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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第137回【アルキビアデス】大衆から学ぶ 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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知識を持つものは沢山いるのだろうか?


ソクラテスの弁明では、メレトスのこのような主張に対してソクラテスは、競走馬のレースで常にランキング上位に入賞できるような馬を育てることが出来る調教師というのは、誰にでもなれるんだろうか?
それとも、優れた才能や技術を持つ限られた極一部のものだけなのだろうか?という質問を投げかけることによって、その理屈を否定しています。
これはつまり、馬を調教して早く走らせるというだけでも他の人にはない特別な能力が必要なのに、人を正しい方向へと導ける才能を持つ人間がそんなに沢山いるのだろうかと言っているわけです。

もっと身近な例で言えば、プロが行うスポーツの試合を観て、『あ~でもない』『こ~でもない』と監督気取りで文句を言っている人は、この世に大勢います。
ではその人達のは全て一致した一つの答えを言っているのかといえば、そんなことは無いでしょう。それぞれがバラバラのことを言っていたりします。もし一般大衆が勝利の法則を知っているのであれば答えは一致するはずですが、それすらしません。
では、その一般市民達がプロに変わって実際に監督になったとして、プロの監督よりも実績を出せるのかというと、それは不可能でしょう。

プロの監督は、自分のチームを勝利に導くことだけに全神経を集中させて生活をしています。そんな人に、酒を飲みながらテレビを見ているだけの人が、そのゲームの知識で勝てるのかというと勝てるわけがありません。
これがゲームの勝敗ではなく、『ものの良し悪しを見極める事』という真理といっても良いような事柄になれば尚更です。一般市民はそんな事について普段考えたことすら無いでしょうから、そんな知識を持っているはずが無いと思われます。

大衆から実際に学べている


しかしこれに対してアルキビアデスが、そんなことはないと反論します。
彼は、『私は今現在ギリシャ語を喋っている。この言葉は、生まれたときは喋れなかったため、誰かから教えてもらっているはずだけれども、明確な人物の名前が挙げられるかと言えば、そんな事はできない。
しかし、日常生活を送る中で一般大衆たちが取るコミュニケーションを見聞きしたり、実際に話しかけられたりして覚えたことだけは確実だ。』といったようなこと主張します。

これは確かにアルキビアデスの言うとおりで、日本に住む私達は日本語をしゃべることが出来ますが、その言葉を喋れるようにしてくれた特定の人の名前を挙げられるかといえば、挙げることは出来ないでしょう。
親が教えてくれたという方もいらっしゃるでしょうが、確かに、言葉を教えてくれた教師の1人は親かもしれませんが、普段テレビから垂れ流されている言葉が、言語の学習に全く影響がなかったかといえばそんなことはないでしょう。
普段かわされる何気ない会話を日常の中で聞き続けることで、私達は言葉を覚えるため、教師は誰かと聞かれれば、一般大衆に教えてもらったと答えても間違いではないでしょう。

知識のレベルの違い


これに対してソクラテスは、『言葉に関しては、君のいうとおりかもしれないが、しかし、それは善悪を見極める知識については当てはまらない。』と主張します。
何故かといえば、人に知識を授けることが出来るのは、知識を持つものだけだからです。
言葉というのは、一般大衆の大半が知っているため、教えることが出来ます。 特に日常会話程度の言葉であれば難易度は低いため、母国語であれば大抵のものが最低限のコミュニケーションを取れるレベルでは習得しています。

この様に、皆がそれなりのレベルで習得している知識であれば、皆から言葉を教えてもらうということは可能でしょう。 では一般大衆は、母国語と同じ様に善悪を見極める知識を身に着けているのでしょうか。

法則に従えば答えは一致する


例えば、母国語を正しく理解している国民に向かって、右の方に歩いてくれとか、あそこに見える山の方に歩いてくれといった感じで指示をすれば、彼らはその支持を正しく理解してそちらの方へと歩いていってくれるでしょう。
おそらく、指示を意図的に変な方向へ解釈する一休さんのような人でもない限り、素直で理解力のある人は、その指示によって同じ方向に向かって歩いていくはずです。 この様に、正しい知識を身につけていれば、入力に対して出力は同じになるはずです。

では、先程から問題になっている『正義を見極める知識』についてはどうでしょうか。 この知識が既に確立されていて、尚且、一般市民が正しく理解しているのであれば、善悪の判断を委ねられた際に皆が下す決断は同じはずです。
この状態というのはつまり、裁判などで有罪無罪を判別する際には、確実に満場一致で判決が下るということです。では実際にはその様になっているのでしょうか。 
このコンテンツでは以前に『ソクラテスの弁明』という対話編を扱いました。 この対話篇の簡単な内容としては、ソクラテスが今まで論破してきた者たちに訴えられて裁判にかけられた際に弁明を行うというものです。

この対話編で行われる裁判では、約500人の裁判官の多数決によって判決が決まるのですが… もし、アルキビアデスのいうとおり、一般大衆の多くが『善悪の判断を見極める知識』を身に着けているのであれば、判決は500対0で出るはずです。
では実際にはどうだったのかというと、結果は僅差で有罪になっています。 対話篇では具体的な数字は書かれていませんでしたが、30人程度の人間が心変わりをするだけで判決は覆っていたと言われているので、票は割れたわけです。
このことからわかるのは、少なくとも半数ぐらいの裁判官は、善悪の知識を身に着けていなかったということです。

私は善悪の正しい判断をするための知識を持っていないので、どちらに投票するのが正解かはわかりませんが…
対話篇の中で投票した裁判官の中には、知識を持っておらず、感情に任せて投票したけれども結果的に正しい方へ投票できていたという人もいるでしょう。
そういう人を除いてしまうと、もしかすると『正しい知識を身に着けている人』は、一般大衆の中にはいない可能性もあります。

このことからわかることは、一般市民の少なくとも半数は人の行動の善悪の区別がつかない。悲観的に見積もるのであれば一般市民には1人の人間が善人か悪人かを見極める能力がないということです。
人間一人についてのの善悪すら見極められない一般大衆に、果たしてこの世の全ての事柄に当てはまるような善悪を見極める法則のようなものが分かるのでしょうか。

大衆が善悪を正しく見極められるなら…


また、そもそも論となりますが、本当に一般大衆が善悪の区別を正しく見極めるための知識や技術を持っているのであれば、法律もいりませんし、何なら国という枠組みも必要ありません。
何故なら先程も言いましたが、正しい知識を身に着けた状態で何かしらの判断を迫られた場合、自身で感情に任せて考えるのではなく、その知識に照らし合わせることで出てくる答えは毎回同じになるからです。
大抵の問題というのは人と人が関わることで起こりますが、この際、善悪を見極める知識を持つ者同士が知識に照らし合わせてその問題について考えれば、それぞれの人が出す答えはおなじになるため、争いが起こりません。

この争いが拡大すれば戦争となりますが、そもそも知識によって争いが起こらない状態になっているのなら、戦争も起こるはずがありません。
では実際にそんな世の中になっているのかといえばなっておらず、なっていないからこそ、アルキビアデスは政治家になろうとしているわけです。
このような感じでソクラテスに反論されるのですが、アルキビアデスはどうも納得しきれません。

そこで、もう少し、善悪の区別を見極める技術を学ぶ機会があったのかどうかについて探っていくのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献