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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第138回【アルキビアデス】知識や技術の身につけ方 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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不毛な議論


アルキビアデスもこの理屈には納得してしまい、自分には善悪を見極める知識を身に着けている見込みはないというのですが、これに対してソクラテスは、『それもまた正確な言い方ではない』と言い始めます。
というのも、アルキビアデスは単に善悪の知識を身に着けていないというだけでなく、自分には知識がないにも関わらず、無いはずの知識を持っていると思い込み、尚且、それを他人に教える立場にあると思っていたからです。
対話篇の中では、ソクラテスがアルキビアデスに対してかなり皮肉たっぷりに指摘するのですが、この部分はアルキビアデスに対して指摘しているというよりは、対話篇の筆者が読者全体に対して指摘しているようにも思えます。

というのも、アルキビアデスの様に考えている人は少なくなく、世の中の人の多くが善悪について考えたことすら無いのに自分は善悪の区別がつくと思い込み、問題を前にした際には善悪を独断で決めつけるからです。
各自が『善悪を区別するための知識』ではなく個人の独断で判断しているため、当然のように判断結果はバラけてしまい、正しいのはどちらの意見なのかといった言い争いが日常的に起こっています。
しかしソクラテスに言わせれば、そもそも一般市民たちは善悪を区別するための知識について真剣に考えたことはないんですから、その話し合いにすら意味はないんでしょう。

医学の知識を持たない一般人同士が病気について話し合ったところで真実に到達しないように、善悪の知識を持たない人同士が話し合ったところで、出た結論が正しいのかどうかがわかりません。
話し合っている本人たちに『自分たちには知識がない』という自覚があれば、真実を探求する目的を持って話し合いができるため、対話篇メノンに登場した想起論に当てはめれば、対話を通して正しい答えにたどり着く可能性はあるかもしれません。
しかし一般市民たちは自分たちには善悪を見極める程度の知識はあると思い込んでいるわけですから、その探求すら行いません。結果、話し合いは不毛な言い争いにしかなりません。

必要なのは損得勘定


これに対してアルキビアデスは、善悪を見分けて物事の真実を知ることは、それほど重要ではないのではないかと主張します。
というのも、人々が言い争いをする場合、議論の本質は大抵は善悪ではなく、利害だったりします。
つまり人々は、建前では善悪のことを話しているように見せかけているけれども、実際には自分たちの損得について考えているだけだというわけです。

確かに、私達の身の回りの言い合いを注意深く聞いてみると、どのような行動を取るのが正しいのかということよりも、自分の立場が守れるのかとか自分たちに不利益はないのかといったことが議論の主軸になっていたりします。
ただ、それを露骨に出すと人間性を疑われるので、建前として、その行動は良いとか悪いと言っているだけで、本当に興味があるのは自分たちが損をするのか得をするのかということだけです。
現代日本の政治家同士の話し合いにしても、誰の顔を立てた方が良いだとか誰と組むと得をするといった感じで、善悪はそっちのけで個人や国の利害につて話し合われています。

古代に起こっていた戦争にしても、誰かが悪いことをしたから、その行動を正すために戦争を起こしていたのではなく、王様が敵対する相手から領土を奪い取ることが自分達の国にとって得だと判断したから戦争を仕掛けたと思えば分かりやすいです。
ただ、単に自分が得をすると主張したところで民衆はついてこないので、民衆を説得するために、いかに自分たちの行動が正しくて相手が間違っているのかと主張しているだけだとすれば、善悪を見極める技術なんて必要はありません。
自分たちの行動を正当化するためのストーリーを作り出す技術があれば良いだけだからです。 損得の話を善悪の話にすり替えて皆が納得するストーリーを考え出せば、後はどうとでもなります。

何故なら、それを受け止める一般市民は誰も善悪を見極める技術を身に着けていないため、自分たちが得になりそうで、尚且、聞こえの良いストーリーは正義だと決めつけて支持してくれるからです。

悪行でも進んでやる人達


例えば、自分たちの武力が圧倒的に勝っていて、ほとんど犠牲者が出ない形で相手の領土を手に入れる事ができる環境があったとしましょう。
相手の領土を手に入れることができれば、さらなる農地を手に入れることができますし、相手の民衆を捕まえて奴隷にし、農地で働かせることができれば、自分たちの国の食糧事情は安定するでしょう。

勝つか負けるかわからないような接戦になりそうな場合は、こちらも相当な被害を覚悟しなければならないわけですから、戦争をするという判断を下すのは慎重にならざるを得ません。
しかし、軍事力に圧倒的な差があり、こちらの犠牲が出ない状況で相手の領土を手に入れることができるのであれば、手に入れたいと思うのが人間です。
多くの人は何も悪いことをしていない人達の元へ攻め込んでいって略奪したり、人を攫って奴隷にするのは悪いことだと思うでしょう。

しかし、その何もしていない人たちに対して『野蛮人』だとか『邪教徒』とレッテルを貼ればどうでしょうか。
そのレッテルを貼るだけで彼らは自分たちと相容れない悪人となるため、その悪人を懲らしめに行く自分たちは善人になるという口実が生まれます。
人々が求めている善悪というのはこういった都合の良いストーリーで、学問や真理としての絶対的な善悪なんてものは求めていません。

普通に考えれば悪いことと思われる一方的な侵略戦争であったとしても、相手を侵略することで自国が利益になると思うのであれば、侵略を実行する指導者はいるでしょう。
人生でも国の運営でも、正義を行うことは必ずしもプラスにはならず、不正を行う事によってプラスになることもあります。
その際に人が考えることは、物事の善悪ではありません。 物事の善悪なんてものは考えるまでもなく最初から明白だと思い込んでいるので、議論の内容は主に、どのような選択をすれば利益が得られるのかということになります。

政治家に必要な知識


アルキビアデスは、世の中の議論の大半は本質としては『大きな不正を犯しても僅かな利益しか得られないのであれば、不正をする意味がないので不正に手を染めないが、莫大な利益が手に入るのであれば不正に手を染めるのも一つの手だ。』と主張します。
このアルキビアデスの主張が正しいのであれば、政治家に必要なのは善悪を見極めるなんて大層な知識ではなく、損得を見極める技術さえあれば良いということになります。
ではこの意見は本当に正しく、正しいことと利益が得られることは必ずしも一致しないのでしょうか。

ソクラテスは、アルキビアデスに対してこの事をちゃんと説明してほしいといいますが、アルキビアデスはなんだかんだと言って逃げ回り、一向に説明をしようとしません。
そこでソクラテスは、逆に自分が話すことで、アルキビアデスに『正義にかなった行動は利益になるものだ』という事を納得させてみせると言いだすのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献