【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 前編
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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次
今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。
作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。
前回の振り返り
前回の簡単な内容を振り返ると、ソクラテスが、現在ではソクラテスメソッドと呼ばれているルールを対話に持ち込み、渋々、了解をしたプロタゴラスが、テーマをシモニデスの詩の解釈にしようと言い出して、このテーマについて対話をしました。前回の更新分では、ソクラテスに寄り添うような形での読み解き方をしたので、プロタゴラスの方が惨めな感じになってしまってましたが、実際の本では、もう少し中立的な書かれ方をしていたりもします。
その辺りを詳しく知りたい方は、岩波文庫などから出ている本を読む事をお勧めします。
簡単なまとめとしては、プロタゴラスが、自己矛盾をはらんでいる作品は劣っているという同意を、ソクラテスから取り付けた上で、シモニデスの書いた詩を持ち出して、この作品が優れているかどうかを聴くところから始まります。
ソクラテスは、優れていると回答するわけですが、その詩には前半部分で、『立派な人になる事こそは難しい』と書いていながら、後半部分で『立派な事である事は難しい。』と書かれており、前半と後半で矛盾した事が書かれています。
プロタゴラスは、この点についてソクラテスを攻めるのですが、ソクラテスがそれを乗り切るというのが前回の内容でした。
他人の作品の考察は議論にふさわしくない
一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。というのも、ソクラテスとプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケ合って対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。
しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスとプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
もし、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがありません。
ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この事が原因として大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスとの対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。
作品を読むという行為では作者の考えは分からない
これは現在の日本でも、国語のテストなどを取り上げて、よく言われている事なので、理解がしやすいと思います。国語のテストなどでは、この時の作者の気持ちを答えなさいという質問に対して、結構なツッコミがされたりもしますし、仮に、その問に回答したとして、教師が答えが間違っているとしてバツを付けるのはどうなんだという主張もあります。
その教師が、作者と対話した結果、生徒の答えが間違えているとしているならまだしも、教師はそんな事をしているはずもないですよね。
作者の考えなんていうのは主観でしか無い為、他人が考えたところで絶対に分かるはずもありません。
これが、作者が亡くなられているような昔の小説などでは、実際に聞いて確かめるすべもない為に、その教師が正しいと思う答えが合っているかどうかも、実際のところはわかりません。
結局の所、作者の主観を教師が知ることも出来ない為、教師が定めた答えは、教師個人の主観か、予め学校側が用意した答えという事になり、実際の作者がどの様な思いを込めたのかは分かりません。
またソクラテスは、他人の作品の解釈を巡る対話そのものが、低レベルな対話だとも主張します。
例えば酒の席などで、遊びとして、映画や小説やアニメやゲームなどの作品の解釈や考察について語り合うのは、良い暇つぶしになるかもしれないですし、その遊びは否定すべき事ではありません。
でもそれが、学問や研究としての議論としてはどうなんだって事なんです。
何故なら、学問や研究の基本は、自分の頭で考えて、自分の言葉で話す事が基本となるからです。
今の学問でも、他人が書いた論文を参考文献として取り上げたり、物事を考えるきっかけやベースにする事はありますが、それらの材料を利用して最終的に行うことは、自分なりの理論を考えた上で発表するという事ですよね。
人が考えた論文を読んで、『この人間は、何故、この様な論文を書いたのだろうか。 論文の筆者が、この文章を書いた時の気持ちはなんだろう。』といった事を、書いた本人抜きの他人同士で議論する事は、本来の目的からは外れます。
ソフィストが、アレテーについて研究し、それを教えているというのであれば、他人のポエムの読み解き方などを話し合ってる場合ではなく、自分の言葉で対話をすべきなんじゃないのか。というのが、ソクラテスの主張です。
そして、彼はもう一度、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力して、真理に到達しようとプロタゴラスに呼びかけます。
アレテーについて(再)
こうして、議論は再び、アレテーについての考察に戻ります。 プロタゴラスが主張するアレテーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念がアレテーだと主張します。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、観る観点の違いによって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。
この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアレテーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といったアレテーを構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った性質を持っているのかといった、議論の続きが行われます。
プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているけれども、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度も、人を敬うことも無く、不正であるにも関わらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるように思えるからです。
(つづく)
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