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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第146回【アルキビアデス】無邪気に人を不幸にする悪人 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

物事を知るには観察から


今回も対話篇『アルキビアデス』に付いて話していきます。
前回の話を簡単に振り返ると、人間が本当に重要視しなければならないのは、人間という存在の外側にある財産や人脈や高い社会的ステータスなどではなく、自分の肉体といった目に見えるものでもなく魂で、その魂を探求する方法があるという話をしました。
どのようにして探求するのかというと、観察です。 どんな分野であれ、物事を詳しく調べようと思うのであれば対象を観察するのは基本中の基本です。それは魂も例外ではありません。

しかし自分の魂というのは、自分の目で直接観察できるものではありません。 これは魂に限らず、観察したいものを観察したいもので観察するというのは不可能です。
例えば人間の目というのは、外の世界を観察するために付いている器官ですが、この自分の目を、自らの目で観察することは不可能です。
自分の目を自分の目で観察しようと思うのなら、鏡のような光を反射する道具を利用して間接的に観察しなければ、自分の目を観察することは出来ません。

では鏡がなかったらどうするのか。 先程の目の例で例えるなら、鏡がない場合は観察しているものと似たようなものを利用することで、間接的に観察が可能となります。
つまり目の場合で言えば、誰か他の人の目を間近で覗き込めば相手の瞳に自分が映るため、相手の目を見ることで自分の目を観察することが出来るようになるということです。
ソクラテスの主張によれば、これは人間の魂を観察する際にも当てはまり、人間の魂は人間の魂と似たようなものを利用することで、観察が可能になるようです。

探求を続けるものを客観視する


では、人間の魂と似たような存在とは何かというと、これには2つあり、1つは自分と同じ様に魂について日々探求しようと頑張っている者との対話です。
人の魂とは、人間が動くきっかけになる『決断をする意識』のようなものと考えられますが、この決断は人との対話によって変わります。例えるなら、自分が尊敬している人からアドバイスを貰えば、そのアドバイスに従う形で行動を変えるようなものです。
人が行動を起こす際の順番的には、まず行動しようと決断を下してから行動を起こすため、行動を変えるというのは決断を変えている事と同じです。 つまり、人との対話は人の魂に作用するということです。

そして人というのは自分と同じ様に善悪について探求しているものと対話すると、魂を磨くという行為を客観的に観察することが出来るようになります。
例えば、一人でゴルフの打ちっぱなしに行くと、自分のスイングのどこが悪いのかが分かりにくいために改善もしにくいですが、他人のゴルフスイングを見ていると駄目なところが目につき易いと思います。
仮に自分がプロではなく、素人で練習の途中だったとしても、明らかに下手な人を見ると治すべきところや直したほうが良い方向性が分かったりもします。

この様に、自分自身の行動は自分自身では確認しづらいですが、同じ様に練習している人を見ることで、何がよくて何が悪いのかが客観的に理解しやすくなります。
やってはいけない事ややるべき事を他人の行動を通して認識することが出来れば、次の自分の練習にも活かしやすくなり、一人で黙々と練習をしているよりかは良い方向へと近づきやすくなります。
これは、善悪の区別をつけるという事柄についても当てはまるということです。

自分と同じ様に善悪を見極める知識を探求している人と話すことで、真実に近づいているのか、それとも横道にそれていってしまっているのかが客観的にわかりやすくなります。
これは対話相手も同じで、相手もこちら側の意見を客観的に見ることが出来るために、こちらの発言を受けて考えを修正していきます。
結果として、議論を通して互いが互いの意見を客観視し、正しい部分と間違っている部分、本質とは全く関係ない部分を見極めることで、議論そのものが正しい方向へと向かっていきます。

魂位の鏡としての神


残りのもう一つの方法は、神々について考えることで、これを行うことで魂を磨く行為に繋がります。
ここで注意としていっておくと、ここで取り上げられている神様とはキリスト教徒などが信仰している、絶対的な存在としての唯一神のことではありません。
ギリシャ神話に登場する神々のことです。

このギリシャ神話の神々というのは、人間の価値観であったり感情や精神状態、他には科学的な法則といったものを擬人化した存在です。
例えば勇気であったり愛情であったり嫉妬といった感情や、酒を飲んで酩酊している状態、その他には雷や時間といった概念などが、神様としてキャラクター化され、様々な神話に登場しています。
今の日本で言えば、様々な概念や建物などが擬人化されてマスコット的に利用されていたりもしますが、そういった存在だと考えると分かりやすいかもしれません。

この様にギリシャの神々というのは、人間の精神や物理学といった現象を擬人化した存在であるため、ギリシャ神話の神々について真剣に考えるということは、真理の探求をするというのと同じ行為です。
その神々の中でも、人間の本質を元にして生まれた神々というのは人間の魂に似ているため、これらのことを真剣に考えるというのは、その行為がそのまま魂を磨く行為に繋がります。
特に神々というのは、それぞれが人間の持つ感情や価値観の究極の形をキャラクター化したものであるため、自分自身の魂を見るための鏡としては最も美しいものとなります。

例えば、アフロディーテは美しさという概念や、美しいものを目に前にした際の人間の感情の動きなどを表していますが、このアフロディーテについて真剣に考えることは、美しさという概念について考えるということを意味します。
アフロディーテについての考察は、前に取り扱った対話篇『饗宴』で行われていますので、まだ聞いていない方や、聞いたけれども忘れてしまった方などはもう一度聞いてみてほしいのですが…
美しさという概念一つとっても、なかなか『これ!』といった答えを出すことは出来ません。

例えば、美しさというのは外見のことなのか、それとも内面のことなのかといった単純なことですら、簡単に答えはでないでしょう。
しかし、神々の名を出して語られる際のテーマというのは、常に『究極の存在について』であるため、相対的に見比べる対象を観察するための鏡として用いる場合は、最も美しい鏡となります。

人間の魂を見るための鏡


先程のアフロディーテの例で言えば、アフロディーテが象徴している美しさというのは、単純な見た目の話なのか、それとも人間の振る舞いの話なのかというのは明確な答えとしては出てきません。
ですが、美しさを語る際にアフロディーテの名前を出すということは、そこで語られる美しさというのは究極の美しさのことだということになります。
その究極に美しい存在であるアフロディーテについて議論をすることで、少しは美しさについて理解が進むわけですが、そこで多少なりとも明らかになった美しさの概念と自分自身の現状を比べるというのは、言ってみれば神と人間を比べるようなものです。

当然、美しさにおいて究極の存在であるアフロディーテと自分を比べると劣っているところしかないわけですが、そのようにして今現在の自分自身と見比べる鏡として用いるには、神々は最高の存在だというわけです。
わかりやすく現実レベルまで落として考えるために、先程だしたゴルフスイングの例で説明するのであれば…

下手な者同士が互いに自分たちのスイングを見せ合い、この部分を変えたほうが良いと互いに言い合って練習すれば、一人で黙々とやっているよりかは客観的目線が入って練習がはかどったりします。
しかし、それよりももっと効果的なのは、この世で一番上手いプレイヤーのスイング動画を用意した上で、その動画と自分たちのスイングとの違いを互いに指摘しあって練習することです。
ゴルフスイングに絶対の正解があるのかどうかはおいておいて、現状で一番の成績を収めているプレイヤーの実際のスイングというのを手本にして練習したほうが、上達しやすいでしょう。

人の精神についての探求も同じで、ギリシャの神々はある一面において究極の存在だとはいわれていますが、ではその究極の状態というのがどのような状態なのかというのは解明されていないために語られていません。
しかし、その神々が登場する神話には、過去の人達がそれぞれの概念について考えた理論が詰め込まれています。
それらの理論や考えというのは、絶対的な答えには辿り着いていないので、神話には絶対的な正解が書かれているわけではありませんし、それぞれの人々が自分なりの解釈によって神話を作るため、神話によって神々の振る舞いが変わったりもします。

しかし、人々から受け入れられなかったり否定されるような神話というのは、すぐに消えてしまうと思われます。
つまり神話として一定の年月語られてきたものであったり言い伝えというのは、長い間、人々から信頼されてきたという実績がある理論とも考えられます。
長年人々を惹きつけてきたり、納得させてきた理論というのは、一定の確からしさというものがあるようにも思えるため、これらについて探求するという行為には意味があります。

参考文献