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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第136回【アルキビアデス】善悪は誰にでも見極められる? 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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善悪を見極める為の知識

ここまで話してソクラテスは、政治家が行う決定というのは『より正義にかなっているか』というのが重要なのではないか?と訪ねます。

そもそも、この正義云々の話というのは、アルキビアデスが政治という分野はどの分野の学問や技術がベースになっているのかがわからないといったところから、ソクラテスが派生させた話でしたが…
何故その様に話をそらしたのかというと、政治家が重要な事柄を決定する際、『より良く』決定する際には、より正義にかなっているかどうかを考えるというのが重要そうに思えたからでしょう。
つまり、政治や外交のベースとなっているのは、正義についての知識だというのをアルキビアデスにわからせるために、敢えて回り道をしたのでしょう。

この意見にアルキビアデスも同意しますが、それによって、一つの疑問が出てきてしまいました。
というのもこの意見によると、秀でた政治家になるということは、一般の人よりも正義や悪を見分ける能力が有ると言い換えることが出来てしまうのですが、アルキビアデスはその技術をいったいどこで身につけたのでしょうか。
繰り返しになりますが、アルキビアデスは楽器演奏と読み書きとレスリングしか教師から教えてもらってはいません。 つまり、正義に関する教師はいなかったわけです。

人から教えてもらっていないのであれば、他に知識を得る方法としては自ら考え出すしかありません。 ではアルキビアデスは、正義と悪を見極める方法を、自ら編み出したのでしょうか。
この流れに当然のようにアルキビアデスは反発し、『私には正義と悪を見極める知識がないと思ってるのですか? 教えてもらわなくても自ら考え出せるとは思わないのか?』とソクラテスに突っかかります。

知識を身につける順番

これはアルキビアデスに限らず、多くの人がアルキビアデスと同じような反応をすると思います。 『ものの良し悪しを知っているか?』なんて基本的過ぎる質問については、当然知っているし、考えればすぐに分かると答える人は現代人でも多いと思います。

しかしここで活きてくるのが、ソクラテスが一番最初に掲げた、知識を有るための前提条件です。
1つは、先程もいったとおり、知識を持つ誰かから教えて貰う方法です。 自分の知らないことを知っている人から教えてもらうことで、自分も同じような知識を得ることが出来る様になります。
そしてもう1つが、自ら考え出すことです。 人は全くのゼロから様々な理論を考え出すことは難しいですが、複数の知識を混ぜ合わせたり、知識に自らの経験を加えることで新たな知識を身につけることが出来るようになります。

知識の身につけ方は基本的にはこの2つですが、この2つに共通する前提として、『そういう知識が存在していることは知っているけれども、今現在の自分はその知識を身に着けていない』と自覚している必要があります。
つまり、『物を知っている』という状態は、まず、物を知らない状態というのが存在し、そこから他人に教えてもらうなり、自分なりに探求するなりして知識を身につけるという工程を経て、人は知識を得るということです。
人は既に知っている知識を身に着けようとはしませんし、存在すら知らない知識を手に入れようとも思いません。

その為、知識があることを知っていて、今現在の自分にはそれが欠けているという状態を認識しているという前提があってはじめて、知識を身に着けようと思い、努力の結果として知識は身につきます。
この前提に照らし合わせれば、アルキビアデスが善悪を見極める知識を持っているということは、以前に善悪の知識を見極められない状態が有ったということになります。
そしてその状態で、『この世には正義と悪が有り、それを正しく見極める知識や技術がある』ということを知り、その知識を誰かから教えてもらうか、あるいは自分自身で探求して編みだす必要があります。

アルキビアデスに知識がなかった時代はあるのか

ではアルキビアデスに、『正義と悪を見極める知識がなかった時期』というのはあるのでしょうか。有ったとすれば、いつなのでしょうか。
ソクラテスはアルキビアデスに対し、『去年はその事を知っていた? 一昨年は?』といった感じで、ものの良し悪しを知らなかった時期を事細かに聞いていきますが…
アルキビアデスは『その頃には、もう既にものの良し悪しについては知っていた』としか答えません。

仮にアルキビアデスが80歳の老人であれば、このやり取りが数十回繰り返されたところで問題は有りません。
しかし彼は青年です。 そんなやり取りを数回繰り返すだけで、『彼は子供の頃から、モノの善悪を見極められた』と言わざるを得ない状態に追い込まれてしまいました。
そして実際に、彼は子供の頃から善悪を見極める能力があるような態度をとっていたとソクラテスから指摘されてしまいます。

善悪は誰にでも見極められる?

このソクラテスが目撃した彼の態度というのは、アルキビアデスの少年時代に限らず、誰しもが目にしたことがある光景のことです。
例えば、保育園に通う子供ですら、子供同士で喧嘩をするというのは良くあることです。ではその子どもたちは、どのようにして喧嘩を始めるのでしょうか。
誰かに気分を害することを言われたとか、物を取られた、ゲームをしている時にインチキをされたといった感じで、何かしらの被害を受けた、つまり相手から悪い行動を取られたので、それに対して反抗するといった感じで口喧嘩を始める。

その口喧嘩が発展する形で、暴力を伴う喧嘩に発展します。
アルキビアデスが取っていた行動もこれと同じで、特別な行動をとっていたというわけではないと思われます。子供同士で遊んでいる時に誰かがインチキをして、それを咎めるといった普通の行動をとっていたのでしょう。
しかしこの行動は、自分の意見が正しく、相手の行動が不正行為であるという事を見極めなければ出来ないことです。

何故なら、何が不正行為なのかがわからない人間は、その行為に対して文句を言うということすら出来ないからです。
これが、ゲームのような明確にルールが決まっているものであれば、それに違反している・していないという判断は楽だと思いますが、それ以外の日常のことで起こる喧嘩の場合は、ものの良し悪しを見極められなければ指摘することが出来ません。
では、子供時代にこのような行動を取っていたアルキビアデスは、善悪を見極める知識を持っていたのでしょうか。 それをソクラテスが尋ねると、彼は自分が誰かに怒ったり指摘したりするときは、正当な理由があったときだけだと答えます。

つまり彼は子供の頃から正当性というのを見極められたということになるので、これによりアルキビアデスは、子供の頃から善悪を見極める知識があったということになってしまいました。

無知を自覚していなかったアルキビアデス

では、アルキビアデスが善悪を見極める知識を持たなかった時代というのは、いつになるのでしょうか。 その少年時代よりも以前でしょうか。
ソクラテスが質問をするも、彼は答えることが出来ません。

これは、彼は、善悪を見極める知識を身につけるために、自身で探求したことがないという事を意味します。
繰り返しになりますが、人がなにかの知識を身につけるためには、その知識がこの世に存在することは知っているけれども、今の自分はその知識を身に着けていないという状態を自分自身で認識し、その知識を身につけるために行動する必要があります。
行動するとは、その知識を知っている人に教えてもらうか、その分野の研究を行うことで自分自身で試行錯誤を重ねながら知識を得ようと努力することです。

しかし先程の対話で、アルキビアデスは物心がついた頃から、『自分は善悪の区別がつく』と思い込んでいた、もしくは、その知識を本当に身につけているのかを考えることすらしていなかったということになります。
つまり、彼は自分に『善悪の区別を見極める能力』が無いと自覚していなかったわけですから、誰かから教えてもらうことも、自ら探求することもしていないということになります。

この指摘を受けてアルキビアデスは、自身の主張を修正することにするのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献