だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第94回【メノン】アレテー=良い=徳目 - 知識? 後編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼
open.spotify.com

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

アレテーについての考察

具体的な方法としては、仮に、『アレテーは知識のようなもの』であると仮定するのなら、知識は他人に伝えることが出来るものなので、アレテーも他人に伝えられるものという事になります。
逆に、『アレテーは運動神経のような感覚的なもの』とするなら、他人には教えられない事になるので、アレテーは他人には伝えられないものという事となります。
この様に、『アレテーとは、何々のよなもの』という仮説を立てて推測していけば、それが正しいのか間違っているのかを考える切っ掛けになり、それが忘れていた記憶を呼び覚ます呼び水になる可能性があります。

とりあえずの方法が見つかった二人は、アレテーとは、悪いものか良いものなのかを考えていきます。
アレテーとは、それを宿すことで人から尊敬されたり、頼りにされるような存在になれて、これを宿したものを幸福に導いてくれるものです。
仮にアレテーが悪いものであるなら、悪いものを宿した人間がその様な対応を受けるのはおかしいですし、悪いものを宿したとしても幸福にはなれないでしょうから、アレテーは良いものと仮定します。

次に、先ほど例として出した『アレテーとは、知識の様なものなのか、それとも、知識のようなものではなく、感覚的なものなのか』という問題について考えていきます。
考え方としては、アレテーから知識や知性といったものを差し引いたときに、知性を取り去ったアレテーの方か、それとも、知性の方か。どちらに『良い』という概念が宿っているのかで判断します。

何故、この様な考え方になるのかを説明すると…
今現在の、この『アレテーは知性か、それとも感覚か』という話は、『アレテーの本質は良いものだ』という前提のもとで考えている事です。
そして、アレテーと言うのは、様々な要素を含んでいると予想されています。

これは、今までに勉強してきた『ゴルギアス』や『プロタゴラス』といった対話篇にも、散々出てきましたよね。
アレテーという概念には、節制や敬虔や善悪を見極める分別、そして勇気などの複数の概念が含まれていると予測されていますが、その中には、知性や知識といったものも、要素として組み込まれています。
このアレテー構成している様々な要素の中から、知性だけを抜き出すといった場合について考えてみます。

アレテー=良い=徳目 - 知識?

アレテーは、知性だけでなく複数の徳目が組み合わさって出来ているとされているので、例え、アレテーの中から知性だけを抜き取ったとしても、知識意外の徳目の集合体のような概念は残ります。
この様な状況を考えた際に、『良い』という概念は、知性なのか、それとも、アレテーから知性を取り除いた存在か、どちらに宿っているかを考えてみれば、先に進めるというわけです。
繰り返しになりますが、今回の推測は、『アレテーは良い存在である』という前提のもとに考えているので、その前提に従うなら、アレテーの本質は、『良い』という概念を宿している方になるという事です。

もし考察の結果、知性の方に『良い』という概念が移り、アレテーから知性を取り除いた残骸の方には、良いという概念が宿っていないのであれば、『アレテーは知性のようなもの』と言えるかもしれません。
しかし、アレテーから知性を差し引くといっても、アレテーがどのようなものかは分からない状態なので、アレテーが宿っていそうなものに置き換えて考えていくことにします。
では、アレテーはどの様なものに宿っているのでしょうか。 それを、有名な三段論法で考えていきます。

三段論法とは、AとBが同じで、BとCが同じ時、AとCは同じだという理屈のことです。
有名な例を挙げるなら、ソクラテスは人間である。 そして人間は死ぬ生物。 であるなら、ソクラテスは死ぬ。といった考え方ですね。
この考え方を、アレテーに当てはめて考えていきます。

皆が求めているもの=アレテーなのか

まず私達が、日常の中でアレテーを感じるときというのは、どの様なときかを想像してみると、卓越していて優れた人を観たり知った時に、アレテーの存在を感じます。
では人々は、何をもって優れていると判断するのかというと… 他の人には出来ないような事が出来る、それも、国家公共であったり、自分たちにとって役に立つ事が出来る人を見た際に『優れた人』だと感じます。
誰にでも出来ない事が出来る人であったとしても、不正や犯罪行為など、自分たちに危害が加わるような事をする人を見たとしても、そんな人達のことを『優れている』なんて風には思いません。

つまり、人がアレテーを感じるときというのは、接した人が『優れた状態』であるとか『卓越した状態』である時に感じるものなので、アレテーを宿すとは、『優れた状態』や『卓越した状態』になる事と言い変える事が出来ます。
では人は、どの様な人を見た際に、『優れている』とか『卓越している』と感じるのかというと、健康や強さ、美しさや財力を持つ人と接した時に感じることが出来ます。
健康的であったり強靭な肉体を持つ人や、造形美としての美しさ、普通の人が一生をかけても稼ぎ出せないような金を短時間で難なく稼ぎ出せる人は、それだけで、『優れている』と思われそうです。

私達が暮らしている現代では、様々な宣伝広告を目にする機会がありますが、その広告の大半が、『健康』『美しさ』『資産形成』に関係するものです。
しかし、これらのものが絶対的に『善い』とされるものなのかというと、相対的な価値観で観ると、必ずしもそうとは言い切れません。
アレテーとは単純に『優れている』というだけでなく、それを宿したものを幸福に導いてくれるようなものです。

それぞれの事柄が持つ二面性

健康や美しさや財力は、持つ事で多くの人を惹き付けるかもしれませんが、それがそのまま幸福に直結するわけではありません。
美しい女性が確実に幸福になれるとは限らず、その美しさを利用する事で『自分だけが儲かれば良い』と思うような人まで惹きつけてしまった場合、その人に利用される事で、不幸になってしまうかもしれません。
お金の場合で考えれば、自分の『器』以上の財力を手に入れてしまうと、自分に近寄ってくる人たち全てが金目当てに見えてしまい、人間が信じられなくなるかもしれません。

また、全ての人というわけではありませんが、人間性ではなく、金群がってくる人には、碌な人が居ないイメージもあります。
この様な人達に囲まれて暮らす人生が幸福なのかというと、少し違うような気もします。

同じものに2つの側面があって、一方が『善く』もう一方が『悪い』とする場合には、それを仕分ける必要が出てきます。
美しさに、人を幸福にする側面と不幸にする側面があるのであれば、それをより分ける必要があるということです。
では、何を基準にして分けるのかというと、『目的』です。 この部分は、前に読み解いた『ゴルギアス』という対話編でも勉強しましたよね。

幸福に至る手段と目的

『美しさ』や『使い切れない程の財産』というのは、それそのものが目的ではなく、幸福に成るための手段でしかありません。
手段は、目的の為に行われるものなので、最終的な目標が『良い目標』なのか、それとも『悪い目標』かによって、手段の属性も別れます。
ゴルギアスでの対話では、良い目標のために行われる手段は『良いもの』としていたので、『善い目的のために使われる美しさ』などを、アレテーとして定義します。

では、良い目的の為に使われる『美しさ』や『財産』といったものから、知性を差し引けば、答えは出るのかというと、そうは問屋が降ろしません。
というのも、美しさや財産といったものは、現実世界に実物として存在している概念ですが、知性といった概念は、実物として存在するというよりも、人の魂や精神の分野に属するものです。
魂や精神における、アレテーとはどのようなものを指すのかというと、『勇気』や『節制』『記憶力』といったものになります。

では、これらのものから『知識』を差し引いてみると、どうなるのでしょうか。
これは、前に『プロタゴラス』という対話篇を読み解いた際に勉強した時に出てきましたが、勇気とは、『対峙している相手についての知識』と言い変えることが出来たので、勇気から知識を差し引くと、大胆さしか残りません。
単に大胆なだけの人を『善い存在』とは呼ばないので、勇気から知性を差し引くと、『善い』という概念は知識の方に宿っているという事になり、今回の推測からは、アレテーとは知識のようなものと言えることになります。

仮定を置いて推測をした結果、『アレテーとは知識のようなもの』かもしれないという事が分かりましたが、これはあくまでも推測でしか無いので、次は、この答えを吟味していく作業に入りますが…
それはまた、次回にしようと思います。