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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第137回【アルキビアデス】大衆から学ぶ 前編

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目次

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

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政治家に必要な知識


今回も対話篇『アルキビアデス』について話していきます。 前回の話を簡単に振り返ると…
対話篇のタイトルになっているアルキビアデスは、政治家になることを目指しています。
この政治家ですが、目指せば誰でもなることが出来るような職業ではなく、良い政治家になるためには何らかの能力が必要になります。

この能力について当初アルキビアデスは、外交や内政についての技術や知識があればなれると思いこんでいました。
ですがこれでは、範囲が広すぎます。 和平を結ぶのも同盟を結ぶのも戦争をするのも、一言で言い表せば『外交』の一言で済んでしまいます。
しかし、そんな広すぎる『外交』という分野も、ベースとなっている学問自体は限定されているかもしれません。

例えば、アルキビアデスが人から学んで手に入れたレスリングという技術も、細かく見れば足運びや組み付き方や牽制の仕方など、数多くの動きを組み合わせた運動ですが、そのベースとなっているのは体育術という体を動かす学問です。
人の体をどの様に動かすのが効率が良いのかという学問がベースとなり、レスリングで使われる複雑な動きに発展していっています。
これと同じ様に政治家に必要な能力もシンプルなものである可能性があり、それさえ身に着けていれば、政治家の仕事というのは、その知識の応用でなんとかなるものかもしれません。

知識の身につけ方


それでは、政治家になるのに必要な知識は何なのか。 当初、アルキビアデスは見当もついていませんでしたが、ソクラテスとの対話の結果、政治家に必要なのは『善悪を見極める為の技術や知識』ということが分かりました。
ではアルキビアデスは、その知識や技術を持っているのでしょうか?

ソクラテスが率直に聞くと、アルキビアデスは『あなたは、私がその知識を持ってないと思ってるんですか?』と反発しますが、それは単なるアルキビアデスの思い込みの可能性もあるので、ソクラテスは質問を重ねることで吟味していきます。
まず前提として知識というのは、『自分が獲得したい』と思っている知識がこの世の中にある状態。これは、既に知識が確定してあるわけではなく、何となく存在するだろうというレベルでも良いのですが…
とにかくそのような知識がある事を知っている状態で、尚且、自分はその知識を持っていない状態で知識を身に着けようと努力することで身につけることが出来ます。

この努力というのは主に、その知識を知っている人に教えてもらうか、自分自身で探求することで身につけることを指します。
わかりやすく科学を例に考えると、私達は科学の基本的な知識というのは、学校で義務教育として習う機会があります。 ここで習う知識というのは、反論することも難しい確からしいと思われている事柄ばかりです。

しかし、この世にはまだ科学で解明されていないものもあります。 科学に興味を持ち、義務教育が終わったあとも大学や大学院で研究する人たちは、まだ解明されてはおらず、知識としてはこの世に存在してはいないけれども…
何らかの法則があるだろうと思われる分野について自身で研究し、それによって新たな法則を見つけ出そうとします。この様に、教師に教えてもらうか、自ら研究することで新たな法則を発見することで、知識というのは身につきます。
もし、そのような知識があると知らない場合は、誰かから教えてもらうことも自ら探求することもしないので、当然、知識は身につきません。

それとは別に、自分に知識がないにも関わらず、その知識は既に知っていると勘違いしている場合も、謙虚に誰かから教えてもらうこともなければ自分で探求することもないため、知識は身につきません。
知識が身につく前提は先程も言ったとおり、その知識が存在する事は知っているけれども、その知識を自分は身につけておらず、知識を身に着けたいと行動する場合だけです。

善悪を見極められるような振る舞い


では、アルキビアデスにその状態、つまり『善悪を見極める知識』がこの世にはあるらしいが、自分はそれを身に着けていないと自覚している時期はあったのでしょうか。
ソクラテスはアルキビアデスのことを少年時代から知っていますが、彼は子供時代ですら、相手の不正を訴えると言ったことを頻繁に行っていました。
子供が不正を訴えるというと大げさに聞こえるかもしれませんが、簡単に言い直せば、子供同士が遊んでいる最中に『誰だれ君がずるをしたとかインチキをしたと言って喧嘩を始めるような感じです。

こういう経験は誰にでもあると思いますが、こういった場面で喧嘩を始めたり文句を言ったりする子供というのは、大抵は相手が不正をした事によって不利益を被ったことで腹を立て、行動を起こします。
このような行動は、当然ですが自分に善悪の判断ができると思っていなければ出来るものでは有りません。
アルキビアデスも、幼年時代は『自分に善悪の判断ができる』と思い込んでいて… というよりも、『実はそれが出来ないのではないか?』という疑いすら持たずにいました。

実際に知識を持っているか持っていないかは別として、『自分は知識を持っている』と思い込んでいる状態では、人はその知識を更に得ようと努力することは有りません。
前回に取り上げた対話篇『饗宴』にも、『美しさを手に入れているエロスという神は、更に美を追い求めるなんてことはしない』というような話が出てきましたが、それと同じで、既に手に入れているものを手に入れようと足掻くものなどいません。
これは先程あげた『知識を得るための前提』にも通じます。

大衆から学ぶ


この指摘を受けてアルキビアデスは、自分では発見しておらず、誰かから教えてもらったと主張を変えます。
これを受けてソクラテスは、そんな教師がいるのならぜひ紹介してほしい、そうしてくれれば、私も正しい善悪の見極め方を学べるんだからといいます。
ソクラテスは自分自身で善悪の見極め方を知らないことを自覚していて、その知識がどこかにあるだろうとは思っていますが、それを知っている人に出会ったことがなかったので、そんな賢者がいるなら紹介して欲しいと思ったのでしょう。

これに対してアルキビアデスは、一般大衆から教えてもらったと主張します。
この意見に対しては、過去に取り扱ったメノンに登場したアニュトスや、ソクラテスの弁明に登場したメレトスも同じような主張をしていました。
彼らの主張がどのようなものだったのかというのを簡単に説明すると、一般大衆というのは、何らかのアクシデントが有った際にアドバイスをしてくれるし、事件や政治的なニュースなどを聞いた際も、持論を展開して善悪を話してくれます。

今でいうと、ワイドショーで取り扱われている事件や政治のニュースなどを見たり聞いたりして、それを受けて井戸端会議やネットなどで持論を展開している人は山ほどいます。
そしてその持論の多くは、最終的には取り扱っている事柄に対する善悪を断言することで締めくくられます。
例えば、今の政権の今の首相の方針は良いとか悪いとか。 あの事件の犯人の行動は良い、悪いといった感じで、人々は頻繁に善悪の判断をして、それを外に発信しています。

そのような人々の話を聞き続けることで、この世の善悪を学べるというのが、これまでの対話篇に登場したアニュトスやメレトス、そして今回のアルキビアデスの主張です。
一見すると最もな意見ですが、では実際にはどうなのでしょうか。

参考文献