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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第139回【アルキビアデス】賢者だと思いこんでいた愚者 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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kimniy8.hatenablog.com

損得勘定


今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回までの話を簡単に振り返ると、政治家を目指すアルキビアデスは、政治家になる為に必要となる『善悪を見極める知識』を持っているのかというのをソクラテスが吟味したところ、彼にはその知識がないことが分かりました。
政治家になるには、人よりも善悪を見極める知識を持っている必要があるけれども、アルキビアデスはそれを持ち合わせていない。では、彼は政治家になる資格はないのでしょうか。

この事実に対してアルキビアデスは、政治家にとって本当に必要なのは、善悪を見極める知識ではなくて『損得を計算できるスキル』だと主張します。
私達の日常を振り返ると、人が事の善悪の本質について考えることなんて殆どありません。人が判断の中心に据えるのは損得です。
これは単純に目の前の事柄についての損得ではなく、後々のことを考えた上で、今回は損をするとしても後で取り返すことができるといったことを嗅ぎ分けることができる嗅覚のことです。

今の日本の政治を見てみても、国内の事柄に関しても対外国の事柄に関しても、それが本質的に良い事なのか悪い事なのかが話し合われることは余りありません。
話されている事柄の大半は、こうすれば得をするだとか、このような行動を取れば将来的に損をするといった損得の話だけです。
政治の場で実際に話されていることの大半が損得勘定であるとするのなら、政治家を目指すアルキビアデスにとっては善悪を見極める知識なんて持っていなくとも、損得勘定ができれば問題はないことになります。

正義にかなった行動


では、本当に損得勘定ができれば政治家に向いているのでしょうか。これに対してソクラテスが反論を試みます。

ソクラテスはまず、醜い行動だけれども正義にかなった行動というのを観たことがあるかと質問します。
つまり、人として正しいと思われる行動をとっているのに、格好悪い人間だと指を刺されるような人間を観たことがあるかと聞いたわけですが、これに対してアルキビアデスは、観たことがないと答えます。
これは言い換えれば、アルキビアデスがこれまでに観てきた正義にかなった行動というのは、全て立派なものに見えていたという事を意味します。

では逆に、立派なものは全て良いものなのでしょうか。 これに対してアルキビアデスはNOと言います。
例えば、戦場で仲間が大勢の敵に襲われているとしましょう。 この仲間に助太刀して仲間の命を助けようとする行為は立派ではありますが、その結果として自分が死んでしまうのは悪い結果のように思えます。
その一方で、仲間が襲われているのを見て、敵に恐れをなして逃げ出した場合、この行動はみっともない行動ではありますが、結果として傷一つなく生き残れたのなら個人の行動の結果としては良いようにも思えます。

物事を小さい単位に分解して考える


これは確かに言われてみればそうなのですが、ここで注意しなければならないのは、この例には複数の事柄が混ざり合っていて、実は単純な問題ではなく複雑だということです。
例えば、勇気ある行動というのは、先程の例で言うのであれば助太刀をしようと思う行動に限定された話で、その後、助太刀に失敗して死ぬというのは悪いことであったとしても、勇気とは別の事柄です。
つまり、それぞれの事柄は一連した一つの事柄ではなく、概念的には切り離して考えるべきだということです。

先程の例では、助太刀した場合に自分が死んでしまうのなら、その結果は悪いことなのでその事柄全体が悪いことだとされていましたが、結果が自分たちの死ではなく全員生き残ったというふうに変われば、悪い結果から良い結果に変わります。
自分の命おしさに逃げる場合も、運良く逃げ延びることができれば良いかもしれませんが、逃げ切れなければ、結果としては卑怯にも逃げたけれども死んでしまったという最悪な状態になってしまいます。
ちなみにですがこの善悪の基準は、あくまでも自分が死んでしまうことが悪いことだと決めつけた場合にそうなります。

では次は、勇気を持って助けるという行動の方に焦点を当てて考えてみましょう。 リスクを犯して人を助けるという勇気ある行動は、正義にかなった立派な行動と言えます。
つまり勇気ある行動というのは、善悪で言えば悪い行動ではなく良い行動と言えます。

良いものと悪いもの


次に、良いものと悪いものがあった場合、人はどちらを所有したいと思うでしょうか。

例えば、人間的に優れた立派な良い人と、臆病者や卑怯者、人に配慮できない悪い人間がいた場合、友だちになりたいと思うのはどちらの人間でしょうか。
別のもので考えるなら、自分の性格や人柄として身につけるのは、勇気などの立派なものが良いでしょうか。 それとも臆病者や卑劣といった身につけるだけで人が自分を避けていくようなものが良いでしょうか。
この例ではわかりやすく極端な例で訪ねましたが、このような極端な善悪で比べた場合、多くの人が立派なものや良いものを身に着けたいと思うはずです。

これは質問されたアルキビアデスもそうで、彼などは更に極端な考えで、仮に自分が臆病者と呼ばれてしまうような状態になってしまうのは最悪で、そのような状態では生きている意味がない。死んだも同然だと言い放ちます。
ここでお気づきの方も多いでしょうが、このアルキビアデスの主張は、先程の例に当てはめて考えると、少しおかしなことになってしまいます。

先程の例というのは、仲間のピンチに勇気を持って助けに行った結果、自分が返り討ちに合って死んでしまえば、結果としては『死』という最悪な結果になっているので悪い事柄だ。
一方で仲間を見捨てて逃げてしまえば、死ぬという最悪の事態は免れるのだから、良いことだという例え話のことです。
仲間を見殺しにして自分だけ尻尾を巻いて逃げてしまえば、彼はその後の人生を臆病者として過ごさなければならないわけですが、彼の言うように、その臆病者の烙印が死ぬ事と同じであるのなら、逃げるという選択肢は選べないことになります。

なぜなら、戦って死ぬのも臆病者として生き恥を晒すのも、アルキビアデスにとっては共に、人生が『終わってる』状態だからです。
つまり、死ぬ事と臆病者とレッテルを貼られて生きる事がイコールである限り、彼には勇気を持って立派に戦うという以外に選択肢はないことになります。

参考文献