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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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知識のレベルの違い


確かにこの説明には一理ありそうです。 しかしソクラテスは、その反論については当てはまる場合と当てはまらない場合が存在するとして、受け入れません。
ソクラテスの意見としては、たしかにアルキビアデスの言う通り、言葉については大衆から教えてもらうというのも可能かもしれないが、それは言葉を使いこなすのに求められる能力が低いからだと主張します。
これは言い換えるのであれば、一般大衆が知らないような高度なレベルの知識は、言葉と同じ様に何となく学ぶなんてことは出来ないということです。

もう少し具体的に言えば、言葉というのはその環境で長年暮らしていれば、誰でも慣れ親しんでくるし話せるようになるものです。
特に母国語の習得であれば、それしかコミュニケーション手段がない上に、その言葉が四六時中、そこらじゅうで話されていますし、そこらに置かれている本やテレビでは音声以外に文字も書かれています。
この環境で子供の頃から何年も暮らしていれば、基本的な言葉であれば誰でも話すことが出来るようになるでしょう。

しかし、学習もせずに無意識レベルで習得できる語学のレベルは日常生活レベルの話であって、もっと高度になってくると、誰かに教えてもらうか自ら探求し無い限りは身につけることは出来ません。
同じ言葉の扱い方であったとしても、誰もが魅了される様な文章を書いたり、人の興味を引くようなキャッチコピーを作ったりり、誰が聞いてもわかりやすく言葉で説明する能力というのは、普通に生活しているだけでは身につきません。
例えば小説のような文章を書くのであれば、まず多くの小説を読んで表現を真似てみたり、使える表現をストックするといった事を行った上で、何度も自分で文章を書いてみないことには習得することが出来ません。

これが、物事の真理と言ったより難しい事柄であればなおさらで、一般大衆とただ暮らしているだけで身につくようなものではありません。
これらのことをより簡単に言い直せば『人は自分が知っていることしか他人に伝えることは出来ない』ということです。
人は自分が知らないことを相手に教えることは出来ません。 現実の世界では、たまに口からでまかせを言って知らないことに対しても口を出す人が結構いますが…

法則に従えば答えは一致する


それらの意見は本来聞くべき意見ではありませんし、仮にその意見が偶然にも正解だったとしても、それはたまたま答えが一致していただけで、その答えに到達するためのプロセスなどはデタラメです。
その為、仮にその後、同じ様なケースに遭遇したとして、その時に教えられた知識が通用するのかといえば、当然ですが通用しません。
何故なら、その忠告はちゃんと検証されたものではありませんし、その人物が探求したり学習した結果として得られたものではなく、単なる当てずっぽうだからです。

このようにして導き出された答えは、答えるものの感情によってブレるので、法則に従って正しく導き出された答えとは言えません。
特定の法則によって導き出された答えではなく、その日の気分によって出された答えに従ったところで、当然ながら正しい道を進むことはできないということです。

では、法則に則った知識とはどのようなものなのかというと、いついかなる時でも、入力に対して出力が同じになる様な知識です。
例えば電卓で1+1と入力すれば、どんな環境であれ、誰が入力したとしても、必ず2と答えが出力されます。もし出力されないことがあれば、その電卓は壊れています。
これはなぜかというと、電卓は数学という学問によって見いだされた法則をプログラムした機械だからです。数学という法則によって、入力された数式は必ず同じ答えを出力します

大衆が善悪を正しく見極められるのなら…


この事は数学だけに当てはまることではなく、あらゆることに当てはまります。例えば言葉を正しく学習した人間に対して『右の方を向いてください』といえば、皆が同じ方向を向きます。
これは、右を向くという言葉の入力に対して行動という手段で出力された結果と言えます。
この理屈を善悪に考えてはてはめると、正しく善悪を見極める方法を身に着けた複数の人間が有る事柄に対峙した場合、その人達が下す判断はすべて同じとなります。これは、善悪で意見が別れないということです。

もし仮に、民衆たちが全て善悪の見極め方を知っているのであれば、何かことが起こった際に、善悪の判断で意見が分かれるなてことはないはずです。
では実際にそうなっていのかといえば、そうはなっていません。 日本の裁判は三審制で原則的に3回まで裁判をやり直せるという制度を採用しているそうですが…
全国民が善悪の法則を理解しているような国であれば、そんな制度は必要ありません。 何故なら、何回裁判をやり直したところで、出る答えは同じになるからです。

というかもしそんな世界で有るのなら、そもそも善人しかいないため、犯罪を犯す人間はいないことになります。
何故なら、ソクラテスの理屈で言えば、人は幸せになるために生まれていていて、その幸せに到達する方法は善人であることだからです。
その為、自らを不幸にしてしまうような悪いことに手を染める人間はいません。善人しかいないのであれば、そもそも行動を規制する法律も必要ありませんし、その法律が適応される範囲である国も必要なくなります。

しかし実際には、悪いことをする人間がいるから人の行動を規制する法律がありますし、その法律が適用される範囲である国も存在しています。
そしてそんな世の中だからこそ、法律を作り出す政治家という職業が存在し、アルキビアデスは政治家を目指しているわけです。

知識はテキストで学ぶ


では、本はどうでしょうか? 一般大衆は善悪を見極める知識を持っていないかもしれませんが、本であれば、過去に1人でも善悪の見極め方の法則を理解し、それを文字で書いてくれている人がいれば、それを読むことで法則を理解できます。

アルキビアデスは学校で読み書きを教わりましたが、その際に使用したギリシャ神話などの物語の中に、善悪を見極める法則が書かれていて、それを知らず識らずのうちに読んでいて、学習していた可能性は捨てきれません。
しかしこれに対してもソクラテスは、反論をします。当時の勉強というのは神話を読み解くことが主だったようで、先人たちは神話の中に教訓などを含む様々な知識を織り交ぜて後世に伝えようとしていたわけですが…
その神話の中ですら、神々は善悪を巡って争いを起こしています。 もし本当に先人たちが善悪を見極める方法を見つけていれば、それは神話の物語にも反映されているはずなので、トロイの木馬が登場するような戦争は起こっていないはずです。

このソクラテスの理屈にアルキビアデスは納得し、彼は自分が無知であったにもかかわらず知識を持っていると勘違いし、それを他人に教えようとしていたことを認めます。
参考文献の表現では、このあたりの部分はかなりアルキビアデスをバカにした感じで描かれていたりしますが、これは単にアルキビアデスをバカにしているというよりも、この対話編を読んでいるであろう一般市民に対しての警告も含まれていると思われます
というのも、勉強したわけでも探求したわけでもなく、自分の専門分野でもないことに対して、知ったかぶりで適当なことをいう一般市民はかなり多いからです。

不毛な議論


彼らがやっていることというのは、この対話編でバカにされているアルキビアデスと全く同じことで、自分が知らないことについて他人に教えようとする滑稽な行動です。
これはこの対話編が書かれた当時だけでなく、今でもそうです。これを聞かれている方の身の回りにもいらっしゃるでしょうし、もしかするとご自身がそうかも知れません。
勉強したわけでも探求したわけでもないのに、知った気になっているということは、その後勉強することもありませんから無知なままなのですが、その状態で人に物を教えると、教えられた方はデタラメを教えられたことになるので正しい方向へはいけません。

その事を読者に気付かさえるためにも、対話篇の登場人物であるアルキビアデスを必要以上にバカにしているのかもしれません。
しかしアルキビアデスは、自身が無知であったことは認めましたが、そもそも本当に正しい知識は必要なのかとソクラテスに対して問いかけます。
というのも、今も昔も、市民たちが本当に興味を抱いているものは真実ではなく、自身の損得だからです。

たとえ正しい行動であったとしても、自分が損をするのであればしない、悪そうな行動であったとしても自分が得をするのならやってみようというのが人間です。
理想論は置いておいて、現実の社会では損得勘定で動く人間の意見を取りまとめて社会を動かしていくのが政治家なので、誰も知らない善悪を見極める知識なんて知らなくても、損得勘定さえ知っていれば良いことになります。
そして人は弱い存在であるため、損得勘定を覆い隠して見えなくするような大義名分を用意してやれば、喜んで他人に損失を押し付けて自分の得になるような事を自ら進んで行おうとします。

これに対してソクラテスは、アルキビアデスにさらなる疑問を投げかけることで、彼の考え方を変えようとするのですが、その説明は次回にしていきます。

参考文献