だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

第66回【プロタゴラス】まとめ回 後編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

アレテーは気高いもの?

アレテーを構成している徳目と呼ばれるものは、今回取り扱ったものでいうなら、『正義』『節制』『敬虔』『知識』『勇気』の5つという事になりましたが、これらに共通する感覚として、崇高で尊いイメージを抱いてしまいます。
この中で、例えば『正義』を抜き出して考えたとしても、正義を宿すのは生半可な努力では駄目でしょうし、正義を宿した人間には、気高く偉大なイメージを抱いてしまいます。
絶対的な正義の前には、多くの人が ひれ伏してしまうでしょうし、皆が、身につけたいと思いつつも、何処か近寄りがたいようなイメージがあります。

それもそのはずで、この対話篇を書いたプラトンは、後に『イデア論』を唱えて、何かに宿った徳目ではなく、それ単体の概念の存在に言及し始めます。
例えば、目の前に美しい花があったとしましょう。 その花は、『美しい』という概念が宿った花ですが、その概念は花という物質に宿ってこの世界に現れてきています。
美しいという概念は、それが宿っている花が消滅してしまうと、人間には認識不可能なのですが、プラトンイデア論では、何者にも宿ることの無い、それ単体として存在する概念の存在を主張します。

つまり、美しい花であるとか、美しい人と言ったように、何かの形容詞として宿る『美しい』という概念ではなく、概念単体として『美しい』というものが存在するというわけです。
美しさも一つの徳目として捉えられているわけですが… これらの徳目全てが、何かに宿るという形ではなく、独立した絶対的な概念として存在するというのが、イデア論です。
当然のことですが、徳目をすべて合わせるとアレテーになり、このアレテーにもイデアとしてのアレテーが存在します。

イデアとしてのアレテーとは、絶対的な正義であり、全ての事柄を認識する頭脳を持ち、もっとも美しい存在です。
このアレテーのイデアというのは、何かと似てないでしょうか。

イデアとしてのアレテーと神

アレテーとは、言い換えれば、絶対的な『善』の基準であり、言い換えるなら、一神教の神とも言える存在と同じです。
この、尊敬すべき神のような存在の一部である『勇気』が、単なる知恵のあるものが行う打算的な行為だというのは、かなりの侮辱とも捉えられます。

まぁ、この時代では、一神教というのはメジャーではないですし、ここに登場するソクラテスプロタゴラスも、ギリシャ神話の神々を信じている為に、少しニュアンスは変わってくるわけですが…
一神教ではないにせよ、勇気を持つものは、同じ様に勇気を備えた神が宿っているという考え方もあったようなので、どちらにしても、神と同等のものを侮辱されたという感じを受け取ったのでしょう。

しかし、プロタゴラスはこれに反論をする事が出来ません。
というのも、仮に、勇気とは知恵のようなものではないと言い切ってしまうと、勇気ある者と、臆病者や大胆なだけの人達とを見分ける方法が無くなってしまいます。
また、『勇気が知識のように、教える事が出来るようなものでは無い』としてしまうと、これは、一番最初にソクラテスが指摘したとおりの主張になってしまいます。

ソクラテスが最初にした指摘とは、『アレテーとは、知識のように他人に教えられるようなものではなく、運動の才能のように、持って生まれたものではないのですか?』という指摘です。
もし、この指摘を受け入れて、『アレテーは、持って生まれた才能に恵まれたものしか身につけることが出来ない。』としてしまうと、ソフィストという、自分たちの職業そのものの否定に繋がってしまいます
何故ならソフィストとは、アレテーを他人に教え伝える事が仕事だからです。 この仕事によって、多額のお金をもらい、彫刻家などの技術を伴う職人たちよりも良い暮らしが出来ています。

そんな身分なのにも関わらず、アレテーとは選ばれた人間だけが持つ事が出来る才能だとしてしまえば、では、今までは何を教えてお金を得ていたのだという事になってしまいます。
結局、プロタゴラスは、ソクラテスの主張に対して明確に否定することも出来ないけれども、だからといって、肯定することも出来ない状態に追い込まれてしまいます。

勝負の行方は・・・

では、この勝負はソクラテスの勝ちなのかというと、そういうわけではありません。
絶対主義者のソクラテスが求めるのは、絶対的な基準となるアレテーを知ることです。
この世に、もっとも根本的で何にでも当てはまる単純な法則、つまり真理があるのだとすれば、それを解明することが、真に求めていることです。

しかし、その追い求めている事を、ギリシャの中でもトップレベルの賢者と対話する事によって、見つけることが出来たのかというと、それは出来ていないんですね。
今回の対話によって、プロタゴラスは、自分が知っていると思い込んでいたアレテーを、実は知らなかった事が分かり、ソクラテスの方はというと、相変わらず、何も知識を得られずに無知なままという状態を維持しています。

無知の知

これを最後まで聞かれた方の中で、せっかちな方は、『で、結局、答えは何なの?』と思われるかもしれませんが…
これは前にも言ったと思いますが、この対話編が書かれた2500年後の現在であっても、答えは出ていません。
もし、ソクラテスが求めるような絶対的な基準となるアレテーが解明できていれば、当然ですが、その構成要素となっている『正義』の絶対的な価値観も分かっているわけですから、この世で争いなんて起こるはずがありません。

では、この対話編では何を伝えようとしているのかというと、人間は、社会生活を営む上でもっとも必要な事柄ですら、理解していないんですよという事を、対話を通して教えてくれているわけです。
この『プロタゴラス』という作品に限らず、多くの作品では答えは出ません。 それどころか、既に知っていると思いこんでいる事柄すら、対話編を読み解くことで分からなくなっていきます。
メノンという青年は、ソクラテスと対話をした際には、『貴方は、シビレエイのような人だ。 関わり合いになった人すべてを、その毒でもって痺れさせて動けなくさせてしまう。』といったことを言っています。

これは、別の表現で言い直せば、当然のように知っていると思いこんでいて、それで何不自由ない生活を送っていたのに、ソクラテスと対話をした事によって、知っていると思い込んでいたものが分からなくなってしまう。
思考停止状態になって、最も根本的なことすらも分からなくなってしまうといっているわけです。

勉強する程に分からなくなる哲学

この対話編を、私と一緒に読み解いた皆さんも、同じ様な感覚に襲われたのではないでしょうか。
おそらくですが、この対話編に接する前は、正義であるとか勇気について、明確ではないにせよ、どのようなものかというイメージが頭の中に有ったはずです。
そして、そのイメージを疑うこと無く抱き続け、その事によって何の不自由もなく、今まで暮らしてこれたはずです。

ですが、ソクラテスの質問を一つ一つ考えて行くに連れて、そのイメージが破壊されてはいかなかったでしょうか。
では、何故、この様なイメージの破壊が必要なのでしょうか。
普通の学問であれば、教師から教えを受けて、勉強をすればする程、多くの事を知る事が出来て、知識を蓄えることが出来ます。

その知識を応用して、今まで分からなかった事も推測することが出来るので、勉強することで、自分が前に進んでいる感じが得られたりもします。
しかし、哲学の場合はその逆で、勉強をすればする程、物事がよく分からなくなってきたりします。
今回のように、今まで知っていると思い込んでいたものが、実は知らなかったと判明することも多いので、知識的には、得ることよりも失うことの方が多いかもしれません。

それでも、根本的な疑問を投げ続けるのは何故かというと、ソクラテスによれば、そうする事が幸せにつながるからだそうです。

幸せの場所

幸せとは何なのか、絶対的な幸せの基準は存在するのかを考えなければ、最終的に幸せにたどり着くことは出来ません。
どんなものにも当てはまりますが、まず、ゴールを設定しなければ、ゴールに向かうことが出来ませんし、ペース配分も出来ません。
目的地を見失っている状態で走り始めても、目当ての場所に到達できるはずがありません。 当然ですが、間違った方向にゴールが有ると思い込んで走り始めるのは最悪で、これではどれだけ頑張ったとしてもゴールに到達することはありません。

目的地を設定しないと、目当ての場所には到達できないというのは当然のことですが、全ての人類は、この目的地を知りません。
にも関わらず、人類は目的地を知っていると思い込んで満足している。 この状態に対して、『知ってるつもりで満足するぐらいなら、知らない事を自覚した方が、まだマシだ。』という意味を込めて、この対話篇が書かれたのかもしれません。
知らない事を認識すれば、人は知ろうと頑張るものですからね。

という事で、今回でプロタゴラス編は終わりまして、次回からは、ゴルギアスを読み解いていこうと思います。
kimniy8.hatenablog.com