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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第100回【メノン】賢者と占い師 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

アレテーの教師

前回までの話を簡単に振り返ってみると、ソクラテスとメノンが仮説を立てて推測した結果、『アレテーとは知識のようなもの』という一応の結論が出ました。
『アレテーが知識のようなもの』であるのなら、知識は他人に教え伝えることが可能なのだから、アレテーも同じ様に教えられるはず。
そして、アレテーは皆が教えて欲しいと思っているようなものなので、それを教える能力のある人には、沢山の弟子や生徒志望の人が集まる事で、アレテーの教師という職業が生まれるはずです。

この時代は、現代のようにネットが進んでいるわけではないので、有名な教師で有っても、教える事が出来る人数には限界があります。
皆が優秀な教師から学びたいと思えば、当然、授業を受ける権利をお金で競り落とす必要が出てくるので、優秀とされる教師の給料は高いはずです。
メノンとソクラテスが推測によって出した結論が正しいかどうかは、高い授業料を取っているアレテーの教師がいるかどうかを確認すれば良いだけです。

教師はお金をもらって人に教えるのが仕事なので、彼らは自分たちで一生懸命に宣伝をしているはずです。 その中でも特に人気で高い授業料を取っている教師は、既に名が知れ渡っている事でしょう。
この様な人達であれば、簡単に探せそうだし、探す以前に既に知っていても不思議ではないのですが、メノンもソクラテスも、そんな人達を見たことがありません。 答えを見失いつつあった二人ですが、偶然にも、彼らの近くにアニュトスがいました。
アニュトスには、アレテーを宿しているかもしれない優れた父親と、使い切れないほどの財産を持つ人物なので、もし仮に、アレテーの教師なるものがいるのであれば、出会っている可能性が高いです。

教師不在

そこで早速、アニュトスに『アレテーの教師という存在』について訪ねてみると、『アレテーはアテナイ人であれば誰でも知っているし、教えられるような存在なので、教師なんて居ない。』という意外な答えを聞くことが出来ました。
ソクラテスを尋ねてきたメノンはともかく、少なくともソクラテスアテナイで暮らしているわけですが、そのソクラテス自身が『アレテーの存在について分からない』と主張し、それを知るために藻掻き苦しんでいるわけですが…
アニュトスによれば、アテナイ人なら誰でも知っているそうです。

ただ、この意見を鵜呑みには出来ないため、吟味の為にアニュトスに質問しながら考察していくと、結局は、アテナイで偉人とされている人達でさえ、『優秀さ』を他人に伝える事は無理だということが分かりました。
この結末が面白くなかったのか、アニュトスは捨て台詞を吐いて去っていき、再びメノンとの対話に戻りました。

ダイダロスの彫像

ソクラテスは、『アレテーが知識のようなものであるなら、知識と同じ様に他人に伝えられても不思議ではないのに、実際には、それを伝えられる者はいない…』という問題に対して、『アレテーは知識』という答えに辿り着く事になった仮説の前提を疑います。
そして、アレテーに不可欠と思われていた知識は、推測に置き換えても成り立つのではないのかという意見にたどり着きました。
これを聴いたメノンは、アレテーを伴った行動に、推測による行動も入れて良いのなら、推測は外れることもあるわけだから、過去の偉人達が失敗していたことにも頷けると納得するのですが…

それに対してソクラテスは、『正しい道筋を通って行われた考えは、絶対に間違うことがないので、その意見はおかしい』と、メノンの納得に対して指摘します。
しかしメノンは、『推測が絶対に間違うこと無く、常に正しい答えに辿り着くのなら、知識とどの様な違いがあるのかが分からない』と困惑してしまいます。  
これに対してソクラテスは、そもそもメノンは『考え』の捉え方が違うとして、『ダイダロスの彫像』に例えて解説します。

『知識』と『考え』

ソクラテスのいう『考え』というのは、周辺情報を集めて仮説を立てて…といった感じの論理的な『推測』のことではなく、何の予兆もなく、ある時に突然宿るような『考え』『アイデア』『閃き』のようなものです。
体の例でいうなら、反復練習中に突如として入る『ゾーン』の様なもので、人間が意識的にその境地に入るのではなく、何らかの偶然によって、ある一定の短い間だけ、卓越して優れた状態にクラスアップするようなものです。
ソクラテスはこの状態の事を『神がかりの状態』と言い、これはどんな人間であっても、偶然にこの様な状態になりうると言います。

そして、人が良い方向へと進もうと思うのであれば、この『神がかりの状態』に入った時に自分を客観視することで、『アレテーが宿るとはどの様な状態なのか』を観察し、その感覚を徐々に自分のものにしていく必要があると主張しました。
このソクラテスの主張を踏まえて、先程のメノンの疑問である、『考え』と『知識』の明確な違いについて考えると、両者の決定的な違いは、アレテーを宿している時間ということになります。

何かしらの問題が起こった場合、それを解決するためには、その問題が起こる仕組みを本当の意味で理解し、知識として知っておく必要があります。 そうする事で、常に問題に対して正しい対応をする事が出来ます。
そしてアレテーを宿した人とは、あらゆる問題に常に対応できる人間と言い変える事が出来るので、あらゆる問題に対する知識を持っている人と言い変えることが出来ます。
問題というのは、数限りなく存在するわけですから、あらゆる問題に対応しようと思えば、それらに共通して当てはまる対処法を知っている必要があります。 つまり、真理を知識として会得している必要があります。

神がかりの状態

全てのものに当てはまる、この宇宙を貫く法則である『真理』を知識として理解して知ることが出来れば、どんな物事にも適切に対応できて、自分自身だけでなく、その他の人間であっても、絶対的な幸福に導くことが出来ます。
しかし、そのような『真理』を教えている教師というのは、この世にはいません。 ソフィストの様に、自称『アレテーの教師』と言っている人達はそれなりにいますが、彼らがアレテーを知らないことは、プロタゴラスとの対話でも明らかになりました。
つまり、この世には真理を知識として会得して、それを伝えられるような人間はいないということになります。 この理屈で言えば、アレテーを宿した人は『この世には一人もいない』とも言えます。

しかし、ソクラテスの推測によれば、あらゆる問題に対応できるような知識を持っていなかったとしても、偶然にも『神がかりの状態』になって、あらゆる問題に対応できる状態になるタイミングは訪れます。
『真理を知ってアレテーを宿した人間』も『神がかりの状態になった人間』も、どちらの者が下す決断も絶対に正しく、間違うことはないので、この両者に違いはないのですが、『神がかりの状態』は長くは続きません。
大抵の場合は、僅かな時間で『神がかりの状態』が解けて普通の状態に戻ってしまう一方で、真理を知識として会得している人間は、常に正しい判断を行い続けることが出来る為、この両者では、『アレテーを宿している時間』が違うことになります。

重要なのは結果ではなくプロセス

つまり、何らかの法則を身に着ける事によって、常に正解を選び続けることが出来る人間の事を、『アレテーを宿した人』とするならば…
何らかの偶然によって、一時的にその様な思考方法が宿る『神がかりの状態』も、その瞬間だけを切り取ればアレテーを宿している事になるので、それもアレテーを宿す人と呼んでも良いだろうということです。
そして、ソクラテスがいう『ダイダロスの彫像』が目の前に現れた時、つまり『神がかりの状態』になった際には、自分自身のその状態を注意深く観察することで、徐々に自分のものにしていく努力が必要だと言うことです。

そして、アレテーに関してもう一つ重要な点としては、人が起こす結果としての行動ではなく、思考プロセスの方を重要視するということです。

これまでの対話篇でも勇気を取り扱った際に討論されましたが、臆病者と勇者がいたとして、彼らは正反対の存在ですが、では、彼らの取る行動は常に正反対なのかというと、そんな事はありません。
絶対に勝てない相手が目の前に現れて、戦ったとしても無駄死にする事が確定している場合は、アレテーを宿した勇気を持つ勇者は、無謀な戦いを行わずに撤退するでしょう。
では、臆病者の態度はどうかというと、当然のことですが、自分の命おしさに撤退するでしょう。

両者が取る行動は『撤退』という全く同じ行動ですが、では、同じ行動をとったのだから、両方が勇者、または臆病者に成るのかといえば、そうはなりません。
彼らが取る行動そのものに、『正しい知識』や『正しい考え・閃き』といったものが宿ったときにだけ、彼らの取る行動は勇気ある行動となります。
つまり、何の考えもなしに、『敵が現れたから逃げる』または、『戦いを挑む』というのは、仮に、偶然にも勇者と同じ選択肢を選んでいたとしても、彼らの行動には何の『知識』も『考え』も無いため、アレテーも宿らないという事です。