だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第143回物事には全て『良くするための技術・知識』がある 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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kimniy8.hatenablog.com

人間の本質は『魂+肉体』なのか?


ここで、人間は肉体と精神を切り離すことは出来ず、肉体に精神が宿ってはじめて人間だと考える方もいらっしゃるでしょう。
わかりやすく少しオカルト的に考えて、人間の魂が幽霊のような形で肉体から分離できるとした場合、『分離された肉体はただの物体で、純粋な魂部分である幽霊の方が人間だ』とは考えにくいですからね。
肉体部分と魂部分が重なり合って、一つになった状態こそが人間だと考える方が出てきても不思議ではありません。

しかしソクラテスは、そんな考えを否定します。何故なら先程も言ったとおり、肉体は魂によって支配される道具だからです。
人間の本質とは意思決定をして肉体を支配するものです。その肉体を支配すべきものの一部が肉体だというのは、筋が通っていません。
というのも、これを認めてしまうと、肉体は自分自身を支配している存在という意味不明な状態になってしまうからです。

支配するとは、他のものを自由自在に動かすことが出来る状態のことで、支配されるとは自由を奪われて命令されることと解釈できますが、そうすると、支配する側と支配される側とは別々のものでなければなりません。
肉体そのものが肉体の支配権を持っている場合、肉体は何者にも命令されない自由な存在となってしまうわけですから、これでは支配されている状態とは言えなくなってしまいます。
つまり、肉体を支配できるのは肉体以外のもので、肉体の決定権は魂が持っていると思われるため、支配者は肉体と魂が合わさったものではなく、魂のみとなります。

ここでは断定的に言いましたが、これは確定事項ではありません。 真実を知らないソクラテスたちに推測できるのはここまでなので、仮説として人間の本質とは魂だと定義しようということです。
というのもソクラテスもアルキビアデスも、人間の本質とは何かという答えを知りませんので、知らない者同士で話したところで真実の答えに辿り着いたかどうかは判断が出来ません。
なので、一応の答えとして、『人間の本質とは魂だ』としているだけだという点に注意してください。

人を良くする技術


さて、仮に人間の本質が魂だとしましょう。 この場合、人が良くなるとは人の魂を良くする事と言い換えることが出来ます。
先程、服や肉体を良くするためにはそれぞれ専門の知識や技術が存在するという話をしましたが、そうすると同じ理屈から、人の魂を良くするための技術や知識が存在するということになります。
そして当然の流れとして優れた人というのは、その技術や知識を持つものとなります。

この視点でもって人々の行動を観ていくと、今までと違った風景が見えてきます。
例えばアルキビアデスは古代ギリシャの中でトップレベルの美貌を持った人間ですが、人間の本質は肉体ではなく、当然のことながら顔の造形ではありませんので、これが優れているからといって優れた人間とは言えません。
当然のことですが、体の見栄えを良くするための技術であるとか、化粧の技術の上手さであるとか、病気などの人の体の悪いところを治すための知識や技術を持っていたとしても、それは優れた人間ではないということです。

またアルキビアデスは、自分は太い実家を持っているため、財産を多く持っていると自慢していましたが、金や土地といった財産は自分の肉体ですらなく、自分とは全く関係のない単なる物質であるため、人間の本質とは全く関係がありません。
むしろ、財産を築き上げる能力に優れたものや、その能力を身に着けようと必死になっているものは、自分の本質とは全く関係のないものに対して夢中になっているため、自分磨きをおろそかにしている可能性すら出てきます。

ゴールを明確にする


これは仕事などでも同じです。現在では、仕事ができる人というのは優秀な人と言われますが、この理屈に当てはめれば、仕事ができる人というのは仕事に配慮することに特化している人でしかありません。
仕事に配慮する事と人間の本質に配慮する事は別のことなので、仕事ができるから人間も出来ているのかというと、それは全く別の話となります。

誤解のないように言っておくと、立派な人間は仕事が全くできなくて良いとか、知識や運動能力が全く必要ないと言っているわけではありません。
人の魂を磨く技術をみにつける上で運動が必要になることもあるかもしれませんし、知識や技術が必要になることもあるかもしれません。
しかし仮にそうだとして、それは魂を磨くための過程で必要になるものであって、それを身につけることそのものが目標になるわけではありません。

自分が向かうべき最終目標も見えていない状態で、それを探そうともせずに別の能力や知識を身につけるために躍起になるという行動は、『魂に配慮する』という観点から見れば意味はないということです。
重要なのは、まず、人の魂が最終的にどの様な状態になっているのが理想的なのかを一生懸命に探求することであるということです。

わかりやすく言えば、旅に出かける際に目的地も決まっていないのに、その旅の移動手段である車を買ったり、その車の内装を良くするために夢中になったり、それに多額の金をかけるのは意味がないということです。
一番重要なのは、ゴールまでの正しい道のりを知ることなのにも関わらず、その事を一切考えずに車の世話だけをし続けたとしても、目的地には1ミリも近づきません。
目的地の事を一切考えないままに、なんとなくの思いつきで適当に車を走らせてしまったりすれば、偶然にも方角があっていれば良いですが、方角が間違っていればゴールからはどんどん遠ざかってしまいます。

人間の本質が財産の有無なら


ここまで、同じことを繰り返し何度も言ってきましたが、何故かといえば、それがかなり重要だからです。

例えば、人間の魅力は人が持っている財産だと思い込んだとしましょう。 財産はわかりやすく数字で表されるため、ドラゴンボールで言えば戦闘力の様に他人と比較しやすいものです。
この数値を増やせば増やしただけ人間としての魅力が上がり、人の魂も磨かれていくと勘違いしてしまったとしたら、その勘違いした人は、金を得るために法律を犯してしまったりしてしまうかもしれません。
例えば、強盗や詐欺によって他人が持っている金を奪い取れば、短い期間で多額のカネを手に入れることができます。

その金の量がそのまま人間の魅力となるのであれば、地道に勉強したり働いたりしてお金を貯めるよりも、他人を騙して掠め取れる人物のほうが優れた人物となってしまいます。
また、金を持っている量がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、人と結婚をする際には、相手の年収だけを見れば良いことになります。
何故なら、多くの金を稼ぎ出せる人間は優れた人間であるわけですし、優れた人間は関わるものを幸せにしてくれるはずなので、幸せになろうと思うのであれば、年収の高い人を探し出して結婚すれば良いこととなります。

また逆にこの価値観では、金を持っていない人間は悪とされてしまいます。
例え、人生の大半をボランティアや慈善活動に捧げていたとしても、その行動で対価を受け取らずに自身が貧しい状態であるのなら、その人間は悪だということになります。
何故なら、その人間は金を稼げていないからです。 財産の金額がそのまま人間力の高さに直結するのであれば、金を持っていない人間はそのまま悪い人間となってしまいます。

もし、この様な価値観が世界に広まったとしたら、世界はかなり殺伐とした感じになってしまうでしょう。
無償で人の為に働く人間は馬鹿にされますし、その結果としてあまり金を持っていなければ、人として見下されます。
自分に接してくる人は皆、自分から金を奪うことだけを考えています。

もし、この様な世界になったとしたら、心が休まらないのではないでしょうか。
では、人間の本質とはどのようなものと考えられるのか、このことについては次回に話していきます。

参考文献