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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第139回【アルキビアデス】賢者だと思いこんでいた愚者 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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立派なこと=良い状態


では次に、『立派に生きる事』の方に焦点を当てて考えていきます。
ソクラテスは『立派に生きている者というのは最善を尽くして生きている、そんな彼らは幸福ではないのか?』とアルキビアデスに訪ね、アルキビアデスはこれに同意します。
なぜ彼らが幸福なのかというと、彼らは人生の内に良いものを宿しているからでしょう。 立派に生きようという彼らの人生は良いもので、良い人生を歩んでいるが故に幸福感を感じると言い換えても良いかもしれません。

そして、立派に生きることは良いことで幸福な人生。 みっともなく生きることは悪いことで不幸な人生とするのなら、立派なものというのは良いという事柄と同じものと考える事もできるでしょう。
では、立派なものと良いものが同じものとして、良いものを持つというのは自分の利益につながらないでしょうか? この事について質問されたアルキビアデスは、良いものを持つものは利益になると答えます。
これまでのやり取りを簡単にまとめると、勇気ある行動というのは立派な行動であり、立派な行動というのは良い行動であり、良さというのはそれを持つものの利益につながるということです。

これは、勇気ある行動と立派な行動と良さと利益が全てイコールで結ばれるということなので、つまるところ正義にかなった勇気ある行動というのは、利益になる行動とも言い換えることができます。

損得で考える


ここで、くどい様ですがもう一度、先程の例について考えていきましょう。 例というのは、戦場で仲間が窮地に立たされた際に、助太刀して逆に自分が死んでしまうのか、それとも、自分の命おしさに逃げるのか。どちらが得なのかということです。
アルキビアデスの当初の考えとしては、死ぬ事というのは一番悪いことで人生の損失と考えていたので、自分の命が助かるのであれば逃げた方が得だと考えていました。
しかしその後の討論によって、みっともなく生きていることは死んでいることと変わりがないと意見を変えてしまいました。

そして先程の理論で、立派な行動というのは利益につながる行動だとなったため、当初悪とされていた助太刀して逆に自分が死んでしまうという結末は、仲間を見捨てずに助太刀すること自体が立派な行動であるため、利益になる行動となってしまいました。
死んでしまうという結末は悪いとも捉えられますが、仮に悪い結末だったとしても、アルキビアデスは生き恥を晒してみっともなく生きている状態は死んでいる状態と同じだと言いきっていますので…
仲間を見捨てて逃げた結果生き恥を晒すという結末と、助太刀したけれども力及ばず死んでしまうという状態は、結末としては同じということです。

しかし、結末は同じですが、助太刀した方は良い行動をとっているため、その分だけ利益を得ていることになります。
ここまでの議論の結果、先程の選択肢である助太刀をして死んでしまうのか、それとも仲間を見捨てて逃げるのかの2択になった場合、損得を計算できる人間は仲間を助けて死ぬ方を選ぶことになります。
こうして順を追って考えていくと、最初にアルキビアデスが主張した、『善い行いをして損をする場合もあるし、場合によっては不正を働いた方が特をする場合もある』という理屈は破綻してしまいます。

賢者だと思いこんでいた愚者


この一連のやり取りから分かることは、アルキビアデスは自身では政治家になるための知識を持っていて、そのレベルは他の市民を圧倒していると思いこんでいたけれども、実のところ、何も知らなかったということです。
もっと細かく突っ込んで言うなら、その事について知らなかったという事すら分かっていなかったという事になります。

というのも、もしアルキビアデスが自身の無知を自覚していれば、『自分は善悪を見極める知識や損得勘定ができるので、他の人間に比べて政治家に向いている!』なんて事は思いもしないでしょう。
その知識を持っているであろう人に、自分の代わりに政治家をやってもらおうとするはずです。
例えば、自分には病気に対処するだけの知識がないと自覚していれば、病気の治療は医師免許を持つ人に任せるはずです。 自分に電気工事をする知識がないなら、資格を持つ人間に頼むでしょう。

自分に知識がないという事を自覚するということは、その知識がどのようなものかというのをある程度正確に知る必要があり、そのうえで、その知識を自分は身につけていないと初めて自覚することができます。
ではアルキビアデスはどうだったのかというと、当初は自分にその知識があり、自分がその知識を活かして政治家になって国を動かすことができると思い込んでいました。
しかし、ソクラテスと討論をしていくにつれて、自分が持っていると思い込んでいた知識はグラつき、最終的には主張を二転三転させています。

ですが、そもそも知識というのはグラつくことがありません。 知識というのは、現時点で分かっている事実を積み重ねただけのものなので、特定のインプットに対しては同じアウトプットを繰り返し行います。
1に1を加えるという処理をすると答えは毎回2になるというのが知識であり、知識はそういうものだからこそ、ソクラテスは何かを決断する際に『自分の感情ではなく、自分の外側にある知識を尊重しろ』と繰り返し言っているわけです。
しかしアルキビアデスは、ソクラテスが指摘をする度に自身の答えを変えてしまっています。

このことからアルキビアデスは、自分に知識が無いという状態すら自覚していなかった状態だった事がわかります。

無知の知


繰り返しになりますが、自分に知識がないという事を自覚するということはその知識がどのようなものかというのをある程度正確に知る必要があり、そのうえで、それが自分に無ければ『その知識は自分は身につけていない』と自覚出来ます。
ですがアルキビアデスは、当初は自分は知識があると思い込んでいたわけですから、自身に知識がないということを自覚してすらいなかったわけです。

知識がない事を自覚していておらず、その知識は自分には十分にあると思いこんでしまっていれば、当然のことながら、人はその知識を身に着けようと頑張ることなんてしません。
何故なら、その知識はすでに持っていると思い込んでいるわけですから、持っている知識を再び身につけようと頑張る人間はいません。
すでに知っている知識であったとしても、継続的に勉強している人はいると反論される方もいらっしゃるかもしれませんが、厳密に言えばそんな人間はいません。

これはどういうことかというと、例えば私は今、英語を勉強していて、1度覚えた単語帳を定期的に見直しています。
勉強の分野でこの様な事をしている方は多いと思いますし、この行動を取り上げて『既に身につけている知識を学んでいる人はいるじゃないか!』と主張する方もいらっしゃるかもしれませんが…
この様な一度勉強した内容を復習するという行動は、傍から見れば身につけた知識を再び勉強しているようにも見えますが、実際に勉強している側からすれば、その知識を身に着けてはいないと思ってるから繰り返し復習するんです。

人間の記憶力はそこまで良くはなく、また人は物事を忘れる生き物なので、一度テキストを読んだからといって内容を全て覚えられるようにはできていません。
人が何かを学習しようと勉強した際、その覚えた勉強内容というのは最初に短期記憶として記憶されます。この短期記憶は名前に短期とついているぐらいですから、暗記した内容は短期間で忘れてしまいます。
この短期間で忘れてしまう記憶を長期的に留めておくために長期記憶に移行しようとする場合、忘れてしまいそうになるタイミングで復習し、長期間かけて何度も思い出すという行動を取らなければなりません。

つまり、同じ内容を繰り返し勉強している人というのは、その知識が自分の中に定着していないと自覚しているから同じ内容を何度も何度も繰り返し復習しているわけで、既に身についた知識を勉強しているわけではありません。
数学の専門家が九九の表を定期的に見直さないように、既に身につけていると思っている知識を身に着けようと頑張る人はいません。
こうして考えると、アルキビアデスは自分の無知を自覚していなかったわけですから、当然、善悪を見極める知識についての探求もしていないわけで、その知識は身に付けようがありません。

ですが彼は、今回ソクラテスに指摘されたことで、自分が無知であったことに気が付きます。
ここでアルキビアデスは、無知を受け入れた上での勉強や探求の重要さに気付かされ、対話篇の第一部が終わります。

次回は引き続き、第二部を取り扱っていきます。

参考文献