【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第149回【アルキビアデス】まとめ3 前編
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- 前回のリンク
- 政治家に必要な知識
- 正義にかなった行動
- 物事を小さい単位に分解して考える
- 善人と悪人
- 行動と生き方
- 行動と生き方2
- 無知の知
- 勉強する必要性
- 参考文献
注意
この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回のリンク
kimniy8.hatenablog.com政治家に必要な知識
前回の話は、ソクラテスが『政治にとって一番必要な能力は善悪を正しく見極める能力』だと主張。
それに対してアルキビアデスが、政治に本当に求められている能力は『善悪を正しく見極める能力』ではなく、損得勘定ではないのかと反論しました。
人は建前としては綺麗事を言いますが、実際には自分が得をするのか損をするのかしか興味はありません。 そんな人をまとめ上げるのが政治家の仕事であれば、損得勘定に詳しい方が良いというわけです。
これに対してソクラテスは、『醜い行動だけれども正義にかなった行動を見たことが有るか?』と質問し、アルキビアデスからNOという返事をもらいます。
次は逆に『立派な行動は全て良いものか?』と尋ねると、アルキビアデスはこれにもNOと答えます。
最初の質問はNOの理由がわかりやすいですが、彼が2つ目の質問に対してもNOとといったのは何故なのでしょうか。
正義にかなった行動
アルキビアデスは、戦場で仲間が大勢の敵に殺されそうになっている時に、正しい行動としては助けに行くことだが、助けに行ったことで自分が確実に死ぬのであれば、行くだけ損なのでみっともなく逃げるほうが良いと例え話で返します。
自分の命を第一に考える者にとっては正論のように思える答えですが、ソクラテスはこの例え話は様々な要因を含んでいるとして、要素を一つ一つ分解して考えていくことにします。
物事を小さい単位に分解して考える
この例え話では行動と結果が固く結びついて固定されているので、まずはそこを解きほぐします。 つまり、行動と結果を分けます。
すると、行動は『仲間を勇敢に助けに行く』と『みっともなく逃げる』の2つとなり、結果の方も『死ぬ』と『生き残る』の2つに別れます。
死ぬことが悪いとした場合、生き残るのは良いことになるため、結果の方は善悪をすぐに分けることが出来ます。次に行動の方ですが、これも単純に考えれば、『仲間を助ける』方が良くて『逃げる』方が悪いと分類することが出来ます。
先程は助けに行くという行動をとった場合は、結果は死ぬと固定されていましたが、行動と結果を自由に組み替えても良いとして考えてみると、組み合わせは4種類になり先程よりもパターンは増えます。
せっかく事柄を細かく分けたので、次はそれぞれの事柄についての善悪を考えていきます。
まず、仲間を助太刀したほうが良いのか、それとも見捨てる方が良いのかを考えた場合、これは客観的にも主観的にも助ける方が良い行動だと考えられるでしょう。
次に、その結果として生き残る場合と死ぬ場合について考えますが、これは主観的にはどちらが良いとも言えませんが、客観的には生き残ったほうが良くて死ぬのは悪いといえるでしょう。
善人と悪人
大体の善悪が分類できたところで、次はもっと根本的な問題として善悪について考えていきます。 人は何故、良さを求めるのでしょうか。
これは客観的な観点で考えるとわかりやすいです。 良い人間と悪い人間、どちらかと一緒に暮らしていかなければならないとした場合、どちらと一緒に暮らしていきたいでしょうか。
善悪では抽象的すぎるので具体的にいうと、臆病者や卑怯者、詐欺師や自分の欲望のために暴力を振るう人間か、勇気があって立派で、いざという時に助けてくれる人間か、どちらと一緒にいたいと思うでしょうか。
多くの人が詐欺師や暴力人間と一緒にいたいなんて思わないはずです。 多くの人がそう感じるということは、善人には需要があり悪人には需要がない事を意味します。
つまり人から必要とされる人間になろうと思うのであれば、善人にならなければならないということです。 逆に、何らかの理由で悪人呼ばわりされるようなことがあれば、多くの人は『それは誤解だ!』と反論するはずです。
アルキビアデスに至っては、卑怯者呼ばわりされるぐらいなら死んだほうがマシだと言い放ちます。 アルキビアデスにとって死ぬとは最大の不幸らしいので、彼の主張では、悪人呼ばわりされるのは最大の不幸だということになります。
では逆に良い事というのはどうなんでしょうか。 先程も言いましたが、良い人というのは需要があるので、皆から必要とされます。誰からも必要とされない人生は寂しいものですが、皆から頼られる人生というのは充実している人生とも言えます。
充実した人生を歩むことは空虚な人生を歩むことに比べると格段に良いように思えるので、善人になることは良いことですし、先程の損得勘定で言えば悪人になるよりかは得な人生を歩めそうです。
行動と生き方
これまでの考えによって善悪の考え方がより鮮明になったので、、もう一度先程の例に立ち返ってみましょう。
まず結果を生み出す行動の方である『仲間を助けるのか』それとも『見捨てて逃げるのか』について考えると、助ける方が勇気ある立派な行動で、このような選択をする人間と一緒にいたいと思う人が大半なので、こちらの方が善ということになります。
一方で見捨てて逃げるような人間と一緒にいたいと思うような人はおらず、見捨てて逃げることで生き残ったとしても、誰からも必要とされない卑怯者として残りの人生を生きることとなります。
行動と生き方2
アルキビアデスに言わせるのなら、この状態で生きているなら死んだほうがマシなようです。ということは、仮に自分の命おしさに逃げた場合、結果がどう転ぼうが死ぬのと同じ結末となります。
消去法として、先程の例では『助ける』一択となり、アルキビアデスが主張する損得勘定で考えたとしても、仲間を見捨てずに助けた方が自分の得ということになってしまいます。
無知の知
以上のやり取りによって、アルキビアデスは善悪の区別がつかない、優れているわけでもない人というのが確定してしまいました。しかしソクラテスに言わせれば、この気付きは大きな前進となります。 何故なら、自分のことを無知だと築いていない人間は、学習そのものを行おうとしないからです。
ですがアルキビアデスは今回のことで自分の無知に気づけたため、ここから勉強をしたり探求をしたりすることで、自身を成長させることが出来ます。 つまり0が1になったわけです。
0に何を掛け合わせても0のままですが、1歩進んで1になれば、自身のやる気や環境によっては大きく成長することが可能となります。
アルキビアデスは自身の無知を知ることで、その1歩を歩みだすことが出来たため、これは大きな一歩となります。
勉強する必要性
ただ、アルキビアデスは自身の無知を認めたのですが、ソクラテスがいうような知識が本当に必要なのかどうかは疑っています。
というのも、ソクラテスが必要だと言っている善悪を見極める知識というのは、そもそも持っている人がいない知識です。 必要だと主張して人生を賭けて探求しているソクラテスですら、まだその法則を見つけてはいません。
もし見つけているのだとすれば、その法則をアルキビアデスに教えてあげるだけでよいのですが、ソクラテス自身が身につけていないため、それすら出来ない状態でいます。
アルキビアデスは、そんな知識が、果たして本当に必要なのかと疑問を持っているわけです。 誰も身に着けていない知識なんてなかったとしても、世の中は普通に回っていますし、人生の成功者も普通にいるからです。
身につけることで幸福に成れる知識を探求したところで、そんな知識は生きている間に身につけることが出来ないかもしれない。それならそんな勉強はせず、もっとレベルの低いところで幸福を求めた方が効率的だということでしょう。
これに対してソクラテスは『比べる相手が違うのでは?』と反論します。