。
この場合、借金をして機械を購入するというのは、固定負債を増やして固定資産を購入していることになるため、この投資に限定して見てみると、増える固定負債と固定資産はほぼ同額ということになります。

そして事業計画がしっかりしている場合、この固定資産と固定負債は同じように減少していくと考えられます。
何故かというと、まず固定資産から見ていくと、購入した製造機械は毎年減価償却を行っていき、その金額分だけ固定資産は減少していきます。
一方で固定負債は、毎月ローンを返済するわけですから、毎年返済分だけ減少していくことになります。

減価償却の金額とローン返済額はだいたい似たような金額になると思われるので、この投資の場合は固定資産と固定負債は同じように減少していくことになります。
何故この様な関係になるのかというと、減価償却の基本的な考え方としては、例えば償却期間を10年とした場合は10年で機械を使い潰すことになります。
10年で機械を使い潰すということは、機械の購入費を10で割って、その金額をコストに組み入れるということです。 つまり、製品の製造単価を出す際には、その金額を含めて原価計算しないと駄目だということです。

そうしなければ機械の購入費用が捻出できないので、当然と言えば当然ですよね。
例えば機械が1000万円で10年で使い潰す場合は、その機械の年間のコストは100万円です。 その機械を使って年間10万個の製品を作って販売する場合、製品1個あたりに機械の償却費として10円分のコストを組み込む必要があります。
これをしなければ、10年後に機械が壊れた際に機械を書い直すことができなくなります。 この1個10円のコストというのは、製品が売れれば回収されるわけで、その回収した金を返済に回せば、無理のない返済ができることになります。

これが物凄く単純化した設備投資と減価償却と返済の流れですが、この様な無理のない事業計画を立てれば、基本的には機械などの減価償却が発生する固定資産と固定負債の金額は同じ様な金額となります。
これが、純資産に固定資産を足し合わせている理由と考えられます。

固定長期適合率の考え方


つまりこの固定長期適合率というのは、固定資産を大きく2種類に分割し、減価償却が発生しないような不動産などの固定資産に関しては純資産でまかない、機械などの設備投資といった減価償却がある固定資産部分については、固定負債で賄うのが望ましい。
それらを2つ足し合わせると、固定資産を固定負債と純資産を足し合わせたもので割って値を出すという計算式になります。

ここで、『固定負債は毎年返済していくんだから、この固定長期適合率では毎年分母の方が小さくなる。 その為、ローンを返済するほど安全性が低くなるのではないか?』と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…
事業がまともに行われていれば、そんな事にはなりません。 というのも、何度も繰り返すことになりますが、企業というのは貸借対照表の負債の部に記載されているものを、資産の部にあるもので運用して利益を上げる為に存在しています。
その運用がしっかりと行われているのであれば、毎年利益が発生します。 その利益は最終的には貸借対照表の純資産に組み込まれることになるので、企業が利益を出し続けていれば、純資産は増え続けることになります。

先程も少し説明しましたが、固定負債で調達して購入した機械の代金は、コストとして商品価格に上乗せされて回収されることになります。
そのコストを差し引いて残ったものが利益となるため、利益が出ているということは、固定長期適合率の数字は小さくなることを意味します。 何故なら、固定負債の減少額と同程度に固定資産も減少するからです。
固定資産と固定負債が同程度で減少する中、純資産が増加するわけですから、基本的には固定長期適合率の値は小さくなります。

もし、この値が大きくなるということは、赤字が出て純資産が減少しているということになるため、事業計画が狂ってきている事が考えられますし、赤字が出れば安全性に問題が出てくるのも当然といえば当然ですよね。
その他には、減価償却のない不動産を借金して購入し、返済が進んだというケースもありますが、こちらも本当にコストの圧縮ができていれば利益が出て純資産が増えているはずです。
にも関わらず固定長期適合率が高くなるということは、資産の運用効率が悪いということになるので、事業を見直すきっかけにすべきでしょう。

ということで固定長期適合率の話はこれぐらいにして、次回は負債比率についてみていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第145回【アルキビアデス】堕落への対抗策 前編

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必要なのは討論


今回も、対話篇『アルキビアデス』を読み解いていきます。
前回は、人の本質とは見た目の美しさや持っている財産、社会的地位などではなく、魂だという話をしました。
魂というのは、人が何か行動を起こす際に行う決断と考えてもらって良いと思います。

人がどこかに出かけようと思う場合、大抵は目的地や行うことを決めた上で行動を行います。
例えば、『食材がないので買いに行こう』だとか、『何もすることがないので暇だから、気分転換に外に出よう』といった具合に、人はまず決断をしてから行動を起こします。
その決断を下す主体のことを、魂と思ってもらって良いと思います。

ソクラテスの主張によると、この世に存在するものは、物質や概念的なものを含めて、それらを全てより良くするための知識や技術が存在するようです。
その理屈を人間の本質にも当てはめるのであれば、仮に人の本質が魂であるのなら、人間としてより良い存在になるために必要なのは魂を磨くための知識や技術となります。
では、その技術とは何なのかというと、大雑把に言えば、魂を磨くための技術や知識を探求している人達と討論をすることです。

人の考えや行動というのは、他者との対話によって変化します。 例えば、自分よりも優れていると思われる人からアドバイスを貰ったり、討論をした結果、自身が行動を変えるべきだと納得した場合、人の行動は変わります。
先程も言いましたが、人の行動というのはまず最初に決断をすることによって決まるわけですから、討論によって人の行動が変わるということは、討論によって決断をするプロセスに何らかの変化があった事が予測されます。
この決断に関わるプロセスそのものを魂と呼んでいたわけですから、これに変化を与えることが出来る討論というのは、魂を磨く行動と捉えてもよいのでしょう。

対話相手


しかし討論相手というのは誰でも良いのかといえば、そんな事はありません。 相手は、人の魂をより良い方向へと導く方法を探求している人に限られます。
仮にそれらのことを一切考えたことがないような人物。ソクラテスに言わせれば大半の一般大衆がそれに当たりますが、その人達と討論をしたところでより良い方向へと進む道は見つかりませんし、何なら魂が堕落してしまったりもします。
魂が堕落するとは、人間の本質がより悪い方向へと劣化してしまう事を意味しています。

討論にはこの様な性質があるため、ソクラテスは、アルキビアデスのように政治家を志す人間は特に、この事を肝に銘じて置かなければならないと注意します。
なせ、政治家になろうとする人間は特に気をつけなければならないのかというと、悪意を持った人間が周りに集まってきがちだからです。
政治家というのは、国のシステムを作ったり変えたりする仕事です。 その為、政治家の行動によって損失を被ったり、逆に大きな利益を得たりする人達も出てきます。

こういった人達は自分の立場を有利にするために、力が有ったり有望だと思える政治家に擦り寄り、様々な事を言ってきたりします。
しかし、そうして寄ってくる人たちの多くは人間の本質について考えたこともありません。そういう人達が興味を持つのは、自身の欲望を満たすことであったり、その欲望を満たす手段である金を得ることだったりします。
もちろん、政治家に近寄ってくる人達全員が、自分のことだけを考えているサイコパスということはないでしょう。 現状の国の問題点を指摘して、今必要なことをやってくれと陳情にやってくる人もいると思います。

ですが割合としてみると、人間の本質について探求し、『人がどうすればより良い方向へ進んでいけるか』を考えている人は極少数でしょう。
また、市民のことを考えて陳情にやってくる人たちも、人間の善悪について真剣に討論したことがあるのかといえば、していなかったりするでしょう。
この事を予めわかった上で彼らと接するのであれば、彼らと対話をしたとしても予防線を張れるために魂の劣化は防げますが、この事を知らない状態で彼らと対話し続けてしまうと、自身の魂も劣化してしまいます。

堕落への対抗策


ソクラテスは対話篇の中でこの事を解毒剤と表現し、それさえ持っていれば毒の中に飛び込んだとしても助かる見込みはあるとしてアルキビアデスに説明しています。
これは今風に言えば、伝染病に対抗するためにワクチンを打つようなものでしょう。何の対策もせずにいれば、悪人から魂が劣化するような話を聞かされて自身も悪人へと変化してしまう。
しかし、事前に『この世の大半の人間は人間の本質について考えたことがなく、そんな彼らが良いと主張するものは人間の本質には全く関係のないものだ』という考えをワクチンとして自分の頭の中に入れておけば、彼らからの汚染は防げるというわけです。

自分自身を見る


ではアルキビアデスは自らの魂を磨くために、誰と対話を行えば良いのか。
彼の目の前にはちょうど、善悪を見分ける知識について人生をかけて探求しているソクラテスがいるので、アルキビアデスにとっては彼と話すのが良さそうです。
ということでソクラテスとアルキビアデスは、魂の磨き方について対話していくことになります。

ソクラテスはまず、デルポイという神からのお告げを聞く神殿にある石に書かれた文章を紹介します。
そこには、『あなた自身を見ろ』と書かれているそうですが、その文章が自分の魂を磨く方法を考えるヒントになるのではないかと主張します。

『あなた自身を見ろ』という言葉をストレートに受け止めるのであれば、鏡を覗き込む行動がこれに当たります。
人間が何らかのものをより良い存在に改良しようと思うのであれば、まず、その対象をよく観察する必要があります。
これは人間自身にも当てはまり、自分という存在をより良い状態に改良しようと思うのであれば、自分自身を観察しなければならないということになります。

しかしこれまでの話の流れで、本当に鏡を覗き込んだとしても意味はありません。 何故なら、人間の本質とは目で見えるものではないからです。
自分を鏡で見て映し出される外見というのは、肉体であったり衣服であったりするわけですが、これらは人間の本質ではありません。人間の本質はその内側にある魂です。
その為、魂を改善・改良するためには、魂を映し出す鏡が必要となります。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第144回【アルキビアデス】人の本質は魂 後編

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人の魂を愛する


例えば、ギリシャの中でもトップレベルの美貌を持つ彼に対して、誰かが恋心をいだいて近づいてきたとしましょう。
その者が、彼の人間としての本質ではなく外見のみに注目して近寄ってきている場合、アルキビアデスが年老いたり、中年になって太りだしたりして醜くなってしまえば、その者はアルキビアデスの元を去っていってしまうでしょう。
別のものが、アルキビアデスの持つ財産に注目して近づいてきた場合、彼が事業で失敗するなりして破産してしまえば、これまた彼の元からは離れていくでしょう。

しかし、近づいてくるものがアルキビアデスの人間としての本質、魂に惚れ込んで近づいてきているとすればどうでしょうか。
この者は、アルキビアデスが良い存在であろうと魂を磨き続ける限り、決して離れることがありません。
仮に彼の外見が崩れようと、金や地位を失おうと、そもそも、相手はそんなものに引かれていないので、それらを失ったとしても離れてはいきません。

この者が離れていくことがあるとすれば、魂を磨く行為をやめて堕落していったときのみです。
では、どういった状態になれば、魂は堕落してしまうのかというと、民衆たちと関わることによって魂は堕落していきます。
なぜ民衆たちと関わると堕落するのかというと、彼らは人の本質を良くするという点においては何の努力もしていないからです。

善悪を知った気になっている民衆


この事は、この対話編でもそうですし過去に取り扱った対話篇でも頻繁に出てきましたが、大半の民衆というのは、良い悪いという基準を勉強したことも自分で見つけ出そうと必死で考えたこともないにも関わらず、知っている気になっています。
知っている気になっているので、当然のようにこの事について勉強しようなんて思いませんし、なんなら『あなたは善悪の区別がつかないんじゃないの?』なんて指摘されれば、多くの人が気分を害するでしょう。
なぜ気分が悪くなるのかといえば、善悪の見極め方を知っていると思い込んでいるからです。 しかし大半の民衆は、何が善で何が悪かなんてそもそも考えたこともないわけですから、当然、善悪の見極め方なんて知りません。

善悪の基準がわからない人間は、当然のように良い人間への成り方なんてものも知りません。何故なら、善悪の区別がつかないのに良い方向なんてわかるはずがないからです。
では、一般市民達がどの様な基準で話しているのかというと、これはアルキビアデスが前に主張したとおり、自分にとっての損得勘定で動いています。
つまり、自分にとって都合が悪いことは悪だし、都合の良いことは善だと言っているだけです。

魂を磨くための行為


では逆に、魂を磨くための行為とは何なのかというと、善悪の基準や人の本質については知らないということを認め、そのことについて探求しているものと対話することです。
人の本質とは魂で、その魂とは決断を下す意志だと先程言いましたが、この意志は、人の説得によって揺らいだり変わったりします。
この対話編でもアルキビアデスはソクラテスに指摘される度に自分の主張を変えていき、最終的には自分の無知を認め、善悪の基準や人間の本質について興味を持ち、探求しようとしています。

この様に、問題に対して真摯な態度で挑むものと対話を行うことによって、自分も問題に対して真摯に向き合えるようになり、結果として良い状態に近づくことが出来ます。
ここで言う良い状態とは、善悪について考えることが出来るということを意味しています。
自分が知識がないにもかかわらず知った気になっているために勉強をしない状態と、自分の無知を認めて勉強をする状態、どちらが良いかを比べると、勉強をしている状態のほうがマシな状態と言えるからです。

もしかすると、自分の無知を認めてた上で、人生をかけて善悪や人間の本質について探求する道を選んだとしても、真実には到達できない可能性もあります。
というよりも、ソクラテスの時代から約3000年たった今でも、これらのことについては明確な答えが出ていないわけですから、人間1人分程度の寿命を使って死ぬまで考えたとしても真実には到達できない可能性のほうが高いでしょう。
それでも全く何も行動しないよりかは、何らかのアクションを起こした方が少しは真実には近づけるでしょう。

魂の美しさを見定めようとする者は少ない


この様に、人は良い人間になろうと懸命に努力している人間と対話をすることによって、自分自身も良い方向へと進み出すことが出来ます。
しかし、先程から繰り返しいっていますが、人間の本質や、その本質をどうすれば良い方向へと導くことが出来るのかを日々探求している人間というのは、ごく少数です。
これは、今現在の状況を見てみてもよくわかると思います。

わかり易い例でいえば、マッチングアプリで結婚相手を探す際に一番優先されるのは、男性であれば年収ですし、女性であれば見た目や年齢だったりするでしょう。就職活動をする際には学歴が重要視されることもあるでしょう。
ここまで大きな事柄ではなく、単純に友だちになりたいと言った場合であっても、見た目が良い人や金を持っている人のほうが、単に知り合いを増やすという点においては有利に成るでしょう。
この事から分かることは、世の中の大部分の人は、ソクラテスが言うような人間の本質については、余り考慮していないということです。

先程、例として挙げた年収や年齢や外見といったものは、ソクラテスが人間の本質では無いと否定したものです。
つまり、それらを持っていたからといって人として優れているとは限りませんし、良い人間とも限らないわけです。

本質を見極めることの重要さ


もし彼らが悪人であるなら。つまり、金は持っているけれども人間の本質としては悪。 もしくは、外見は良いけれども人間の本質としては醜い者である場合は、彼の外見や金に惑わされて近づいていくと、不幸になってしまいます。

何故なら、悪人とは周囲の人間に害悪を撒き散らして、不幸にしていく存在のことを指すからです。
逆に言えば、自分自身が幸せになろうと思えば悪人から距離を取る必要が出てくるわけですが、悪人たちは悪人たちで、不幸にするための人を引きつけるために様々な偽装をして、人々をおびき寄せようとします。
例えば、『人間の本質』について考えたことがない人たちが良いものだと信じて疑わない、財産や学歴や社会的な地位を持っていると偽装することで、無知な人達をおびき寄せるわけです。

では何故、悪人はわざわざそんな労力をかけてまで人々を引きつけて不幸にしていくのかというと、そうすることが自分自身の人生にとって良いことだと信じているからです。
例えば、現在でいうと迷惑系youtubeなんてものがいますが、何故、人に迷惑をかける様を動画で撮って全世界に公開するのかというと、ネットで自ら炎上を起こすことでフォロワー数が増えるからです。
人は良くも悪くも、知名度さえ上がってしまえば注目をさらに集めやすくなるため、フォロワー数が増えれば影響力が大きくなります。

マタイの法則って言うんですかね。

マタイの法則


悪目立ちすることで注目されれば、『注目されている人なんだから凄い人なんだろう』と勘違いする人が増えてきて、結果として影響力が大きくなります。
今現在もそうですし、昔もそうだったんだと思いますが、影響力というのはそのまま、社会的地位や金銭に直結します。
youtubeで言うなら、フォロワー数が多ければ多いほど動画の収入アップに繋がりますし、コラボや企業案件の依頼が来れば、更に影響力が増して社会的地位は高くなっていきます。

つまり、最初に他人に迷惑をかけたりだとか、社会的地位や人脈、金を持っていると嘘を言ってフォロワー数を稼いでしまえば、社会的地位や人脈や金はあとから付いてきたりもするわけです。
この方法は、誰がやっても成功するなんて事はありませんが、一見するとコツコツ働くよりも楽そうなので、挑戦する人達は一定数存在します。
ただ、自分の利益のために他人に迷惑をかけたり嘘を言うことが良いことだと錯覚しているような人達なので、基本的な性質としては悪人です。

そして、悪人と交われば交わるほどに魂は堕落し、自身も悪人になってしまいます。では逆に、魂を磨くにはどうすればよいでしょうか。そのことについては次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第144回【アルキビアデス】人の本質は魂 前編

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それぞれの専門知識

今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、この世に存在するものは全て、それらをより良くするための専用の知識があるはずだという話になりました。

例えば人間というものを想像した際に、人が着ている服をよりよく改良しようと思うのであれば、デザイン知識や裁縫技術といったものが必要となります。
人の肉体に焦点を当てれば、運動やストレッチについての知識やトレーニング技術が必要となりますし、人の体をもっと詳しく見るのであれば、爪には爪の、肌には肌の手入れをするための技術や知識があります。
これは、目で見ることが出来ないような肩書や職業についても同じです。それらをより良くしようと思えば、それぞれ専用の知識なり技術なりが必要になってきます。

人の本質は魂

では、これらの中でどれが人間の本質なのかというと、これはどれでもありません。
というのも人の本質とは何かを探っていくと、人というのは何かしらの行動を起こす際には何かしらの決断を下すことで実行をしますが、その実行に関わるものを考えると、先程あげた肉体や服や肩書とは到底思えないからです。
では人間の本質とは何なのか。 この対話編では、人の決断に関わるような事柄を魂として取り扱っていきます。

この世にあるモノや概念には、それ自体を良くしていく専用の知識や技術があると先ほど言いましたが、人の本質を魂だとする場合、当然、その魂にも良くするための専用の知識や技術があるということになります。
つまり、人の魂を良くするための技術と、人の肉体や、それに付属する財産といったものを良くするための技術というのは違ってくるということです。
何故、この様に人の本質を見極めたり、それを改良するための技術や知識という存在について細かく考えていかなければならないのかというと、ここをハッキリしておかないと正しい答えが出ないからです。

もし人の価値が財産の量で決まるなら

前回に挙げた例で説明すると、もし人間をより良い存在にしてくれるものが、財産やそれを稼ぎ出すための能力だと言う話になってしまえば、人々はお金を手に入れるためにあらゆる事に手を染めてしまうでしょう。
真面目に働く事で金を稼ごうと思うのであれば良いですが、普通に考えれば働いて金を稼ぐよりも、誰かが働いて貯めたお金を奪い取るほうが手っ取り早いので、詐欺や強盗といった事が頻発することが予測されます。
『例えが極端すぎるだろ!』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、財産の額のみが人の価値を測る尺度であるのなら、この例えは極端すぎる考えではありません。

『何故なら、財産は真っ当な方法で真面目に稼がなければならない』なんて条件はどこにも付いて無いからです。もしこの条件付を行う場合は、結果としての金よりも稼ぐ手段の方が重要だということになりますから、前提が崩れてしまいます。
このような感じで、金の代わりに別のものを当てはめて行くことで『人間の本質とは何か』というのを考えていくと、わかりやすいかもしれません。

もし『見た目の美しさ』=『人の価値』なら

例えば財産の代わりに見た目の美しさを当てはめて考えてみるとどうなるでしょうか。
見た目の美しさを磨くことが人間の本質の上昇に直接つながると考えるのであれば、人の生活の全ては外見を磨くことに向けられるべきだということになります。
働く場合は美容関係や服飾関係で働くのが良いことになりますし、そこで得られた給料は全て、自分の見た目を美しくするために使った方が良いです。

本を読む場合はファッション雑誌を読むのが一番良いということになりますし、結婚相手を探す場合は、とにかく見た目の良い人と結婚するほうが良いということになります。
何故なら、幸せになるためには良い人と一緒に暮らすのが一番良いからです。 人間の本質が『より美しくあること』であるのなら、良い人とは美しい人ということになるので、外見的に美しい人と一緒にいることで幸せになれることになります。
もし子供が生まれれば、その子供には美しく成る事を目指すように育てるべきです。何故なら、美しくなることこそが人の価値を上げて人を幸福へと導いてくれるからです。

この様な世界観では、醜く生まれてしまえばそれだけで、不幸が確定してしまいます。 その為、醜く生まれたものは整形をするなり何なりして、見た目を美しく変える必要が出てきてしまいます。
人が生まれる状態というのに注目して考えてみると、生まれながらに目が見えない盲目の状態で生まれてしまえば、その子供はかなり不利になるでしょう。というのも、自分の目で美しさというの観察し、学習できないからです。
自分がどの様な姿形をしているのかが確認できませんし、服や仕草なども目で見て確認することが出来ませんので、美しさを探求することができなくなってしまいます。

このたとえ話の前提では見た目の美しさが幸福に直結するわけですから、目が見えない為に見た目の美しさを追求できないということは、幸福に成るための探求や努力をすることが出来ないということを意味することになります。
幸福に成るための努力や探求が出来ないということは、その者が幸福に到達することは出来ないということを意味します。
ソクラテスは、人は幸福に成るために生まれてきたといった感じのことを言っていますが、頑張っても幸福になれないのであれば、生まれてきた意味がないことになってしまいます。

人は手持ちのカードで勝負するしか無い

では、実際の世の中はそうなっているのかというと、そうとは言い切れません。
私は目が悪いですが眼鏡をかければ普通に見える程度の視力なので盲目の方の気持ちはわかりませんが、あの方たちは目が見えなければ見えないなりに、独自の方法で幸せになれる方法を探し出して実践しているのではないでしょうか。
この世界は目が見える人のほうが圧倒的に多いので、目で見るタイプの娯楽がかなり多い状態です。盲目であればそれらを楽しむことは出来ないわけですから、楽しめることが減ることは確かでしょう。

しかしだからといって、生まれてこなければ良かったと言ってしまえるのかというと、そんな事も言えないでしょう。 人は手持ちのカードで勝負するしか無いので、人が幸福を求めるのなら、与えられたもので精一杯、幸福を追求するしかありません。
この様に、人間の本質は何なのかというのを定義し、その本質をより良くするためにはどの様な知識や技術が必要なのかを理解し、その知識や技術を突き詰めていった先に幸福があるのか無いのかを考えていくと、問題がわかりやすくなると思います。

人間の本質

では、人の本質とはなんなんでしょうか。 それを明確に言い当てることが出来て、それをより良くするための知識や技術がわかれば良いのですが、ソクラテスはその答えを持ち合わせていません。
しかし正解を推測することは出来るので、彼は人間の本質を『魂』だと予測します。
魂だけでは分かりにくいので補足すると、人間は行動を起こす際にはまず決断をして、その後で行動を起こします。この意思決定する存在のことを魂と呼んでいます。

人間は無意識の中で、本能のみに従って行動しているわけでは無いと思われます。
ソクラテスは、人と動物との間に差があるのなら、それは理性の有無だと別の対話篇で言っているので、人は本能に従って動くのではなく、理性によって本能を抑え込んだ上で考えて行動していると思われます。
その『考えて決断をする存在』のことを、彼は魂だと表現しています。 そして、この魂を基準にして考えることが重要だとソクラテスは主張します。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第143回物事には全て『良くするための技術・知識』がある 後編

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人間の本質は『魂+肉体』なのか?


ここで、人間は肉体と精神を切り離すことは出来ず、肉体に精神が宿ってはじめて人間だと考える方もいらっしゃるでしょう。
わかりやすく少しオカルト的に考えて、人間の魂が幽霊のような形で肉体から分離できるとした場合、『分離された肉体はただの物体で、純粋な魂部分である幽霊の方が人間だ』とは考えにくいですからね。
肉体部分と魂部分が重なり合って、一つになった状態こそが人間だと考える方が出てきても不思議ではありません。

しかしソクラテスは、そんな考えを否定します。何故なら先程も言ったとおり、肉体は魂によって支配される道具だからです。
人間の本質とは意思決定をして肉体を支配するものです。その肉体を支配すべきものの一部が肉体だというのは、筋が通っていません。
というのも、これを認めてしまうと、肉体は自分自身を支配している存在という意味不明な状態になってしまうからです。

支配するとは、他のものを自由自在に動かすことが出来る状態のことで、支配されるとは自由を奪われて命令されることと解釈できますが、そうすると、支配する側と支配される側とは別々のものでなければなりません。
肉体そのものが肉体の支配権を持っている場合、肉体は何者にも命令されない自由な存在となってしまうわけですから、これでは支配されている状態とは言えなくなってしまいます。
つまり、肉体を支配できるのは肉体以外のもので、肉体の決定権は魂が持っていると思われるため、支配者は肉体と魂が合わさったものではなく、魂のみとなります。

ここでは断定的に言いましたが、これは確定事項ではありません。 真実を知らないソクラテスたちに推測できるのはここまでなので、仮説として人間の本質とは魂だと定義しようということです。
というのもソクラテスもアルキビアデスも、人間の本質とは何かという答えを知りませんので、知らない者同士で話したところで真実の答えに辿り着いたかどうかは判断が出来ません。
なので、一応の答えとして、『人間の本質とは魂だ』としているだけだという点に注意してください。

人を良くする技術


さて、仮に人間の本質が魂だとしましょう。 この場合、人が良くなるとは人の魂を良くする事と言い換えることが出来ます。
先程、服や肉体を良くするためにはそれぞれ専門の知識や技術が存在するという話をしましたが、そうすると同じ理屈から、人の魂を良くするための技術や知識が存在するということになります。
そして当然の流れとして優れた人というのは、その技術や知識を持つものとなります。

この視点でもって人々の行動を観ていくと、今までと違った風景が見えてきます。
例えばアルキビアデスは古代ギリシャの中でトップレベルの美貌を持った人間ですが、人間の本質は肉体ではなく、当然のことながら顔の造形ではありませんので、これが優れているからといって優れた人間とは言えません。
当然のことですが、体の見栄えを良くするための技術であるとか、化粧の技術の上手さであるとか、病気などの人の体の悪いところを治すための知識や技術を持っていたとしても、それは優れた人間ではないということです。

またアルキビアデスは、自分は太い実家を持っているため、財産を多く持っていると自慢していましたが、金や土地といった財産は自分の肉体ですらなく、自分とは全く関係のない単なる物質であるため、人間の本質とは全く関係がありません。
むしろ、財産を築き上げる能力に優れたものや、その能力を身に着けようと必死になっているものは、自分の本質とは全く関係のないものに対して夢中になっているため、自分磨きをおろそかにしている可能性すら出てきます。

ゴールを明確にする


これは仕事などでも同じです。現在では、仕事ができる人というのは優秀な人と言われますが、この理屈に当てはめれば、仕事ができる人というのは仕事に配慮することに特化している人でしかありません。
仕事に配慮する事と人間の本質に配慮する事は別のことなので、仕事ができるから人間も出来ているのかというと、それは全く別の話となります。

誤解のないように言っておくと、立派な人間は仕事が全くできなくて良いとか、知識や運動能力が全く必要ないと言っているわけではありません。
人の魂を磨く技術をみにつける上で運動が必要になることもあるかもしれませんし、知識や技術が必要になることもあるかもしれません。
しかし仮にそうだとして、それは魂を磨くための過程で必要になるものであって、それを身につけることそのものが目標になるわけではありません。

自分が向かうべき最終目標も見えていない状態で、それを探そうともせずに別の能力や知識を身につけるために躍起になるという行動は、『魂に配慮する』という観点から見れば意味はないということです。
重要なのは、まず、人の魂が最終的にどの様な状態になっているのが理想的なのかを一生懸命に探求することであるということです。

わかりやすく言えば、旅に出かける際に目的地も決まっていないのに、その旅の移動手段である車を買ったり、その車の内装を良くするために夢中になったり、それに多額の金をかけるのは意味がないということです。
一番重要なのは、ゴールまでの正しい道のりを知ることなのにも関わらず、その事を一切考えずに車の世話だけをし続けたとしても、目的地には1ミリも近づきません。
目的地の事を一切考えないままに、なんとなくの思いつきで適当に車を走らせてしまったりすれば、偶然にも方角があっていれば良いですが、方角が間違っていればゴールからはどんどん遠ざかってしまいます。

人間の本質が財産の有無なら


ここまで、同じことを繰り返し何度も言ってきましたが、何故かといえば、それがかなり重要だからです。

例えば、人間の魅力は人が持っている財産だと思い込んだとしましょう。 財産はわかりやすく数字で表されるため、ドラゴンボールで言えば戦闘力の様に他人と比較しやすいものです。
この数値を増やせば増やしただけ人間としての魅力が上がり、人の魂も磨かれていくと勘違いしてしまったとしたら、その勘違いした人は、金を得るために法律を犯してしまったりしてしまうかもしれません。
例えば、強盗や詐欺によって他人が持っている金を奪い取れば、短い期間で多額のカネを手に入れることができます。

その金の量がそのまま人間の魅力となるのであれば、地道に勉強したり働いたりしてお金を貯めるよりも、他人を騙して掠め取れる人物のほうが優れた人物となってしまいます。
また、金を持っている量がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、人と結婚をする際には、相手の年収だけを見れば良いことになります。
何故なら、多くの金を稼ぎ出せる人間は優れた人間であるわけですし、優れた人間は関わるものを幸せにしてくれるはずなので、幸せになろうと思うのであれば、年収の高い人を探し出して結婚すれば良いこととなります。

また逆にこの価値観では、金を持っていない人間は悪とされてしまいます。
例え、人生の大半をボランティアや慈善活動に捧げていたとしても、その行動で対価を受け取らずに自身が貧しい状態であるのなら、その人間は悪だということになります。
何故なら、その人間は金を稼げていないからです。 財産の金額がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、金を持っていない人間はそのまま悪い人間となってしまいます。

もし、この様な価値観が世界に広まったとしたら、世界はかなり殺伐とした感じになってしまうでしょう。
無償で人の為に働く人間は馬鹿にされますし、その結果としてあまり金を持っていなければ、人として見下されます。
自分に接してくる人は皆、自分から金を奪うことだけを考えています。

もし、この様な世界になったとしたら、心が休まらないのではないでしょうか。
では、人間の本質とはどのようなものと考えられるのか、このことについては次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第69回【財務・経済】固定比率

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短期の財務分析


これまでの3回で、短期の財務分析について紹介して行きました。
どのようなものがあったのかを簡単に振り返ると、流動資産を流動負債で割った流動比率流動資産から流動負債を差し引いた正味運転資本
流動資産から商品在庫である棚卸し商品を差し引いたものを流動負債で割った当座比率、現預金に売買目的有価証券を足したものを年間売上の12分の1で割った手元流動性比率などがありました。

これらの財務分析についてのより詳しい説明については、第67回~68回をお聞きください。
先ほど紹介した財務分析は、冒頭でも言いましたが短期の財務分析で、主に企業の短期の安全性について見ていくものでした。
それぞれの指標の共通点としては、数値が高いほどに安全性は高くなるけれども、高すぎると資産を有効活用できていないということを示していて、一定範囲内にとどまっていることが推奨されているものです。

これらの分析では、主に1年以内に変動する数値を用いて計算をするため、出てくる数字も1年以内といった短期的なことしかわかりませんでした。
しかし企業の活動は1年といった短い期間で行われるわけではありません。 もっと長期的なスパンで行われます。
以前にゴーイング・コンサーンという考えを紹介しましたが、期間限定のイベントに関連する事業でもない限り、永続的な活動を目指すのが企業です。

その為、財務分析としても長期的な目線でも見ていくことが重要となります。 そこで重要となってくるのが、今回から紹介していく長期的な分析です。

固定比率


まず最初に紹介するのが『固定比率』です。 この固定費率は、固定資産を純資産で割ってだします。 この数字は小さければ小さいほどよく、100%を下回る数字になれば固定資産は全額が純資産で賄われていることになるため、安全といえます。
固定資産というのは、機械や設備、土地建物や、この先1年以上売る予定のない有価証券のことだと考えてもらえばよいです。
純資産というのは、資産から負債を差し引いた差額のことで、経営者の持ち分となります。 株式会社の場合は、この部分が株主から調達したお金と考えることも出来ます。

純資産とは


この純資産は返済義務がないお金です。 義務がないため『返済しろ!』と催促されることはありません。
この純資産で固定資産を割ると言うことは、固定資産がどれぐらい返済義務のない資金で賄われているのかを測るという事になります。
固定資産というのは先程も言いましたが、土地建物や機械などの設備、売るつもりのない有価証券のことです。 これらの資産というのは、大きな金額になることが多く、会社の持つ現預金のみで購入できることなんてほぼありません。

土地を買うにしても工場を建てるにしても、そこに搬入する機械を導入するにしても、大抵は借金をすることで資金を調達して購入します。
これは個人で考えてもわかりますが、マイホームを購入する時に全額現金で購入することは稀で、大抵はローンを組んで購入しますよね。
会社も同じで、大きな固定資産投資というのは銀行でローンを組んで購入することが大半です。

借金をしてローンを組むというのは、簿記的に見れば有利子負債で固定資産を購入しているということになるわけですが、この有利子負債というのは名前が示す通り利子がつくことはもちろんですが、それに加えて返済義務のある借金です。
銀行からお金を借りてお金を返さなくて良いなんてことはありませんので、これは当然のことです。
返済義務があるということは、定期的に訪れる返済期限以内に一定の売上を上げ続けなければならないことを意味します。

固定比率とは


この返済の負担がどれぐらいあるのかというのを分析するのが、この固定費率というわけです。
仮に全くお金がない人間が3000万円のお金を10年で返済するという約束で銀行から借金をして、工場を建てたとしましょう。 
わかり易さを優先するために利子を入れずに計算に入れると、3000万円を10年で返済するわけですから、1年で返済しなければならない義務のあるお金は300万円ということになります。

自己資金ゼロで全額借金をして事業をしている場合は、この会社は最低限300万以上の利益を出し続けなければ回していけないことになります。
実際には300万円の利益を上げると、それに応じた税金が徴収するため、それ以上の利益を出さなければなりません。
もし利益がその水準を下回ってしまえば、その会社は返済が困難になってしまいますし、借金を返すために新たに借金をするなんてこともしなければならない状態に追い込まれてしまったりします。

その一方で、自己資金が1000万円あればどうでしょうか。 仮に売上が下がって年間利益が300万円を下回ったとしても、1000万円の自己資金があるわけですから、それを取り崩せば借金が返済できないなんて事にはなりません。
つまり自己資金の額の多さというのは、長期的な安全性につながっているというわけです。
ここで、『返済義務のある借金額と自己資金を比べるのであれば、固定資産ではなく有利子負債額と自己資金とを比較すればよいのでは?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは別の分析方法として存在しています。

固定資産の性質


では何故、わざわざ固定資産と比べて固定費率なんてものを出すのかといえば、固定資産という資産の属性に関係していると思われます。
固定資産というのは、新たに固定資産を買わない限りは基本的には毎年減っていく資産です。 これは前にも減価償却の項目で説明しましたが、固定資産というのは減価償却の額だけ毎年減少していきます。
先程の例で言えば、3000万円を出資して工場を建てて、それを20年の定額法で償却すると仮定すると、毎年150万円ずつ減価償却費という経費が計上されて、その代わりに同じ額の固定資産が減少していきます。

つまり、毎年返済額以上の利益を出すことができれば、固定資産の減少分だけ固定費率は改善していくこととなります。
先程の例で言えば、もし仮に工場が20年を経過してもまだ買い替えることなく使い続けられている場合、この工場の固定資産としての価値は備忘価額の1円になっているため、会社が債務超過になっていない限りは固定比率は確実に100%を下回ります。
これは別の見方をすれば、固定資産というのは前もって一括で支払われた経費と考えることが出来ますから、それ自体は利益を生まない資産と考えることが出来たりもします。

これに加えて固定資産の中には、減価償却が行われない資産もあります。
土地などの資産は価値が動かない不動産であるため、減価償却が行われることはありません。 そしてこの土地というのは、他人に貸し出すか転売するしか利益を得ることは出来ません。
つまり、土地を購入するということは、資金を何の収益も産まない資産に固定してしまうということを意味します。

事業における土地とは


何の収益も産まないものに資産を固定していて、その資産を購入するために借金している状態というのは、基本的には良くない状態なので、この資産は経営者の資産である純資産で賄われていることが望ましいという考え方もあります。
これに対して『土地を持っていなければ、営業のために土地を借りる必要があり、出費が生まれてしまう。 土地の所有はその出費を防いでいるのだから、実質的に収益なのでは?』という反論もあると思います。
ただ、会社経営ではその様な考えはしません。 仮に土地を購入して出費が抑えられるとしても、そこで得するお金というのは家賃分に限定されます。

2022年現在の不動産賃貸の利回りは5%前後で、この値は時代が変わってもそこまで大きく変わることはありません。仮に3000万円で不動産を購入した場合、年間で得をするお金というのは150万円前後だと考えられます。
もし仮に、その3000万円を新規事業に投資することで150万円以上の利益を得ることが出来るのであれば、会社としては土地なんて買わずに新規事業に投資をした方が良いことになります。
つまり、他人の持っている土地を借りて商売をして、年間で150万円以上の利益を出せるのであれば、土地は買うよりも借りた方が得だということです。

こうして考えると、無駄な固定資産を持つことは経営効率上も良くないことを意味します。
その効率の悪い資産は、返済義務のある借金ではなく自己資金で間に合わせたほうが良いというのも、固定比率を考える上で重要なことだったりするようです。
ここ最近では、会社が自社ビルを売却した上で、その元自社ビルを借りて居座り続けるなんて会社もありますが、あれも、無駄な固定資産を売却して固定費率を改善させていると見ることも出来ます。

会社側としては、自社ビル売却によって一時的に多額の現金を手に入れることができるので、それをそのまま別の事業に投資をして家賃以上のお金を稼ぐことが出来るのであれば、そちらの方が利益が得られることになります。
またこの先、技術の進歩によってリモートが進んで広いオフィスが必要ないとなれば、借りているフロア数を減らすという事もできるため、柔軟性が増します。
好景気になって金利が上がり、5%以上の投資商品が沢山出てくれば、それを購入する事で、ビルを所有している時よりも多くの利益を得る事ができる可能性も出てきます。

固定比率まとめ


以上をまとめると、固定資産というのは既に支払いが済んでしまっている経費を資産扱いしているだけなので、その固定資産は一定期間でなくなるため、純資産で賄われていなければならないという理由が一つ。
もう一つは、土地などの持っているだけでは何の収益も産まないものに資産が固定されている場合、その固定資産は借金ではなく純資産で賄われているべきだという理由です。

この固定費率は冒頭でも言いましたが、固定資産を純資産で割って計算されるため、基本的には小さければ小さいほど良いということになります。
しかし小さすぎる場合は、投資に対して消極的だという見方も出来ます。 当然これも、業種によって変わってきます。 製造設備が必要な製造業と、それが必要ないサービス業とで同じ数値で良いなんてことにはなりませんので。
その為これも、業種ごとに比べる必要が出てくる数値ですが、基本的には100%以下であれば安全だと言われています。

ということで固定費率の説明はここまでにして、次回は固定長期適合率について見ていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第143回物事には全て『良くするための技術・知識』がある 前編

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それぞれの専門知識

今回も対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、ソクラテスがアルキビアデスに対して国をよく収めるためにはどの様な状態になっていないと駄目かと質問をしたところ、皆が同じ知識を持っていなければならないと主張します。
しかし実際の世の中を観てみると、会社組織で求められるのはそれぞれの分野の専門知識であって、全体的な知識が求められるわけではありません。

大きな会社の幹部候補になると、いろんな部署をたらい回しにすることで組織の全体像を理解させるなんてことをしたりもしますが、それは全部署の知識を浅く広く取り入れることが目的であって、すべての部署の専門知識を勉強させるためではありません。
最終的にはマネジメントという専門知識を磨くための前提知識として幅広い知識を求められているだけで、現場で働く専門家レベルの詳しい知識が要求されているわけではありません。
この様に、会社組織はそれぞれの専門家によって構成されている、つまりは統治されているわけですが、これでは上手く統治できないのかというとそうでもありません。

むしろ、高い専門性を持つ社員を多く持ち、その専門性を上手く活かす形で組織運営出来ている会社は、全ての社員の能力が中途半端な会社よりも業績を伸ばせそうです。
これは想像しやすい様に現代の例で例えましたが、当時のギリシャでも同じでしょう。国という観点で考えた場合、軍人がやることは体の鍛錬ですし、指揮官がやることは訓練された軍人を上手く動かすことです。
国を構成するためには食糧生産も必要だからと、牛の育て方や農作物の育て方、刈り入れ方を軍の指揮官は学ばないでしょうし、知る必要もありません。

国というのはその他にも、衣服を作るものや家を建てるものなど様々な職業があり、そこに従事している人達はそれぞれの職業に必要な専門知識を身に着けていますが、身につけているのは自分が専門とする知識だけで、他の職業の知識は持っていません。
では、それでは駄目かというと駄目ではないでしょうし、その様な状態では意志の統一が行えないから国民同士は理解し合うことが出来ず、友愛も生まれないのかというとそんなこともないでしょう。
これは自分自身に当てはめてみても分かりますが、人は自分が持たない知識を持つものや、自分にできないことをしてくれる人に対して尊敬の念を抱いたりします。

これは極端に言ってしまえば、全ての人がバラバラの専門知識を身に着けていたとしても、そこには尊敬の念は生まれますし、それを元にした友愛も生まれるということです。
このようにしてアルキビアデスの主張は崩れてしまい、アルキビアデスは無知であるにも関わらず、それを知らずに賢者だと思いこんでいた人間だと言うことが暴かれてしまいました。

物事には全て『良くするための技術・知識』がある

しかしアルキビアデスは他の賢者たちのようにソクラテスを敵視し、論点ずらしをして攻め立てるようなことはせずに、人間の本質について新たに学んでいきたいといった姿勢を示します。

こうした流れから2人は、人間の本質と、どのようにすればそれを良くすることが出来るのかについて考えていくことにします。
まずソクラテスは、漠然とした人間のイメージから人間の本質部分を分離させようと提案します。
何故、そんな事が必要なのかといえば、物事を良くする方法というのは、その対象ごとに変わってしまうからです。

例えば、漠然と人間を想像してみたとしましょう。 その想像した人間は、恐らく服を身に着けていますし、人によっては社会での肩書なども纏っているでしょう。
その人間が纏っている服や肩書というのは、同じ方法では良くすることが出来ません。
服を良くしようと思えば、デザインや裁縫技術の習得が必要になりますし、肩書を良くしようと思うのなら、人に取り入る方法を身に着けなければならないかもしれません。

この様に、なんとなく人間というものを想像してしまうと、そこには余分な不純物が入り込んでしまいます。
見た目至上主義で、ルックスが良ければそれで良いと考えてしまえば、人間を良くするために必要なのは服飾に関する技術や美容に関する知識となってしまいます。
肩書や社会に対する影響力が人間だと思ってしまえば、どの身分で生まれるかや、出世する方法が人間力を磨くために必要だという結論になってしまいます。

人の本質は魂

この様に人間の本質について考えた際に、人のどの部分に焦点を当てるのかで、人間をより良くするための技術が変わってしまうため、人間の本質を正しく見極めることが必要となります。
そのために、ソクラテスとアルキビアデスは人間を構成しているものを一つ一つ上げていき、それは本当に人間の本質なのかを考えていった結果、最終的に人の魂だけが残りました。
この魂というのは霊的なものというよりも、『決断する意志』と考えてもらったほうが良いと思います。

例えば、人はどこかに行きたいと思い、体を動かして移動すると決断するから目的地まで行くことが出来ます。
何かを観た際に『欲しい!手に入れたい』と思うから、人は手に入れるための行動や努力を行います。
人は何も決断を下すことなく行動することは出来ませんし、人の行動の起点となるのが決断であるとするのなら、『決断する意志』であったり『決断しようとする主体』のことを人間の本質と考えるのが自然です。

ソクラテスは、この事を指して魂と言っていると考えられます。

仮に肉体が人間の本質なら

これは、納得がしやすいと思います。というのも、もし人間の本質が、もっと見た目でわかりやすい肉体だとしましょう。この肉体を良くするために必要な知識というのは、トレーニングの知識や医学の知識となります。
例えばボディービルダーや陸上選手、体操選手などは、トレーニング知識を身に着けた上で実践することで、普通の人よりも遥かに優れた肉体を手に入れています。
もし人間を形作っている肉体そのものが人間の本質であるとするのなら、彼らこそが素晴らしい人間で、皆が彼らのような肉体を身につけるために精進スべきだと言うことになります。

また、優れた肉体を手に入れているものが素晴らしい人間であるとするのなら、総理大臣や大統領はオリンピックの金メダリストの中から選べば良いですし、そうすることで皆が幸福になれる世界が作れることでしょう。
しかし、彼らは本当に人として優れているのでしょうか。 確かに、常人には手に入れることができない肉体を手に入れるために鍛錬を行い、それを継続した結果として優れた肉体を手に入れているのですから、その点だけを見れば劣っているとは言えません。
ですが、プロのスポーツ選手で犯罪を行っている者も実際にいますし、禁止薬物に手を染める者もいます。スポーツ選手の暴力事件なんてのも、普通に存在します。

この様に、スポーツ選手の全員が人格者かといえばそんなことはなく、人として駄目だという人も中にはいます。
一方で、スポーツやカラダを鍛えることは苦手だけれども、誰もが尊敬するような人格者という人もいらっしゃいます。
こうして考えると、見た目でわかりやすい肉体というのは人間の本質というよりも、人間の本質である魂に支配された道具でしか無いと考える方がしっくり来るのではないでしょうか。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第142回 肉体は人の本質なのか 後編

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無知の知


次にソクラテスは、アルキビアデスが主張していた前提についてもう一度問いただします。
その前提とは、友愛とは同じ知識を持つ者同士の間でしか生まれないという前提のことです。
ソクラテスは『同じ知識』という言葉を聞いて、知識とは学問に裏付けされた物のこと、つまりは数学や物理学といった理論に裏付けされた物のことだと思い込んで話していましたが、それでは辻褄が合わなくなります。

何故なら、数学だけを極めたものと言語学を極めたものとの間には友愛が生まれてしまうからです。
では、アルキビアデスが前提として国民全てが持っていなければならないとしている知識とは何なのでしょうか。
アルキビアデスはソクラテスからこの質問を突きつけられたことで、自分は知らないことを知った気になっていただけだったということに気付かされます。

しかしソクラテスは、その事に気がついたのは恥ずかしいことではなく、むしろ喜ばしいことだといって慰めます。
これは過去の対話篇でも語られていますが、今まで信じていたことが間違っていて自分が無知だとわかるという事は、これから正しいことを学んでいけるチャンスだからです。
自分が無知であることを知らないままに、知ったかぶりをした状態で生きていくことは気持ちの良い事かもしれませんが、実際には恥ずかしすぎることです。
アルキビアデスは若い内にそれに気がつけてラッキーだということでしょう。

この出来事によってアルキビアデスは、物事の本質について学びたいと思うようになるのですが、しかし、その学び方がわかりません。
そこでソクラテスは、彼に質問を投げかけ、彼がそれに答えることでわからせてあげようと提案します。
ここでやっと、この対話編のコアのテーマである人間の本質について語られていくことになります。

良くする技術


まず最初に、人の本質を見極めるために何に配慮すべきなのかということについて考えていきます。
配慮という言葉をネットで調べると『手落ちのない、または、よい結果になるように、あれこれと心をくばること。』という意味が出てきます。
簡単に言えば、より良い状態にするためにはどうすれば良いのかを考える事となりますが、漠然と人間という存在に焦点を当ててしまうと、どこに配慮すれば人間の本質が良くなるのかと言うのがわかりにくくなります。

そこで、焦点を当てるべきターゲットを絞っていきます。まず人間というのを想像して欲しいのですが、多くの場合、想像する人間には様々な要素が重なり合っていたりします。
例えば、人間を想像した際に服を着た人間を想像する方も一定数おられると思います。当時のギリシャというのは見た目至上主義的なところがあったようなので、見た目を着飾るというのも重要な要素の一つだったようです。
その価値観が今は完全になくなっているのかといえばそうでもないため、服装を含めて自分だと考える方が出てくるのも、もっともだと思います。

では、服装というのは人間の本質なのでしょうか。それを考えるために、服装に焦点を当てて配慮していきたいと思います。
配慮とは先程も言いましたが、対象のものをより良くするために考えることですので、服をより良くするためにはどの様な技術や知識が必要なのかについて考えていきます。
服をより良くするために必要な技術となるのは、色の調和を考えるカラーコーディネートやシルエットなどのデザイン。それに加えて、裁縫技術などが必要となります。

良くするためには専門知識が必要


これらの技術や知識が優れていれば優れているほど、生み出される服はより良いものとなります。
装飾品なども同じ様に、デザインと金属加工や宝石加工といった技術を組み合わせることで、より良い装飾品を作り出すことが出来ます。
つまり、身につけるものはデザイン案とそれを実現するための技術を高めれば高めるほどに良い品物が出来上がるということなのですが、これはそのまま、それを身に纏う人の体にも当てはまるのでしょうか。

例えば、私達の手足というのは、デザインの知識と加工技術があれば、より良い手足となるのかといえば、なりません。
人の体は加工することでより良い機能を持たせることは出来ず、性能を伸ばすためには運動をしなければなりません。
運動に関する適切な知識と、正しいフォームと負荷で実際に行われるトレーニングによって、人の手足はより良いものへと変わっていきます。

これは肉体のどの部分においても同じで、肉体を鍛えるためには、適切なトレーニング知識とその実践が必要となります。

肉体は人の本質なのか


では、この手足をはじめとした肉体というのは、人間の本質なのでしょうか。 優れた人間になるためには、筋トレを頑張ればよいのでしょうか。
人というのを単純に捉えれば、肉体というのはイコール自分自身だと思ってしまいがちですが、そうとも言えません。

かなり前に東洋哲学を取り扱った際にも話したのですが、目に写っているもの自体は本質でもなんでもありません。
もし仮に、肉体そのものが人間の本質であるとした場合は、五体満足に生まれた人間しか人間と呼べなくなりますし、何らかの欠損が生じた時点で、それは人とは呼べなくなってしまいます。
例えば、あなたが交通事故に巻き込まれて両足を失ってしまった場合、肉体が人間の本質とするのなら、あなたは自分が持つ本質の約半分を失ってしまったことになります。

しかし実際にはそんなふうには思わないでしょう。車椅子生活になることで性格は若干変わってしまうかもしれませんし、両足という自分の大切な財産を失ってしまったことによって喪失感を味わうこともあるでしょう。
ですが、自分が人間であることは変わらないと思うはずです。
では、肉体はなんなのかというと、肉体も衣服と同じ様に、人が纏っているモノと考えることが出来ます。

人間の本質を良くするためには


この様に、人が認識できるものについては、それぞれのやり方でもってその対象に配慮することが出来ます。
これは目に見えないものも同様で、例えば社会的な肩書を人間の一部だと考える人もいるかも知れません。

それを認識する事ができれば、それをより良くするための知識を身に着けて実践する事で、社会的地位をより良くすることが出来ます。
では、認識できないものについてはどうでしょうか。 これは当然ですが、自分が認識できていないものをより良くすることは出来ません。

この対話編の解説で繰り返し知識の身につけ方について話しましたが、それと同じです。
知識の場合は、自分が身に着けたいと思う知識がこの世に存在することを知り、その知識を自分が持っていない状態であることを理解し、知識を得ようと頑張ることで身につけることが出来ました。
もし仮に、第1段階の『この世にその様な知識が存在している事』を知らなければ、そもそも知識を身に着けようとは思いませんし、そう思わなければ頑張って勉強しようとも思いませんので、知識は身につきません。

認識できていないモノについては、それをより良くするための知識や技術についても分からないですし、必要な知識や技術がわからないということは、それらを身につけることも出来ません。
これはつまり、人間の本質を良くしようと思うのであれば、まずは人間の本質を認識できなければならないということです。

では、人間の本質というのは何なのでしょうか。 自分が身にまとっている衣服でもなく社会的な肩書でもなく肉体でもないのであれば、それらを身につけようと思ったり動かそうと思う精神、つまりは魂だと考えられます。
仮に人間の本質が魂だとした場合、これを優れた状態にしようと思うと必要になるのは魂を良くするための知識であり、それを実践する行動となります。
この後、この行動についてアルキビアデスとソクラテスは考えていくのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第142回 肉体は人の本質なのか 前編

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人を支配する能力


今回も、アルキビアデスの第3部について話していきます。
簡単に第3部のこれまでの流れを振り返ると…
人は勉強や鍛錬を続けることによって優れた人間になることは出来るけれども、だからといって全ての事柄に対して優れた人になるわけではありません。

例えば、物心ついた頃からずっと卓球をしていた人は、仮に世界でトップの選手になったとしても、それは全ての面において優れた卓越した人になったわけではなく、卓球が上手い人になっただけです。
これは勉強も同じで、経済について勉強して知識を身に着けたからといって、その人は真理を得た人になるわけではなく、経済に詳しい人になるだけです。
人は専門の勉強をすることで専門家にはなれますが、全知全能の神になれるわけではありません。

では、人を支配する立場にある支配者層になるためには、どんな知識を修めればよいのでしょうか。
アルキビアデスの主張によると、それは『上手く作戦をたてる能力』のようです。
指導者とは方向性を示し、集団をその方向に確実に導いていくことが主な仕事ですので、その為に上手く作戦をたてる能力というのは、確かに必要な能力のようにも思えます。

では国の方向性とは、どの様に決めるのでしょうか。
例えばスポーツのように勝ち負けがある分野であれば、そのルールの上での勝ち筋を見つけるための技術を磨くだけで方向性が決められます。
しかし、国はどの様な状態になれば『勝ち』の状態になるのでしょうか。 『勝つ』というのを『より良い』と言い換えた場合、国がより良く統治されている状態とはどの様な状態のことを指すのでしょうか。

人が持つ知識はそれぞれ違う


これに対してアルキビアデスは、国民が一つの思想の元にまとまることだと答えます。
皆が異なる思想や考えを持っている状態であれば、その考えの違いから争いが発生してしまいます。
しかし、皆が同じ思想をもとに考えて結果として一つの答えにたどり着く状態を作ってしまえば、互いが互いに考えていることを深く理解できるわけですから、そこに争いはなくなります。

確かに言わんとしていることは理解できますが、では果たして、そんな事が可能なのでしょうか。 本当にその方法で理想的な国家が作り出せるのでしょうか。
仮に私達の身近にある会社などの組織で考えてみたとしても、皆が同じ知識や技術を共有できているかといえば出来ていませんし、出来ていないからこそ発展していたりもします。
例えば、営業の部門の人に会計の知識はないでしょうし、逆に会計の人に営業の知識はないでしょう。

ホワイトワーカーに現場で働くブルーワーカーの知識や技術はないでしょうし、ブルーワーカーに会社をマネジメントして発展させるだけの知識があるのかといえば、それもないでしょう。
組織というのはそれぞれの分野で働く人がそれぞれの専門的な知識を身に着けて、それぞれの分野で能力を上げることで全体としてパフォーマンスを上げることを目指すものです。
全員が同じ知識を持った均一な存在という状態では存在しません。ですから当然、お互いに持っている知識の違いによって軋轢が生じ、争いに発展することもあります。

アルキビアデスの矛盾


すべての人が営業の知識も会計の知識も組織マネジメントの知識も持った上で、現場で働くための技術も持っているというのは理想的かもしれません。
しかし実際には、人の能力には限界があるため、全てを収めようとすると全てが中途半端になってしまいます。

中途半端な人達が集まった組織が市場で生き残れるほど資本主義は甘くないので、こういった企業はいずれ淘汰されてしまうでしょう。
これは国に当てはめても同じで、軍に従事するものは戦闘知識や技術に長けているものがなるべきで、その他の商売やサービスも、それぞれの商品・サービスの専門家が専門店を運営した方が効率が良さそうです。

しかし、先程のアルキビアデスの主張と照らし合わせると、この様に国民がそれぞれの専門分野を極めようとする動きは知識のばらつきを生んでしまうため、これでは国は上手く統治出来ないことになってしまいます。
人がそれぞれの専門性を高めていくことは、現実世界では上手く行っているように思えるのに、アルキビアデスの先程の理論でいうと、上手くいかないことになってしまう。
何故なら彼は、同じ思想の中でこそ互いを理解でき、その状態だからこそ友愛が生まれ、争いのないよく統治された状態が生まれると主張しているからです。

皆がバラバラの知識やスキルを身に着けているような状態では、持っている知識に差ができてしまうために、他人の考えていることがわかりません。
そうなると人は相手のことを理解できなくなり、故に他人を愛することは出来ない。つまりは友愛も生まれなくなります。
しかしアルキビアデスは、人がそれぞれの専門性を高めていたとしても、国は上手く統治できると言い出します。

彼がそう主張する理由については彼自身では上手く説明できないようなのですが、とにかく直感としてそう思ったようです。

違う知識を持つ人は尊敬できないのか


これは先程の会社組織の例を見てみても分かりますが、実際問題として各自が専門性を伸ばした方が効率が良いという実例があるからでしょう。
しかし、単に直感でそう思ったからと言われても、今までの主張をひっくり返した理由がわから無いため、ソクラテスがアルキビアデスに質問をする形で、彼の真意を確かめていくことにします。

まずソクラテスは、専門知識を持つものそれぞれが、自分の専門分野について最善を尽くした際に、そこに正義は宿るのかと問いかけます。
SF作品で有名な攻殻機動隊という作品には、『我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。』というセリフがあります。
このセリフの意味としては、世間でよく使われているチームプレイという言葉は、自分の力が足りない時に他人に頼るための都合の良い言い訳でしかないということです。

しかし、個人個人が仲間に頼らずにそれぞれの専門分野で最高のパフォーマンスを出し合い、結果としてそれぞれの成果が他の者達の穴を埋めることになれば、外から観測すればチームプレイのように見えるという意味合いのセリフです。
仮にこの様な状態が達成されたとして、それは『正しいこと』にはならないのでしょうか。
国民それぞれが、他人には出来ない自分の得意分野で頑張って成果を出したとして、その国民達の間には友愛が生まれないのでしょうか。

仮に自分にしか出来ないことを熟した結果として他人から褒められれば、気分は良くなるでしょうし、それに加えて人間は自分にできないことを出来る人のことを、尊敬したりもします。
その結果として人々は互いに敬意を持つようになり、敬意を持つ人同士の間には友愛が生まれそうです。
こういったことを考えた結果アルキビアデスは、互いに違った知識を持つもの同士の間でも友愛は生まれると改めて意見を変えます。

参考文献