【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 後編
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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次
勇気とは何か
プロタゴラスの主張では、勇気だけが全く別の性質を備えているという事なので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画で『覚悟のススメ』という作品がありますが、その中では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事が覚悟と定義されているので、勇気という概念に、この様なイメージを持つというのは珍しくはないのでしょう。
この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』と質問をします。
これは、仮に、相手の脅威や恐ろしさなどを知らない人間が、つまり、相手に対する知識を持たない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかという質問です。
つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知識が無い者が大胆な行動をとったとしても、それは勇気とは呼ばないと否定します。
相手がどれ程の脅威で、それに立ち向かうことが、どれほど困難かという事を一切知らずに、大胆さだけで勢いで突っ走って立ち向かう行為は、プロタゴラスの定義では、勇気とは呼べないということです。
漫画家の荒木飛呂彦さんの著書に、ジョジョの奇妙な冒険という作品があります。
この作品の第1部では、非力な人間という存在が、強大な力を持つ吸血鬼と戦うストーリーなのですが、この作品に登場するツェペリ男爵というキャラクターの口から、勇気とは何かが語られます。
非力なものが、強大なものに対して向かっていくという構図は、私達の身の回りでも結構ありますよね。
例えば、ノミという生き物がいます。 彼らは、自分よりも遥かに大きな人間や動物に対して向かっていき、取り付いて血を吸い取るといった感じで、強大な者に挑むような生き方をしているわけですが、彼れらには、勇気があるのでしょうか。
人間が手で叩いたり、取り付いた動物が寝返りをうつだけで、自分が死んでしまう可能性があるのに、その危険を顧みずに向かっていく彼れは、勇気の化身なのでしょうか。
漫画の中でツェペリ男爵は、ノミには勇気がないと断言します。何故なら、ノミは恐怖を感じず、それ故に、強大なものに対しても躊躇なく向かっていくことが出来ているだけだからです。
勇気とは、『怖さ』を知り、『恐怖』を自分のものにする事であって、知恵もなく、恐怖も感じない状態で、単純に強いものに向かっていく行為では断じて無いと主張します。
自分が良いと思う方向に向かって進み、その方向に強大な敵が立ちふさがるなら、その恐怖を乗り越えて、それでも突き進む行為が勇気であり、人間の素晴らしさとは、その勇気を備えている事だと主張します。
ソフィストが考える勇気
恐怖を感じる為には、相手の力量を知る必要があり、相手の力量と自分の力量を正確に見定めて比べ、相手の方が遥かに勝っていると分かっても、それでも立ち向かうのが、ツェペリ男爵の主張する勇気なのでしょう。多くの方が、この、勇気の定義については納得されると思うのですが、プロタゴラスの主張は、ツェペリ男爵の主張とは少し違ったりします。
というのも、何故、アレテーが求められ、それを教えるソフィストが重宝されているのかを思い出して欲しいのですが… アレテーが求められたのは、優れた人間になって皆に認められて、社会的に成功するためですよね。
その為に必要なのは、死なない事。 つまり、生き残った上で実績を残して、卓越した人物である事を皆に知らしめて、出世する事が最終目標であって、求めているアレテーは、それを実現する手段に過ぎないんです。
敵が大人数で攻め込んできた時に、少人数で迎え撃たなければならない状態になった場合、恐怖を克服して相手に向かっていって討ち死にすれば、英雄的な死を迎えることが出来るかもしれませんが、それは極力避けるべきことなんです。
その様な状況に追い込まれたら、勇気ある撤退をすべきですし、そもそも、その様な状態に陥らないような戦略を練ることが重要だったりします。
成功体験というのは、生きている状態でしか味わうことが出来ない為に、基本的には、自分が生き残ることを優先的に考えて、その上で、自分が卓越した人物である事を他人に示す事がソフィストには求められたんでしょう。
この考えを前提として置くならば、眼の前の脅威と自分の力量を比べた際に、自分の力量の方が勝っている時にだけ、行動を起こす事になり、自分の力量が足りない時には、勇気ある撤退を行わなければならないことになります。
最優先すべきは生き残ることなので、当然といえば当然ですよね。 仮に不利な状況で討ち死にしてしまえば、無謀な戦いを挑んだとして、自分の力量も測れないヤツと思われてしまう可能性があるので、それは成功とは言えません。
ですが、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知識に依存したものという事になってしまいます。 何故なら、行動を起こす起こさないの判断は、知識に委ねられるからです。
先程の主張では、知識や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知識に依存するものだというのは、シモニデスの詩の解釈ではないですが、矛盾があるようにも思えます。
また新たな問題として、勇気には知識が必須だという事は、知識があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけの危険が潜んでいるのかという事が分かっていて、安全だと確信を持って突入していくケースは、勇気ある行動といえるのかという問題もあります。
勇気は打算の産物?
例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。誰もが行動を起こすのに躊躇している場面で、自分には、その出来事で全く危険な目に合わずに解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。
また、その対象に対する知識や知恵を身に着けている人間は、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行動をとっている者の動機は、知識に先導されている事になる為、結果として、勇気の有る無しというのは、知識の有る無しとも言い変えることが可能となります。
別の表現をするなら、例えば、燃えている炭の上を歩くという儀式があります。 『火渡り』と呼ばれる儀式で、京都でも狸谷山火渡り祭(たぬきだにさんひわたりさい)というものがあるそうですが、ここに限らず、全国で神事として有ると思います。
この儀式は、燃え盛る炭の上を歩くわけですから、普通に考えれば、そんな事を行えば足の裏を火傷してしまって、大変なことになる為に、そんな事をしようとも思いません。
しかし、絶対に火傷をしないという事が分かったとすれば、神聖な儀式を経験してみるという好奇心から、やってみようと思う人も出てきます。
この様に、無知であるが故に、もしかすると、大火傷を負ってしまうかもしれない可能性を払拭できない内は、火傷をしたくないという思いから行動が出来ない人間でも、絶対に大丈夫だという知識を手に入れた途端、行動を起こせたりします。
この際の、行動を起こす起こさないという基準は、火傷をしないという知識を持っているのか持っていないのかに依存する為、仮に、火渡りをする事を勇気ある行為とするならば…
勇気ある行動を起こす基準というのは、知識の有る無しという事になります。 ですが、絶対に大丈夫だという事を知った状態で行う行為は、果たして、勇気ある行動なのでしょうか。
勇気とは知識のようなもの
まとめると、勇気というモノを分析した結果、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在と分かってきたわけですが、この両者には主従関係のようなものが存在し、『知識』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。知識がある状態であれば、大胆さが発揮されるけれども、知識がない状態では大胆さは発揮されないという具合で、判断基準になるのは知識や知恵ということです。
勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、広い視野で観れば、知識と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは当初、アレテーを構成するものの中で知識・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知識と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。
この分析に対して、プロタゴラスは異論を唱えるわけですが、その話は次回にしていこうと思います。