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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第102回【メノン】まとめ回 3/4

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も、プラトンが書いたメノンの『まとめ』の続きを行っていきます。
前回や、メノン回そのものを聞かれていない方は、まず、そちらから聞くことをお薦めいたします。

前回は、『探求のパラドクス』や、それに対する『想起説』。その他には、概念の説明の仕方などについて、振り返っていきました。
今回は、『アテレーは知識のようなものなのか』また、『アレテーとは教えられるのか』といった部分を中心に振り返っていきます。

アレテーは幸福へと至る道

メノンはソクラテスが提唱する想起説を受け入れて、共にアテレーについて解明しようと対話に応じます。
二人は先ず、『アテレーの属性』について考えます。 アテレーには属性が有るのか無いのか、有るとすれば、どのようなものなのか?と言った感じにです。
アテレーとは、皆が追い求めているものですが、概念として漠然としすぎていて、誰もその詳細が分かりません。 その為、良いものか、悪いものかも分からない為に、この部分から仮説を立てて考えていきます。

対話をしている2人は、アテレーについての知識はないのですが、一つだけわかっていることがあります。 それは、アテレーを宿した結果、到達する境地です。
その境地は何かと言うと、『幸福』です。 人々は皆、幸福になる為の方法を探していて、その手段が、アテレーを宿す事です。 皆が求めているのは、アテレーを宿すという行為そのものではなく、その先に有る幸福です。
つまり、『アテレー』とは幸福になる為の手段と言い変えることが出来ます。

対話篇の『ゴルギアス』では、手段は目的によって良くも悪くもなると言われているので、アテレーが『良いものか』、『悪いものか』、それとも、『どちらでもないもの』かは、幸福の善悪を考えれば分かります。
ソクラテスの主張としては、幸福とは秩序の中にあり、秩序とは不正を行わないことで達成できると考えているので、幸福とは良いものとなります。
メノンも、これに同意します。 対話篇のゴルギアスでは、カリクレスと激戦を繰り広げることになった、この話題ですが、メノンは青年で純粋さを残しているからか、従来の考えにとらわれず、直感で良いものだと同意します。

アレテーは教えられるのか

次に2人は、アテレーを『教えられるもの』か、それとも『教えられないものか』のどちらかを考えます。
もし、『アテレーとは教えられるもの』であるのなら、2人は自分たちが知らないアテレーを1から考える必要がなく、知っている人を見つけ出して答えを聞けば良いことになります。
逆に『教えることが出来ないようなもの』であるのなら、アテレーとは後から身につける事が出来ないような代物である可能性が有るので、頑張って勉強しても意味がないことになります。

ちなみにですが、ここで言う『教える事が出来る』という意味の中には、『想起させることが出来る』つまり、『忘れているものを思い出させることが出来る』という意味も含んでいます。
というのも、ソクラテスが主張する『想起説』では、アテレーを教えてもらって理解する行為と、類似する答えを聞く事で、アテレーの意味を思い出す行為は同じだからです。

では、アテレーは教えられるのか、それとも、教えられないのかを見極めるためには、どうすれば良いのかというと、ソクラテスは、アテレーと思われているものから『知識』を差し引いてみれば分かると言います。
『人に教える為』に必要なのは、知識です。 そして、先程の同意で、『アテレーとは良いもの』という事は分かっているわけですから…
アテレーと思われるものから『知識』を差し引いて、それでも『良さ』が残るか残らないかを見てみれば、アテレーの本質がどちらに有るのかが分かるかもしれないという事です。

アレテーには知識が必要

これは、例えとして合っているのかどうかは分かりませんが…
例えば、アンパンという概念が有って、そのアンパンの概念を決定づけているのは何かを探る際に、アンパンという概念から色んなものを引いてみて、アンパンという概念が残るかどうかで考えていくといった感じでしょうか。
アンパンから、上にふりかけてある『ゴマ』を差し引いても、アンパンの概念は変わりませんが、中に入っている『つぶあん』を差し引いてしまうと、それはアンパンではなくてパンになります。
そのパンに、餡の代わりにクリームを入れると、それはクリームパンになる為、概念そのものが変わってしまいます。 という事は、アンパンの概念のコアになる部分は、『つぶあん』に有ると考えられます。

アテレーで言えば、アテレーのコアは、『良いものである』という点です。 アテレーを構成しているもの、例えば『美しさ』等は手段でしか無く、良くも悪くも無いものですが、それが『アテレー』と呼ばれるのは、幸福という良い目標の為の手段だからです。
アテレーは、『勇気』や『節制』など、様々なものから構成されているとされますが、これらのものから『知識』を差し引いてみて、それでも『良い』というコアが残っているのであれば、アテレーは知識ではなく…
逆に、知識を差し引いた事で、『良い』というコアまで無くなってしまえば、アテレーという手段に『良い』という概念を付加しているものは『知識』という事になります。

この仮設を元に考えてみると、アテレーが良いという概念を宿すために絶対に必要なのが、知識ということが分かりました。
目の前に強大な敵が立ちはだかったとして、その敵に対する知識が全く無く、相手の力量もわからないままに突っ込んでいくのは勇気では無く、単に大胆か蛮勇ですし、善悪を見極める知識がなければ、分別も節制も機能しません。
これにより、アテレーにとって知識は必要不可欠であることが分かり、知識は他人に伝達が可能なので、アテレーは教えられるという結果が出ました。

知識なら教えられるはず

ただ、ここで問題が発生しました。 アテレーが教えられるものとするのなら、既にアテレーを教えてお金儲けをしている教師という職業が有って然るべきです。
しかし実際には、自称『アテレーの教師』と呼ば得れるソフィストはいますが、それ以外のアテレーの教師の存在が見当たりません。
では、ソフィストはアテレーの教師なのかというと、そうではありません。 ソクラテスは過去にプロタゴラスと対話した際に、彼がアテレーの意味を理解していないことを確認しています。

この当時、最も有名で実力があると言われていたプロタゴラスが、アテレーについてわからないわけですから、彼よりも格下と思われる他のソフィストがアテレーを理解しているはずがありません。
もし、プロタゴラスが知らなかったアテレーを知っているソフィストがいれば、その人物の方が実力が上になるわけですから、プロタゴラスを凌ぐほどの名声が轟いているはずだし、金も稼げているはずだからです。
何故なら、アテレーを宿すとはそういう事だからです。

では、弁論家の方はというと、この対話篇の冒頭部分で、メノンがゴルギアスの意見を代弁し、それをソクラテスが論破し、メノンは間違いを認めているので、弁論家もアテレーの教師とは言えません。
ソフィストと弁論家が『アテレーの教師』では無いとするなら、他に誰が、アテレーを教える事が出来るのか。 二人は考えてみるもわからないので、近くにいたアニュトスに訪ねる事にしました。

アレテーは既に皆が知っているもの

ここから先は、アニュトスとソクラテスとの対話になります。 会話のキッカケとしては、『アテレーの教師はいるのか』というものでしたが、会話の大半は『そもそもアテレーは教える事が出来るのか。』という内容です。
アニュトスの主張としては、『アテレーは、アテナイ人であれば誰でも知っているものだから、誰にでも教える事が出来る。 忠告を素直に聞く姿勢があれば、誰でも優秀になれる』というものでした。
敢えて、『アテナイ人』とつけているということは、敵対しているスパルタ人には分からないと強調したかったのかもしれません。

そんな彼は、ソフィストも毛嫌いしていましたが、その理由は、誰でも知っている事を大層に勿体つけて、価値の有るもののように演出をして大金を稼いでいると思い込んでいたからでしょう。
善悪の基準なんて、考えるまでもなく分かることだし、優れた人間になる方法は大金を支払わないとわからないような代物ではなく、良い方向に努力すれば誰だって実現できるという事なのかもしれません。
例えば、毎日、朝早く起きて仕事の準備を整えて、一生懸命に仕事をして技術や知識を身に着けている人と、毎朝、適当な時間に起きて、とりあえず酒を飲んでパチンコ屋に行く人を比べた場合、どちらが良いか悪いかは、考えるまでもなく分かりそうです。

自分の身近に、毎日、特に努力すること無く遊び歩いている為に、ギリギリの生活をしている人がいたとして、その人が自分で一切の努力をすること無く『自分の生活が惨めなのは、国の政策や環境が悪いからだ。』と不平不満をいっているとしたら…
とりあえず、その人に対して、真面目な生活を送ることをアドバイスしないでしょうか。
私も含めて、大抵の人間は、生きることに真剣に向き合って必死に頑張っているわけではなく、なんとなくその日を乗り切っているだけです。