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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第138回【アルキビアデス】知識や技術の身につけ方 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回までの回を聞かれていない方は、まずそちらをお聞き下さい。

知識や技術の身につけ方


前回の話を振り返ると、政治家になるために必要な知識を考えていくと、『善悪を見極める為の知識』だということが分かりました。
これは知識であるため、身につけるためにはまず、この知識がこの世に存在していることを知っていて、尚且、自分自身はその知識を持っていないことを自覚している必要があります。
何故なら、その知識が存在していることを知らないと自分にその知識があるのか無いのかがわかりませんし、自分がその知識を持っていないことを自覚していなければ、それを身に着けたいと思うことも無いからです。

これは難しく考えすぎる必要はなくて、医者になりたいと思うのであれば、その前提となる知識である医学の知識が自分にないことを自覚した上で、学校に通って勉強する必要があります。
弁護士になりたいと思うのであれば、法学部にいって勉強するなり、テキストを読んで自習するなりして予備試験に合格し、その後、司法試験に合格するために勉強する必要があります。
その知識を実践で使うためには、試験に合格するだけでなく、実務経験を積むために医者なら研修医として働く必要もあるでしょうし、弁護士なら法律事務所で下働きする必要もあるでしょう。

もっと身近な例でいうのであれば、自転車に乗るという単純なことですら、自分に自転車に乗るスキルがないことを自覚した上で練習しなければ乗ることは出来ません。
この様に知識や技術というのは、自分がそれを身に着けていないことを自覚した上で、勉強するなり練習することで身につけることが出来るものです。
アルキビアデスは、自分が他の人間よりも政治家に向いているから政治家になると主張していますが、これは言い換えるのなら、『善悪を見極める知識』を身に着けていると言っているのと同じです。

無知を認識していた時期


では実際に彼は、『善悪を見極める知識』を身に着けているのでしょうか。
先程も言いましたが、知識を身につけるための前提として、その知識が存在することは知っているけれども、その知識を自分は持っていないことを自覚している必要があります。
何故なら、自分には既に知識が有ると思い込んでいる場合は、その知識を手に入れようと頑張ることがないため、結果としてその知識を手に入れることは出来ないからです。

くどいようですがアルキビアデスが『善悪を見極める知識』を手に入れるためには、まず、彼の人生の中で善悪を見極める知識を持っていなかった時期が存在し、それを彼自身が自覚した上で、その知識を手に入れようと行動する必要があります。
では、アルキビアデスに『善悪を見極める知識』を持っていないと自覚していた時期があったかといえば、彼にはありませんでした。
彼は子供の頃から、友達がインチキをしたらそれを咎めたり、自分が正しいと主張して喧嘩になるようなことがありました。つまり彼は、子供の頃から善悪を見極めることが出来ていたと思っていたということです。

言葉を身につけるように


この事をソクラテスに指摘されると、アルキビアデスは『私は言葉を教えてもらうのと同じ様に、生活を通して一般大衆から善悪を見極める知識を教えてもらった』と主張します。
私自身もそうですし、これを聞かれている方もそうだと思いますが、私達が母国語を勉強するときというのは、母国語の知識がないことを自覚した上で必死に頑張って身につけるなんてことはしません。
日常生活を送る中で親や一般大衆からその都度教えてもらい、いつの間にか話せるようになっています。

アルキビアデスの主張としては、善悪を見極める知識もこの母国語の学習と同じで、日常生活を送っている中で、なにか問題があればその都度、一般大衆から善悪の基準を教えてもらって自然と身に着けたということなのでしょう。
しかしソクラテスはこの主張に納得ができません。
というのも、知識を授ける側というのは、その知識を持っている必要があるからです。

人は知っていることしか教えられない


母国語というのは、普通にコミュニケーションが取れる程度のレベルであれば、その国で生まれて育った人間であれば誰でも最低限の知識は身につけています。
その為、その程度のレベルの言葉であれば、一般大衆でも人に教えることが出来ます。しかし人は、自分が持っていない知識を教えることは出来ません。
医学の知識を持たない一般大衆が、他人に医学を教えることは出来ませんし、数学の知識を持たないものは数学を教えることも出来ないでしょう。

母国語も同じで、日常のコミュニケーションを取る程度であれば誰でも教えることができるかもしれませんが…
説得力の有るスピーチをする方法や人を魅了する文章の書き方といった特別なスキルは、一般大衆の誰もが教えることができるわけではないでしょう。
そのようなスキルを教えることができる人間は、そのスキルを持つものや、それを身につけるための方法などの知識を持つものだけです。

インプットに対するアウトプット


では一般大衆が善悪を見極める知識を持っているのかといえば、持っていません。 それは、世間一般を観察してみれば簡単に分かります。
知識や法則というものは、簡単に言えば数学の公式のようなもので、それに当てはめさえすれば誰でも同じ答えが出せるものです。
つまり、善悪を見極める知識というのを持つ人間が複数集まって特定の問題について考えた場合は、全員の答えが一致するということです。

考えが一致するということは、問題が起こった際に言い争いなどは一切しないということですが、実際にそうなっているのかというと、そんな事はありません。
私達の身の回りでは、家庭や仕事場など様々なところで議論が行われていますし、言い争いに発展するケースも珍しくありません。
現代ではワイドショーなどで政治のニュースを簡単に見ることが出来ますが、善悪を見極める知識が必要な政治家ですら、常に言い争いをしています。

ネットや教育制度など、昔よりかは情報収集の分野で優れていると思われる今現在でもこうなのですから、紀元前の一般市民の多くが善悪を見極める知識を持っていたとは考えづらいでしょう。

知識はテキストで学ぶ


ではこのような環境では、善悪を見極める知識を全く学ぶことが出来ないのかというと、そうとも言い切れません。
人間は文字というものを発明し、文章で残すことで遠く離れたものに対してや、時代を超えた次世代に対しても知識を伝えることが可能です。

つまり、過去に1人でも善悪を見極める知識を身に着けたものがいて、その者が書物にその知識を書き残していれば、それを読むことで知識を身につけることは可能です。
実際に当時でも神話という形で、どのような行動が勇敢な行動か、どのような行動が正義にかなった行動なのかといったことが物語として描かれていて、演劇や吟遊詩人の歌などでも聞くことが出来ました。
例えば、イーリアスで語られているトロイア戦争などでは、アキレスの勇敢さやパトロクロスとの友情など様々なことが語られているので、これを研究することで、何らかの知識が手に入る事ができるかもしれません。

しかし、このイーリアスの中でも、人々だけでなく神々ですら常に言い争いを行い、その争いは戦争にまで発展しているため、これらを研究したとしても『善悪を見極める知識』が身につくとは思えません。
このことから分かることは、善悪を見極める知識について書かれた書物はないため、それを読んで知識を身につけるということも不可能だということです。
これによってアルキビアデスは、善悪を見極める知識を一般市民から学ぶことも書物から学ぶことも出来ないということになってしまいました。

参考文献