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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第98回【メノン】推測は絶対に間違わない 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

アニュトスの言い分

前回の話は、メノンとの対話に行き詰まっていた際に、近くにいたアニュトスに、『アテレーの教師』について聴いた回でした。
アニュトスは、父親がお金を稼ぐ能力を持っていている資産家でした。 メノンの主張によると、アテレーとは『美しくて立派なものを欲し、それを手に入れる能力』という事で、『美しく立派なもの』とは金品だと言っていました。
資産家というのは、金品を稼ぎ出す能力に秀でた人のことなので、先程の主張に照らし合わせると、アニュトスの父親はアテレーを宿していることになります。

また、多額のお金を持っているということは、そのお金を使えば、立派な教師を沢山雇う事が出来ます。
多くの親は、子供を大切に扱うので、アテレーを宿していると考えられるアニュトスの父親は、自分自身や金で雇った教師たちで、アニュトスを教育したはずです。
この様な環境で育ったアニュトスなら、『アテレーの教師』についてなにか知っているのではないかという思いから、彼に質問をしました。

その結果、アニュトスからは『アテナイ人であれば、誰でもアテレーを教える事が出来るので、アテレーのみを教えるといった特別な職業は無い』という答えを聞き出せました。
ソクラテスが何故、『アテレーの教師』について尋ねたのかというと、メノンとの対話の結果、『アテレーとは知識のようなもの』という事が推測によって分かったのですが、『知識のようなもの』であるなら、教えられるはずだという話になったからです。
アテレーが『教えられるもの』であるなら、それを専門とする教師がいても良いはずなのに、ソクラテス自身は見たことも聴いたこともありませんでした。

『アテレーは知識のようなもの』という証拠見つけるためには、『アテレーの教師』という存在を見つけ出さなければなりませんが、ソクラテス自身は、その存在を知らない。
その為、知ってそうなアニュトスに聴いたという流れでしたが… その答えは意外にも、『アテレーの教師』という職業は存在しないが、アテレーは『誰にでも教えられるもの』というものでした。
ただ、アニュトスが話したというだけでは、その意見が正しいと確信することが出来ないので、ソクラテスは、その意見を吟味する作業に入りました。

アレテーの教師は存在しない

しかし、吟味の為に様々な質問や考察を行った結果、『アテレーを熱心に教育された者はいるが、それを身につけられたものはいない』という事が分かってしまいました。
議論は振り出しに戻り、何もわからない状態のまま。アニュトスは自分の意見を否定された事に腹を立ててその場を去ってしまったので、ソクラテスは再び、メノンとアテレーについて推測していくことになりました。

アニュトスの意見を吟味した結果、『アテレーを教えることは出来ない』という可能性がかなり高くなったわけですが、メノンが一番最初にソクラテスの元を訪れた際のことを思い出すと…
彼は、師匠のゴルギアスにアテレーを教えて貰ったと思い込んでいて、有名なソフィストと思われていたソクラテスに対して挑戦を挑んできたのが始まりでした。
このことから、メノンは当初、師匠のゴルギアスはアテレーを教えることが出来る教師だと思い込んでいたわけですが…

一連の対話が済んだ後に、もう一度、メノンに対して『アテレーを教えられる人はいるのだろうか。』という質問をしたところ、『これまでの対話の結果を考えると、アテレーを教えられる者はいないのではないか。』と心変わりします。
そして、師匠のゴルギアスが弟子に教えている事は、弁論術という技術であって、彼はアテレーの教師ではないと主張を変えます。

これまでに分かったアテレーの性質について簡単にまとめると、『アテレーとは知識のようなもの』ではあるけれども『他人に教えられるようなものではない』という事がわかったわけですが…
しかし、これは一体、どういう事なのか、メノンは疑問に思います。 『知識のようなもの』であるなら、教えられるはずなんですが、実際に他人に教え伝えた人物は居ない。
可能性としては、『アテレー』を本当の意味で身につけた人間は、この世には一人もいないという可能性も考えられます。

バイアス

これは『アテレーは知識のようなもの』なので、理論上は、アテレーを宿したものなら他人に教え伝えることは出来ますが、その様な人物はこの世に1人もいない為、教師に成れる人物がいないという事です。
この疑問に対してソクラテスは、『アテレーの捉え方そのものが、根本的に間違っていたかもしれない。』と言い出し、もう一度最初から考えようと言い出します。
このソクラテスの態度は、非常に論理的で科学的な考え方とも言えますよね。

ソクラテスは先ず、『わからないモノ』や『解明したいもの』を明確にして、仮説を立てて推測を行いました。
おそらく、ここまでの行動は、誰でも行うことだと思います。 わからない物事を、身近な理解できるものに置き換えて考えてみるなど、仮説を立てて推測を行うというのは、現在では普通に行われていることですし、当時でもそうだったんでしょう。
しかしソクラテスは、そうして出てきた答えを、本当にそうなのかどうかを確かめる為に、吟味しようとします。 これは、なかなか出来ることではないですよね。

大抵の人間は、自分が必死に考えて生み出したアイデアや考えを大切にしようとします。 そうすると、その時点でバイアスがかかってしまい、自分の考えた答えに対して反論されると、気分を害したりします。
ソクラテスと対話を行ったアニュトスがそうでしたよね。 彼は彼なりに、人生の経験などを通して知った事を踏まえて、考えをまとめたのでしょうし、その意見が正しいという確信も持っていたのでしょう。
その為、その意見を無条件で養護してしまい、反論をぶつける人を目の敵にしてしまいます。

逆に、自分の意見を肯定してくれるような人が現れると、気分を良くして、自分の意見に更に自身を持つようになります。
その結果として、聴きたい意見だけを聞き、自分の意見に対立するような不都合な事に対しては耳を塞ぎ、どんどんと頑なになっていきます。

フィルターバブル

これを聴いている皆さんにも、同じ様な経験はないでしょうか。
例えば、政治に関してや世の中で起こる問題など、疑問に思ったことをネットで検索してみるも、検索する前から既に自分の答えは決まっていて、その答えを肯定したり、理論を強化する情報のみをじっくり読み込み、反対意見は無視する。
この他にも、Twitterなどで、自分と似たような思想の人ばかりをフォローしていった結果、タイムラインが極端になってしまっている…なんてことはないでしょうか。

この様な行動は、先程のアニュトスだけが特別なのではなく、皆が取る行動だったりします。 その結果として、思考が極端になって視野が狭まるのですが…
しかしソクラテスは違います。 例え自分自身が時間をかけて苦しみ抜いて生み出した答えであったとしても、それが本当に正しいのかどうかを吟味する為に、敢えて批判にさらされます。
現代でいうなら、まるで自分の意見が間違っている事を証明したいかのように、ネットを使って、自分の考えている事と真逆の意見を必死に探しているようなものです。

科学の現場では、自分にかかっているバイアスを完全に無視する為に、研究の成果を論文として発表し、可能であれば、科学雑誌などの多くの人の目に触れる場所に置くことで、その意見が本当に正しいかどうかを吟味します。
目立つところに置かれた理論は、多くの人の批判の目にさらされ、数多くの反論が寄せられることになりますが、その反論に対して感情ではなく、論理的に反論を行い続けることが出来れば、批判に耐えた理論として、信憑性が高まります。

ソクラテスの行動も同じで、それらの批判に耐え抜いた考えこそが正しいと思われる考えであって、簡単に批判され、それに対する反論もできないようなアイデアは、例え自分が生み出したものであったとしても、直ぐに捨てるべきだという考えなのでしょう。
ソクラテスは早速、議論を巻き戻し、問題点を探り始め、『アテレーとは知識のようなものである』という推測の前提となっている、『アテレーとは知識を伴うもの』という前提を疑います。