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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第98回【メノン】推測は絶対に間違わない 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

アレテーと知識の切り離し

という事で『アテレーとは知識を伴うもの』という前提を見直し、アテレーと知識を切り離せるのかどうかを考えていきます。

アテレーに限らず、人に何かを教えようとする場合、教える事柄についての知識を持っていれば、それを言葉や態度で伝えることで、教える事が出来ます。
では、人に何かを教えるためには、知識は必須なのでしょうか。 教えようとする事柄についての知識を持っていない場合は、絶対に他人に物事を教えることは出来ないのでしょうか。

これは、深く考えない場合は、『人は知らないものを教えることは出来ないだろう。』と思われる方も多いかもしれませんが、実際にはそんな事も無かったりします。
教えようとしている事柄そのものをピンポイントで知らなくても、その周辺の事柄について把握していれば、他の情報から推測することが可能です。
この『推測』というのは、既に知識として知っているという状態とは違います。 推測とは正解を想像することなので、ほぼ確実に正しいとされる推測が出来たとしても、それは知っていることにはなりません。

ただ、限り無く正解に近いと予測される推測は、その答えを想像すらできない人にとっては貴重な意見には違いないので、推測をした人は推測ができない人に教える事が出来ます。
例えば、京都から東京に行く場合。 一度、実際に京都から東京へ行った経験があれば、行き方を体験して知っている為に、誰かから行き方を尋ねられた場合には、その知識を元に答えることが出来ます。
では、京都から東京に行ったことがある人だけが、行き方を他人に教えることができるのかといえば、そんな事はなく、その事柄について知らなかったとしても、周辺情報を組み合わせることで推測できる人は、その結果を人に教える事が出来ます。

周辺情報とは、日本列島のどこに京都と東京が有るのかといった基本的なことや、新幹線などの列車や高速バスが、どの地域を結んでいるのかといった知識。
その他には、現代で言えば、どの様な検索ワードで検索をかければ良いかや、どんなアプリを使えば正しい順路が出てくるのかといった検索の仕方の事です。
これらの知識を組み合わせることによって、人は自分が直接知らない事を推測することが出来ます。 その推測によって導き出された答えが、ほぼ確実に合っていると予想されるのなら、それを答えとして他人に教える事が出来ます。

知識と推測

この『正しい推測によって導き出された答え』と『学んだり経験して知っている人に教えてもらう知識』は、どちらかが劣っているという事はありません。
教えてもらう側にとっては、教えてもらった『その答え』が、正しいのか間違っているのかが重要であって、教える側が既に知識として知っているか、推測で話しているかに大した意味はありません。

『推測よりも、知識の方が信頼できるだろ』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、聴いた答えが正しいのか、それとも間違っているのかの判断は、『知識』であれ『推測』であれ、その場で聞いているだけの状態では判断できません。
話し手側が、『これは経験に基づく知識だ』と思い込んで話していたとしても、情報が古ければ、その知識は今現在でも通用するかどうかは分かりません。
『知識』として獲得したその瞬間は、それは絶対に正しく間違っていない知識と呼べるかもしれませんが、時間が経つ事で、環境のほうが変わってしまって、その知識が役に立たなくなる事は珍しいことではありません。

先程の、『京都から東京に行く』という例でいうなら、実際に新幹線を使って行ったという経験をして、知識として知っている人から話を聞いたとしても、その後、鉄道運営会社の都合で路線が変更されてしまったりした場合は、その知識は役に立ちません。
憶測であれ、知識であれ、その情報が本当に正しいのかという実際の判断は、相手の答えを実行に移してみないことには、判断できない事になります。
そういった意味では、聞く側にとってみれば、相手の出した答えが推測によるものか、それとも知識に由来するのかは、大した意味がないことになります。

アレテー=推測?

この様に、正しい推測と知識は、教えてもらう側にとってはどちらも似たようなものとなりますが、教える側からすれば、推測と知識は全く違うものとなります。
当然といえば当然ですが、答えを導くプロセスが全然違いますよね。 推測による答えは、自分の把握している情報を元に答えを探り出す作業を行いますが、既に『知っている』場合は、その様な作業は必要がありません。
この様に両者は全く違ったものなので、『推測』というものを中心に据えて考えていく事で、アテレーから知識を切り離して考えることが可能になります。

このソクラテスの説明に納得をしたメノンは、『正しい推測によって起こした行動もアテレーを宿した行動に含まれるのであれば、下した決断の中に間違ったものが含まれている事にも納得がいく』と、この意見に同意します。
アテレーを宿した状態というのを、究極レベルに優れた状態に置き換えて考えてもらえれば分かりますが、完全な知識によって善悪を見極めて、悪い方向へ導く欲望を制して勇気と正義を宿す人は、本来であれば、絶対に間違った決断は行いません。
決断が間違っているというのは、完全な知識を持っていない事の証明ですし、その様な人は正しく善悪を見極めることも出来ないでしょう。 つまり、間違うということは、アテレーを宿していないと言い変えることが出来るわけです。

しかし、『正しいと思われる推測に基づく行動』もアテレーを宿した行動に含んでも良いとするなら、推測は知識ではなく、あくまでも周辺情報を寄せ集めて正しい答えを想像しているに過ぎないので、間違っている事もあるということです。
今までの対話で、ソクラテスは偉人とされている人達が行ってきた行動の間違いを指摘して、『彼らは本当に、アテレーを宿していたんだろうか。』と言っていましたが…
彼らの行動が推測に基づくものであるとするなら、その行動に間違いが有っても不思議では無いという事になります。

推測は絶対に間違わない

つまりメノンは、今までのアテレーの認識は、アテレーを宿すものは絶対に間違いを犯さないし、その行動は常に正しく、幸福に向かって最短距離を進んでいると思われていたわけですが…
アテレーを宿す者とは、そんな完璧超人のことではなく、憶測によって行動を起こすこともあるので、たまには間違うことも有るという認識へと変化すると思ったので、納得したわけです。

しかしソクラテスは、そのメノンの解釈は間違っていると指摘します。 そして『正しい考えによって出た答えに沿って行動を起こした場合は、間違うなんて事はありえない。 常に正しい道を選択し続ける事になる』と訂正します。
これを聴いたメノンは、『それだと、正しい推測と知識には差が無くなってしまい、両者は同じものになってしまう。』と困惑します。

くどいようですが、メノンの認識としては、知識がないものが周辺情報から正しいと思われるものを想像するのが推測なので、その推測は間違っている可能性が有る。 その点に置いて、知識と推測は違うものだと言っているわけですが…
それに対してソクラテスは、正しい考えは絶対に正解に辿り着くと主張しているわけです。 しかし、それだと、推測と知識には何の違いもない、同じものとなってしまう為、『違いがわからない』とメノンは困惑しているわけです。
この様に主張するからには、ソクラテスには、両者の明確な違いを説明する必要がありますが、その説明を、神話の世界のダイダロスの彫像に例えて、説明を始めるのですが…

その話はまた、次回にしていきます。