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プラトン著 『プロタゴラス』の私的解釈 その1

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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プロタゴラス

この作品は、ギリシャ内でもかなり有名な賢者であるプロタゴラスが、ソクラテスが住むアテナイに訪れ、それをソクラテスの友人が知るところから始まる。
ソクラテスの友人であり、裕福な家庭に育ったヒッポクラテスは野心溢れる若者で、プロタゴラスが教えているというアテレー(徳・卓越性)を知りたいと思い、授業料をかき集めてプロタゴラスに会いに行こうとする。
その行為に対してソクラテスは、『そこまでの高額な授業料を用意してでも教えて欲しいと思うのは、一体、どんな技術や知識なのか?』と訪ねるも、なかなか要領を得ない。

そこでソクラテスは、質問を軽くするために複数の例を出して聴いてみることにする。
医者に教えを頼む場合は、将来医師になるために医学生になるんだよね? 大工に弟子入りする場合は、大工の技術を身に着けて、いずれは棟梁になるわけだ。
ウメハラに弟子入りする場合は、ストⅡの立ち回りを勉強する為に弟子入りするんだろう? じゃぁ、ソフィストに教えを請う場合には、将来、何になりたいと思って弟子入りするのかな?

これに対してヒッポクラテスは、『これまでの話からすると、ソフィストということになるんだろうね。』とフワフワした返答をする。
ソクラテスは、『じゃぁ、ソフィストが何をする職業か知ってるの?』と聞いてみるも、ヒッポクラテスは上手く答えられない。

ソクラテスはヒッポクラテスが心配になったからか、それとも、プロタゴラス自身に興味が湧いたのか。一緒について行って、彼が教えるアテレーが何なのかを見極めようとするところから、物語は始まります。
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ソフィストとは情報商材詐欺なのか?

世の中には、この様な出来事って身近に存在しますよね。
この物語でプロタゴラスが教えると主張しているのは、アテレーと呼ばれる『徳』とか『卓越性』と呼ばれるもので、それを手に入れることによって、他人よりも優れた存在になれると信じられてきたものですが…
これは、『教えるもの』を別のものに変えると、現代でも十分に有り得る話です。

例えば、不動産投資や自己啓発などのセミナーや、オンラインサロン。ネットワークビジネスなどにテーマを変えれば、多くの割合の人が、『自身や友達が勧誘されたり興味を持った』なんて事は、1度は経験したことが有るのではないでしょうか。
ここに挙げたテーマに共通する事は、『楽して金持ちになる方法』なのですが、そんな物が存在するのであれば、何故、彼らは大掛かりな手間を掛けてセミナーを開いたり、自分の自由な時間を潰してサロンを開くのでしょうか。
答えは簡単で、そうする事で、セミナーに参加しに来た人達ではなく、主催者である彼ら自身が儲けることが出来るからです。

身近な人間が、この様なセミナーやサロンや勉強会に参加すると言い出したら、誰でも心配になって、興奮している友達を冷静にしようと思うのではないでしょうか。
ソクラテスも同じ様に、友達のヒッポクラテスを冷静にするために、『プロタゴラスに会って、何を教えてもらいたいのか』を問いただします。

例えば、家を建てる勉強をしたいと思う人間であれば、建築学校に通うとか、大工の元で修業をすると行った方法で、知識や技術を習得することが可能です。
これは他のことにも当てはまり、絵を書きたいと思うのであれば、絵画教室に通ったり、既に技術がある人の絵を模写して真似するといった行為によって、思い通りの技術を身に着けることが出来ます。
しかし、『それ』を勉強することによって、他の人間よりも卓越した優れた人間になれる『アテレー』という存在は、定義自体が漠然としすぎていますし、どんな勉強をしたり行動を起こせば、技術や知識が身につくのかも意味不明です。

また、漠然と『良い人になる』方法が、言葉や行動によって伝達可能なのかも分かりません。
ソクラテスは、冷静になって考えさせる為に質問を投げかけた上で、自分の一緒について行って、その正体を確かめると言い出します。

ちなみにですが、先程は不動産投資や自己啓発やオンラインサロンといった、胡散臭い例を挙げて例えてしまったプロタゴラスさんですが、この人物は、アテナイの将軍で代表的な立場であるペリクレスと知り合いで、彼から、憲法の草案を考えて欲しいと依頼を受けるほどの人物です。
また、『万物の尺度は人間である。』といった言葉を残し、この世に相対主義という考え方を確立させた人物でもあります。

プロタゴラスとの邂逅

プロタゴラスと対面したソクラテスは、さっそく、『徳とは何なのでしょうか。 あなたは、それを教えることが出来ると主張していますが、そもそも、他人に教えられるような知識なのでしょうか?』と質問をぶつけます。
これに対してプロタゴラスは、『自己啓発セミナーに参加されたお客様の声』の様な感じで、『自分から教えを受けた人間は、皆、私の元に来る前よりも成長して帰っていくし、感謝もされてるよ。』と返します。
そして、『もし、私が教えたことに納得がいかないのであれば、お金を払わなくて良いし、いつでも私の元から去っても良いです。』とクーリングオフの説明までします。

常人であれば納得してしまいそうな返答ですが、ソクラテスは、これに対して鋭い切り返しをします。
『例えば、貴方が笛の吹き方を教える教師だったとして、貴方の元へ笛を吹けない客が訪れたとする。 貴方は彼を指導して、笛を吹けるようになった場合、彼は、笛をふけるという点に置いて、貴方の元を訪れる前よりも優れた人間になったと言える。
これは、全ての事に当てはまってしまう。 計算ができない人間に足し算を教えて、九九を覚えさせれば、その人物は、それを学習する前よりも優れた人間になったと言える。
あなたの授業を受けなかったとしても、人が日々勉強を重ねさえすれば、勉強をしていなかった頃と比べて優れた人間になるのではないでしょうか?』

この質問を言い換えるなら、『具体的には何を教えているのですか?』と聴いているのと同じです。
大工に対してこの質問をするなら、『家の部品の加工の仕方と組み立て方。』と答えるでしょうし、音楽家に質問をするなら、『楽器の演奏の仕方。』と答えるでしょう。

これに対してプロタゴラスは『良い質問ですねぇ!』と言い、持論を展開する。
『私の元に駆け込んでくる人の多くが、自分がやりたくない学問から逃げてきたような人達だ。
しかし、他のソフィスト達は、そんな人に対して『数学を勉強しろ!音楽もだ!体育も出来るようになっておきなさい!』と、本人が欲しいと思わないものまで詰め込み教育をしようとする。
だが私はそんな事はしない。 私は、本人が学びたいことだけを学ばせる。 私の元で学ぶことで、身近な話だと家庭内がうまくいくし、政治に関していえば、権力者の右腕になることだって出来る。』

これを聴いたソクラテスは、自信なさげに、『つまりまとめると、生徒を『優れた人間』にするということですか?』と聞き返すと、プロタゴラスは調子よく『そうだ!』と応える。

これまでをまとめると、プロタゴラスは本人が望む知識を惜しみなく与える一方で、嫌な授業は行わず、その結果として、何事も上手く行うことが出来るような『優れた人間』を作れると主張している。
しかも、本人が学んだ上で『自分には合わないな。』とか『この内容でこの授業料は高いな。。』と思えば、申し出ればいつでも自分が納得した金額だけを支払って弟子を止めることが出来る。
金を払う価値もないと思えば、何も払わずに帰ってもよいというクーリングオフ制度付きという、非常にお得な内容となってはいるが、『優れた人間』になる為には何を勉強すればよいのかといった具体的な事は、何一つ教えてはくれないという状態。

アテレーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアテレー(徳や卓越性と約されることが多い、日本語には直訳がない表現)を研究しまくった結果、それが分からない。つまりは、教えることが出来るような存在ではないと思っていたからです。
ソクラテスはプロタゴラスにその事を告げ、その理由を主張します。

先程も書きましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アテレーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。 仮に、アテレーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものなのであれば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアテレーを教えてもらっているはずということになる。
つまり、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアテレーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアテレーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した親になっているはずだからです。

この他には、政治の議論をする際のケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行った場合、正しい成果が得られず、こんな失敗をした政治家は、『何故専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

政府には、専門家から話を聞いて学習し、政策や予算案に活かすという選択肢が有るわけですが、それを怠ったとすれば、不満が爆発するのは確実です。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アテレー(徳)とは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアテレーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合は、プロタゴラスは本来なら教えることが出来ないような事を、教えるといって生徒と金を集めている嘘つきになってしまいます。
プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アテレーの教師』なのですから、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、何の特別な能力も持たない人間に対してゼウスが憐れみを抱いて、神から卓越した力を与えられた獣や自然災害から身を守る為、皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった徳目を与えたという神話です。
ゼウスが人間に徳目を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアテレーを持って生まれているという話です。

神話という説明では、馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例もあげます。
全ての人間がアテレー(以下、徳で統一)を持つ理由としては、徳に反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりします。
この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。何故、怒るのかというと、徳というのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、しないというのは本人の努力不足だからです。

本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。
もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずです。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはず。
仮に体の欠損によって人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまう。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者にさせるのだ。

以上が、プロタゴラスの主張です。

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。
というのも、全ての人間に徳が備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 仮に存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になる。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、徳に反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。
例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが、それに対して住民が怒りをあらわにしたのは、それが徳に反した行為だからではなく、その施設が経つことで地域の土地の価格が下がる可能性が有り、自分の損失につながるからです。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に起こっているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事で自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、徳を備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒る事はありません。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているのではないでしょうか。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考文献