だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第142回 肉体は人の本質なのか 後編

広告

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

無知の知


次にソクラテスは、アルキビアデスが主張していた前提についてもう一度問いただします。
その前提とは、友愛とは同じ知識を持つ者同士の間でしか生まれないという前提のことです。
ソクラテスは『同じ知識』という言葉を聞いて、知識とは学問に裏付けされた物のこと、つまりは数学や物理学といった理論に裏付けされた物のことだと思い込んで話していましたが、それでは辻褄が合わなくなります。

何故なら、数学だけを極めたものと言語学を極めたものとの間には友愛が生まれてしまうからです。
では、アルキビアデスが前提として国民全てが持っていなければならないとしている知識とは何なのでしょうか。
アルキビアデスはソクラテスからこの質問を突きつけられたことで、自分は知らないことを知った気になっていただけだったということに気付かされます。

しかしソクラテスは、その事に気がついたのは恥ずかしいことではなく、むしろ喜ばしいことだといって慰めます。
これは過去の対話篇でも語られていますが、今まで信じていたことが間違っていて自分が無知だとわかるという事は、これから正しいことを学んでいけるチャンスだからです。
自分が無知であることを知らないままに、知ったかぶりをした状態で生きていくことは気持ちの良い事かもしれませんが、実際には恥ずかしすぎることです。
アルキビアデスは若い内にそれに気がつけてラッキーだということでしょう。

この出来事によってアルキビアデスは、物事の本質について学びたいと思うようになるのですが、しかし、その学び方がわかりません。
そこでソクラテスは、彼に質問を投げかけ、彼がそれに答えることでわからせてあげようと提案します。
ここでやっと、この対話編のコアのテーマである人間の本質について語られていくことになります。

良くする技術


まず最初に、人の本質を見極めるために何に配慮すべきなのかということについて考えていきます。
配慮という言葉をネットで調べると『手落ちのない、または、よい結果になるように、あれこれと心をくばること。』という意味が出てきます。
簡単に言えば、より良い状態にするためにはどうすれば良いのかを考える事となりますが、漠然と人間という存在に焦点を当ててしまうと、どこに配慮すれば人間の本質が良くなるのかと言うのがわかりにくくなります。

そこで、焦点を当てるべきターゲットを絞っていきます。まず人間というのを想像して欲しいのですが、多くの場合、想像する人間には様々な要素が重なり合っていたりします。
例えば、人間を想像した際に服を着た人間を想像する方も一定数おられると思います。当時のギリシャというのは見た目至上主義的なところがあったようなので、見た目を着飾るというのも重要な要素の一つだったようです。
その価値観が今は完全になくなっているのかといえばそうでもないため、服装を含めて自分だと考える方が出てくるのも、もっともだと思います。

では、服装というのは人間の本質なのでしょうか。それを考えるために、服装に焦点を当てて配慮していきたいと思います。
配慮とは先程も言いましたが、対象のものをより良くするために考えることですので、服をより良くするためにはどの様な技術や知識が必要なのかについて考えていきます。
服をより良くするために必要な技術となるのは、色の調和を考えるカラーコーディネートやシルエットなどのデザイン。それに加えて、裁縫技術などが必要となります。

良くするためには専門知識が必要


これらの技術や知識が優れていれば優れているほど、生み出される服はより良いものとなります。
装飾品なども同じ様に、デザインと金属加工や宝石加工といった技術を組み合わせることで、より良い装飾品を作り出すことが出来ます。
つまり、身につけるものはデザイン案とそれを実現するための技術を高めれば高めるほどに良い品物が出来上がるということなのですが、これはそのまま、それを身に纏う人の体にも当てはまるのでしょうか。

例えば、私達の手足というのは、デザインの知識と加工技術があれば、より良い手足となるのかといえば、なりません。
人の体は加工することでより良い機能を持たせることは出来ず、性能を伸ばすためには運動をしなければなりません。
運動に関する適切な知識と、正しいフォームと負荷で実際に行われるトレーニングによって、人の手足はより良いものへと変わっていきます。

これは肉体のどの部分においても同じで、肉体を鍛えるためには、適切なトレーニング知識とその実践が必要となります。

肉体は人の本質なのか


では、この手足をはじめとした肉体というのは、人間の本質なのでしょうか。 優れた人間になるためには、筋トレを頑張ればよいのでしょうか。
人というのを単純に捉えれば、肉体というのはイコール自分自身だと思ってしまいがちですが、そうとも言えません。

かなり前に東洋哲学を取り扱った際にも話したのですが、目に写っているもの自体は本質でもなんでもありません。
もし仮に、肉体そのものが人間の本質であるとした場合は、五体満足に生まれた人間しか人間と呼べなくなりますし、何らかの欠損が生じた時点で、それは人とは呼べなくなってしまいます。
例えば、あなたが交通事故に巻き込まれて両足を失ってしまった場合、肉体が人間の本質とするのなら、あなたは自分が持つ本質の約半分を失ってしまったことになります。

しかし実際にはそんなふうには思わないでしょう。車椅子生活になることで性格は若干変わってしまうかもしれませんし、両足という自分の大切な財産を失ってしまったことによって喪失感を味わうこともあるでしょう。
ですが、自分が人間であることは変わらないと思うはずです。
では、肉体はなんなのかというと、肉体も衣服と同じ様に、人が纏っているモノと考えることが出来ます。

人間の本質を良くするためには


この様に、人が認識できるものについては、それぞれのやり方でもってその対象に配慮することが出来ます。
これは目に見えないものも同様で、例えば社会的な肩書を人間の一部だと考える人もいるかも知れません。

それを認識する事ができれば、それをより良くするための知識を身に着けて実践する事で、社会的地位をより良くすることが出来ます。
では、認識できないものについてはどうでしょうか。 これは当然ですが、自分が認識できていないものをより良くすることは出来ません。

この対話編の解説で繰り返し知識の身につけ方について話しましたが、それと同じです。
知識の場合は、自分が身に着けたいと思う知識がこの世に存在することを知り、その知識を自分が持っていない状態であることを理解し、知識を得ようと頑張ることで身につけることが出来ました。
もし仮に、第1段階の『この世にその様な知識が存在している事』を知らなければ、そもそも知識を身に着けようとは思いませんし、そう思わなければ頑張って勉強しようとも思いませんので、知識は身につきません。

認識できていないモノについては、それをより良くするための知識や技術についても分からないですし、必要な知識や技術がわからないということは、それらを身につけることも出来ません。
これはつまり、人間の本質を良くしようと思うのであれば、まずは人間の本質を認識できなければならないということです。

では、人間の本質というのは何なのでしょうか。 自分が身にまとっている衣服でもなく社会的な肩書でもなく肉体でもないのであれば、それらを身につけようと思ったり動かそうと思う精神、つまりは魂だと考えられます。
仮に人間の本質が魂だとした場合、これを優れた状態にしようと思うと必要になるのは魂を良くするための知識であり、それを実践する行動となります。
この後、この行動についてアルキビアデスとソクラテスは考えていくのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献