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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第150回【アルキビアデス】まとめ4 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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堕落への対抗策


それは、一般市民と関わり合いになることです。 何故、一般市民と関わり合いになると駄目なのかといえば、彼らは幸福になるための努力を一切していないからです。
幸福になるための努力とは、先程から言っている、魂を磨くために必要な専門知識を探究する行為のことです。知識というのは、自分が無知を認めた上で探究しなければ身につかないものですが、一般市民はそもそも自身の無知を認めていません。
つまり、自分は魂を磨くための方法を知っていると思い込んでいる、もしくは魂を磨くなんてことを想像もしていない人間ばかりであるため、彼らと話したところで、何も得るものはないどころか、彼らから悪影響を受けてしまいます。

ソクラテスの理屈によれば、善人は周りの人間を善人に変えますが、悪人は周りの人間を悪人に変えます。 仮に、人の幸福とは持っている財産の額だと間違った認識をした人がいた場合、その人は間違ったゴールを定めているため幸福にはなれません。
ソクラテスの理屈では、善人は幸福に成れるため、幸福にはなれないものというのは悪人と言いかえることが出来ます。その悪人は、周りの人を悪人に変えて不幸にしていくわけですから、これらと接すると堕落していくと言い換えることが出来ます。
大半の一般人は、正しいゴール設定が出来ていないという点で心の幸福には到達できない為、ソクラテスに言わせれば悪人です。そんな彼らと接すると堕落してしまうと彼は言いたいのでしょう。

ソクラテスは、このように一般人にかかわることで堕落してしまうことを『毒に侵される』と表現し、一般人とより多く接する機会のある政治家になるためには、このことを良く理解していなければならないとアルキビアデスに注意します。
何故なら、それをよく理解しておくことで、一般市民たちの意見を真に受けることを防ぐことができるからです。ソクラテスはこのことを、先程の『毒に侵される』という表現に合わせて解毒剤と表現しています。
では、魂を磨く行為とは何なのでしょうか。 これは、先程の一般市民とのかかわり合いの逆と考えればわかりやすいです。

物事を観察するには観察から


無知なものとの対話が魂を堕落させる行為であるとするのなら、その逆のものとの対話、つまり、自分自身の無知を認めて魂を磨くための知識を探究している者と話すことは魂を磨く行為に繋がります。
では何故、探究を続けるものとの対話が魂を磨く行為につながるのでしょうか。人間の魂に限らず、物事をよく理解するためには、対象の観察が必要不可欠です。
この観察対象が、実際に肉眼で見れるようなものであれば単純に目で見れば良いですが、もし、目で見ることが出来ないようなものであれば、何らかの道具を使う必要があります。

小さくて見えないのであれば顕微鏡を使う必要がありますし、対象が自分自身である場合は、鏡などを使う必要があります。
では、対象が鏡を使っても目で見ることが出来ないようなものである場合はどうすれば良いのでしょうか。人間の魂は肉眼で見ることが出来ないため、物質的な鏡を用意しても意味はありません。
これに対してソクラテスは、観察しようとしているものと似たようなものを用意して観察すれば良いと主張します。

探究を続けるものを客観視する


例えば、自分の内臓を観察しようと思っても観察することは出来ませんが、他人を解剖することで、近い情報を得ることが出来ます。
これは魂も同じで、自分自身の無知を認め、知識を探究するものの行動を外側から観察することで、自分の魂を観察することと近い状態を作り出すことが出来ます。
つまり、探究を続ける人物を対話を行い、相手がどの様に考えているのかを理解しようとする過程で、自分自身の魂も理解することができるということです。

ここで重要なのが、この対話は口喧嘩や論破合戦ではなく、あくまでも目標となるゴールに到達するために行わなければならないということです。
眼の前の相手を口で言い負かしたところで、真理に到達できるわけではありません。対話相手が1人減るだけです。重要なことは、共にゴールへと向かうために討論を通して探究することです。

これが、魂を磨くための方法となりますが、方法はこの1つではなく、もう1つあります。 それが、神について考えることです。

魂の鏡としての『神』


ソクラテスたちが信じていたギリシャ神話の神は、キリスト教で言うところの一神教の神とは違い、人間の精神のあり方をイメージ化したものです。
例えば、戦場で戦うための勇気をイメージ化したものであったり、人が持つ美しさをイメージ化したものに、それぞれ名前がつけられたものがギリシャ神話の神々です。

このイメージ化された神というのは、それぞれの究極を意味します。 つまり、勇気をイメージ化した神は人が持つ究極の勇気と言い換えることが出来ますし、美の神について考えることは究極の美しさについて考えることと同じです。
この様に神とは、人の精神の究極の状態を表しているものなので、その神々について深く考察するという行為は、人間のあり方について考えることと同意です。
人はこれらの方法によって『人間とは何か?善悪とは何か?』を考察することができるのですが、では、このような考察や探究をしている人間と全くしていない人間とを比べると、どちらの方が善悪についての知識が高いでしょうか。

自分のことがわからない人間


これは比べるまでもなく、常に探究を続けている人間の方が知識が高いといえます。
探究を続けた人間は、その結果として答えに到達できなかったとしても、何もしていない人間よりかは確実に真理に近い立場に到達できます。

これは別のことに当てはめればわかりやすいです。この世の出来事は科学で解明されておらず、わからないことのほうが多いですしわかっていることなんて極僅かです。
では、大半のことがわからないのだからと全く探究していない人間と、分からないなりに研究を続けている科学者とを比べて、どちらがこの世のことを理解しているかと問われれば、科学者の方がこの世のことを理解しているでしょう。
それと同じで、人間の本質や魂、この世の真理について全く探究していない人間と、分からないなりにも探究している人間とを比べれば、探究している人間のほうが真理に近くなります。

逆に、善悪について全く探究してこなかった人間は、善悪の区別をつけることが出来ません。つまり、身の回りにあるものや起こる出来事について善悪の見極めが出来ないということです。
その状態で何らかの選択肢を迫られたとしても、当然のことながら彼らは正解を選び出すことは出来ません。何なら、悪いことのほうが誘惑が多く魅力的に見えることがあるため、間違った選択肢を選びがちです。
このコトを考慮した上でソクラテスは、『探究をしようとすら思わない、無知であることすら知らない人間は、自分で判断をせずに誰かの命令にだけ従っていた方が幸福に成れる』と少し強めの主張をします。

政治家になるために


つまり、善悪の見極めがつく人間は、自身の判断で善悪を見分けて選択肢を選んでいく自由人として生きても幸福に成れる可能性はあるが、そうでない人間は自由人の奴隷になったほうが良いと言っているわけです。
この奴隷という言葉が強すぎるので拒絶反応を示す方も多いかもしれませんが、全員を幸福へと導いていこうという思いから論理的に考えていくと、このような考えになるのでしょう。
またこの理屈では、奴隷になるのか自由人になるのかは自身の行動によって決めることが出来ます。 何故なら、自分が無知だと認め、探究の道を進めばそれだけで自由人と成れるからです。

しかし、そういった事は一切したくない。自分の無知を認めるなんて事はしたくないし、勉強なんかもしたくないと思うのであれば、そういう人は自分で考えて行動しても碌なことにはならないので、賢者の言う通りに行動したほうが良いと言っているだけです。
一方で、アルキビアデスが目指す政治家になろうと思うのであれば、こういった者たちを導いていかなければならないため、善悪を見極める知識の探究が必要不可欠となります。

これで、アルキビアデスのまとめ回は終わりです。 次は、パイドンという対話編を読み解いていきます。

参考文献