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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第148回【アルキビアデス】まとめ2 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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善悪を見極める知識


今回も、対話篇『アルキビアデス』のまとめを行っていきます。 前回を聞かれていない方は、そちらから聞かれることをおすすめします。
前回の話を簡単に振り返ると、青年へと育ったアルキビアデスは、自分は他の人間よりも優れているので政治家になるべきだと主張します。
この意見に対してソクラテスは、政治家になるために必要な知識は何だと思う?と彼に問いただします。

例えば大工になりたいと思うのであれば、建物を建てるための技術や知識が必要となります。建築家になるためには建築士の知識や免許が必要になるでしょう。
世の中には沢山の職業がありますが、それらの職業にそれぞれの専門知識が必要とされますし、ほとんどの職業では、その専門知識を多く持っている人や、知識を上手く活用できる人が優秀な人だとされます。
これは当然、政治家にも当てはまると思われますが、では政治家に必要な知識というのは何なのでしょうか。

討論の結果、政治家に必要な知識とは『正義にかなった行動を取る為の知識』ではないかという話になりました。
正義にかなった行動を取るための知識とは、『善悪を見極めるための基準』とも良いかえることが出来ますが、では、その基準をアルキビアデスは身につけているのでしょうか。
アルキビアデスは直感的に、『そのようなことは既に身につけている』といいたげですが、本当に彼はその『基準』を身に着けているのでしょうか。

知識をみにつける順番


知識を身につけるために必要なことは、まず最初に自分自身はその事柄に関しては無知であると受け入れるところから始まります。
逆に言えば、『その程度のことは知っている』と思い込んでいれば、その事柄について勉強しよう等とは思わないということです。
つまりアルキビアデスはこれまでの中で1度でも、『私は善悪の区別をつけることが出来ない』と自覚した上で、勉強するなり自ら探求するなりしていなければならないということです。

これは、身近な勉強に当てはめて考えてみるとわかりやすいと思います。 一度も教育を受けること無く、生まれながらにして九九がスラスラ言えるような人はいないでしょう。
何の練習もトレーニングもせずに、一流のスポーツ選手に成れるような人はいませんし、何の研究もせずに世紀の大発見をするような人もいないでしょう。
何らかの技術や知識を身に着けている人は、その事柄についての地道な勉強や反復練習などのトレーニングを行うことで、技術や知識を手に入れます。

そしてその勉強やトレーニングといった努力は、自分が『その知識を持っていない』もしくは、『まだまだ自分は未熟だ』といった無知の自覚であったり無力感を感じなければ行うことは無いということです。
アルキビアデスが『善悪の区別をつけるための知識を持っている』と主張するのであれば、先程も言いましたが、彼はこれまでの人生の中で無知からくる無力感を感じなければなりません。
では実際にアルキビアデスにその様な時期があったのでしょうか。

大衆から学ぶ


ソクラテスはアルキビアデスのことを子供の頃から知っていましたが、彼はその頃から善悪の区別がついていたような振る舞いをしていました。
具体的に言えば、他の子供と喧嘩になった際に、自分の正当性を主張するという行動を子供の頃から行っていたということです。
この様な言い方をすると大層に聞こえるかもしれませんが、平たく言えば『誰々くんがインチキをした』といった理由で喧嘩に発展することが多々あったということです。

つまりアルキビアデスは、子供の頃から善悪の区別がつくと思いこんでいて、『自分には善悪の区別をつけることが出来ない』と無力感を抱いた経験が一切ないということになります。
これによってアルキビアデスは論破されてしまうわけですが、彼は別の理論で自分には善悪の区別をつける為の知識を身に着けたと主張します。
その理論というのが、大衆から受動的に教えてもらったというものです。

これは、自ら進んで勉強をしたり誰かに弟子入したわけでもないのに、大衆が日常生活の中で自然と自分に知識を教えてくれたので、それを吸収することで知識を手に入れることが出来たということです。

言葉は大衆から学べている


こんな事があるのかと思われるかもしれませんが、例えば私達が母国語を話す際には、誰かに教えてもらっているという自覚なしにいつの間にか話せるようになります。
私達が本格的に日本語を学ぶのは小学校に入ってからですが、では小学校入学前は一切言葉が話せないのかと問われれば、そんなことはなく、ある程度のコミュニケーションが取れる程度の言葉は話せるようになっています。

当時のギリシャでも、教育を受けられないような奴隷であったとしても、言葉は話せたし聞けたでしょう。 何故なら、もしコミュニケーションが取れないのであれば、奴隷の仕事ですら行うことすら出来ないからです。
ではこの言葉というのは、ソクラテスが主張するような手順で持って身につけたのかというと、そうではないでしょう。

例えば、生まれたばかりの赤ん坊が『自分以外の人間は何らかの音を発することによってコミュニケーションを取っていて、その音にはパターンが存在する。
そのパターンを自分は知らないので、それを理解して自分もコミュニケーションを取れるように勉強しよう!』と思って勉強した上で身につけたのかというと、そんなことはないはずです。
親が語りかけてくれる言葉やテレビから流れてくる音などを聞き流しながら、何年かかけていつの間にか簡単な言葉を話せるようになっていっただけで、自分の無知を自覚した上で学習しようとしたから身についたわけではないでしょう。

言葉が少し話せるようになると、親や幼稚園や保育園の同年代の友達などと話すことで、子供はさらに言葉を上手に使いこなせるようになっていきますが、これは言葉を探求していると言えるのかといえば微妙です。
では誰か特定の人物の弟子や生徒になって教えてもらったのかというと、これも違うでしょう。 厳密に言えばその都度、誰かには教えてもらっているのでしょうが、その人数は多すぎて特定することは出来ません。
ならこの状況をどの様に表現するのかといえば、生活していくうちに何となく身につけた、強いて言うなら大衆に教えてもらったとしか言いようがありません。

参考文献