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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第145回【アルキビアデス】堕落への対抗策 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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堕落への対抗策


では、魂を映し出す鏡で自分自身の魂を見るとは、どういった意味なのでしょうか。
これを理解するために、もう一度、普通の鏡で自分の姿を確認するという状態について考えてみます。

目で見て観察するという行為を少し掘り下げて考えてみると、目というのは光を受け止め、それを情報として脳に送り届ける器官です。
目には光を情報に変換して脳に送り届けるという卓越性があるため、人は目を開いて何かを観た際に、その光の反射によって世の中を認識することが出来ます。

この目ですが、当然ながら限界があります。 人の目が感知できる光は可視光線という幅に限定されていますし、その可視光線が反射しないものは目で見ることが出来ません。
つまり、人の目が捉えられる情報は、可視光線が反射するものに限定されるということです。逆に言えば、その条件に合ってさえいれば、人は目で見て認識することが出来ます。
目で見て確認することが出来るのは光の反射なので、人間が見える範囲の光をそのまま反射できる物体、つまり鏡のようなものがあれば、本来なら見えないようなものも目で見て認識することが出来ます。

例えば自分自身の目などは、鏡などの道具を用いずには見ることが出来ません。光を反射させる何らかの物体を通してでしか見れません。
では、光を反射させる物体というのは、鏡などの人工物しかないのかといえばそうではなくて、人間の体でいうと人間の目がそれに当たります。
少しややこしいので例を出すと、人が他人の目を間近で覗き込んだ場合、相手の瞳の中に自分の顔が反射して見えるということです。

前に、アイドルの自撮り写真を拡大し、瞳に写っている景色から住んでいる家を割り出した人がいる… 何てことがニュースとして取り上げられていましたが、考え方としてはこれと同じです。
他人の目を覗き込めば、鏡として利用が可能ということです。 この事をもってソクラテスは、自分が持つ目という体の器官は、他人の目という似たような器官を使うことで、その存在を確認することが出来ると主張します。
つまりは、確認したいと思うものと似たような存在があれば、それを利用して自身の存在を確認することが出来るということです。

魂を映し出す鏡


話を魂を映し出す鏡の方に戻すと、魂というのは光を反射するわけではありませんから、当然、普通の鏡を使ったところで自分自身の魂を観察することは不可能です。
おそらく世界中を探したとしても、そして科学がどれだけ進んだとしても、人の魂を映し出す鏡なんてものは出てこないでしょうから、物質としての魂を映し出す鏡なんてものはないでしょう。
しかし先程ソクラテスは、観察しようとしているものと似たようなものがあれば、それを利用して自分自身を観察することが出来ると主張していました。

先ほど紹介した、他人の目を覗き込めば、相手の目が鏡の役割を果たして自分の姿が見えるというアノ理屈です。
つまり、自分の魂と似たような存在があれば、その存在を使って自分の魂を観察することが出来るということです。
では、自分が持つ魂と似たような存在は何なのかというと、卓越した存在になろうと探求を続けている他人の魂であったり、神そのものです。

探求を続けている他人の魂


まず『探求を続けている他人の魂』が何故、人の魂を見るための鏡に成るのかというと、これは先程の目で見るという行為のたとえ話と理屈は同じだと思われます。
善悪を見分ける知識を宿し、他よりも卓越した人間になろうとしている人間は、同じ様に頑張っている人の近くに行って相手と内面をさらけ出して対話をすれば、結果として自分自身を知ることが出来るということでしょう。

これは言葉で聞くと難しく感じますが、私達が日常生活を送る中でも頻繁に起こっていることだと思います。
例えば、仕事であれ趣味であれ、何かに真剣に打ち込んでいる人と対話を行えば、その話し合いの中でその対象についての自分の考えなどが明らかになってくると言ったことがないでしょうか。
同じ方向に向かって進んでいる相手と話して相手のことが理解できれば、その相手と自分を比べることで自分を客観視しやすくなります。

わかりやすさを優先するために、誤解を恐れずに別の表現をすると、対話を行うことで相手がどれぐらいのレベルかを知ることが出来、その相手と自分を比べることで、自分の位置を知ることが出来るといった具合でしょうか。
ただ、この時に気をつけないといけないのが、行うべきなのは討論であって、論破合戦ではないということです。
自分の存在を持ち上げたいがために相手の揚げ足を取り、相手の言葉を意図的に間違った解釈をし、時にはゴールをずらしたりして相手を論破したとしても、その行為には何の意味もないということです。

何故なら、その様な口喧嘩では、相手の方もそんな人間とはまともに議論をしようと思いませんから、相手の魂を正確に知ることが出来ないからです。
相手の魂を正確に知ることが出来ないということは、それと自分の魂を正確に比較することが出来なくなるわけですから、その様な口喧嘩は無意味となります。
相手の意見をよく聞き、わからないところは質問し、違うと思うところには素直に意見を言うという建設的な対話を行うことで、相手も知ることが出来、結果として自分も知ることが出来るようになります。

魂の鏡としての神


次に、人の魂を見る鏡は神だという話についてですが…
この神というのは、キリスト教で言うところの唯一神としての神のことではありません。 ギリシャ神話の神々のことです。両者の違いとしては、ギリシャ神話の神々の方が、より人間に近いです。
というのもキリスト教の神様というのが絶対的な善の象徴として人の手に届かないような語られ方をしているのに対し、ギリシャの神々というのは人間の精神であったり価値観の一側面を切り取って、象徴化したものだからです。

例えばエロスやアフロディーテというのは、人間が感じる美しさというイメージの究極の形に名前をつけて、神として扱っているものです。
軍神アレスは戦地へと赴く兵士の勇敢さを象徴するような神様ですし、同じく軍神アテナは、ゼウスの頭から生み出されたとされているので、軍事だけでなく知識をも宿してい存在とされています。
他にも、人が酒を飲んで酔っ払った状態を表している神様など、人の感情であったり状態などを神様扱いしているのがギリシャ神話の神様たちです。

このギリシャ神話の神々が、何故、人の魂の鏡に成るのかというと、先程も言いましたが、神そのものが人間の精神を研究して作られたものだからでしょう。
神というのは人間の魂を観察して探求し、魂がどの様な成分でできているのかを研究した結果として生まれたものなので、根本的な性質としては同じものと考えられます。
特に、人の魂の中でも説明が難しいもの、これは卓越性だとかアレテーと呼ばれているものですが、この部分は言葉での説明が難しいということで、その概念はそのまま、神として昇華されていたりします。

前に取り扱った対話篇の『饗宴』では、美しさというテーマだけで1冊の本になっていましたが、それでも『美しさ』というものがどういうものなのかという明確な答えは出ませんでした。
この様に、概念としては確実に存在していて、実際に人間が心を動かされる存在だけれども、それが何なのかが説明できないものは、デフォルメされてキャラクター化し、神となっています。
その為、人間の魂とは何なのかというのを究極レベルで考えていくと、それは結果として、神について考えることと同じことになってしまいます。

つまり人間の魂と神々は似たようなものと考えることが出来るため、神々は鏡として利用することが出来るということになります。
これらの鏡を利用することで、人は自分の魂について観察し、探求することが出来るようになります。
そして、探求をして『自分自身を知ること』を節度と言います。

では、節度のない人間。つまりは、自分の魂の研究を一切せず、自分が何者であるかもわからないような人間が、自分が所有しているものについて『これが悪い、これは良い』と判別することが出来るんでしょうか。
このことについては、次回に考えていきます。


参考文献