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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第141回【アルキビアデス】人を支配するとは 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

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これまでの振り返り


今回は、アルキビアデスの対話篇の第3部を取り扱っていきます。
前回までの話をものすごく簡単に振り返ると、第1部では、自分には政治家の才能があると思い込んでいたアルキビアデスが、ソクラテスによってそんな能力がない事を暴かれてしまいます。
政治家に成るために必要なのは善悪を見極める知識です。 知識を身につけるためにはまず、自分はその知識を身に着けてはいないことを自覚し、そのうえで、人から学ぶか自ら探求しなければなりません。

しかし彼は、子供の頃から善悪の区別がつくと思い込んでいました。 人は既に持っているものを更に持とうとは思わないため、善悪を見極める知識を既に持っていると思いこんでいるアルキビアデスは当然、その知識を得ようと努力することはありません。
結果としてアルキビアデスは、善悪を見極める知識を身に付けないままに大人になってしまいました。
政治家に成るためには善悪を見極める知識を身につけていなければならないのに、アルキビアデスはそれを持っていません。 これにより、彼は政治家に向いているとは言えなくなってしまいました。

この第1部でアルキビアデスの無知が明らかになり、彼が政治家に成るという夢を叶えるためには、本来なら善悪を見極める知識を身につけるという努力をしなければならなくなったわけですが、彼はそんな必要はないと言い出すのが第2部です。
彼の理屈としては、ソクラテスの主張は最もだけれども、彼の言う善悪を見極める知識なんてものを持っている人間も、それを身に着けようと努力している人間もいないわけだから、そんな知識を身につける必要はないと言います。
アルキビアデスは、持って生まれた才能と生まれの良さでアテナイの他の政治家を圧倒していると思い込んでいます。

アルキビアデス自身も他の政治家も、等しく善悪を見極める知識を持っていないのであれば、政治家に向いている向いていないを決めるのは、それ以外の能力となります。
彼は、自分自身の生まれの良さも含めて他の人間を圧倒していると思っているので、同じく知識を持たない同士で比べるのならば、自分は政治家に向いていると言うことなんでしょう。

アルキビアデスが目指す場所


しかしソクラテスは、彼に対して『君の目標はそんなに低いのか? もっと上を目指そうと思うのであれば、比べる相手が違うのではないか?』というような事を言います。

これは、もしアルキビアデスの最終目標がアテナイのいち政治家になることで、国の代表になることも他国を制圧して広大な国の大王になることも目指さないのであれば、アテナイの政治家たちと自分を比較して満足しておけば良い。
しかしそうではなく、アテナイという国の代表になり、それを足がかりにして他の地域も征服し、アジアとヨーロッパを制して大王になりたいと思うのであれば、ライバルは他の国の王やペルシャの大王に設定しなければならないということです。
では、アルキビアデスとペルシャの大王とを比べた場合は、どうなるのでしょうか。

アルキビアデスは生まれが良いとはいっても、所詮は民間人の子供ですし、自分に王位継承権などがないからこそ、一般市民でも国の代表を狙えるアテナイまでやってきたわけです。
一方でペルシャの大王はどうかというと、王様の子供として生まれ、生まれたときから次の王として育てられます。一般市民たちは王子に対して未来の王様として接し、自分たちと比べるなんてことは恐れ多くてしません。
両者の生まれだけを比べても、そこには天と地ほどの差があり、アルキビアデスとペルシャの大王とを比べても、どの部分で勝っているのかを見つけ出すのに苦労するほどです。

両者は生まれだけでなく、当然、その後の育てられ方も違っています。
アルキビアデスは生まれが良いとはいっても、それは一般人の中ではそうだというだけに過ぎません。一般人でも生まれが良ければ、自分の子供の為にそれなりに良い教師を雇って教育するということは出来ます。
しかしペルシャの大王の子供は、生まれながらに未来の王という将来が決定しているわけですから、物心がついてすぐに帝王学を叩き込まれます。

付き合う人達も、貴族や他の王族など選ばれた者たちばかりで、その中で揉まれながら未来の王として育っていきます。
こうしてペルシャの大王の子供とアルキビアデスとを並べると、比べることそのものが恥ずかしくなってしまう程の差があります。
持っている財産の量や生まれ育つ環境だけを考えれば、ペルシャの大王の一族には到底叶いません。

どの様な人間が優れているか


では、どれだけ頑張ったところで、一般市民であるアルキビアデスはペルシャの大王の一族には勝つことが出来ないのかというと、そうではありません。
アルキビアデスが不必要だと吐いて捨てた、善悪を見極める技術を始めとした誰もが身に着けていない技術や知識を身につけようと心がけ、実際に頑張ることで、彼らよりも上に立てる可能性が出てきます。
では実際にその様な人間になるためには、どう頑張ればよいのでしょうか。

ソクラテスはそれを一緒に解き明かす為の議論をアルキビアデスと始めるのですが、第3部は、その議論から始まります。
まず、物事をよく考える者と考えない者とを単純に比較した場合、より優れている者はどちらになるでしょうか。
これは、おそらく多くの方が『物事をよく考える者』の方が優れたものだと考えますし、物事をよく考えてよく勉強した結果として多くの知識を持つ人のこともまた、優れた人だと考えるでしょう。

知識というのは分野ごとに存在していますが、それぞれの知識を収める者の事を、その分野で優れた人と表現したりもします。
例えば、経済に興味があり、その分野についての情報を積極的に集め、世の中で起こっている出来事を経済学で説明しようと常に考えを巡らせている人は、経済学の分野で優れた人と表現することが出来ます。

賢者は同時に愚か者なのか


ではこの人は、この一分野において優れているからという理由で全体的に優れているのかというと、そういうわけではありません。

経済学について詳しい一方で、医学についての知識を学ぶ暇がなければ、この人は経済については優れた人だけれども医学については無知な人となります。
これはスポーツなどでも同じで、サッカー選手として優れた人がバスケットボール選手として優れているかといえば、そんな事はありません。
格闘技の世界では『どの競技が一番強いのか』なんてことが話題になったりしますが、これもルールによって変わります。柔道の世界チャンピョンがボクシングルールでボクサーと戦えば、アマチュア相手に負けてしまう可能性も大いにあります。

つまり専門家は、自分が納めた専門分野について優れているということであって、1分野で優れているからと行って全ての分野で優れているとは限らないわけです。
ではこの理屈でもって、『優れた者は、同時に劣った者である』ということは出来るのでしょうか。アルキビアデスはこの問いに対して、『そんなことはないでしょう』と否定します。
では彼にとって『優れた者』とはどの様な人間のことでしょうか。


参考文献