だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第61回【プロタゴラス】立派な状態を維持する事は難しい 前編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の内容を簡単に振り返ると、プロタゴラスの主張としては、アレテーは『正義』『節制』『敬虔』『知識』などの様々な徳目からなっていて、それらが組み合わさる事でアレテーになるという主張でしたが…
それに納得できないソクラテスが、慎重に分析をしていった結果、それぞれの徳目が宿った行為をしていたとしても、その行動そのものが良い行動ではない場合は、アレテーは宿らないという事が分かってしまいました。
例えば、善悪の分別がつく人間が、悪いと分かっていながら知恵を使って不正な行為を成功させた場合は、その行為に知恵などの徳目が利用されたとしても、尊敬に値しない行動だということです。

つまり、その行動が優れたものであり、他人からの称賛や尊敬を得られるかどうかは、その行動に徳目が複数入っているかどうかではなく、その行動が良い行動かどうかが一番重要だという事です。
では、『良い』とか善悪の善とは何なのか。 ソクラテスが、アレテーの専門家であるプロタゴラスに聞いてみた所、善悪は相対的なものであって、何が善で何が悪だと断定することは出来ない。
少量なら薬として使えるものでも、大量に飲めば毒になってしまうように、例え、同じものであったとしても、使い方や使う対象によって、善にも成れば悪にもなると言ったような事しか答えてくれません。

これはこれで、一つの答えなのでしょうが、絶対的な真理を求めるソクラテスの求める答えではなかったからか、ソクラテスは、明確な答えが引き出せるように、対話に対してルールを設けようと提案します。
それが、今現在、ソクラテスメソッドと呼ばれる問答法です。 ソクラテスは、このルールがのめないのであれば、討論を打ち切って解散しようと持ちかけます。
プロタゴラスは、一方的なルールを押し付けられては、勝てる議論も勝てなくなると拒否しますが、周りで対話を見ていた弟子たちが二人の討論をもっと見たいと懇願し、賢者とされているプロタゴラス側がルールをのみ、対話が再開されるというのが前回でした。

この後、両者は、ルールを定めた上で、別のテーマについて話していくことになります。
先程は、ソクラテスが一方的に対話のルールを決めたという事で、テーマの方はプロタゴラスが選び、そのテーマについて話していきます。
そのテーマとは、当時の古代ギリシャで有名だった、シモニデスの詩。 ポエムの解釈についてです。

良い人になる事と良い人である事

プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と尋ねます。
何故、自己矛盾を抱える作品が駄目かというと、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、この様な揚げ足取りを行うというのは、プロタゴラスは、定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。
今まで、プロタゴラスソクラテスにさんざん言われ放題で、弟子の前で恥をかかされた形になっていたので、ソクラテス自身も、1つの作品内で矛盾を抱えるような欠陥品を良い作品だと言ってしまうような人間だという事を証明したかったのでしょう。

ここで、詩の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

似たような文章で紛らわしいので、ゆっくり説明していきますと、前半部分で語られているように、本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、困難を乗り越えて立派な人になれる人は、極少数ということになりますよね。
しかし、後半部分では立派な人である事は困難だと主張されています。 この後半部分の文章は、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れてしまいます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事は困難だとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

つまり、1つの詩の中で、立派な人になるという事に対する難易度が、前半部分と後半部分で変わっている為に、矛盾を抱えているのではないか? という指摘です。

駄目なものを褒め称える人間はダメ人間

プロタゴラスが、何故、この矛盾にこだわるのかというと、題材としてこの詩を取り上げる前に、ソクラテスと確認しあった同意が関係してきます。
プロタゴラスソクラテスに対して、自己矛盾を抱える様な作品は、優れていないのではないか?と同意を求めて、ソクラテスはその意見に同意をしています。
その後で、彼はシモニデスの詩を題材として取り上げて、『この詩は素晴らしいと思いますか?』と質問をし、それに対してソクラテスは、『この詩は、一時期、研究をしたのでよく知っている。』といった上で、見事な作品だと褒めています。

つまり、プロタゴラスに言わせるなら、ソクラテスは、自己矛盾を抱えている作品は駄目だと言っておきながら、自己矛盾を抱えるシモニデスの詩を褒め称えている様な人間だという事になるわけです。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。
優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが…

プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけです。
この攻撃を確かなものにする為に、プロタゴラスソクラテスと同じように、まず、『自己矛盾を孕む作品は劣っている』という前提条件の同意を確認した上で、シモニデスの詩をテーマに掲げて、優劣を尋ねるという手順で質問をしています。
先程から自分がされていた事と同じ事をやり返す事で、相手が無知である事を印象付けようとしたんでしょう。

ですが、この討論の最初を思い出して欲しいのですが、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。
ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスがアレテーを知っている事を証明する事にはなりません。
にも関わらず、この様な事を行ったのは、プロタゴラスが保身に走ったからかもしれません。

相手を、信用できない愚か者だとしてしまえば、仮に、プロタゴラスが正しいことを主張していたとしても、愚か者にはその事が理解出来ないとすることも出来ます。
愚か者は、理解出来ないが為に、見当違いの質問を投げ続け、その説得に賢者が疲れ果ててしまったということにすれば、弟子に対しても格好が付くことになります。

ソクラテスの詭弁

しかし、攻撃されて、そこで終わってしまうようなソクラテスではありません。 指摘を受けた彼は、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ地方の出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
そして、この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪い事だという意味になる。』というような事を言い出します。

では、良い人になることが何故、悪い事につながるのでしょうか。
それは、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。
これを聞いたプロタゴラスは、流石に超展開し過ぎじゃないか?と言いますが、実際問題として、一部の方言として『困難な』という単語は『悪い』という意味で使われている為に、意味合いとして絶対に間違っているわけでもありません。

スパルタという国

その後、ソクラテスは、話をスパルタという国の捉え方に移してしまいます。  ソクラテス達が暮らすアテナイは、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されました。
その一方でスパルタは、市民として生まれた子供は、全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。

つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。
因みにですが、スパルタ人として生まれたけれども、身体に障害などがあった場合は、その子供は健全とはみなされず、崖から突き落とされて殺される事になってしまいます。

スパルタは市民を全員、職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うような事をしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。

皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を知識で圧倒するのが容易ではなくなってしまいます。
新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その影では、他国を圧倒できる程の知識を身に着けていることを隠したんです。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com