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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その3

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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反対の性質を持つものは一つしか無い

概念は単独で存在しているわけではなく、常に相反する性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、見にくいという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいという概念は無くなって、美しいことが当然で普通になってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしかありません。
ソクラテスはこの主張を行った後で、プロタゴラスから同意を得ます。

そして、この考え方を、徳の考え方にも当てはめて考えてみることにします。

まず、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵があることではないかとソクラテスがプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かということを意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。これを念頭に置いて、考えを進めていきます。

次に、不正を行うような人物について考えていきます。
分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間は、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うことは珍しいことではないでしょう。
しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程います。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。
この前提を置いて、分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間というのは、分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『無分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでしたが、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、無分別と知恵の無い状態と等しいという事が分かったので、当然のことながら、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたります。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、徳の一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、徳を持つ人間という事にもなってしまいます。

当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
徳を構成するものを備えた行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。

善い行為とは何なのか

先程の考察により、徳というものは、それを構成しているものを宿しているだけでは徳ではない事が分かり、それと同時に、『善』を宿していなければならない事が分かりました。
では、『善い』とは何なのでしょうか。

ソクラテスは、『善い』の定義をはっきりさせる為に、『善いとは、人間にとって有益なものだけを、善いというのですか?』と訪ねます。
これに対してソクラテスは、同意しつつも、『それだけではなく、人間にとって有益とは言えないものも、善い場合もある。』と付け加えます。
プロタゴラスはソクラテスに、散々、揚げ足を取られ続けている為、『善い』がカバーする範囲を広げて防衛戦をはったのでしょう。

ソクラテスは、いつもの調子で『では、全人類にとって有益とはいえない、有害となるものも、善いものもあると主張するのですね?』と確認する。
プロタゴラスは苛立ち始め、少し興奮した様子で『善い』の定義について話し出す。

例えば、人間が食べることで健康になるような植物は、人間にとって善い存在と言えるだろう。 だからといって、人間が食べられるものだけが善い存在だとは言い切れない。
人間にとっては害になったとしても、例えば馬にとっては善い植物かもしれないし、他の動物が食べると毒になるようなユーカリのような植物でも、コアラにとっては善い植物かもしれない。

動物が食事をした後に残す糞尿も、人間にとっては臭いだけで役に立たないかもしれないけれども、植物の根にとっては善いものとなる場合もある。
植物の根にとって善いものであったとしても、それが枝につくと、枝を痛めてしまうようなものも有る。

例えばオリーブオイルは、人間の体にとっては有益なものだけれども、その他の植物にとっては有害で、水の変わりいオリーブオイルを与えたりすると枯れてしまう。
また人にとっても、体に塗るといった使用方法では有益だけれども、これを水のように飲んでしまうと害が出てしまう。
摂取する場合は少量に抑えなければならず、大量に取ると害になってしまう。  つまり、同じものであっても摂取する量によって、有害にも有益にもなるので、一概に善いとは言えないと答える。

ソクラテスメソッド

相対主義者であるプロタゴラスらしい切り返しで、尚且、説得力の有る主張ですが、この主張を前にソクラテスは、対話のルールを決めましょうと提案してきます。
それが、後にソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と呼ばれる対話方法で、テーマを明確にして、出来るだけ主張を短く、且つ、分かりやすくし、主張を聞いた側は、納得できなければその部分について短く簡潔に質問をし、その回答に納得ができなければ出来るまで質問を繰り返し、相手から答えが聞けない場合には、自身が短くわかり易い言葉で主張を使用というルールです。

つまり、先程のプロタゴラスの『善の定義について』の話は長すぎるので、もっと短く話してくれという要望です。
これに対してプロタゴラスは反対します。 その様なルールを一方的に押し付けられれば、勝てる議論も勝てなくなってしまうと。

この反論からも分かる通り、プロタゴラスはソクラテスとの対話を言葉による勝負だと捉えていて、その勝ち負けにしか興味が無いことが分かります。
ですが、この議論の最初を振り返ってみると、そもそも勝負ではなく、ソクラテスは『ソフィストとは何を教えているのかがわからないから、教えてもらう。』というスタンスでした。
つまり、この討論は最初から勝負をつける論争ではなく、プロタゴラスがソクラテスが分からないことを教えるレクチャーだったわけです。
しかし、ソクラテスの鋭い質問に窮地に立たされるプロタゴラスは、ソクラテスが賢者である自分を打ち負かしに来ているのではないかと思い込み、いつの間にか勝負をしている気になっていたわけです。

この主張に対してソクラテスは、あくまでも下手に出て、自分が無知であり、物事がわからないからこそ、それを知っている人物に教えを頼んでいるだけだということを改めて伝えます。
その上で、自分は記憶力が弱く、一方的な長い主張を聞いていると、自分が今、何を相手に聞いているのか、論点を見失ってしまうことを伝えます。
私自身が、私の能力が劣っている事を認めている一方で、貴方の方は自分が優れた人だと主張して、人から授業料を受け取って物を教えるという職業の人ではないですか。
それなら、能力の高い貴方の方が、私に合わせてくれてもよいのではないですか? と答えます。

例えるなら、全くの初心者がギター教師にギターの演奏方法を習いに行った際に、講師の人が、『上手くなる為には、演奏が上手い人間とセッションするのが一番なんだよ!』と言い出し、イングヴェイの曲をライトハンド奏法で弾きだして、『さぁ! いつでも入ってきて!』と言い出したとしたらどうでしょう。
コードの抑え方もわからないような初心者が、そんな授業について行けるはずがありません。
その一方で、それのどの技術を備えている講師の方は、初心者の方に合わせる形で、どの指を使ってコードを押さえれば良いのかといったレベルまで授業内容を引き下げることが出来ます。

つまり、能力が高い人間は低い人間に合わせることは出来るが、能力の低い人間は高い人間に合わせることが出来ないという事です。
ソクラテスは、自らがムチで能力が低いことを認めた上で、プロタゴラスに対し、『貴方のほうが優れているのだから、劣っている私の方に合わせてください。 私には、あなたのレベルに合わせる能力がないのですから。』と堂々と言い放ちます。
それが出来ないのであれば、また、討論の勝敗にこだわる喧嘩腰の討論を続けるというのであれば、この対話は打ち切って終わりにしましょうと提案します。

これを聞いたプロタゴラスの弟子たちは、2人の対話をもっと聞きたいという思いから、プロタゴラスに対し『優秀な貴方の方が、ソクラテスに合わせるべきでは?』と提案し、プロタゴラスは渋々受け入れることになります。

私がこの部分を最初に読んだときは、ソクラテス自身も詭弁を使って議論に勝とうとしているのではないかと思い、少し嫌な気分になりました。
この対話編に登場しているプロタゴラス自身も、私と同じ様な誤解をし、怒りを顕にする場面などが登場するので、プラトン自身が、その様に誤解させるような書き方をあえてしているのでしょう。
その為、ソクラテスが真理を得る為に対話相手に行う質問と、ソフィスト達が議論に勝つ為に使う詭弁が、判断がつかない紛らわしい感じで使われています。

しかし、ソクラテスが登場する対話編を複数読み込んでいくと、それは誤解だった事に気付かされます。
ソクラテスは最初から、自分が無知であることを認めた上で、自分が分からないことや納得が出来ない点について質問をしているだけだと主張しています。
わからない事について、詳しい人に教えてもらおうと授業をお願いしたとしても、相手の主張が本当に正しいかどうかは分かりません。

その為、理解できない点や納得できない点について質問をするのですが、その質問を受けた教師側は、『侮辱された』『喧嘩を売られている』と勘違いし、気分を害してしまいます。
これは現在でも同じで、仮に、学校の教師に対して教師が答えられないような事、又は、教師自身が理解していると思いこんでいたけれども、実際には理解していなかった事が暴露されてしまうような質問をした場合、大抵の教師は生徒に対して怒り狂うでしょう。
質問が相手の専門分野であれば有るほど、相手はムキになって『オレの言ってることを信じろ。』と連呼することしかできなくなるでしょう。

結果として生徒は萎縮してしまい、学問に対する興味を失い、真理を追求することもなく、上の者が主張した事を盲信させられます。

ですが、ソクラテスにとってこの様な権威主義は、一番避けたいものであり、最も忌み嫌う行為です。
知らないことを知った気になっているかもしれないだけの人間の主張する事を、正しい事だと思い込んで信じる行為は、真理に近づく行為ではなく、その道を断ってしまう行為だからです。
ソクラテスが望んでいることは真理への到達。アテレーを知る事なので、擬物の真理で満足できるはずがありません。

当然のように、ソクラテスは議論に勝ちたいわけでもありません。
ソクラテスが望んでいることは、自分が正しいと思いこんでいるけれども、実際には間違っているかもしれない事柄については、指摘して欲しいと願っています。
指摘をされる事で、自分が歩んできた道が間違っていたことが判明しますし、別の正しい道を探せるきっかけにもなります。

ソクラテスにとって対話相手は、打ち負かすべき敵では無く、共に真実へと近づく為の味方なのです。
(づづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献