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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第136回【アルキビアデス】善悪は誰にでも見極められる? 前編

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目次

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

政治家に必要な知識


今回も、対話篇アルキビアデスについて話していきます。
前回は、アルキビアデスが政治家を目指すにあたり、どの分野について他の人間よりも優れているのかをソクラテスが彼に問いただすことで、その事について深堀りしていきました。

アルキビアデスが、他人よりも自分のほうが優れていると主張していたのは、『戦争や和平、またはそれ以外の国政に関することについての知識』でした。
戦争を含む外交の知識や内政についての知識は政治家にとって必須の知識と言えるでしょうし、この分野で他の人よりも圧倒する能力があるのであれば、アルキビアデスは確かに政治家になるべきでしょう。
これはソクラテスが活動していた紀元前だけの話ではなく今の政治にも通じる話で、国政や外交についての能力が高いのであれば、政治家に向いていると言えます。

では、この政治家に向いていると思われる『外交』や『内政』の能力というのは、何に裏付けされた能力なのでしょうか。
ソクラテスに言わせれば、能力と呼ばれるものの殆どは『行うべきことを必要なタイミングで行うこと』と言い換えることが出来て、一流であれば一流であるほど、そのタイミングは『より良い』タイミングで行われます。
では、『より良いタイミング』というのは、どのような基準で設定されるのかというと、その分野の基本となる技術や知識となります。

裏付けとなる知識


例えば、ボクシングやレスリングなどの運動の分野では、体育術と呼ばれる知識がベースになっていて、この知識に詳しく、尚且、忠実に体現できることが、優れたスポーツ選手と言われています。
この体育術というのは今現在の言葉でいうのであれば、運動生理学やトレーニング理論と言いかえることが出来るでしょう。
スポーツ選手やコーチは、自分で適当に考えて体を動かしているわけではなく、理想とされている動きを学び、それを体現出来るようにトレーニングを重ねます。

その理想とされている動きというのは、過去から現在に至る人々が経験や分析を積み重ねることによって生まれています。

これは音楽などでも同じです。 音楽は、格闘技や陸上のように結果がわかりにくく、どのような音楽が素晴らしいのかというのは感覚的なものになりますが、それでも『どのようなものが美しいのか』というのは古代から研究されていました。
音楽やダンスというのは感覚的なものであるため、古代では音楽や踊りの良さについては神の名前をつけて研究されていたようです。
これは、前回取り扱った饗宴を思い出してもらえれば分かりやすいかもしれません、饗宴では、人を魅了する美しさについて考える際には、対象をエロスやアフロディーテという神として議論を重ねていましたよね。

これと同じ様に、音楽や踊りといった分野については、ムーサという女神たちを置いて議論が重ねられて理論が作られていったようです。
そして技術の方は、ムーサという彼女たちの名前をとって、ムーシケと名付けられたそうです。このムーシケというのを語源として生まれたのが、現代で言うミュージックという言葉のようです。
古代ギリシャでは、音楽やダンスといった分野ではムーシケと呼ばれる技術や知識が裏付けとなって、優れているかどうかという判断が行われていたようです。

では政治家に必要な知識は何なのか?


では、アルキビアデスが他の人間よりも優れていると主張している『外交』や『内政』といったものは、どのような知識や技術が裏付けとなっている能力なのでしょうか。
戦争するタイミングをより良くはかり、都合が悪い時には和平を持ちかけて時間稼ぎし、戦争すべき時にはより良いタイミングで相手に攻め込む。
このような判断を行わなければならない国の政治判断を、より良いタイミングでよりよく行うためには、どのようなベースとなる技術や知識が必要となるのでしょうか。

ソクラテスはこの事を、内政や外交に対する能力が人一倍あると主張するアルキビアデスに対して質問します。
しかしアルキビアデスは、このソクラテスの質問に対して答えることが出来ません。つまり彼は、内政や外交について裏付けとなっている知識や学問について知らないということです。

戦争は正義を行使するために行う


この答えを受けてソクラテスは、『戦争をするには何かしらの原因があるけれども、その原因もわからないか?』と訪ねます。
これに対してアルキビアデスは、『戦争に突入するのは、戦争を起こす国が相手から国益に反することを行われたと主張して始める』というぐらいは知っていると答えます。
これは今現在の世界情勢についてのニュースを観てても分かりますが、例えば、自分のものだと主張している領土が別の国に侵略されたとか、資源を勝手に奪われたとか約束を反故にされた際に、話し合いで解決できなければ、最終的には戦争に発展します。

この戦争ですが、政治家や権力者が単に主張しただけでは、なかなか戦争にまで発展しません。 何故なら、権力者は口で命令すれば良いだけですが、現場で働く兵士は、実際に戦争なってしまうと自分の命をかけなければならないからです。
その兵士にも、彼らを心配する家族がいるでしょうから、戦争にまで発展させる場合は民意を得なければなりません。
この民意を得るために政治家はよく、自分たちの正当性や正義を主張し、自分たちが正義で相手が悪なのだと印象づけたりします。

これは、自分の国が戦争の当事者になる場合だけではありません。 同盟国や国交のある国を支援する際の言い訳としても、正義がどちらに有るのかというのは重要視されます。
この様に戦争というのは、正義とその正義に反する悪とういう存在から切り離せないわけですが…  ここでソクラテスが新たにアルキビアデスに対して基本的な質問をします。
それは、『政治家は、正義に則った行動をしているものか、正義に反する行動をとっているもの、どちらに対して『攻撃を加えよ』と支持するのだろうかと。』という質問です。

この質問を受けてアルキビアデスは、『ソクラテス、あなたは恐ろしいことを言いますね!
仮に正義に反した側についた方が自分たちが有利になるため、悪の側に付きたいと思ったとしても、それをそのまま正直に民衆に向かって言う政治家なんているはずないじゃないですか!』といった感じで突っ込みます。
先程も言いましたが、権力者は戦争をするかしないかを決めればそれで良いですが、市民たちはその決定によって戦場に行かなければなりません。

その際、権力者の利益のために自分の命をかけて悪事を働く市民はいないでしょうから、市民に対して悪に加担するために戦争をしようなんて演説をする政治家なんていません。
戦争なんて大勢の人間が命をかけて参加する物事を決定する際には、それなりの正当性、つまりは正義が有るかどうかを考えなければならず、決定する場合にはその正義を全面に押し出すことで悪に立ち向かっていこうと演説しなければなりません。

参考文献